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(選択を解除)(宮内公文書館)
大正12年(1923)に発生した関東大震災により、陵墓の管理を担う諸陵寮の資料は、その多くを焼失することになった。諸陵寮の沿革などに関係する文書が編綴(へんてつ)されていた陵墓録や考証録なども震災により焼失した。そこで作成されたのが諸陵寮誌である。
もともと諸陵寮の沿革については、諸陵属の渡楫雄により文久2年(1862)から明治37年(1904)までの資料が収集されていた。大正5年に渡の事業を引き継いだ烟田真幹が、収集資料をもとに寮誌の編纂を始めたが、大正10年に病死してしまう。この時、文久2年から明治30年までは成稿し、明治31年から明治40年までは草稿が出来ていたという。しかし、これらの資料は関東大震災によりすべて焼失してしまった。増田于信(ゆきのぶ)らを中心として、震災資料の復旧事業が開始されると、寮誌もその対象となり、烟田の遺族に寮誌に関係する資料の提供を求めたが、発見できなかった。前諸陵頭の山口鋭之助にも情報提供を求めたところ、山口の家から、成稿となっていた寮誌が発見された。この寮誌をもとに作成されたのが諸陵寮誌である。
(図書寮文庫)
『本朝文粋』は、11世紀半ば頃、藤原明衡(ふじわらのあきひら)によって編纂されたといわれる、さまざまなジャンルの漢詩文を集めた、全14巻からなるアンソロジーである。本資料はそのうち巻6だけのいわゆる零本(れいほん、揃いではない状態の本)となる。前欠ではあるが、書写年代は平安時代末期から鎌倉時代前期頃と推定され、現存する写本中では最古級といえる。
巻6は除目申文を中心に収載する。除目申文とは、官職を任命する政務である除目に先立ち、希望する官職への任官を申請した文書である。申請が認められるか否かで、任官希望者の昇進は左右される。それゆえ自分の申文が目を惹くように、文章を長大な美文で彩る、あるいは文人に代作してもらうといった工夫がしばしば行われた。
掲出画像は、文室如正が長和元年(1012)の除目に際して作成した申文である。彼は藤原道長(みちなが、966-1028)の侍読(じどく、学問教授の師)と伝えられる高名な文人であった。申文では、名誉ある官職である式部大輔に任官してほしいと、自身の功績を顕示して訴えている。しかし実際には、除目では別の人物が任官し、以後も彼の希望が叶うことはなかった。
(図書寮文庫)
本資料は、「賢人右府」(けんじんうふ)と称された藤原実資(ふじわらのさねすけ、957-1046)の日記である。掲出箇所は長和5年(1016)正月29日に、三条天皇(976-1017)から敦成親王(あつひら、後一条天皇、1008-36)への譲位に当たり、皇位の象徴である剣璽(けんじ)が親王のもとに移される場面である。
当時、藤原道長(みちなが、966-1028)は、娘藤原彰子(しょうし、988-1074)所生の敦成親王を即位させようと、三条天皇に度重なる圧力をかけていた。天皇は持病の眼病の悪化もあり、ついにこの日位を退かれた。この時、天皇の御在所である枇杷院(びわいん)から、幼少の敦成親王が住む道長邸の土御門殿(つちみかどどの)へ、どのように剣璽を移動させるかが議論となった。その結果、公卿たちが行幸の如く行列を組み、京内を移動して剣璽が土御門殿にもたらされることとなった。
掲出箇所には、土御門殿到着後、左大臣の道長らが剣璽のそばに付き従い、母后(彰子)のいる寝殿の前を通過したことが記されている。絶頂期を迎えつつあった道長政権を象徴する一幕といえよう。
なお、本資料は、平安時代から鎌倉時代頃に書写された九条家旧蔵本で、掲出箇所を含む長和5年正月の部分については、現存する唯一の古写本である。
(図書寮文庫)
本資料は、朝廷の政治事務を司る官職である「外記・史」(げき・し)の「分配」(ぶんぱい)に関する記録である。「分配」とは、朝廷の儀式や行事の役割分担、配置をあらかじめ定めておくことをいう。史を統括する壬生家に伝わったもので、天文4年(1535)~寛永8年(1631)の分について、儀式・行事ごとに開催年月日、分配の対象者、下行(げぎょう、経費・給与の支給)等が記されている。これらから、戦国~江戸時代の朝廷儀礼、外記・史の人々の様相をうかがい知ることができる。
画像中央に「天正十四年 関白秀吉様/太政大臣 宣下」と見えるのは、天正14年(1586)、羽柴(豊臣)秀吉が太政大臣に任じられた際のもので、この時は外記・史を兼任する中原「康政」が宣下の儀式に参仕したことがわかる。また、「三貫」(約30~60万円)の下行のあったことが注記されている。
また、その右側にある「着陣」とは、廷臣が叙位・任官した後、初執務を行う儀礼で、名前の見える羽柴「美濃守」秀長、羽柴「孫七郎」秀次、徳川「家康」、「伊勢御本所」こと織田信雄は、この天正14年に官位が昇進している。
(図書寮文庫)
明治の初めまで、天皇・上皇の御所への公家衆の出仕・宿直は、当番制で編成されていた。これが「小番」(こばん)と呼ばれる制度である。
小番に編成されたのは、昇殿を許された家々(堂上(とうしょう))の出身者であり、小番への参仕は彼らの基本的な職務でもあった。その始まりには諸説あるが、基本の形式は、後小松天皇(1377-1433)を後見した足利義満(1358-1408)によって整備されたとされる。
本資料は、禁裏小番(天皇の御所の小番)に編成された公家衆の名前が番ごとに記されたもので、「番文」(ばんもん)や「番帳」(ばんちょう)ともいう。その内容から、正長元年(1428)8月頃、後花園天皇(1419-70)の践祚直後のものと推定される。
番文を読み解くと、当時は7番制(7班交代制)であり、31家32名の公家衆が編成されていたことが分かる。この時期の小番の状況は、当時の公家衆の日記からも部分的に窺えるが、その編成の詳細は、本資料によって初めて明らかになる事柄である。また番文としても、現在確認できる中では最も古い時期のものであり、当時の公家社会やそれを取り巻く政治状況、小番の制度等を知る上で重要な資料といえる。