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(宮内公文書館)
鷗外が図書頭就任後、早々に決裁した文書。帝室博物館総長兼図書頭としての鷗外は、決裁文書に花押を据えることを常としていたが、この時は珍しく「林太郎」の印鑑を捺している。
鷗外が図書頭に就任してからわずか2日後の大正6年(1917)12月27日、公文書類編纂保管規程が改正された。同規程は、明治40年(1907)に制定されていたが、この改正により、公文書類の保存年限が「永久・二十年・五年」から「永久・三十年・十年」に変更となった。保存年限の変更については、すでに大正4年から検討されていた。大正4年段階では、公文書類の保存期限を「永久・五十年・二十年・十年」と改正するよう、当時の図書頭山口鋭之助より宮内大臣波多野敬直に宛て上申が行われている。
理由は判然としないが、大正6年の改正では、上記のとおり「永久・三十年・十年」に変更され、大正4年の上申は採用されなかった。このように大正4年以来検討されてきた公文書類の保存年限改正は、鷗外が図書頭に就任した直後に実施され、結果的に図書頭鷗外として最初期の業務となった。
この改正を契機として、公文書類の索引のため作成される件名録の作製方法や、どのような内容の公文書類を何年保存とするのかなど、公文書類の保管に関する制度が見直された。現在、宮内公文書館で所蔵される公文書類のうち、茶色い表紙が装丁された資料の制度的淵源は、これらの規程の改正に求められる。
(宮内公文書館)
図書頭の鷗外が、歴代天皇の代数などについて調査した記録に寄せた序文。「図書頭医学博士文学博士森林太郎」の署名がみえる。歴代天皇の代数が、正式に確定されたのは、大正15年(1926)の皇統譜令制定に際してのことである。皇統譜に関する事項も所掌する図書寮ではそれ以前から、皇統譜令制定の前提となる御歴代の確定について調査を進めていた。鷗外自身も、皇室令に係る案件を審議する帝室制度審議会の御用掛として、皇統譜令の制定に役割を果たそうとする。
掲出の史料も、図書寮での御歴代調査に関連して作成されたと考えられる。この調査記録自体は、大正6年以前に作成されていたようだが、タイプ版に印刷し直し、「検閲ニ便ス」とある。中表紙には「五味」の印が捺されており、資料の末尾には「大正七年一月十五日 宮内事務官五味均平草」と記されている。このことから、本資料が宮内事務官五味均平の手になることがわかる。
(宮内公文書館)
本図は、大正11年(1922)に作成された三年町御料地(現・千代田区霞が関、文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され、明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり、三年町御料地が設定された。
明治17年に宮内省内に設置された図書寮は、当初赤坂仮皇居(赤坂離宮)の宮内省庁舎内に置かれた。その後、明治22年に宮城(明治宮殿)が完成すると、宮内省庁舎は紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に置かれるが、図書寮は狭隘のため宮内省内に置かれず、馬場先門内にあった旧元老院庁舎内に移された。しかし、諸陵寮や帝室制度取調局と合同の庁舎であったことに加え、老朽化していたこともあり、明治24年には再び赤坂離宮内に移っている。さらに、明治32年には、東宮御所の造営にともない再度移転を余儀なくされ、図書寮は三年町御料地に移るのである。
三年町御料地の図書寮庁舎は「維新草創ノ建築」であり、東京府内の洋館のなかでも特に古いものであったという。これらの庁舎は、大正12年の関東大震災で大きな被害を受けたため、昭和3年(1928)に図書寮庁舎は現在の地(東御苑内)に移るのである。なお、以前に当ギャラリーで紹介した「三年町御料地総図(関係図面録(三年町御料地)6大正・昭和のうち)」は、大正15年の震災後の状況を示した図面であり、あわせてみると、震災の被害状況がうかがえる。
(宮内公文書館)
三年町御料地(現・千代田区霞が関、文部科学省庁舎一帯)内の図書寮庁舎は「維新草創ノ建築」であり、大正6年(1917)の段階でレンガに亀裂が入り、基礎には狂いが生じるなど危険な状態であった。このため、図書寮は新築庁舎の建設に向けて動き出す。
史料は、その際に図書寮で作成された「新築図書寮調査及文庫平面略図」である。本来、宮内省内の建築にかかわる事務調整や設計は内匠寮が担当するが、本図は図書寮が主体的に作成している点に特徴がある。図書寮は、東京府下の南葵(なんき)文庫、慶應義塾図書館、内閣文庫などへ問い合わせ、文庫の大小や窓の有無、書架延長などを調査して本図を作成したようである。図面をみると1階はロの字になっており、左側に公文書の担当掛と書庫、右側に図書の担当掛と文庫があることがわかる。また、2階には図書頭や高等官の部屋がある。総じて建物の左右で図書と公文書の別を、上下で高等官と判任官の別が区切られていることがわかる。
しかしながら、図書寮による庁舎新築の一件は、大正7年6月を最後に公文書上からは姿を消し、実際に建設されることもなかった。おそらく省の方針転換や、予算措置上の問題があったのだと考えられる。その後、三年町御料地は関東大震災で大きな被害を受け、皇居内に図書寮と諸陵寮との合同庁舎が建てられ、昭和3年(1928)に図書寮は現在の書陵部の地へ移った。図書寮が作成した庁舎図面は、まさに「幻」に終わったのである。
(宮内公文書館)
明治17年(1884)8月、宮内省内に図書寮が置かれた。図書寮の業務は「御系譜并ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍・古器物・書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等」を所掌した。皇室の一切の記録を編輯することとされたことから、図書寮に記録掛が設けられて「図書寮記録」や「帝室日誌」などを編纂した。
本史料は宮内省の例規や実例等を体系的に編纂した記録「帝室例規類纂」で、現在宮内公文書館には正本・稿本・索引・未定稿等を合わせて2,943件を所蔵している。その内、凡例と明治天皇の御元服に関する記録等を収めた巻1である。図書寮では明治22年から43年にかけて、宮内省各部局から公文書類を借り受けて筆写したもので、年ごとに部門に分類されている。部門は年によって異なるが、典礼門、族爵門、官職門、宮廷門、賞恤(しょうじゅつ)門、財政門、陵墓門、外交門、学事門、図書門、什宝門、膳羞(ぜんしゅう)門、用度門、土木門、守衛門、衛生門などに分かれている。明治期の宮内省の記録をうかがう上で、貴重な史料である。
(宮内公文書館)
赤坂離宮内の図書寮において行われた、正倉院御物(宝物)修理の様子を描いた絵巻物。図書寮が正倉院を所管していた明治22年(1889)5月2日、正倉院御物整理や模造に従事した図書寮属稲生真履の求めに応じて、図書寮嘱託の稲垣太祥によって描かれた「刀剣御手入」の場面である。当時の刀剣修理作業の情景が写実的に描写されている。
正倉院正倉は、東大寺大仏殿(奈良県奈良市)の西北に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の建物として知られている。正倉は奈良時代創建の東大寺倉庫のうちの一つで、聖武天皇と光明皇后ゆかりの品々などの宝物を納める。明治以降は東大寺の手を離れて、明治8年に内務省の所管となった。農商務省を経て、明治18年7月に宮内省図書寮に移管された後、明治22年7月には宮内省所管の帝国奈良博物館(後の奈良帝室博物館)に所管替えとなった。明治25年には宮内省正倉院御物整理掛が赤坂離宮内に設置され、明治37年に廃止されるまで、修理対象の宝物を奈良から移して正倉院宝物の整理や模造に従事した。
(陵墓課)
本資料は、明治18年に奈良県の大塚陵墓参考地から出土したものである。割れてバラバラな状態であったものを、昭和52年に足りない部分を補って修理している。
当部では「直弧文」を主文様とする鏡を3面所蔵しているが、そのうちの1面である(残りの2面は、「直弧文鏡」(官53)と「素文縁(そもんえん)直弧文鏡」(官95))。「直弧文」とは、本資料を4重の同心円とみた場合の内側から2番目と最も外側の4番目の区画に見られるような、直線と曲線を組み合わせた文様のことで、日本の古墳時代によく用いられる。本資料は、大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて、日本列島で製作されたものと考えられる。
本資料の文様構成は、直弧文鏡として最も有名な「直弧文鏡」(官53)と同じである。しかし本資料では、文様の谷間を埋めるように平行線による文様があり、「直弧文鏡」(官53)や「素文縁直弧文鏡」(官95)に比べると余白がない。直径は21㎝で、「直弧文鏡」(官53)の同28㎝、「素文縁直弧文鏡」(官95)の同26㎝より小さいこともあって、賑やかな印象を受ける。
本資料は、古墳時代前期の中頃(およそ4世紀中頃)に日本独自の文様で鏡を製作し始めた頃の代表例の一つである。
(図書寮文庫)
平安時代中期の日記。記主は右大将道綱母として知られる藤原倫寧女(ふじわらのともやすのむすめ、?-995)。冒頭から4行目に『百人一首』でも有名な「なげきつゝ」の歌が記されている。
天暦9年(955)冬、新しく通う所ができて訪れが途絶えがちな夫・藤原兼家が、暁方に戸を叩いてきた。余所からの帰りだろうと、道綱母は応対せずにいた。そして翌朝、「嘆きつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る(あなたの訪れがないと嘆きながら、独りで寂しく寝る夜が明けるまでの間は、どんなに長いものか、ご存じでしょうか)」と、いつもより改まった書きぶりで色変わりした菊につけて送ったところ、兼家は「あくるまでもこゝろみむとしつれど(夜が明け、扉が開くまで様子をみようと思ったけれども)」急用の召使が来てしまったからと言い訳をして、「扉を開けてもらえないのもつらいのだよ」と歌を返している。
なお、この図書寮文庫本は江戸前期の写本で『蜻蛉日記』の最善本とされる。題簽(だいせん、表紙に貼られた題名や巻数が書かれた小紙片)は霊元天皇(1654-1732)宸筆。表紙に貼られたラベルの「東京図書館」は現在の国立国会図書館のことで、明治8年(1875)から昭和11年(1936)まで貸し出されていた。
(陵墓課)
刀剣を静かに飾る玉。本資料は、岡山県瀬戸内市から出土した古墳時代後期の三輪玉(みわだま)である。全長3.7cm、高さ2.3cmで、平らな底面に三つの山が連なる形が特徴的である。こうした形の玉は、大刀や剣の抦(つか)に付属する護拳帯(ごけんたい、手の甲を保護する部分)を装飾するために用いられ、両側のくびれに紐や糸をかけて縫い付けられた。一振りの刀剣に対して5~10個程度の三輪玉が着装され、刀剣を美しく装飾した。
三輪玉は当初その使用用途が不明であったが、大刀形埴輪(たちがたはにわ)の護拳帯に着装された表現があることから、刀装具(とうそうぐ)であることが判明した。近年では、三輪玉の着装状況がわかるような形で出土した事例も増えてきている。
本資料は「水晶製」と通称されているものの、透明度が低く白濁しており、水晶というよりも石英(せきえい)に近い。このような例は6世紀中頃から7世紀初頭頃のものに多く、本資料もその時期に属すると考えられる。美しい三輪玉を装着した刀剣は、当時の持ち主の威信を高めたであろう。
(図書寮文庫)
文保3年(1319)2月に成立した、早歌(そうか)の歌集。早歌とは、鎌倉~室町時代、おもに武士の間で流行したテンポの速い長編の歌謡。本書を含む歌集の多くは、鎌倉極楽寺の僧侶とされる明空(みょうくう、生没年未詳、正和3年(1314)以降は月江と改名)によって作られ、収録曲の多くも明空自身が作詞作曲を手がけた。現在は伝わらないが、早歌は武士の遊興のみならず、公家や寺社、将軍家の儀礼などでも歌われ、能をはじめとする他の芸能に多大な影響を及ぼした。
本書は上下2巻のうち、下巻のみが伝わる写本。後伏見天皇(1288-1336)の宸筆と鑑定した古筆了雪(1612-75)の極札(きわめふだ、鑑定書)が付されているが、書風などから、実際はもう少し後の時代のものか。巻頭に収録曲の曲名が列記され、次いで各曲の詞章が、右側にゴマ点のような節博士(ふしはかせ、節回しなどの記号)を伴って記される。現存する早歌歌集はほとんどが冊子の形状で、1頁に5行書きなのに対し、本書は巻子(かんす、巻物)装だが、料紙に等間隔の折り跡があることから、もとは折帖(おりじょう)仕立てで、6行書きだったことが判明する。外箱側面の「古筆所蔵」の貼紙により、古筆家に伝来したものと推測される。
(陵墓課)
長野県北安曇郡松川村の祖父ヶ塚古墳から出土した耳飾り2点である。「金環」には、金でできているもの、銅に金を張っているものなど、一見して金色が含まれていると判断できるものがある一方で、一見すると金色が見えないものも存在する。本資料は、2点ともに純金特有の黄色みが全くなく、緑青(ろくしょう)で覆われ、破断面観察も銀色である。ただし、蛍光X線分析により金と水銀も微量に検出されたことから、銅芯を銀で覆い、鍍金(ときん)を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性があり、作られた当時は金色の光沢を放っていたと考えられる。このように「金環」という名称は、材質と色調に基づいて判断されている。
左の耳飾りは、直径31㎜ほどの大きさで、断面の厚さは7.6~8.3㎜である。右の耳飾りは、直径20㎜ほどの大きさで、断面の厚さは5.0~7.3㎜である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、断面が正円に近い左の耳飾りは古墳時代終わり頃、断面が楕円形の右の耳飾りは飛鳥時代の遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
本書は、桂宮家に伝わった白河結城氏(しらかわゆうき、結城白河氏とも)の系図である。白河結城氏は、秀郷流藤原氏の下総結城氏の分家で、鎌倉時代に陸奥国白河荘(現在の福島県白河市)に本拠を移した一族である。南北朝時代に南朝に仕えて活躍した結城宗広・親光父子らが知られる。室町末~戦国初期には南陸奥に有数の勢力を築いたが、やがて分家の小峰氏にのっとられ、その小峰白河氏も戦国大名の伊達氏や佐竹氏のはざまで次第に衰退し、豊臣秀吉の奥州仕置で改易(かいえき)された。子孫は仙台藩士や秋田藩士として続いた。
本系図は、冒頭(掲出の画像より前の部分、リンク先画像の4コマ目)に藤原氏の祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を掲げて藤原鎌足から書き起こし、戦国前期に小峰家より白河家をのっとった義綱まで、歴代当主(画像上段の親朝・顕朝など)の官途や法名等を付記し、さらに小峰氏(画像下段の朝常以下)など分家の情報も載せる。朱線は親子を兄弟のように示すなど混乱しているものの、官途などは概ね史実に即したものを記している。書きぶりなどから戦国末期までに成立したものと思われるが、どこで作成され、なにゆえ桂宮家に伝わったのかは、目下不明とせざるを得ない。
(陵墓課)
本資料は、円い見た目から「車輪石」と呼ばれ、縞状の模様が美しい酸性凝灰岩(さんせいぎょうかいがん)とされるガラス質の割合が高い石材で製作されている。長外径は12.2cmである。古墳時代前期(おおよそ4世紀代)の古墳から出土することが多く、弥生時代に九州を中心に使われた貝製の腕輪をモチーフとしている。当時の王権所在地である近畿地方を中心に分布するが、西は熊本県、東は福島県まで広がっており、王権と地方の結びつきの強さを示す象徴的な器物と考えられている。
佐渡島(さどがしま)北側の長い海岸線の南西端にあたる、新潟県佐渡市相川鹿伏から出土したとされ、明治19年(1886)に当時の宮内省が買い上げた本資料であるが、現在、相川鹿伏の地に古墳は確認されておらず、少し離れて分布する古墳は古墳時代後期のものであり、車輪石が出土する時期とは異なる。車輪石は古墳以外の場所で儀礼をおこなう場合に使用されることもあるため、遠く大陸につながる日本海に臨む地で何らかの儀礼がおこなわれた可能性も考えられるが、詳しいことはわかっていない。日本海側における車輪石の分布域東端にあたるため、当時の王権の勢力範囲を考える上で重要な資料であり、本資料のより詳細な位置づけを明らかにするには、佐渡島でのこれからの資料の蓄積が期待される。
(陵墓課)
丁寧に磨き上げられた美しい土器。本資料は、崇神天皇陵外堤南西側から出土した古墳時代前期の土師器(はじき)である。高さ10.7cm、口径8.3cmと小型で、丸い底部と外側に大きく開く口縁部が特徴的である。こうした形の土器は「小型丸底壺(こがたまるぞこつぼ)」と呼称され、小型器台(こがたきだい)の上に載せて使用された。
底部は粘土を削り取ることで丸く整形し、外面は幅1㎜程度の細かい単位で横方向に磨くことで、平滑に仕上げられている。器壁(きへき)は薄く丁寧に仕上げられ、胎土は非常に精良で、焼成も良い。
小型丸底壺は、小型器台・有段口縁鉢(ゆうだんこうえんはち)と合わせて「小型精製土器(こがたせいせいどき)」と呼ばれており、丁寧に作り込まれていることから、儀礼に使用されたものと考えられる。こうした土器は、近畿を中心として九州から東北まで波及し、その分布は前方後円墳の全国的な広がりと重なることが指摘されている。これは広域的に共通した儀礼の成立を示唆するものであり、まさに古墳時代前期を象徴する遺物といえるだろう。
(陵墓課)
この埴輪が模している鳥の種類は何だろうか。大阪府に所在する継体天皇三嶋藍野陵外堤北側から出土した本資料は、外堤に立てるための円筒部と鳥の体部から構成されており、残存高は約54.1cmである。
本資料では、鳥が円筒部から伸びる管状の止まり木にとまっている。その脚先を見ると、平たい粘土板に3本のヘラ描き線を入れて、水かきを表現していることから、この鳥は水鳥とわかる。より詳細に鳥の種類を見分けるには、鶏冠(とさか)の有無や嘴(くちばし)の形状といった情報を必要とするが、本資料は頭部を欠損している。しかしながら、頸(くび)の背面を見るとリボン状に結ばれた紐が確認できる。頸に紐を巻いた水鳥を表現していることから、本資料が模している鳥は鵜飼いの鵜だとわかる。人物埴輪が登場して以降、人と関係のある動物として、鵜を模した埴輪が作られるようになるが、本資料もそのひとつとして重要な埴輪といえる。
なお、全国の鵜形埴輪には頸に紐を巻くとともに、魚を咥(くわ)えているものもある。本資料で失われてしまっている頭部はどのような表現がされていたのか、想像してみてはいかがだろうか。
(陵墓課)
玉は、古代を彩る至宝とも呼ばれる古墳時代の代表的なアクセサリーである。髪、耳、首、胸、手首、足首などに着装され、人々を魅了してきた。
本資料は、愛媛県妻鳥陵墓参考地の横穴式石室から出土した径1.3cmの銀平玉である。外形は円形で、表裏に平坦な面をもつ。中空であり、表裏の薄い銀板2枚が側面中央付近で接着される。上下の側面には孔が開けられ、糸を通せるようになっている。当参考地からは琥珀棗玉(こはくなつめだま)、碧玉管玉(へきぎょくくだたま)、水晶切子玉(すいしょうきりこだま)、ガラス製丸玉も出土しており、本資料とこれらを組み合わせて被葬者に着装されていたと考えられる。
希少素材をふんだんに用いて多様な形態が作り出された玉の様式は、古墳時代後期にみられる特徴である。また本資料のような貴金属製玉は、朝鮮半島南部から伝わった渡来系玉類と呼ばれる。本資料は最新技術を用いて日本列島で製作されたものと考えられ、国際色豊かな古墳時代後期を特徴づける器物であるといえる。
(陵墓課)
愛知県豊田市の根川古墳(根川1号墳)から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から「金環」としているが、金環には、銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、様々な材質のものがあり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に、蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。その輝きは純金製品とほとんど変わらないものであっただろう。
この耳飾りは、直径22㎜ほどの大きさで、断面の厚さは4.7から6.5㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形も楕円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本資料も飛鳥時代の遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
京都市山科区にある勧修寺(かじゅうじ)は、風雅な庭園で知られる古寺である。その南西の山裾に、藤原定方(さだかた、873-932)の墓とされる石碑が建つ。定方は平安時代の貴族で、勧修寺の創建者と伝えられる人物。石碑は、江戸時代の半ばに、彼の子孫である勧修寺流藤原氏の公家たちが、定方を顕彰するために共同で建てたものである。碑文の作者は高名な儒学者である伊藤東涯(とうがい)。字形はその弟、伊藤蘭嵎(らんぐう)の筆跡に基づく。
本資料は、勧修寺流藤原氏の一派である葉室(はむろ)家に伝来した、当該碑文の模刻本(もこくぼん)である。模刻本とは、石碑等の銘文の字形をそっくり写し取った版を作り、その版を用いて作った印刷物や拓本のこと。まるで石碑の拓本のように見えるが、実は石碑に直接紙を当てて取った拓本ではない。しかも文字の配列も模刻本の判型に収まるように改変されているので、この資料を見ても元となった石碑の姿はイメージしがたい。ただし、石碑の表面は剥落が進みつつあるので、欠失箇所の字形を復元する上では、参考となる資料といえる。
(図書寮文庫)
公家の日記は自身で書くのが普通であるが、より詳しい記述ができる人物が周囲にいる場合、他人に自分の日記を書かせたり、他人の日記を引用したりということもあった。
江戸時代前期の公家、九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の日記『道房公記』においても、他人の日記の引用がある。そのなかでも、掲出箇所は、寛永19年(1642)6月18日条で、押小路師定(おしのこうじもろさだ、1620-76)の自筆日記が合綴(がってつ)されており、いささか特殊である。掲出画像の右半丁は道房の筆、左半丁が師定筆である。左右で紙の色と大きさが異なり、文字はたとえば「御」字(右では2行目「御飯」、左では2行目中ほど「内侍所御辛櫃」)を見比べると別筆であることが分かりやすい。また、師定が自身を指した「予」との一人称が残っている。
内容は、明正天皇(1623-96、御在位1629-43)の新造内裏への遷幸(せんこう)に伴う神鏡渡御(しんきょうとぎょ)の儀式に関するもので、師定はこの儀式に参仕しており、道房は他の公家とともにこれを見物している。当該部分も、『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に活字化されている。
(図書寮文庫)
九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の自筆日記のうち、掲出箇所は寛永20年(1643)3月21日条で、九条家で欠けている延喜式の巻3・巻5を書写するために、日野弘資(ひのひろすけ、1617-87)から同書を借用した記事である。
延喜式は古代の法典である律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。九条家には遅くとも鎌倉初期の書写とみられる延喜式が伝えられているが(東京国立博物館所蔵)、こちらも巻3・巻5を欠いているので、この記事に見える欠巻と一致する。一方、日野家の本については、当部所蔵の勢多家旧蔵本(172・123)の山田以文(やまだもちふみ、1762-1835)の本奥書等からその存在が知られる。
九条家に伝来した延喜式のうち巻13は、尾張徳川家で書写され、それに基づき50巻揃いとなった板本(はんぽん、印刷本のこと)が刊行され一般に流布した。道房公記では、徳川義直(とくがわよしなお、1601-50)より続日本紀(しょくにほんぎ)等を借りた記事が見え、両者の間に交流があったことがうかがえるが、延喜式の貸借に関するような記事は見えない。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に全文が活字化されている。