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(陵墓課)
本資料は、明治18年に奈良県の大塚陵墓参考地から出土したものである。割れてバラバラな状態であったものを、昭和52年に足りない部分を補って修理している。
当部では「直弧文」を主文様とする鏡を3面所蔵しているが、そのうちの1面である(残りの2面は、「直弧文鏡」(官53)と「素文縁(そもんえん)直弧文鏡」(官95))。「直弧文」とは、本資料を4重の同心円とみた場合の内側から2番目と最も外側の4番目の区画に見られるような、直線と曲線を組み合わせた文様のことで、日本の古墳時代によく用いられる。本資料は、大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて、日本列島で製作されたものと考えられる。
本資料の文様構成は、直弧文鏡として最も有名な「直弧文鏡」(官53)と同じである。しかし本資料では、文様の谷間を埋めるように平行線による文様があり、「直弧文鏡」(官53)や「素文縁直弧文鏡」(官95)に比べると余白がない。直径は21㎝で、「直弧文鏡」(官53)の同28㎝、「素文縁直弧文鏡」(官95)の同26㎝より小さいこともあって、賑やかな印象を受ける。
本資料は、古墳時代前期の中頃(およそ4世紀中頃)に日本独自の文様で鏡を製作し始めた頃の代表例の一つである。
(図書寮文庫)
平安時代中期の日記。記主は右大将道綱母として知られる藤原倫寧女(ふじわらのともやすのむすめ、?-995)。冒頭から4行目に『百人一首』でも有名な「なげきつゝ」の歌が記されている。
天暦9年(955)冬、新しく通う所ができて訪れが途絶えがちな夫・藤原兼家が、暁方に戸を叩いてきた。余所からの帰りだろうと、道綱母は応対せずにいた。そして翌朝、「嘆きつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る(あなたの訪れがないと嘆きながら、独りで寂しく寝る夜が明けるまでの間は、どんなに長いものか、ご存じでしょうか)」と、いつもより改まった書きぶりで色変わりした菊につけて送ったところ、兼家は「あくるまでもこゝろみむとしつれど(夜が明け、扉が開くまで様子をみようと思ったけれども)」急用の召使が来てしまったからと言い訳をして、「扉を開けてもらえないのもつらいのだよ」と歌を返している。
なお、この図書寮文庫本は江戸前期の写本で『蜻蛉日記』の最善本とされる。題簽(だいせん、表紙に貼られた題名や巻数が書かれた小紙片)は霊元天皇(1654-1732)宸筆。表紙に貼られたラベルの「東京図書館」は現在の国立国会図書館のことで、明治8年(1875)から昭和11年(1936)まで貸し出されていた。
(陵墓課)
刀剣を静かに飾る玉。本資料は、岡山県瀬戸内市から出土した古墳時代後期の三輪玉(みわだま)である。全長3.7cm、高さ2.3cmで、平らな底面に三つの山が連なる形が特徴的である。こうした形の玉は、大刀や剣の抦(つか)に付属する護拳帯(ごけんたい、手の甲を保護する部分)を装飾するために用いられ、両側のくびれに紐や糸をかけて縫い付けられた。一振りの刀剣に対して5~10個程度の三輪玉が着装され、刀剣を美しく装飾した。
三輪玉は当初その使用用途が不明であったが、大刀形埴輪(たちがたはにわ)の護拳帯に着装された表現があることから、刀装具(とうそうぐ)であることが判明した。近年では、三輪玉の着装状況がわかるような形で出土した事例も増えてきている。
本資料は「水晶製」と通称されているものの、透明度が低く白濁しており、水晶というよりも石英(せきえい)に近い。このような例は6世紀中頃から7世紀初頭頃のものに多く、本資料もその時期に属すると考えられる。美しい三輪玉を装着した刀剣は、当時の持ち主の威信を高めたであろう。
(図書寮文庫)
文保3年(1319)2月に成立した、早歌(そうか)の歌集。早歌とは、鎌倉~室町時代、おもに武士の間で流行したテンポの速い長編の歌謡。本書を含む歌集の多くは、鎌倉極楽寺の僧侶とされる明空(みょうくう、生没年未詳、正和3年(1314)以降は月江と改名)によって作られ、収録曲の多くも明空自身が作詞作曲を手がけた。現在は伝わらないが、早歌は武士の遊興のみならず、公家や寺社、将軍家の儀礼などでも歌われ、能をはじめとする他の芸能に多大な影響を及ぼした。
本書は上下2巻のうち、下巻のみが伝わる写本。後伏見天皇(1288-1336)の宸筆と鑑定した古筆了雪(1612-75)の極札(きわめふだ、鑑定書)が付されているが、書風などから、実際はもう少し後の時代のものか。巻頭に収録曲の曲名が列記され、次いで各曲の詞章が、右側にゴマ点のような節博士(ふしはかせ、節回しなどの記号)を伴って記される。現存する早歌歌集はほとんどが冊子の形状で、1頁に5行書きなのに対し、本書は巻子(かんす、巻物)装だが、料紙に等間隔の折り跡があることから、もとは折帖(おりじょう)仕立てで、6行書きだったことが判明する。外箱側面の「古筆所蔵」の貼紙により、古筆家に伝来したものと推測される。
(陵墓課)
長野県北安曇郡松川村の祖父ヶ塚古墳から出土した耳飾り2点である。「金環」には、金でできているもの、銅に金を張っているものなど、一見して金色が含まれていると判断できるものがある一方で、一見すると金色が見えないものも存在する。本資料は、2点ともに純金特有の黄色みが全くなく、緑青(ろくしょう)で覆われ、破断面観察も銀色である。ただし、蛍光X線分析により金と水銀も微量に検出されたことから、銅芯を銀で覆い、鍍金(ときん)を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性があり、作られた当時は金色の光沢を放っていたと考えられる。このように「金環」という名称は、材質と色調に基づいて判断されている。
左の耳飾りは、直径31㎜ほどの大きさで、断面の厚さは7.6~8.3㎜である。右の耳飾りは、直径20㎜ほどの大きさで、断面の厚さは5.0~7.3㎜である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、断面が正円に近い左の耳飾りは古墳時代終わり頃、断面が楕円形の右の耳飾りは飛鳥時代の遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
本書は、桂宮家に伝わった白河結城氏(しらかわゆうき、結城白河氏とも)の系図である。白河結城氏は、秀郷流藤原氏の下総結城氏の分家で、鎌倉時代に陸奥国白河荘(現在の福島県白河市)に本拠を移した一族である。南北朝時代に南朝に仕えて活躍した結城宗広・親光父子らが知られる。室町末~戦国初期には南陸奥に有数の勢力を築いたが、やがて分家の小峰氏にのっとられ、その小峰白河氏も戦国大名の伊達氏や佐竹氏のはざまで次第に衰退し、豊臣秀吉の奥州仕置で改易(かいえき)された。子孫は仙台藩士や秋田藩士として続いた。
本系図は、冒頭(掲出の画像より前の部分、リンク先画像の4コマ目)に藤原氏の祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を掲げて藤原鎌足から書き起こし、戦国前期に小峰家より白河家をのっとった義綱まで、歴代当主(画像上段の親朝・顕朝など)の官途や法名等を付記し、さらに小峰氏(画像下段の朝常以下)など分家の情報も載せる。朱線は親子を兄弟のように示すなど混乱しているものの、官途などは概ね史実に即したものを記している。書きぶりなどから戦国末期までに成立したものと思われるが、どこで作成され、なにゆえ桂宮家に伝わったのかは、目下不明とせざるを得ない。
(陵墓課)
本資料は、円い見た目から「車輪石」と呼ばれ、縞状の模様が美しい酸性凝灰岩(さんせいぎょうかいがん)とされるガラス質の割合が高い石材で製作されている。長外径は12.2cmである。古墳時代前期(おおよそ4世紀代)の古墳から出土することが多く、弥生時代に九州を中心に使われた貝製の腕輪をモチーフとしている。当時の王権所在地である近畿地方を中心に分布するが、西は熊本県、東は福島県まで広がっており、王権と地方の結びつきの強さを示す象徴的な器物と考えられている。
佐渡島(さどがしま)北側の長い海岸線の南西端にあたる、新潟県佐渡市相川鹿伏から出土したとされ、明治19年(1886)に当時の宮内省が買い上げた本資料であるが、現在、相川鹿伏の地に古墳は確認されておらず、少し離れて分布する古墳は古墳時代後期のものであり、車輪石が出土する時期とは異なる。車輪石は古墳以外の場所で儀礼をおこなう場合に使用されることもあるため、遠く大陸につながる日本海に臨む地で何らかの儀礼がおこなわれた可能性も考えられるが、詳しいことはわかっていない。日本海側における車輪石の分布域東端にあたるため、当時の王権の勢力範囲を考える上で重要な資料であり、本資料のより詳細な位置づけを明らかにするには、佐渡島でのこれからの資料の蓄積が期待される。
(陵墓課)
丁寧に磨き上げられた美しい土器。本資料は、崇神天皇陵外堤南西側から出土した古墳時代前期の土師器(はじき)である。高さ10.7cm、口径8.3cmと小型で、丸い底部と外側に大きく開く口縁部が特徴的である。こうした形の土器は「小型丸底壺(こがたまるぞこつぼ)」と呼称され、小型器台(こがたきだい)の上に載せて使用された。
底部は粘土を削り取ることで丸く整形し、外面は幅1㎜程度の細かい単位で横方向に磨くことで、平滑に仕上げられている。器壁(きへき)は薄く丁寧に仕上げられ、胎土は非常に精良で、焼成も良い。
小型丸底壺は、小型器台・有段口縁鉢(ゆうだんこうえんはち)と合わせて「小型精製土器(こがたせいせいどき)」と呼ばれており、丁寧に作り込まれていることから、儀礼に使用されたものと考えられる。こうした土器は、近畿を中心として九州から東北まで波及し、その分布は前方後円墳の全国的な広がりと重なることが指摘されている。これは広域的に共通した儀礼の成立を示唆するものであり、まさに古墳時代前期を象徴する遺物といえるだろう。
(陵墓課)
この埴輪が模している鳥の種類は何だろうか。大阪府に所在する継体天皇三嶋藍野陵外堤北側から出土した本資料は、外堤に立てるための円筒部と鳥の体部から構成されており、残存高は約54.1cmである。
本資料では、鳥が円筒部から伸びる管状の止まり木にとまっている。その脚先を見ると、平たい粘土板に3本のヘラ描き線を入れて、水かきを表現していることから、この鳥は水鳥とわかる。より詳細に鳥の種類を見分けるには、鶏冠(とさか)の有無や嘴(くちばし)の形状といった情報を必要とするが、本資料は頭部を欠損している。しかしながら、頸(くび)の背面を見るとリボン状に結ばれた紐が確認できる。頸に紐を巻いた水鳥を表現していることから、本資料が模している鳥は鵜飼いの鵜だとわかる。人物埴輪が登場して以降、人と関係のある動物として、鵜を模した埴輪が作られるようになるが、本資料もそのひとつとして重要な埴輪といえる。
なお、全国の鵜形埴輪には頸に紐を巻くとともに、魚を咥(くわ)えているものもある。本資料で失われてしまっている頭部はどのような表現がされていたのか、想像してみてはいかがだろうか。
(陵墓課)
玉は、古代を彩る至宝とも呼ばれる古墳時代の代表的なアクセサリーである。髪、耳、首、胸、手首、足首などに着装され、人々を魅了してきた。
本資料は、愛媛県妻鳥陵墓参考地の横穴式石室から出土した径1.3cmの銀平玉である。外形は円形で、表裏に平坦な面をもつ。中空であり、表裏の薄い銀板2枚が側面中央付近で接着される。上下の側面には孔が開けられ、糸を通せるようになっている。当参考地からは琥珀棗玉(こはくなつめだま)、碧玉管玉(へきぎょくくだたま)、水晶切子玉(すいしょうきりこだま)、ガラス製丸玉も出土しており、本資料とこれらを組み合わせて被葬者に着装されていたと考えられる。
希少素材をふんだんに用いて多様な形態が作り出された玉の様式は、古墳時代後期にみられる特徴である。また本資料のような貴金属製玉は、朝鮮半島南部から伝わった渡来系玉類と呼ばれる。本資料は最新技術を用いて日本列島で製作されたものと考えられ、国際色豊かな古墳時代後期を特徴づける器物であるといえる。
(陵墓課)
愛知県豊田市の根川古墳(根川1号墳)から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から「金環」としているが、金環には、銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、様々な材質のものがあり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に、蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。その輝きは純金製品とほとんど変わらないものであっただろう。
この耳飾りは、直径22㎜ほどの大きさで、断面の厚さは4.7から6.5㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形も楕円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本資料も飛鳥時代の遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
京都市山科区にある勧修寺(かじゅうじ)は、風雅な庭園で知られる古寺である。その南西の山裾に、藤原定方(さだかた、873-932)の墓とされる石碑が建つ。定方は平安時代の貴族で、勧修寺の創建者と伝えられる人物。石碑は、江戸時代の半ばに、彼の子孫である勧修寺流藤原氏の公家たちが、定方を顕彰するために共同で建てたものである。碑文の作者は高名な儒学者である伊藤東涯(とうがい)。字形はその弟、伊藤蘭嵎(らんぐう)の筆跡に基づく。
本資料は、勧修寺流藤原氏の一派である葉室(はむろ)家に伝来した、当該碑文の模刻本(もこくぼん)である。模刻本とは、石碑等の銘文の字形をそっくり写し取った版を作り、その版を用いて作った印刷物や拓本のこと。まるで石碑の拓本のように見えるが、実は石碑に直接紙を当てて取った拓本ではない。しかも文字の配列も模刻本の判型に収まるように改変されているので、この資料を見ても元となった石碑の姿はイメージしがたい。ただし、石碑の表面は剥落が進みつつあるので、欠失箇所の字形を復元する上では、参考となる資料といえる。
(図書寮文庫)
公家の日記は自身で書くのが普通であるが、より詳しい記述ができる人物が周囲にいる場合、他人に自分の日記を書かせたり、他人の日記を引用したりということもあった。
江戸時代前期の公家、九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の日記『道房公記』においても、他人の日記の引用がある。そのなかでも、掲出箇所は、寛永19年(1642)6月18日条で、押小路師定(おしのこうじもろさだ、1620-76)の自筆日記が合綴(がってつ)されており、いささか特殊である。掲出画像の右半丁は道房の筆、左半丁が師定筆である。左右で紙の色と大きさが異なり、文字はたとえば「御」字(右では2行目「御飯」、左では2行目中ほど「内侍所御辛櫃」)を見比べると別筆であることが分かりやすい。また、師定が自身を指した「予」との一人称が残っている。
内容は、明正天皇(1623-96、御在位1629-43)の新造内裏への遷幸(せんこう)に伴う神鏡渡御(しんきょうとぎょ)の儀式に関するもので、師定はこの儀式に参仕しており、道房は他の公家とともにこれを見物している。当該部分も、『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に活字化されている。
(図書寮文庫)
九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の自筆日記のうち、掲出箇所は寛永20年(1643)3月21日条で、九条家で欠けている延喜式の巻3・巻5を書写するために、日野弘資(ひのひろすけ、1617-87)から同書を借用した記事である。
延喜式は古代の法典である律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。九条家には遅くとも鎌倉初期の書写とみられる延喜式が伝えられているが(東京国立博物館所蔵)、こちらも巻3・巻5を欠いているので、この記事に見える欠巻と一致する。一方、日野家の本については、当部所蔵の勢多家旧蔵本(172・123)の山田以文(やまだもちふみ、1762-1835)の本奥書等からその存在が知られる。
九条家に伝来した延喜式のうち巻13は、尾張徳川家で書写され、それに基づき50巻揃いとなった板本(はんぽん、印刷本のこと)が刊行され一般に流布した。道房公記では、徳川義直(とくがわよしなお、1601-50)より続日本紀(しょくにほんぎ)等を借りた記事が見え、両者の間に交流があったことがうかがえるが、延喜式の貸借に関するような記事は見えない。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
中世・近世の公家は、儀礼や政務、和歌会などといった様々な行事に参仕し、あるいはその運営を行っていた。また、皇室や他の公家・武家との日常的な交流も、生活をおくる上で欠かせないものであった。そのため、こまめに日記を書き、受け取った文書(公文書や書状など)を整理し、自身の送った文書を写し保管している者も少なくなかった。
『九条道房公雑書』は、そのような授受の文書などを取りまとめた資料。九条道房(1609-47)は、日記『道房公記』(九・5119)を記しているが、本資料でしか確認できない事柄も多い。特に武家との日常的な交流については、あまり日記には記さなかったらしい。掲出した寛永19年(1642)閏9月13日付の大年寄(大老)酒井忠勝(1587-1662)の書状は、道房からの贈り物に対する忠勝の礼状で、九条家の家来である朝山吉信にあてたもの。本資料には、文書のほかに、官位申請の書類、和歌題短冊なども収められており、日記と合わせることで、江戸時代の公家の政治的・文化的な生活が詳細に復元できる。
(図書寮文庫)
江戸時代、幕府がキリスト教を禁止・弾圧するなか、信徒を発見するために用いた「踏絵」の図案の模写。キリスト像(磔刑図、2種類)、ピエタ(「哀れみ」の意、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母)、ロザリオの聖母、エッケ・ホモ(「この人を見よ」の意、鞭打たれるキリスト)の絵が描かれ、末尾に説明が書かれている。掲出箇所はロザリオの聖母の図で、幼いキリストを抱き、聖ドミニコたちにロザリオを授ける聖母像が、ロザリオをかたどった枠内に描かれる。
古賀本。寛政の三博士のひとり古賀精里(こがせいり、1750-1817)に始まる古賀家は、代々幕府の昌平坂学問所の儒学者だったが、3代目の茶渓(さけい、1816-84)は西洋事情に強い関心を寄せ、蔵書には西洋関係書も多い。同家の蔵書は明治22年(1889)に献納されたが、本書もそのひとつ。
(図書寮文庫)
豊原統秋(とよはらむねあき、1450-1524)が著した舞楽の解説書。統秋は室町戦国時代に活躍した楽人(宮廷音楽を担う下級官人)で、笙(しょう)を家業とする豊原家の出身。冒頭が欠損しており正式な書名は不明だが、79におよぶ楽曲について、まず曲名を掲げ、それぞれの由緒や口伝を一字下げで仮名交じりに記す。巻末に、永正6年(1509)閏8月、上意によってこれを択び進上するものである、という奥書および統秋の花押(かおう)がある。この時期、統秋は後柏原天皇(1464-1526)に笙の師範として仕える一方、室町殿足利義尹(1466-1523、室町幕府第10代将軍。のちに義稙と改名。)に召され、曲名や譜面についての諮問に答えており(『実隆公記』永正6年6月20日条、8月5日条)、本書も室町殿の上意により進上された可能性がある。歴代の足利将軍は笙の稽古に熱心で、初代尊氏(1305-58)も統秋の先祖豊原龍秋(1291-1363)から笙の秘曲を授けられた。なお統秋はこの後、永正8年から9年にかけて、楽道に関する大著『體源抄』(たいげんしょう、書名に「豊原」の2字が組み込まれている)を撰述している。
(図書寮文庫)
室町前期~江戸前期の短冊594枚が貼られた手鑑(てかがみ)。手鑑とは、古い筆跡を鑑賞する流行に応じ、鑑定家である「古筆見(こひつみ)」たちにより、書物の断簡や古文書・短冊などを集め、筆者を記した鑑定書「極札(きわめふだ)」を附してアルバム状に仕立てたもの。外箱の底の貼紙によれば、宝永5年(1708)に古筆見のひとりで古筆本家第6代古筆了音(こひつりょうおん、1674-1725)が作製したという。
手鑑は身分の高い人物の筆跡から並べるのが常で、本帖でも天皇・皇族にはじまり、連歌師で終わっている。掲出部分は、伏見宮・有栖川宮・八条宮の諸親王の短冊が並ぶ部分。
本帖は広島藩主浅野家に伝来した。
(図書寮文庫)
森鷗外(もりおうがい、森林太郎〈もりりんたろう〉、1862-1922)が宮内省図書頭だった時代に編纂され、神武天皇から明治天皇に至る歴代天皇の諡号(しごう)の由来、出典について考証したもので、大正10年(1921)に宮内省図書寮から100部が刊行された。図書寮文庫には、大正10年刊行の2点のほか、草稿2点(原本・副本)、校正刷1点の、計5点を所蔵する。草稿原本(272・206)は、鷗外が朱書や墨書で書き込みを行い、草稿副本(272・204)は、草稿原本の鷗外筆校正を別の人物が丁寧な形で書き直し、鷗外が朱書や墨書で更なる加筆修正を施している。掲出図版は校正刷であるが、全体を通して朱墨、墨書、朱ペン等、複数の筆記具による書き込みが見られ、その大部分が鷗外筆と認められる。書き込みの内容は、誤字脱字、出典文献、引用本文の加筆修正、体裁の修正や指示等、多岐にわたっており、刊行に至るいずれの段階においても鷗外自身が全体の構成から細部に至るまで積極的に関与していることが分かる。
(陵墓課)
本資料は、奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した、「三角縁神獣鏡」に分類される鏡である。直径22.1㎝。
三角縁神獣鏡とは、鏡の縁の断面が三角形で、主な文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙、聖獣、その他の図像に、それぞれ、数、組合せ、表現などの違いがあるほか、主文様を配する内区(ないく)の外周に文様や銘文(めいぶん)を配するかどうかなどの違いがあり、ひとくちに「三角縁神獣鏡」と呼ばれていても、その文様の構成はバリエーションに富んでいる。
本資料は、円錐形(えんすいけい)の乳(にゅう)によって6分割された内区に、神仙像と聖獣像を交互に3体ずつ配置する、「三神三獣鏡」の一種に分類されるものである。
内区の外周にも乳によって10分割された文様帯(もんようたい)があり、ここにも、画像上方から時計回りに、カエル、四つ足の獣(けもの)(青龍(せいりゅう)か)、四つ足の獣(白虎(びゃっこ)か)、2匹の魚、カエル、カメ(玄武(げんぶ)か)、ゾウ、鳥(朱雀(すざく)か)、1匹の魚、四つ足の獣と、様々な図像を見ることができる。
三角縁神獣鏡の文様の中に、本資料のゾウや、以前に本ギャラリーで紹介した仏など、当時の日本列島在住者には描くことができないと思われるものが含まれていることは、その製作地、製作者を考えていく上で見過ごせない点である。