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(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
(陵墓課)
本資料は,戦闘時に身を護る甲冑(かっちゅう/よろいかぶと)を表現した埴輪で,胴を護る短甲(たんこう/みじかよろい)部と,肩を護る肩甲(けんこう/かたよろい)部とが残る。現状高23.0cm。短甲とは,古代に用いられた甲のうち,歩兵が着用していたと考えられているものである。
古墳時代の短甲の実例に,三角形に加工した鉄板を革紐(かわひも)で綴じるものがある。この埴輪の短甲部は,粘土に刻んだ線で三角形の鉄板を,線をまたぐ粘土の粒で革紐を表現している。実物を横に置いて見ながら作ったのではないかと思えるほど,写実的に表現されている。
本資料は,宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群内に所在する男狭穂塚女狭穂塚(おさほづかめさほづか)陵墓参考地のうちの,女狭穂塚から出土した。女狭穂塚からは,本例のほか,円筒(えんとう)埴輪,朝顔形(あさがおがた)埴輪,家・盾・鶏などを模した形象埴輪が確認されている。これらの埴輪の種類と作り方の特徴は,遠く離れた大阪府羽曳野(はびきの)市・藤井寺(ふじいでら)市の古市(ふるいち)古墳群に所在する大型前方後円墳から出土したものとの共通点が多い。古墳時代における両地域の関係を知る上でも貴重な資料である。
(陵墓課)
靫(ゆき)の形を模した埴輪である。靫とは,矢を持ち運ぶ容器(矢入れ具)のうち,矢じりを上に向けて収納し,ランドセルのように背中に背負う種類のものをいう。
本品は,地面に立て並べるための四角い台の上に,靫そのものを模した部分が表現されている。矢を入れる容器を表現した箱形の部分はよく残っているが,その周囲に取り付いていた文様のある板状の部分は,左側の一部を除いて失われている。箱形部分の表面は直弧文(ちょっこもん)で飾られており,上端には,矢じりが浮き彫りによって写実的に表現されている。
現状で,高さ97.1㎝,最大幅55.4㎝。応神天皇恵我藻伏崗陵飛地ほ号(史跡墓山古墳)の後円部から,昭和25年に出土したものと伝わる。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地の石室から出土したものである。直径28.0㎝。
背面の中央には紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形の突起があり,鈕からは葉っぱのような文様が四方にのびている。そこから外側は同心円で3分割されており,最も内側の区画と最も外側の区画は日本の古墳時代特有の文様で,直線と曲線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)が鋳出(いだ)されている。
一方,2番目の区画に鋳出された8つの花文(弧文)は,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」という種類の鏡と同じ特徴を持つ。ただし,本鏡の八花文は花文の一単位ごとで内区に近い部分に突出した箇所があり,単純に弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。
つまりこの鏡は,大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて,日本列島で製作されたものと考えられる。当時の鏡作り職人の創意工夫が感じられる資料である。
(図書寮文庫)
八条宮智仁親王(としひとしんのう,1579-1629)が長岡藤孝(細川幽斎,1534-1610)から相伝された『古今伝受資料』のうちの1点。包紙に智仁親王御筆で「幽斎より相伝之墨」とある。
墨には「〈祁邑葉璲精造〉金壺清」「〈東岩主人督製〉金壺清」との銘があるが,「祁邑(きゆう)」は中国山西省の祁県(きけん)の古称で,「葉璲(しょう・すい)」「東岩主人(とうがんしゅじん)」は職人の名・号と考えられる。
附属の幽斎自筆の書付によれば,九州平定のため羽柴秀吉に従って長門国(山口県)まで下向した幽斎が,宿泊した同地の妙栄寺の住職から,大内義隆の旧蔵品の「からすミ(唐墨)」として贈られたものという。幽斎の『九州道の記』には,天正15年(1587)5月11日,妙栄寺に到る前に義隆終焉の地である大寧寺に立ち寄ったことが記されており,贈られたことはそれと関係があるかもしれない。
大内義隆は日明貿易に積極的に関与し,天文年間に2度貿易船を明に派遣している。当時遣明使節の幹部だった禅僧策彦周良(さくげん・しゅうりょう)の記録『初渡集』『再渡集』に,中国で墨を購入したり,中国人から贈られたりしたことが確認されるので,そのようにして入手したうちの1点である可能性はあろう。いずれにせよ,明代に我が国へもたらされた墨は残存例が少ないので,極めて貴重である。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の摂関家の当主藤原(九条)忠家(1229-75)による手習いの跡である。摂関家の一つ九条家に生まれた忠家は,嘉禎元年(1235)に父教実の急逝に遭うも,摂政関白や関東申次などの要職を歴任して権勢をふるった九条道家(1193-1252)の孫として貴族社会に認められ,仁治2年(1241)13歳で正二位に昇る。さらに寛元2年(1244)内大臣を経て,同4年18歳で右大臣と,早いスピードで昇進した。手習いは,『白氏文集』巻2・巻16の一部や和歌題,書状の定型句などを書き散らす中に,「右大臣(花押)」を繰り返し記しているのが目立つことから,その頃のものである可能性がある。料紙は,主要な政務や儀式の次第を書いた巻子の紙背(裏面)を用いている。歴史上の人物による,こうした手習いの痕跡が残ることは非常に稀である。複雑な花押の書き様には,練習を要したことが判明する。若年ながらも摂関家の子弟に相応しくふるまい,朝政を担うべく努める忠家の気負いが感じられる,貴重な資料である。
(宮内公文書館)
本資料は,大正7年(1918)3月12日に小川一真写真店にて撮影された土方久元の写真である。土方は,宮内大臣や宮中顧問官を歴任しており,このときは,臨時帝室編修局初代総裁を務めていた。同年11月4日に在職中のまま死去したことを考えれば,最晩年の写真といえるだろう。
臨時帝室編修局は,大正3年(1914)12月1日に「明治天皇紀」編修のために設けられた臨時編修局が前身である(大正5年(1916)に臨時帝室編修局と改称)。臨時編修局は,土方を総裁,帝室博物館総長兼内大臣秘書官である股野琢を編修長として創設され,その事業は臨時帝室編修局へと引き継がれていった。当初は5か年の編修計画であり,土方は股野編修長を中心に資料蒐集に着手させた。また,土方は維新史料編纂会とも協定を結び,嘉永(かえい)5年(1852)から明治4年(1871)に至る期間の資料蒐集を同会へ委託している。
しかし,事業は5年では終わらず,土方の存命中に,「明治天皇紀」の完成には至らなかった。同局の総裁職は田中光顕,金子堅太郎へと引き継がれ,「明治天皇紀」は,昭和8年(1933)に完成し,昭和天皇へ奉呈された。臨時帝室編修局は,同年をもって廃局となっている。
(宮内公文書館)
本資料は,大正3年(1914)11月30日に定められた皇室令第22号正本である。大正天皇の御名と御璽が見える。この皇室令の公布により,宮内省に臨時編修局が設けられた。皇室令とは旧皇室典範を頂点とする法体系で,皇室に関する諸規則や宮内省官制等に関して勅定を経た上で公布された。
宮内省臨時編修局は設置当初,霊南坂宮内大臣官舎(現・東京都港区)に事務室を構え,「明治天皇紀」の編修が始まった。「明治天皇紀」とは,明治天皇の御事蹟を編年叙述体で記した御一代記である。その後,大正5年(1916)11月に臨時帝室編修局に改称され,大正8年(1919)には庁舎が永田町の元学習院女学部幼稚舎跡(現・東京都千代田区)に移転した。官制改正や人員の拡充などを通じて,徐々に編修方針や事業計画が整えられていった。
本文が完成したのは昭和8年(1933)9月30日のことで,「明治天皇紀」260巻,及び附図一帙が昭和天皇へ奉呈された。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した,馬形埴輪の頭部である。元々は胴体も作られていたと考えられるが,現在は頭部のみが残存している。
眼,口,耳,たてがみのほか,ウマを操るために馬体に装着された部品(馬具)が表現されている。
たてがみは,上端を平たく切りそろえた状態を示しているものと思われる。
馬具は,頭部にめぐらされたベルトと,それらをつなぐ円環状の部品が表現されている。円環状の部品は,金属製のものの実例があり,実物をかなり忠実に再現していると考えられる。
このように本品は写実性が非常に高いにもかかわらず,乗馬に必要な轡(くつわ)や手綱(たづな)は表現されていない。乗馬用とは異なる目的に用いられたウマであったようだ。
本品は,我が国における初期のウマの利用方法を知ることができるだけではなく,馬形埴輪としても最古級の事例であり,埴輪祭祀の変遷を考える上で,非常に重要な資料である。現存高23.7㎝。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府羽曳野市に所在する応神天皇恵我藻伏崗陵から出土した蓋形埴輪である。
蓋とは,身分の高い人が外出する際にさしかける日傘のことで,衣笠や絹傘とも表記される。現在でも,お堂や厨子(ずし)の中に安置されている仏像の頭上に吊されているものや,寺院の儀式において身分の高い僧が歩く際にさしかけられているものを見ることができる。
蓋形埴輪のうち,蓋そのものを表現しているのは上半部で,下半部の台部は墳丘上に立て並べるためのものである。蓋部分は,スカート状に広がる笠部と,笠部の上の飾りを表現した立ち飾り部からなる例が多い。本品も,本来は上部の円筒部に立ち飾り部が差し込まれていたと思われるが,現在は失われている。
笠部には,横向きに粘土の帯を貼り付け,その上下の区画に,間隔を空けて縦向きの線が刻まれている。実物の蓋は,布や板などを骨組みに貼り合わせて作られていたと考えられており,粘土の帯や線刻はこれを表現したものと考えられる。現状高59.1㎝,笠部直径69.8㎝。
(図書寮文庫)
『帝鑑図説』は,中国明代の宰相張居正(ちょうきょせい,1525-82)が,幼くして皇帝に即位した万暦帝(ばんれきてい,在位1572-1620)の帝王学の教科書として,古代から宋代までの君主の事蹟を絵入りでまとめた本。前半で名君の善政,後半で暴君の悪政を扱う。掲出部分は漢の高祖が3人の名臣,張良・蕭何・韓信を上手に用いたことで天下を統一できたことを記している。
皇帝の教育係でもあった張居正は,万暦帝を理想の帝王にすべく厳しく育てたが,かえって堕落し,奢侈と政治への無関心から,明を滅ぼす端緒を開いたことは皮肉である。
さて本書は,特大(50.2cm×41.3cm)の折帖で,図などの特徴から,万暦帝への奉呈本に非常に近く,張居正周辺で作られた模本をもとに万暦年間(1573-1620)刊行された可能性が指摘されている。
明治時代に旧幕府から宮内省が引き継いだもので,寛文11年(1671)紅葉山文庫に収められた『御覧帝鑑図(ぎょらんていかんず)』が本書に相当する。本書よりひと回り大きい,今は失われた徳川家康旧蔵の『帝鑑図説』の箱に収められている。
(図書寮文庫)
フランスのオルトラン(Théodore Ortolan,1808-74)が著した"Règles internationales et diplomatie de la mer"(海の国際法と外交)のオランダ語訳。榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)旧蔵本。
榎本武揚(通称釜次郎)は文久2年(1862)オランダに留学し慶応2年(1866)に帰国,幕府海軍副総裁となる。大政奉還後,新政府への軍艦引渡を拒み五稜郭(現在の北海道函館市)に籠もって抵抗したが(箱館戦争),明治2年(1869)5月降伏。入獄,特赦の後,明治政府に仕え,海軍卿・文部大臣・外務大臣などを歴任した。
本書は,冒頭に師フレデリックスから榎本に宛てた序文(印刷)があり,以降の本文はペンで浄書されている。欄外に榎本のオランダ語・日本語の注記がある。
榎本は降伏の際,本書が混乱で失われるのを惜しみ,官軍参謀の黒田清隆(1840-1900)に託した。掲出した"Geschenk aan de Admiraal van de Keizerlijk Japansche marine van Enomotto Kamadiro"「提督への贈り物」と筆で書かれた一文はこの時のものとされる。
明治13年海軍卿となった榎本は海軍省図書のうちに本書を見出し,許可を得て手元に戻した。その後,武揚の孫である榎本武英から大正15年(1926)に宮内省へ献納された。武英は,本文は「ふれでりつくす氏ノ手筆ニ係ル」とし,祖父の書き込みを「蝿頭ノ細字」(ようとうのさいじ)と評している(宮内公文書館蔵『図書録』大正15年第62号〈識別番号990292〉)。
(図書寮文庫)
源氏物語は世界最古の長編小説とも言われる,日本を代表する物語である。
物語の始まりである桐壺巻の冒頭文は,古典の授業で覚えた方も多いと思われる。源氏物語は平安中期[寛弘5年(1008)ごろ]成立の著作であるが,全54帖の揃いは室町時代以降のものしか残されていない。この写本は,室町時代の公卿三条西実隆(さんじょうにしさねたか:1455-1537)が監督して書写させたものである。実隆は有職故実に秀で内大臣まで進んだ人物で,和歌や書道に優れた当代随一の文化人であり,源氏学者でもあったため,実隆が校閲した本文は非常に尊重された。奥書は桐壺巻・夢浮橋巻にあり,その他の巻は校閲のサインとして,実隆の花押が据えられている。
なお,源氏物語は何人かで分担して書く寄合書(よりあいがき)で写されるのが通例で,本資料についても寄合書で写されており,実隆は最も分量の少ない篝火(かがりび)巻を書写している。
源氏物語60点の内訳は,54冊のほかに目録類5点及び極札(きわめふだ)集が含まれる。
(図書寮文庫)
この文書は,元弘3年(1333)7月に,後醍醐天皇(1288-1339,在位1318-39)が播磨(はりま)の寺田孫太郎範長に当知行地(実効支配している土地)の安堵(支配の保証)をしたものである。綸旨(りんじ)とは,天皇の命令を蔵人が奉じた文書で,宿紙(しゅくし)と呼ばれる漉き返した灰色の紙に書かれる。本文書の奉者は,後醍醐天皇の近臣である左少弁中御門宣明(なかみかどのぶあき,1302-65)。
後醍醐天皇はこの年の5月に足利尊氏らの力を得て鎌倉幕府を滅亡させ,6月に京都に還御して建武の新政を開始した。そのおり,後醍醐天皇は服従した勢力に対して大量に安堵の綸旨を発し,本文書もその一通となる。安堵された寺田範長は,播磨国矢野荘(やののしょう,現在の兵庫県相生市)の武士で,鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて同荘の支配をめぐって領主の東寺と対立し,「国中名誉の大悪党」と呼ばれた祖父法念とともに勢威をふるったが,のち東寺に敗れて没落した。
寺田氏が持っていた文書の多くは,その没落後に東寺に入ったが,本文書はいつしか東寺から流れて蒐集家の手に渡り,幕末~明治の国学者谷森善臣(1817-1911)を経て,当部の蔵するところとなった。
(宮内公文書館)
この図面は,皇居御造営事務局が明治25年(1892)に初期の宮内省庁舎を描いたものである。近代の宮内省は,明治2年(1869)7月8日の職員令によって設置された。平成31年(2019)は近代宮内省の誕生から150年にあたる。
発足当初の宮内省の職掌は宮中の庶務であり,庁舎は太政官や天皇の住まいと共に皇城(こうじょう)(旧江戸城西の丸)内に置かれていた。明治6年(1873)5月に皇城が焼失し,明治天皇が即日仮皇居と定められた赤坂離宮へ移徙(いし)すると,宮内省も仮皇居内へ移動している。皇室との距離の近さは,宮内省の職掌をよく表しているといえるだろう。
その後,新たに明治宮殿が造営されるなか,宮内省庁舎は紅葉山下に建設されることが決定する。宮内省は,たび重なる官制の改正により所掌事務が増大し,組織も拡大していた。明治21年(1888)の庁舎落成によって,宮内省は初めて天皇の住まいから独立したものとなったのである。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。