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(選択を解除)(図書寮文庫)
本図は,紫宸殿の南庭で,相撲節会(すまいのせちえ)を行っている様子を描いたもの。天皇と相撲との関係は,『日本書紀』にみえる第11代垂仁天皇の時代まで遡り,野見宿祢(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力を争ったのを御覧になったのが始めとされている。
平安時代以降は,相撲節会として毎年7月に諸国から集めた相撲人が行う相撲の取り組みを天皇が御覧(天覧)になる儀式となった。左右の近衛府が相撲人を分け,左方は葵,右方は夕顔の造花を頭に着けて犢鼻褌(たふさぎ,下帯)姿で相撲を取った。勝った方は着けていた挿花と狩衣等(入場時に着ていたもの)を次の番の相撲人に渡すことになっていた。この節会は平安時代の初頭から毎年行われていたが,院政期(11世紀)に停止・再興を数度繰り返し,やがて承安4年(1174)を最後に途絶えたとされる。本図は,天明3年(1783)に松岡辰方が書写したもの。
(図書寮文庫)
平安時代より行われた,宮中の年中行事である追儺の儀式の順序を記した図書。追儺は中国から伝わった疫病を払う儀式で,中国では季節の変わり目に,日本では大晦日の夜(午後8時前後)に行われていた。追儺は社寺や民間でも行われるようになり,室町時代になると節分の豆まきと結びつき現在のような形となったとされる。画像は,疫病の原因となる疫鬼(えきき)という鬼の姿。鬼は病を引き起こすものという認識があったことが分かる。本書は江戸時代末期に書写されたもの。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(図書寮文庫)
江戸時代の宮廷行事を記録するために,岩倉具視の命により中山忠能(なかやまただやす)らが編纂した儀式書並びに折帖の附図よりなる。明治20年(1887)完成。恒例・臨時あわせて169の行事を記録し,39の行事を絵画化した。図は北小路随光(きたこうじよりみつ)・樋口守保(ひぐちもりやす)らの手になる。画像は豊明節会(とよのあかりのせちえ,新嘗祭に付随する行事)の五節舞姫(ごせちのまいひめ)の様子。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。
(図書寮文庫)
平安時代初期に成立した勅撰の儀式書。上中下の3巻よりなるが,当部所蔵書は中巻のみの1巻。表紙・本文第1紙は九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の筆により,本文第2紙以降は鎌倉時代末期の書写とみられる。
画像は冒頭の奏成選短冊式(じょうせんたんざくをそうすしき)の部分で,2月に行われる列見(れけん,位階の昇進の決まった官人を面接する儀式)に続いて,位階が昇進する官人の名簿等を奏上する儀式。ちなみに本書では4月11日となっているが,「本朝月令」(ほんちょうがつりょう)に引用された「貞観式」(じょうがんしき)の条文には同儀式は4月7日となっており,「貞観式」において式日が変更されたことが分かる。
(図書寮文庫)
10世紀前半の成立と考えられている惟宗公方(これむねのきんかた)の撰による現存最古の年中行事書。本書は建武3年(1336)の九条道教(くじょうみちのり)の一見奥書(一覧したことを記す奥書)を持つ現存最古写本であり,4月から6月までの行事を収める。
画像は5月6日の競馬(くらべうま)の箇所で,5月5日,6日の両日に騎射(うまゆみ)とともに行われる。本書の特徴は様々な典籍の引用であるが,画像に「弘仁馬寮式」「貞観馬寮式」「貞観内匠式」とあるのは,「弘仁式」(弘仁年間〈810-24〉に編纂,天長7年〈830〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮の式や,「貞観式」(「弘仁式」を訂正,増補し,貞観13年〈871〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮,内匠寮の式の条文の一部である。「弘仁式」や「貞観式」は典籍としては現存しないので,「本朝月令」に引用されたこれらの条文は,「弘仁式」や「貞観式」の内容を知るうえで貴重な史料となっている。
(図書寮文庫)
大江匡房(おおえのまさふさ,1041-1111)撰による朝儀・公事の次第を詳述した書。後西天皇宸筆とされる「行類抄」(ぎょうるいしょう)との外題があるが,内容より「江家次第」巻5とみられ,本来,東山御文庫に伝来する同書と一巻をなしていた。
画像は2月11日の列見の部分。東山御文庫本はこの巻5の冒頭を欠き,釈奠(せきてん,孔子及びその弟子をまつる儒教の儀礼)の途中から春日祭の途中までを収めているが,本書はそれに続く部分で,春日祭の途中から季御読経(きのみどきょう,季毎に天皇の安寧と国家の安泰を祈願する仏事)までを収めている。両者を合わせることにより「江家次第」巻5をほぼ網羅することとなる。
(図書寮文庫)
平安時代から清涼殿には,儀式や祭祀等が書き連ねてあった衝立障子が備え付けられていた。本書はそれを書写したものである。甘露寺親長(かんろじちかなが,1424-1500)の奥書を持つ。「百官唐名」(ひゃっかんとうめい,日本の官職名に唐の官職名をあてたもの)と合綴されている。
画像は5月の年中行事の部分で,「平家本」「中家本」といった諸家の本による注記が書き込まれていたり,色分けされた読み方が見えている。これらは本奥書によれば,諸家による読み方毎に色分けしたものであり,行事名の正確な読み方が重要視されていたことが分かる。現在の清涼殿の年中行事障子については,「《京都》御所と離宮の栞(其の三)」(PDF:http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori3.pdf)を参照。
(図書寮文庫)
「年中行事御障子文」をもとに,中原師遠(なかはらもろとお,1070-1130)が新規に行事を加えたり,注記を施した年中行事書で,一般に「師遠年中行事」と称されている。鎌倉時代初期の書写本で,対応する項目の裏書がある。
画像は5月の箇所。年中行事御障子文と比較してみると,項目の増減等が若干あるもののおおよそ同じであることが分かる。小字が書かれたものが新たに書き加えられた行事である。中原家は大外記(だいげき,書類の上奏や儀式等を執り行う実務官人の上位の官)を世襲する家で,師遠も大外記を務めた。
(図書寮文庫)
平安時代末期に後白河法皇(1127-92)の命により朝廷における年中行事の場面を描いた絵巻。もとは60巻と伝えられている。江戸中期写。
画像は巻14の賀茂斎院御禊東河儀(かもさいいんごけいとうがのぎ)の部分で,賀茂祭に際して,賀茂川の西岸の御禊所で賀茂斎王(さいおう,賀茂大神に奉仕する未婚の内親王または女王)が禊をされる儀式の場面である。本書は一般に知られている禁裏に伝えられた本を住吉如慶(すみよしじょけい,1599-1670)が書写した16巻本とは別系統の20巻本である。
(図書寮文庫)
『新儀式』は,平安時代に編纂された編纂者未詳の儀式書。本来は6巻あったとされているが,現存するのは巻4,5の2巻のみ。本書には天皇御賀に関わる儀式の次第を収録している。本書は,現存する写本の中で最も古い鎌倉時代に書写されたものである。天皇御賀の儀式は,既に聖武天皇(第45代,701-56,在位724-49)の時代にあったとされており,早い時期より宮廷の中で一般化していたと考えられる。
(図書寮文庫)
本和歌集は,八代集の第3番目の勅撰集。花山天皇(第65代,968-1008,在位984-86)の編によるものとされ,11世紀の初めに成立した。本書には,四季・賀・雑等の部立にわたって30首以上の御賀和歌が入集されており,他の勅撰集よりその数が多いのが特徴である。画像は,承平4年(934)3月26日に朱雀天皇(第61代,923-52,在位930-46)によって催された皇太后藤原穏子(おんし)五十の御賀に際して紀文幹(きのふみもと)が詠んだ屏風和歌「春霞たてるを見れば荒玉の年は山よりこゆるなりけり」。穏子は醍醐天皇(第60代,885-930,在位897-930)の后で五条后(ごじょうのきさい)と称された。なお,本書は,鎌倉時代の正応3年(1290)に書写された拾遺和歌集古写本の一つとして知られている。
(図書寮文庫)
本書は,天皇母后の御賀の記事を編纂した部類記で,清和天皇(第56代,850-80,在位858-76)母后藤原明子(あきらけいこ)四十,五十御賀のほか,母后四方の御賀,並びに藤原道長室源倫子(りんし)・藤原師通(もろみち)室藤原全子(またこ)の御賀の記事を載せている。本書は南北朝時代に書写された現存最古の写本。画像は藤原明子四十御賀の記事で,貞観13年(871)12月5日~9日のご長寿を祈願して行われた修法等の記録。明子は藤原良房(よしふさ)の娘で文徳天皇(第55代,827-58,在位850-58)の女御となり,のち染殿后(そめどののきさい)と称された。
(図書寮文庫)
本書は,後桜町上皇(第117代,女性の天皇,1740-1813,在位1762-1770)七十の御賀の記録の一つ。上皇の御賀は,文化6年(1809)12月14日に催された。御賀に際しては,屏風の色紙形に貼られる和歌が詠進され,四季の情景を描いた屏風(六曲一双)が制作された。本書は,この折に制作された屏風絵の小下絵で,宮廷画家の鶴沢探泉(つるさわたんせん,?-1816)によるものであることが他の記録よりわかる。華やかな大和絵で描かれた屏風の様子を具体的に窺うことができる資料である。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇(第108代,1596-1680,在位1611-29)八十の御賀の記録の一つ。法皇は,歴代の天皇の中でもご長寿で,宝算85歳を数えられた。法皇八十の御賀は,延宝3年(1675)11月14日に催された。本書は,一枚の料紙を六曲一隻の屏風風に折りたたみ,屏風の形を再現する珍しい資料である。表・裏両面に書かれてはいるが,本来は別々に制作される一双を表したものと考えられる。これによって屏風の大きさや,各面の絵柄,和歌を書いた色紙形がどのような配列に貼られたのかなどが具体的にわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇八十の御賀に際して,法皇に贈呈された杖を描いたもの。杖は老の象徴だが,御賀の折には長寿を願い杖を贈る習慣があった。その素材は長寿を象徴する竹だったが,後には竹をかたどって白銀で作られることもあった。法皇に贈られた杖は白銀製であったことが本書よりわかる。『拾遺和歌集』にも,杖にちなんだ「君がため今日切る竹の杖なればまたともつきせぬ世々ぞこもれる」(巻5,賀)というお祝いの和歌がみえる。絵は白描(墨一色を用い筆線を主体として描く技法)ながらほぼ原寸大に描かれている。
(宮内公文書館)
「孝明天皇紀附図原稿」は,孝明天皇(1831-66)御一代の編年史料集である「孝明天皇紀」220巻の附図の下絵である。作成年代は,明治38年(1905)頃,作者は北小路随光(よりみつ)(1832-1916)らである。同資料に含まれる「和歌御会始之図」は,江戸時代の歌会始の様子を再現した貴重な絵図である。嘉永元年(1848)2月18日に御所(現京都御所)の小御所(こごしょ)で催された歌会始を描いている。