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我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(図書寮文庫)
大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土した34面の鏡のうちの1面である。直径27.2㎝。
名称の「鼉龍」とは,ワニをモデルとするといわれる中国の伝説上の怪物であるが,実は,この鏡の文様は鼉龍ではない。神仙(しんせん)像と神獣(しんじゅう)像を四体ずつ配置する,「四神四獣鏡(ししんしじゅうきょう)」をモデルとしているが,神仙像の頭部には,下方の着物を着たような胴体と,右斜め上方向から弧を描く蛇体のような胴体の,二つの胴体がある。棒のようなものをくわえた神獣像の方は,長く伸ばした首の先の胴体に脚がない。この鏡の文様をデザインした工人は,神仙・神獣の図像をよく理解していなかったため,このような,蛇体の怪物がうねっているような文様になってしまったのである。こうした文様の鏡を,慣例的に「鼉龍鏡」と呼んでいるが,別名の「変形神獣鏡」の方が実態に即している。
本例では,神仙像・神獣像のほかにも,本来は銘文があるべきところにないなど,モデルである中国製の鏡から逸脱している点が見られ,我が国の工人の手によるものだと考えられる。一方,文様そのものは精緻(せいち)に鋳出されており,工人の技術のレベルは低いものではなかったことがうかがえる。
古墳時代になって我が国において本格的な鏡作りが始められたころの状況を知ることのできる,貴重な資料である。
(図書寮文庫)
「宿曜勘文」(すくよう/しゅくよう かんもん)とは,占いや呪いを行う宿曜師(すくようじ/しゅくようじ)と呼ばれた僧侶が,個人の運命や吉凶を占った文書のこと。承元2年(1208)11月付けの本文書は,翌3年に40歳になるある人物について占ったもので,前後の文書との関係や年齢などから公家飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に宛てたものと推測される。本文には「妻子や眷属に不快なことが起こる」「春・夏ごろ,潔白でも他人の誹謗に遭う」「秋・冬ごろは裕福になり名声も得る」「正・4・7・8・10・11月は厄月」などと書かれているが,実際にその年の雅経の運命がどうだったのかは記録がなく定かではない。
九条家本『賭弓部類記』巻1-2の紙背に残された一通であり,残存例が決して多くない宿曜勘文のひとつとして,貴重なものである。『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(図書寮文庫)
この無垢浄光経相輪陀羅尼は,百万塔陀羅尼といわれるものの一つで,神護景雲4年(770)に我が国で初めて印刷されたものである。年代の判明している印刷物としては,世界最古。天平宝字8年(764)に起こった恵美押勝の乱後,第48代称徳天皇(718-70,御在位764-70)の発願により,延命・除災を願う経文「無垢浄光経陀羅尼」を100万枚印刷させ,それぞれを百万基の小塔に納め,法隆寺を始めとする10か寺に10万基ずつ安置されたものである。陀羅尼は,根本・相輪・六度・自心印の4種類あり,主として麻紙(麻の繊維を原料とした和紙)に印刷されたが,その版は銅版説と木版説とがあり,どちらであるかはいまだ定説をみない。ちなみに,版木(銅版も含む)によって印刷される方法を整版という。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に著わされた大毘廬遮那成仏経巻20の注釈書を,鎌倉幕府の要職にあった安達泰盛(あだちやすもり,1231-85)が願主となり高野山で開版(版木を作成し印刷・出版すること)・刊行されたものである。ちなみに大毘廬遮那成仏経は,大日如来の功徳を説いた経典で,真言宗の基本経典の一つ。経疏とは注釈書の意である。
高野山では経典や注釈書などが開版され,地元産の厚手の和紙に印刷された。これらを高野版と称している。出版方法は,版木に文字を彫る整版法である。泰盛は,高野山に深く帰依しており,そのため開版の願主となったのであろう。本書には,泰盛開版を示す弘安2年(1279)の刊記(出版の趣旨を記した文章)がある。泰盛はのち霜月騒動(弘安8年)で一族とともに滅亡した。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉末期に禅僧虎関師錬(こかんしれん,1278-1346)によって,我が国への仏教伝来から700年間の歴史や高僧400余人の伝記などを著述した仏教書で,永和3年(1377)頃に東福寺で開版・刊行されたものである。書名の由来は,元亨2年(1322)に朝廷に献上された仏教書(釈書)であるところからの命名という。鎌倉末期以降,京都・鎌倉などの禅宗寺院(五山)では,経典や高僧の語録などが開版されたが,これらは五山版と称される。本書も整版法による出版である。捺されている蔵書印から安土・桃山時代の妙心寺の禅僧功澤宗勲の旧蔵書であったことがわかる。
(陵墓課)
本資料は,中国からもたらされた鏡で,バラバラに割れていたが,足りない部分を補って修復している(直径17.9センチ。)。中心部にある紐かけ=鈕(ちゅう)のまわりに,侍者を従えた2つの神像と,向かい合う2頭の獣像2対の図像が配置された,「二神四獣鏡」である。2神は,「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」,向かい合う獣像は,龍と虎であろう。図像の外側には銘文(めいぶん)が巡らされており,現状で10字を確認できる。うち2字は部分的にしか残っていないが,ほかの鏡の例を参照することで,「竟 幽 湅 三 [商]」,「配 象 [萬] 彊 曽」と判読できる。その意味は,「この鏡(を作る際には),三種の金属をよく混ぜ合わせた。」,「・・・多くの図像を配置した。(寿命が)のび・・・」というものである。
鏡の縁の断面の形が左右対称の三角形状となる鏡を「三角縁」と呼ぶことは広く知られている。それに対し,この鏡は,鏡縁の外側斜面に比して内側斜面の角度が緩く,断面形が左右対称の三角形状とはならない。こうしたものを「半三角縁」,あるいは「斜縁」と呼称している。
(陵墓課)
この鏡は本参考地出土のなかでは最も残りがよいものであるが,現状では縁の一部が欠けており,その部分を補って修復している(直径13.3センチ)。主文様は,鈕(ちゅう)を取り囲むように配置された2体の獣像である。これらは胴部の表現が異なっており,鱗状の表現が認められるものが龍,もう1体が虎と考えられる。本来の龍虎の表現とは少し異なっているが,まだ見分けが付く段階のものである。龍と虎の外側には,直線を組合わせた記号のような文様が巡るが,ここは本来銘文(めいぶん)が巡る場所である。しかし,文字が認識できなかったため,記号のようなものになってしまっている。以上のことから,中国鏡を真似て日本列島で製作された鏡であると考えられる。
なお,発掘直後の報告では鈕の中に紐が残っていたとされるが,現状では何の痕跡もみられない。
(図書寮文庫)
本図に描かれた柿本人麻呂(人麿,生没年未詳)は持統・文武朝(690-707)に活躍した万葉集の主要歌人。古今和歌集仮名序で「歌の聖」と讃えられ,平安時代末期には歌道上達を願う人々の信仰の対象となった。粟田兼房(あわたのかねふさ)という人の夢に人麻呂が現れたので,その姿(直衣・指貫・烏帽子姿,右手に筆,左手に紙を持つ)を絵にして拝礼したところ歌が上手くなったという故事(人麿影供)による。影供に用いられる人麿像は,下図のようなものが典型例だが,ここでは葦手(平安末期頃から用いられた遊戯的な絵文字)書きの「柿本人丸」で姿を作っている。この葦手書きの人麿像も人々に好まれた。なお,人麻呂は平安時代中期から「人丸(ひとまる)」とも呼ばれていた。
本作品は第107代後陽成天皇(1571-1617)宸筆と伝えられる,伏見宮旧蔵のものである。好学の天皇のユーモラスな一面が見て取れる。
(図書寮文庫)
本図は「天神さま」として親しまれる菅原道真(845-903)の肖像画。左遷された道真が大宰府で失意の内に没した後,異変や災害が頻発したため,朝廷はこれを道真の怨霊の仕業と考え,名誉回復を図ることで鎮魂につとめた。永延元年(987)8月5日一条天皇は道真に「天満天神」の号を贈った。学問の神として広く信仰されたのは江戸時代以降,寺子屋の守り神として崇敬されたためと言われている。
その道真の肖像画には公家の装束である束帯姿のものと,中国風の法衣をまとったものがある。道真が神通力で唐に渡り,中国の高名な禅僧無準師範(ぶしゅんしはん)の弟子になったという「渡唐天神」伝説が室町時代に広まり,盛んに中国風の衣装の渡唐天神図が作られた。梅の枝を持つのは,道真が大宰府に流される時に詠んだ「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」による。本作品は室町期に描かれ,五摂家のひとつ九条家に所蔵されていたもの。
(陵墓課)
古墳時代前期の日本列島内で鋳造(ちゅうぞう)された青銅鏡(せいどうきょう)である。鏡背面(きょうはいめん)にみられる文様は,同じ佐味田宝塚古墳から出土している中国製の神人車馬画像鏡(東京国立博物館蔵)を手本にしながら模倣したものと考えられる。
原鏡(げんきょう)とその模倣鏡(もほうきょう)が同一古墳に副葬(ふくそう)されていたことになるため,国内における鏡の生産と授受の過程を考えるうえで非常に重要な資料といえる。同様に神人車馬画像鏡を模倣したと考えられる類似鏡は岡山県正崎2号墳などでも確認されている。
佐味田宝塚古墳は墳長約111mの前方後円墳で,明治14(1881)年に家屋文鏡(かおくもんきょう)(当部所蔵)など多数の鏡を含む副葬品が出土したことで著名な古墳である。
(図書寮文庫)
本書は,光格天皇(第119代,1771-1840)24歳の宸筆で,実父閑院宮典仁親王(すけひと)薨去百箇日に際して書写された阿弥陀名号である。上下二段,五百行にわたって千遍の名号が書かれている。奥書には「神武百二十世兼仁合掌三礼」とあり,現在の代数(第119代)と異なるが,それは北朝を歴代とする『本朝皇胤紹運録』の数え方によるため。謹厳な書きぶりは,父の菩提を弔うという特別な意識が働いていたためと推測される。閑院宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,中国南宋の陳実(ちんじつ,12世紀頃の人)が,仏教経典の集大成である大蔵経から,事項を抜粋・分類した索引・内容一覧的な仏教書である。
徳川家康が慶長20年(1615)に隠居所駿府(静岡)で出版を命じた「駿河版」(するがばん)と呼ばれる金属活字で印刷した図書のひとつ。家康を深く尊崇する徳川吉宗は,幕府の図書館である紅葉山文庫に,家康の出版物が欠けていたため,元文5年(1740),当時和歌山藩に伝来していたこの大蔵一覧集を取り寄せ紅葉山文庫に収蔵したのである。
(図書寮文庫)
戦国時代の前関白九条政基(くじょうまさもと,1445-1516)の自筆日記。所領であった和泉国日根荘(ひねのしょう,現・大阪府泉佐野市)に下り,自ら支配を行なった際(1501-04)に記したとされる。旅引付とは旅行中の記録のことで,公家の日記には珍しく,村落生活や周辺勢力の動向を記すなど,戦国時代の村の様相を知ることができる。画像は文亀元年(1501)年7月20日条で,日根荘内の瀧宮(火走神社)の社頭で行なわれた雨乞いの様子を記した記事である。
(図書寮文庫)
本書は,和銅元年(708)に但馬国朝来郡(現在の兵庫県朝来市)の粟鹿(あわが)神社の祭主神部直(かんべのあたい)氏が朝廷に上申したとされる祭神粟鹿大明神の系図である。素戔嗚尊に始まり,大国主命を経て上申者の神部直根〓《門+牛》まで,29代の系譜が記されている。鎌倉時代の写しだが,紙を縦にし,特殊な記号や表現を用いて書き連ねる竪系図(たてけいず)と呼ばれる原初的な形態を伝える貴重なものである。