時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(図書寮文庫)
「宿曜勘文」(すくよう/しゅくよう かんもん)とは,占いや呪いを行う宿曜師(すくようじ/しゅくようじ)と呼ばれた僧侶が,個人の運命や吉凶を占った文書のこと。承元2年(1208)11月付けの本文書は,翌3年に40歳になるある人物について占ったもので,前後の文書との関係や年齢などから公家飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に宛てたものと推測される。本文には「妻子や眷属に不快なことが起こる」「春・夏ごろ,潔白でも他人の誹謗に遭う」「秋・冬ごろは裕福になり名声も得る」「正・4・7・8・10・11月は厄月」などと書かれているが,実際にその年の雅経の運命がどうだったのかは記録がなく定かではない。
九条家本『賭弓部類記』巻1-2の紙背に残された一通であり,残存例が決して多くない宿曜勘文のひとつとして,貴重なものである。『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
この文書は,九条家本『賭弓部類記』巻2のうちの1紙の紙背で,もとは某の書状の礼紙(第2紙)であった。右端にはその「六月九日」の日付や宛名書きの「少将殿」などが見えるが,それとともに,紙の全体にわたってぼんやりと左右逆の文字が並んでいるのも確認できるだろう。これは「墨影文書(ぼくえいもんじょ,墨映文書とも)」と呼ばれるもので,紙どうしが湿気を含んだ状態で長時間圧着されると,にじんだ墨が隣の紙にうつって起こる現象である。
この墨影文書のもとの文書も,同じ『賭弓部類記』巻2の紙背に存在する。ただし,中途で切り分けられ,ばらばらの状態で残されており,それだけでは本来のかたちがわからなかった。それが,この墨影によってもとはつながった1通の書状だったと復元できるのである。これらの書状が不要となったのち反故紙としてストックされ,裏を返して『賭弓部類記』を書写されるまでの間の,紙のありようをさまざまに物語っている。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
この文書は,後鳥羽上皇(1180-1239,在位1183-98)が「二条中将」と呼ばれた飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に与えた院宣である。承元3年(1209)のものと推定される。近江国伊庭荘(いばのしょう,現在の滋賀県東近江市一帯)に課されたなんらかの税負担について,伊勢神宮内宮の式年遷宮と重なって立て込んでいるけれども,ぬかりないように納めよと命じる内容のもの。奉者は後鳥羽上皇の近臣の民部卿藤原長房(ながふさ,1170-1243)か。伊庭荘の一部は九条家領だったと思しいが,これに飛鳥井雅経がなぜかかわったのかは明らかでない。
九条家本『賭弓部類記』巻2の紙背に残された1通で,『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
九条家本『日王苑寺十二箇条起請』の紙背(裏)に残された,鎌倉幕府の重臣大江広元(おおえのひろもと,1148-1225)の書状。もとは京都の官人であった広元は,源平合戦のころに鎌倉に下って源頼朝に仕え,幕府の樹立に貢献した人物で,頼朝没後も北条政子・義時姉弟をたすけて幕政を支えた。
掲出の画像は,2枚続きの広元書状の第2紙で,壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡して間もない元暦2年(1185)4月のものと推測される。京都の官人から受けた訴訟に対して,一部を除いて鎌倉幕府の管轄外であるので後白河院のもとに訴え出よ,としている。その上で「天下の訴訟も世間の政務も,みな後白河法皇の御沙汰である」と述べていることは,平氏滅亡直後の後白河院と鎌倉幕府との関係を物語るものとして興味深い。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
武蔵国の多摩川下流域南岸,現在の神奈川県川崎市中原区から高津区にかけての一帯に,かつて稲毛荘(いなげのしょう)と呼ばれる荘園が存在した。藤原摂関家の荘園で,12世紀後半には東西に本荘と新荘に分かれ,いずれも九条家に伝領されたが,鎌倉時代中ごろまでには周辺の武士の勢力が及んで九条家の支配は実態を失ったと考えられる。
九条家本『中右記部類』巻2の紙背(裏)に残された本文書は,承安元年(1171)にその稲毛本荘の田数を調査・報告(検注という)したものである。冒頭の1紙しか残存していないが,263町8段180歩の全田地のうち1町2段の荒田があるものの,平治元年(1159)の検注以降に開発した新田として55町余を検出していることなどがわかる。また,荘内に稲毛郷・井田郷・小田中郷などの郷が存在したこともうかがえる。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内省内に諸陵寮(しょりょうりょう)再興を求めた意見書の写しである。明治16年(1883)1月,宮内省御陵墓掛足立正声(あだち まさな)が宮内卿徳大寺実則(とくだいじ さねつね)へ提出したもので,古代の律令制において存在した諸陵寮を復活させようというものであった。
本資料自体は写本で,足立男爵家蔵本から写されたものである。大正12年(1923)の関東大震災により,陵墓関係の公文書のほとんどが失われたため,震災後に作成された貴重な資料である。
元治元年(1864),陵墓管理のため古代の律令制度にならい諸陵寮が再興されたが,維新後は神祇官(じんぎかん),教部省(きょうぶしょう),内務省などの所管官庁を変遷し,明治11年(1878)になって宮内省が陵墓事務を担当した。その後,宮内省内の御陵墓掛に就いた足立は,本資料の意見書を提出し,古代の諸陵寮の名称を再興しようとし,明治19年(1886)2月,宮内省に諸陵寮が設置された。以後,終戦直後まで陵墓の管理・考証・治定に関する事務は,概ね諸陵寮が担った。戦後,諸陵寮は廃止されたが,その事務はいくつかの変遷を経て,宮内庁書陵部陵墓課に引き継がれ,現在に至る。
(図書寮文庫)
この文書は,元弘3年(1333)7月に,後醍醐天皇(1288-1339,在位1318-39)が播磨(はりま)の寺田孫太郎範長に当知行地(実効支配している土地)の安堵(支配の保証)をしたものである。綸旨(りんじ)とは,天皇の命令を蔵人が奉じた文書で,宿紙(しゅくし)と呼ばれる漉き返した灰色の紙に書かれる。本文書の奉者は,後醍醐天皇の近臣である左少弁中御門宣明(なかみかどのぶあき,1302-65)。
後醍醐天皇はこの年の5月に足利尊氏らの力を得て鎌倉幕府を滅亡させ,6月に京都に還御して建武の新政を開始した。そのおり,後醍醐天皇は服従した勢力に対して大量に安堵の綸旨を発し,本文書もその一通となる。安堵された寺田範長は,播磨国矢野荘(やののしょう,現在の兵庫県相生市)の武士で,鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて同荘の支配をめぐって領主の東寺と対立し,「国中名誉の大悪党」と呼ばれた祖父法念とともに勢威をふるったが,のち東寺に敗れて没落した。
寺田氏が持っていた文書の多くは,その没落後に東寺に入ったが,本文書はいつしか東寺から流れて蒐集家の手に渡り,幕末~明治の国学者谷森善臣(1817-1911)を経て,当部の蔵するところとなった。
(図書寮文庫)
室町時代前期の陰陽師である賀茂在貞(かものあきさだ,1388-1473)が,2月の末に貴族の万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)に送った書状。上巳の祓に用いる人形を進上しますと伝えている。時房は,受け取った書状の紙背(裏面)を自分の日記『建内記』の嘉吉3年(1443)2月30日条の料紙として用い,「在貞から人形が到来したので枕元に置いた」と記している。人形を身近に置いて罪や穢れを移した後,また在貞に返して祓えが行われたと考えられる。伏見宮家旧蔵本。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)10月,横浜のペスト病発生に伴う予防処置に関する緊急勅令の閣議案。明治天皇の御覧後,枢密院で発布が撤回されたため,御手許(おてもと)に残された。「明治天皇御手許書類」に内閣総理大臣以下の花押の入った閣議案が残る例は珍しい。
(図書寮文庫)
本書は,安政5年(1858)12月11日,高杉晋作(1839-67)らが師の吉田松陰(1830-59)に宛てた血判状。連署の高杉晋作・久坂玄瑞ら5人は松陰の門下生で,本文執筆は久坂とされる。高杉らは師松陰の過激な計画を思い止めようと血判状をもって諫止したのである。師を思う弟子たちの思いが込められた血判状による諫止ではあったが,やがて松陰は安政の大獄によりその短い生涯を閉じるのである。木戸家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,薩摩藩士西郷吉之助(隆盛,1827-77)から木戸準一郞(孝允,1833-77)に宛てた書状で,閏4月6日とあるとことから慶応4年(明治元年,1868)のものと考えられる。東征大総督府参謀であった西郷が木戸に,徳川氏の処分や関東鎮撫策について面会して意見を聞こうと上京を促そうとしたのではないかと想像される内容をもっているが,木戸は10日に大阪を発ち,神戸へ向かったため,西郷は会うことはできなかったことがうかがえる。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,1377-1433)宸筆の書状である。年未詳ながら,宛所(宛先)はないが,書止に「謹言」と書いているところ,天皇周辺の然るべき御身分の方宛てに書かれたものである可能性がある。内容は,短冊や詠進に関することが記されており和歌御会などに関するものと推察される。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代中期の公卿洞院実熙(とういんさねひろ,1409-59)が後花園天皇(第102代,1419-70)に宛てて記した仮名の消息(書状)である。消息の裏に書かれている宛先は「勾当内侍とのゝ御局へ」と,天皇の近くに仕える女房宛てになっているが,文末に「御心え候て,御ひろう候へく候」(この旨をよくお心得になって,よろしく御伝達ください)とあり,実際の内容は天皇に対して記されたものとなっている。桂宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,もと正倉院に伝来した文書類のうちで,のち国学者である谷森善臣(1817-1911)の所有となり,同家よりその蔵書とともに図書寮に献納された。天平13年(741)3月15日一切経納櫃帳ほか5点を貼り継いだ一巻。画像は,天平勝宝3年(751)の写書所解。外題(題名)を書くための狸毛の筆と雑公文用の料紙として「凡紙」を請求しているもの。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代後期に摂政・関白を歴任した藤原忠通(1097-1164)の自筆書状である。内容は,忠通の側にいたと思しき,ある貴人の病気に関するもので,このとき平癒のための御占や御祈が盛んに行われたことがうかがえる。宛所(宛先)が欠けているが,忠通の息女聖子(1122-82)の可能性が考えられる。土御門家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,中国清王朝第4代皇帝聖祖(康熙帝)が,康熙28年(1689)琉球国中山王尚貞の朝貢(臣下としての礼をとること)に対する答礼の書の写。前半が漢文(右端より始まる),後半が満洲文字(左端より始まる)で書かれ,下賜品の目録なども載る。本書は細部まで丁寧に模写されており,江戸中期に琉球国から幕府に提出されたものという。正徳6年(1716)6月10日に吉宗が本書を閲覧した記録が残る。
(宮内公文書館)
写真は,明治7年(1874)に司法省七等出仕井上毅(こわし)が,司法卿大木喬任(たかとう)へあてた建白書の草稿。井上は,法制局長官などを歴任したほか初代宮内省図書頭も務めた。後に,伊藤博文とともに憲法の起草に当たった人物として著名。本建白書は,国家の基本となる「建国法」(憲法)制定の必要性などを説いたもの。井上の明治初期の憲法構想が本資料から読み取れる。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内卿・宮内大臣にあてられた建白書類をまとめたもので明治5年(1872)から明治41年まで全9冊の内の1冊。写真は,筑摩(ちくま)県・愛知県の農民が明治9年(1876)に宮内卿徳大寺実則(さねつね)へ宛てた建白書。歌会始での詠進歌を上梓・頒布したい旨を述べている。明治7年に一般からの詠進が認められ,歌会始という宮中行事が一般に知られるようになったことの一端がうかがえる。
(宮内公文書館)
本資料は,「諸願建白録」の内,明治24年(1891)分の簿冊。写真は,横浜の実業家である高島嘉右衛門(かえもん)が宮内大臣土方久元(ひさもと)に提出した建白書。祭政一致についての意見を述べた長文の建白書である。高島は,横浜港を埋め立て,鉄道敷設のために貢献したことで著名。埋め立て地には,「高島」の地名が付けられた。また,高島は『高島易断』の著者としても有名。