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大正15年(1926)12月25日、大正天皇の崩御(ほうぎょ)後、直ちに皇太子裕仁親王が践祚(せんそ)し、即日昭和と改元された。2年後の昭和3年(1928)11月、皇位を継承したことを国の内外に示すため、京都で即位礼とそれに伴う一連の行事が催された。即位礼は同年11月10日に京都御所紫宸殿(ししんでん)で行われ、国内外から2,236人が参列した。即位礼の当日は正午までに布設を終え、快晴の秋空で儀式本番の午後を迎えたという。
本写真は、昭和3年11月10日の即位礼会場となった京都御所紫宸殿の全景である。承明門(じょうめいもん)下より紫宸殿を撮影したもので、前庭にあたる南庭(だんてい)に調度品が並ぶ様子が見える。即位礼の当日は、紫宸殿庭上に大錦旛(だいきんばん)と呼ばれる旗が立てられて儀式が行われた。そのうち、「萬歳旛」は赤地雲形文錦に、神武天皇の故事に由来する5匹の鮎と酒壺が描かれ、「萬歳」の文字を表面に記した旗である。文字は閑院宮載仁(ことひと)親王の染筆とされる。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)11月6日、昭和天皇は京都御所で行われる即位礼と一連の儀式に臨むため、宮城(きゅうじょう)を出発された。本写真は東京駅前の鹵簿(ろぼ)に用いられた儀装馬車である。
鹵簿とは天皇の行列のことをいう。昭和大礼の儀式では、大正15年(1926)制定の皇室儀制令に定められた公式鹵簿に準拠された。天皇皇后の御服装や御馬車、供奉員の服装、馬車数などが細かく決められている。京都行幸での宮城から東京駅までの鹵簿は、天皇の特別御料儀装車、皇后の御料儀装車、供奉馬車17輌から編成された。宮城を出た鹵簿は約594メートルに及び、沿道で奉迎した人たちは約6万人に達したという。
なお、背景に写る東京駅は大正3年12月20日、中央停車場として開業した。建築家辰野金吾の設計による、3階建ての鉄骨レンガ造りである。駅舎の正面中央には「帝室用御出入口」や「便殿(びんでん)」と呼ばれる待合室などが設けられるなど、皇室専用の仕様を備えていた。大正大礼の際には、開業して間もない東京駅から京都駅へ向かう御料車が発着した。
(宮内公文書館)
大嘗祭(だいじょうさい)とは、大礼を構成する儀式の一つで、天皇が即位後に初めて執り行う新嘗祭(にいなめさい)のことを指す。登極令では、大嘗祭の斎田(さいでん)を、京都以東・以南の悠紀(ゆき)の地方と、以西・以北の主基(すき)の地方から勅諚によって定めることが規定されている。
昭和大礼の斎田は、昭和3年(1928)2月5日の斎田点定の儀によって定められ、悠紀地方には滋賀県、主基地方には福岡県が選ばれた。斎田で収穫された精米・玄米は、同年10月17日までに京都の内匠寮出張所へ納入することとされた。滋賀・福岡両県では斎田となる田地の選定が進められ、滋賀県野洲郡三上村大字三上(現在の滋賀県野洲市)、福岡県早良郡脇山村大字脇山(現在の福岡県福岡市早良区)に決定された。こののち、斎田では、豊作と大礼の無事を願って、祓式、田植式、斎田斎場地鎮祭の儀などが挙行された。掲出の写真は、悠紀斎田(左)の鍬入式と、主基斎田(右)の田植式の様子を写したものである。
(宮内公文書館)
昭和天皇の大礼を祝うため行われた東京市奉祝会での奉祝門の写真。東京市奉祝会は昭和3年(1928)12月13日、昭和天皇・香淳皇后の御臨席のもと上野恩賜公園竹ノ台広場において開催された。上野恩賜公園への行幸啓にあたっては、御道筋の装飾として奉祝門が馬場先門跡に建設された。奉祝会場には京都御所紫宸殿を模した式殿が設けられ、参列者は内閣総理大臣田中義一以下54,500名に及ぶなど、盛大な式典が催された。奉祝会当日には奉祝門の電飾イルミネーションが夜間点灯するなど、東京市は終日終夜にかけて奉祝ムードに包まれた。
昭和大礼は大正12年(1923)の関東大震災から5年後のことで、いまだ復興の途上にあった。昭和天皇の御大礼は震災後に迎えた国を挙げての最大の慶事であり、東京市奉祝会のように全国各地では多くの奉祝行事や記念行事が催された。未曾有の大災害から立ち直ろうと官民を問わず模索するなか、来るべき「昭和」という新たな時代に大きな期待が寄せられた。
(宮内公文書館)
昭和21年(1946)2月22日、香淳皇后(1903-2000)は社会事業を御視察のため、東京都芝区の恩賜財団済生会、杉並区の恩賜財団戦災援護会双葉園(ふたばえん)に行啓された。本資料は、双葉園において児童による遊戯や唱歌などを御覧になった際の写真である。皇后は宮中服姿で椅子に腰掛け、着座した園児たちと同じ方向に目を向けられている。
双葉園は、昭和8年の児童虐待防止法施行に伴い設置された児童養護施設を前身とし、戦後は主に戦災孤児を受け入れた。空襲により施設が全焼したため、行啓時には焼け残った民家を買い受けて使用していた。下検分にあたった侍従・宮内事務官の入江相政は、日記に、従来であれば皇后が行啓されなかったような小さな家であるとの感想を書き残している。
戦後と異なり、戦前には皇后の社会事業施設行啓は限定的で、御名代等の差遣が一般的であった。本事例が皇族の居所を除く皇后の戦後初の行啓であることに鑑みて、戦後における皇后と国民のかかわりを考える上で象徴的な一枚といえよう。
(宮内公文書館)
本資料は、皇太子明仁親王(現上皇陛下)の家庭教師を務めた米国人エリザベス・グレイ・ヴァイニング(1902-99)が、昭和21年(1946)10月17日に昭和天皇・香淳皇后及び皇太子に初めて謁見した際の記録である。
謁見は、宮内省庁舎内の表拝謁ノ間で行われた。ヴァイニングが宮内省御用掛高木多都雄の誘導にて入室の後、天皇・皇后及び皇太子がお出ましになった。握手が交わされ、ついで皇后からヴァイニングに皇太子の御紹介があり、御着席、御会談という運びであった。また、この謁見に際し、皇后からヴァイニングに花束が贈られたことも記録されている。そのほか添付の図面(掲出画像左)から、「「サロン」風ニ配置」したという間内の様子も確認できる。
この謁見については、『昭和天皇実録』及び『香淳皇后実録』の同日条に記事があり、本資料は典拠資料の一つに挙げられている。以後、ヴァイニングは、契約満了に伴い帰国する昭和25年まで、皇太子のみならず皇后にも英語の進講を定期的に行った。
(宮内公文書館)
現在、宮内公文書館では、御用邸や宮内省庁舎など皇室、宮内省に関連する施設、あるいは明治天皇の御手許に上げられた写真類を数多く所蔵している。しかし、帝室博物館の写真は、ここで紹介している写真帳に収められている写真のほか管見の限り見当たらない。
本写真帳には、大正12年(1923)に関東一円を襲った関東大震災直後に撮影された写真が収められている。そのうちのひとつに掲出の東京帝室博物館の写真がある。明治14年(1881)、英国人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)設計の博物館(上野博物館、のちの東京帝室博物館)が上野公園内に竣工した。竣工当時は、博物局(内務省)から農商務省に博物館事務が移管される過渡期であり、建物の設計も含め、宮内省は特に関与していない。
写真を仔細に見てみると、正面入り口の階段には石のようなものが散乱し、屋根は波打つほどに破損している。当日の観覧人にけが人などは出なかったというが、関東大震災により東京帝室博物館は、写真にみえる1号館を中心に甚大な被害を受けた。そこで、昭和3年(1928)頃から再建の機運が高まり、昭和12年に新たな博物館が竣工した。この時竣工となった博物館本館が、現在も上野恩賜公園内にそびえる東京国立博物館本館である。
(宮内公文書館)
掲出の資料は、世伝(せでん)御料すなわち世襲財産で分割や譲渡が認められていない土地に関する情報をまとめた台帳である世伝御料土地台帳のうち、正倉院宝庫(正倉)に関する記載である。正倉は、間口約33m、奥行約9.4m、床下約2.7m、総高約14mに達する校倉造(あぜくらづくり)の建築物である。聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇「遺愛ノ御物」を奉納する宝庫で、奈良時代以来1000年余りにわたって、勅封(天皇の命による封印)により宝物を守り続けた。その敷地面積は5161坪に及び、明治23年(1890)には、世伝御料に編入された。
帝室博物館総長に就任した鷗外だが、その職掌のひとつに正倉院の管理事務統轄があった。実際に鷗外は、帝室博物館総長在任中に正倉院の開封・閉封の儀に立ち会い、御物(ぎょぶつ)の確認を行うなど、奈良に赴くことも多かった。また、正倉院の御物曝涼(ばくりょう)中に実施される正倉院御物拝観に際して、それまでは高等官や有爵者、学位取得者に限定されていた拝観資格を「学術技芸ニ相当ノ経歴アリト」宮内大臣に認められた者にも拡大するなどの改善策を講じた。
(宮内公文書館)
掲出の写真は、昭和28年(1953)3月に竣工した正倉院新宝庫、現在の正倉院東宝庫である。その後、昭和36年3月には2棟目の新宝庫が新築された。この第二新宝庫新築を契機として、昭和37年に、従来の正倉院宝庫を「正倉」、昭和28年建造の新宝庫を「東宝庫」、そして昭和36年に新築された第二新宝庫を「西宝庫」とすることに定められた。東宝庫、西宝庫ともに鉄骨鉄筋コンクリート造りで、現在、東宝庫には染織品を中心に整理中の宝物と聖語蔵(しょうごぞう)経巻が収められている。また、西宝庫は、正倉に代わって整理済みの宝物が収納される勅封倉であり、毎年秋には宝物の状態を点検し調査するために「開封の儀」が行われている。
本写真帳には、東宝庫建設着工に際して執り行われた地鎮祭の様子や建築途中の写真、庫内の写真、竣工式の写真などが収められている。
(宮内公文書館)
鷗外が図書頭就任後、早々に決裁した文書。帝室博物館総長兼図書頭としての鷗外は、決裁文書に花押を据えることを常としていたが、この時は珍しく「林太郎」の印鑑を捺している。
鷗外が図書頭に就任してからわずか2日後の大正6年(1917)12月27日、公文書類編纂保管規程が改正された。同規程は、明治40年(1907)に制定されていたが、この改正により、公文書類の保存年限が「永久・二十年・五年」から「永久・三十年・十年」に変更となった。保存年限の変更については、すでに大正4年から検討されていた。大正4年段階では、公文書類の保存期限を「永久・五十年・二十年・十年」と改正するよう、当時の図書頭山口鋭之助より宮内大臣波多野敬直に宛て上申が行われている。
理由は判然としないが、大正6年の改正では、上記のとおり「永久・三十年・十年」に変更され、大正4年の上申は採用されなかった。このように大正4年以来検討されてきた公文書類の保存年限改正は、鷗外が図書頭に就任した直後に実施され、結果的に図書頭鷗外として最初期の業務となった。
この改正を契機として、公文書類の索引のため作成される件名録の作製方法や、どのような内容の公文書類を何年保存とするのかなど、公文書類の保管に関する制度が見直された。現在、宮内公文書館で所蔵される公文書類のうち、茶色い表紙が装丁された資料の制度的淵源は、これらの規程の改正に求められる。
(宮内公文書館)
仁徳天皇御遺徳人形陳列館の外観や陳列資料を収めた写真集。同館は百舌鳥(現・大阪府堺市)の住民である石田源太郎が昭和10年(1935)に自邸内に建築したものである。昭和4年に阪和鉄道が開通し、仁徳御陵前停留場が設置されて以降、折しも陵墓巡拝の気運が高まっていた。停車場に近い場所に建てられた同館には、仁徳天皇陵への参拝とともに来館する者が多かったであろう。
仁徳天皇のご事蹟を紹介する館内には、9場面からなる舞台ごとに約100体の人形が陳列されていた。主に児童を対象としたものとされ、人形を用いた9場面は次のとおり。「第一場 神功皇后が朝鮮半島からの帰途、堺に上陸」、「第二場 王仁博士の来朝」、「第三場 仁徳天皇の即位前の皇位譲り合い」、「第四場 民のかまど」、「第五場 難波の堀江、茨田の堤」、「第六場 御仁政」、「第七場 百舌鳥野の鷹狩り」、「第八場 百舌鳥の地名の由来」、「第九場 仁徳天皇崩御と百舌鳥野の陵」。なお、本写真集は同館の解説をかねた『かまどのにぎはひ』(石田源太郎、昭和10年)という小冊子を合綴して、百舌鳥部陵墓守長石田喜一郎から宮内庁書陵部陵墓課へ寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月、仁徳天皇陵の前方部中段において石室が露出した。本資料はこの時に出土した副葬品のうち、甲冑を描いた図である。冑は「総体銅鍍金(めっき)」の小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)であり、全体図と各部の詳細図を描いている。
だが、明治5年当時の記録は大正12年(1923)の関東大震災により諸陵寮の文書が焼失したため、存在していない。本件の絵図については複数の写本が知られているが、宮内公文書館では2点を所蔵している。本資料は震災後の公文書復旧事業によって、個人が所蔵していた絵図を模写したものの一つである。この絵図の写しは、大正14年2月に陵墓監松葉好太郎から諸陵寮庶務課長兼考証課長山口巍に宛てて送られた。松葉が堺の筒井家に交渉して入手した筒井本の写本と思われる。
なお、この原図を作成した人物は明治5年実施の関西古社寺宝物調査(壬申検査〈じんしんけんさ〉)に随行した、柏木貨一郎(政矩〈まさのり〉)とされる。この時、柏木は仁徳天皇陵石室開口の情報に接し、この図を作成することとなった。
(宮内公文書館)
陵墓の拝所付近に設置された、銃猟を禁じる英文制札の絵図写しである。陵墓制札は江戸時代から存在していたが、明治6年(1873)に初めて陵墓制札の雛形が定められ、英文・仏文でも表記するように規定された。本資料には銃を交差して描かれた図の下に、「銃猟禁制」「Foreigners are requested not to shoot or catch birds or beasts.」(外国人が鳥獣を射撃すること、あるいは捕獲することを禁ず)と記されている。
また、本資料の左下には「堺県」の文字が見える。このことから、堺県が大阪府から分割して設置された明治元年から、明治14年に同府へ編入されるまでの時期に使用されていたと推定される。明治12年の清寧天皇陵(現・羽曳野市)の鳥瞰図を見ると、この「銃猟禁制」と思われる制札が拝所前に描かれている(「陵墓資料(図帖類)御陵図」識別番号42087、宮内公文書館所蔵)。
なお、本資料は昭和24年(1949)7月25日、宮内庁書陵部陵墓課において、大阪府南河内郡藤井寺町(現・藤井寺市)の個人所蔵文書を模写したものである。
(宮内公文書館)
日光御用邸の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。日光御用邸の前身である地はもともと鎌倉・室町時代に座禅院のあった場所で、江戸時代には「御殿地跡」として長らく空き地となっていた。明治に入り、この地に東照宮別当寺大楽院の建物が移築され、「朝陽館(ちょうようかん)」と称された。朝陽館には明治23年(1890)以降、明治天皇の皇女である常宮(つねのみや)昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)・周宮(かねのみや)房子内親王(後の北白川宮成久王妃)がお成りになった。朝陽館の敷地と建物は明治26年に宮内省が買い上げ、日光御用邸が設置された。以後、主に常宮・周宮の避暑地として、ほぼ毎年7月末から9月中旬の約2か月の間利用された。明治29年には、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がご滞在になっている。
建物は和風木造平屋建てで、一部が2階建てとなっている。終戦後、日光御用邸は廃止となり、種々の変遷を経て、現在日光山輪王寺本坊及び寺務所として使われている。現存する建物は日光御用邸の面影をそのままに伝えている。
(陵墓課)
本資料は、奈良県桜井市に所在する孝霊天皇 皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した二重口縁壺形埴輪で、高さは約45cmである。
本資料の胴部(どうぶ)はほぼ球形で、上方にのびる頸部(けいぶ)がつき、頸部上端でいちど水平方向に開いたのち、そこからさらに斜め上方に大きく広がる口縁部がついている。「二重口縁」とは、本資料のように口縁部に段があって二回にわたって開くものを指す用語である。
写真では見えないが、本資料の底には穴があいている。この穴は胴部をつくったあとで焼成前にくり抜かれている。したがって、本資料は壺の形をしているものの、中に何かをためておくという壺本来の機能を果たすことを期待されていなかったことになる。「壺形土器(壺の形をした土器=土でつくられた壺)」ではなく、「壺形埴輪(壺の形をした埴輪)」と呼ばれるのは、それが理由である。
本資料は昭和40年代に大市墓の前方部先端の墳頂付近で出土したものである。大市墓では平成10年に台風被害で多くの倒木が発生したことがあるが、その根起きした箇所からもよく似た形のものが出土している。大市墓の前方部墳頂の平坦面には、多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(図書寮文庫)
鳩杖(はとづえ・きゅうじょう)とは、主に長寿を祝う品として贈られた、鳩の装飾が施された杖である。なかでも皇室から老齢の重臣等に贈られたものは、明治以降に宮中杖と呼ばれた。意匠に鳩が選ばれた理由は、餌を食べても喉を詰まらせない鳥であることから健康祈願を託したなど、諸説あり定かでない。
中国では、漢の時代、高齢者や老臣に対し鳩杖を贈る制度があった。日本においても、平安時代には鳩杖という言葉が、鎌倉時代には老臣への鳩杖下賜が文献に確認される。江戸時代半ば以降は現物ではなく、宮中での使用許可と製作料を与えるかたちが通例となった。現行憲法下では、吉田茂はじめ4名に現物が贈られている。
宮内省図書寮編修課は昭和13年(1938)から宮中年中行事調査の一環として鳩杖・宮中杖の調査を行った。本写真帳はその参考資料とみられ、「現行宮中年中行事調査部報告9 宮中杖」の附属写真帳「鳩杖聚成(しゅうせい)」と内容が一致する。ただし、本資料では裏書きに「昭和九」と確認でき、写真自体は調査開始以前の撮影と思われる。
掲出箇所は、前記報告書の「子爵萩原家所蔵員光(かずみつ)ノ鳩杖」に該当する写真である。萩原員光(1821-1902)は幕末・明治の公家・華族。明治34年(1901)に「老年ニ付特旨ヲ以テ」杖の使用を許され、併せて贈られた杖料で本杖を製作した。本体は木製漆塗り(一部銀製)で長さは約1m10cm、鳩形は純銀製で約4cmとある。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。