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本資料は、環(かん)の中央に二匹の龍が向かい合って玉をくわえた表現が特徴的な環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことで、本資料は銅に金メッキされた金銅製品であり、彫金で細部の文様がほどこされている。龍の眼や玉は立体的に造形され、環には二匹の龍の胴体が表現されている。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。掲出した画像の縦方向の長さは8.4cmである。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種であり、6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。双龍環頭大刀は蘇我氏(そがし)によって生産され、各地に戦略的に配付されていたという説もあり、政治性の高い器物といえる。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(図書寮文庫)
本資料は、日露戦争の際に旅順要塞の攻略戦を第 3 軍司令官として指揮した乃木希典(のぎまれすけ、1849-1912)による同時期の自筆日記である。内容は明治 37 年(1904)11 月1日から翌年 1 月 12 日までの時期で、203 高地の攻撃、次男の戦死、水師営におけるステッセル将軍との会見の記事が含まれる。
掲出箇所は 37 年 11 月 3 日条で、戦地でも天長節(てんちょうせつ、ここでは明治天皇の誕生日)の祝宴が催されたと記述がある。また「外国武官」とあるように、戦地には諸外国の観戦武官も滞在しており、翌日条からは彼らにもシャンパンが贈られたことが分かる。この他、本資料には乃木と面会した人物として従軍記者、日本人の僧侶、視察に訪れた議員なども登場し、戦地近傍を多様な人びとが往来していた様子が浮かび上がってくる。加えて、病院への砲撃状況につきロシア側から軍使が派遣された際の法律顧問有賀長雄(ありがながお、1860-1921)を交えた答案協議など、直接的な戦闘に限らない戦地の様相を窺い知ることもできる。
なお、本資料を含む全 26 冊の日記及び記録は、昭和 9 年(1934)に甥の玉木正之ほかより図書寮に献納されたものである。
(陵墓課)
千葉県木更津市に所在していた祇園大塚山古墳から出土した青銅製の鏡である。祇園大塚山古墳は墳長110~115mの前方後円墳で、古墳時代中期の関東地方を代表する古墳の一つであるが、その墳丘はすでに完全に削平されており、現存しない。ここで紹介する四仏四獣鏡のほか、動物文が彫刻された金銅製眉庇付冑(こんどうせいまびさしつきかぶと、東京国立博物館所蔵)などが出土したことでも著名である。
本資料は、中国における南北朝時代の南朝最初の王朝である宋で製作された踏返鏡(ふみかえしきょう:同型鏡(どうけいきょう)ともいう)の一種である。直径は30.4cm、重さは2,748gで、非常に大型の鏡である。長野県御猿堂(おさるどう)古墳出土鏡など数面が知られている画文帯環状乳仏獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうぶつじゅうきょう)の同型鏡を文様の笵(はん)として利用しつつ、素文(そもん)で幅広の外周と断面形状が台形となる縁(ふち)をつけくわえるとともに、鈕(ちゅう:中央のつまみのような突起)をひとまわり大きくする改変がほどこされている。
内区(ないく:内側の文様区画のことで鈕のまわりに位置する)には四つの乳(にゅう:小さな突起)にからむように龍虎を配し、そのあいだには如来(にょらい)の坐像や菩薩(ぼさつ)の立像といった仏像表現がみられる。内区の外側には半円方形帯(はんえんほうけいたい)がめぐり、半円内には花文、方形内には銘が配されているが、鋳造の仕上がりが悪く銘文の判読は困難である。
なお、我が国に仏教が伝わったのは6世紀中頃のことであるが、本資料は5世紀後半頃に日本列島へもたらされており、古墳時代にもたらされた仏像表現として三角縁仏獣鏡(さんかくぶちぶつじゅうきょう)とともに注目される。
(陵墓課)
我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(図書寮文庫)
『白氏文集』(はくしぶんしゅう)は,中国唐代中期の詩人・白居易(はく・きょい,772-846,字は楽天)の詩文集。はじめ親友の元稹(げん・じん,779-831)により編まれ,その後居易自身が生涯にわたって加筆したもの。『文集』は早くも居易の生前よりもてはやされ,日本にも存命中に渡来した。日本の漢文学はもちろん,『源氏物語』など国文学へも強く影響したことが知られる。
さて,本資料は,九条家旧蔵の残巻類の包みより出現した,鎌倉初期の書写と思われる『文集』巻16の残簡1葉。大ぶりの料紙に墨で界線(枠)を引き,毎行15字で書かれ,欠損はあるが24行残存している。内容は巻頭の「東南行(東南のうた)」という詩の一部である。居易が左遷された都・長安より東南の江州の景や,長安での思い出を詠んだ作品。文中の小字は居易自身による注釈(自注)を写したもの。本資料はたった1枚にすぎないが,唐代に写本で流布した『文集』の本文が我が国において保存された,いわゆる「旧鈔本」(ふるい手書き本)のひとつの姿を伝える点に意義がある。
なお,『管見記』(F11・1)巻102の紙背にも,鎌倉時代の書写で,同じく『文集』巻16の別の部分(巻末)が遺る。
(陵墓課)
本資料は,明治45年に現在の岡山市北区新庄下の榊山古墳(さかきやまこふん)から出土したと伝わる金銅製の金具であり,馬具の一種と考えられている。直径が約5センチで半球形を呈し,溶かした銅を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造(ちゅうぞう)」で成形されている。側面には左を向いた2頭の龍の透かしがみられ,彫金(ちょうきん)技術によって龍の眼、口、脚などが立体的に表現されている。当時の日本列島における金工技術の水準を超えたものであり,海外からもたらされた可能性が高い。形態,文様,製作技術に共通点が認められる金具が,中国東北部の遼寧省(りょうねいしょう)に位置する「前燕(ぜんえん)」(337-370年,五胡十六国時代の国の一つ)の墳墓で出土していることから,本品も当地域で製作されたものであろう。
日本列島内で本品のような金具は他に出土しておらず,周辺では韓国南東部に位置する4世紀代の墳墓からの出土が確認されている。本品は中国東北部から朝鮮半島南部を介して日本列島に伝わったと考えられ,当時の東北アジアにおける交流の実態を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(図書寮文庫)
八条宮智仁親王(としひとしんのう,1579-1629)が長岡藤孝(細川幽斎,1534-1610)から相伝された『古今伝受資料』のうちの1点。包紙に智仁親王御筆で「幽斎より相伝之墨」とある。
墨には「〈祁邑葉璲精造〉金壺清」「〈東岩主人督製〉金壺清」との銘があるが,「祁邑(きゆう)」は中国山西省の祁県(きけん)の古称で,「葉璲(しょう・すい)」「東岩主人(とうがんしゅじん)」は職人の名・号と考えられる。
附属の幽斎自筆の書付によれば,九州平定のため羽柴秀吉に従って長門国(山口県)まで下向した幽斎が,宿泊した同地の妙栄寺の住職から,大内義隆の旧蔵品の「からすミ(唐墨)」として贈られたものという。幽斎の『九州道の記』には,天正15年(1587)5月11日,妙栄寺に到る前に義隆終焉の地である大寧寺に立ち寄ったことが記されており,贈られたことはそれと関係があるかもしれない。
大内義隆は日明貿易に積極的に関与し,天文年間に2度貿易船を明に派遣している。当時遣明使節の幹部だった禅僧策彦周良(さくげん・しゅうりょう)の記録『初渡集』『再渡集』に,中国で墨を購入したり,中国人から贈られたりしたことが確認されるので,そのようにして入手したうちの1点である可能性はあろう。いずれにせよ,明代に我が国へもたらされた墨は残存例が少ないので,極めて貴重である。
(図書寮文庫)
『帝鑑図説』は,中国明代の宰相張居正(ちょうきょせい,1525-82)が,幼くして皇帝に即位した万暦帝(ばんれきてい,在位1572-1620)の帝王学の教科書として,古代から宋代までの君主の事蹟を絵入りでまとめた本。前半で名君の善政,後半で暴君の悪政を扱う。掲出部分は漢の高祖が3人の名臣,張良・蕭何・韓信を上手に用いたことで天下を統一できたことを記している。
皇帝の教育係でもあった張居正は,万暦帝を理想の帝王にすべく厳しく育てたが,かえって堕落し,奢侈と政治への無関心から,明を滅ぼす端緒を開いたことは皮肉である。
さて本書は,特大(50.2cm×41.3cm)の折帖で,図などの特徴から,万暦帝への奉呈本に非常に近く,張居正周辺で作られた模本をもとに万暦年間(1573-1620)刊行された可能性が指摘されている。
明治時代に旧幕府から宮内省が引き継いだもので,寛文11年(1671)紅葉山文庫に収められた『御覧帝鑑図(ぎょらんていかんず)』が本書に相当する。本書よりひと回り大きい,今は失われた徳川家康旧蔵の『帝鑑図説』の箱に収められている。
(陵墓課)
古墳時代前期の日本列島内で鋳造(ちゅうぞう)された青銅鏡(せいどうきょう)である。鏡背面(きょうはいめん)にみられる文様は,同じ佐味田宝塚古墳から出土している中国製の神人車馬画像鏡(東京国立博物館蔵)を手本にしながら模倣したものと考えられる。
原鏡(げんきょう)とその模倣鏡(もほうきょう)が同一古墳に副葬(ふくそう)されていたことになるため,国内における鏡の生産と授受の過程を考えるうえで非常に重要な資料といえる。同様に神人車馬画像鏡を模倣したと考えられる類似鏡は岡山県正崎2号墳などでも確認されている。
佐味田宝塚古墳は墳長約111mの前方後円墳で,明治14(1881)年に家屋文鏡(かおくもんきょう)(当部所蔵)など多数の鏡を含む副葬品が出土したことで著名な古墳である。
(陵墓課)
帯鉤とは,ベルトのバックルに相当する部品である。馬形の帯鉤は朝鮮半島で多数見つかっており,本資料も,朝鮮半島で造られたものが持ち込まれ,副葬されたものと考えられる。
馬形帯鉤のモチーフは,中国北方の騎馬遊牧民(きばゆうぼくみん)にみられるもので,騎馬文化とともに朝鮮半島にもたらされたものと考えられている。
日本での確実な出土例はほとんどなく,本資料以外には,長野県長野市の浅川端遺跡(あさかわばたいせき)出土品があるだけである。
本資料は明治45年に榊山古墳から出土したとされるが,同時期に近接する千足古墳(せんぞくこふん)からも遺物が出土し,両方の出土品がまとめて取り扱われてしまったため,厳密にはどちらの古墳から出土したものなのかを確定することはできない。
当時の国際交流を考える上で重要な資料である。
(図書寮文庫)
本草学とは,薬用になる動植鉱物について研究する薬物学の一つ。中国では後漢時代より数多くの本草書が編まれ,奈良時代に遣唐使によってもたらされて以来,日本にも広められた。
本書は,北宋時代の医者宼宗奭(こうそうせき)によって著され,南宋~元の時代(13-14世紀頃)に版木で印刷されて出版されたもの。巻末には,「金沢文庫」印が捺され,かつて鎌倉幕府執権北条氏の一族金沢氏が創設した,金沢文庫旧蔵の書物であったことがわかる。
内容は,玉石部・草部・獣部・穀部など10部から成り,1057種におよぶ薬種について,形態や産地,効能などが記される。画像は,虫魚部のうちの一つ「露蜂房」(ろほうぼう)。いわゆるハチの巣で,現在でも漢方薬の一種として珍重される。
(図書寮文庫)
本書は,中国南宋の陳実(ちんじつ,12世紀頃の人)が,仏教経典の集大成である大蔵経から,事項を抜粋・分類した索引・内容一覧的な仏教書である。
徳川家康が慶長20年(1615)に隠居所駿府(静岡)で出版を命じた「駿河版」(するがばん)と呼ばれる金属活字で印刷した図書のひとつ。家康を深く尊崇する徳川吉宗は,幕府の図書館である紅葉山文庫に,家康の出版物が欠けていたため,元文5年(1740),当時和歌山藩に伝来していたこの大蔵一覧集を取り寄せ紅葉山文庫に収蔵したのである。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代の律(刑法)の注釈書である故唐律義疏の序文。徳川吉宗は,中国の律令を知るために学者荻生観(おぎゅうかん,荻生徂徠の弟)に故唐律疏義の本文を校訂させ,さらに当時長崎に来ていた中国人沈炳(しんへい)も校訂を依頼した。沈は校訂した本文に刑部尚書(けいぶしょうしょ,清の法務大臣)励廷義自筆の序文を副えて献上したのである。本書はその自筆本。
(図書寮文庫)
本書は,中国清王朝第4代皇帝聖祖(康熙帝)が,康熙28年(1689)琉球国中山王尚貞の朝貢(臣下としての礼をとること)に対する答礼の書の写。前半が漢文(右端より始まる),後半が満洲文字(左端より始まる)で書かれ,下賜品の目録なども載る。本書は細部まで丁寧に模写されており,江戸中期に琉球国から幕府に提出されたものという。正徳6年(1716)6月10日に吉宗が本書を閲覧した記録が残る。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に太宗(598-649)の命により魏徴(ぎちょう,580-643)が編纂した政治の要諦の書。唐・貞観6年(631)に成立し,全50巻。当時存在していた様々な図書より政治の参考とすべき事項を抜粋して編纂された。しかし本書は中国では既に宋の時代(日本の平安時代頃)には失われてしまっていたという。この本は,鎌倉幕府の執権であった北条氏一族金沢(かねさわ)氏の図書館であった金沢文庫に所蔵されていた鎌倉時代(13世紀)の写本。全50巻のうち3巻が欠けてはいるが,この本によって中国本土にも伝わらなかった『群書治要』の内容を知ることができる貴重なもの。