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鷗外が図書頭就任後、早々に決裁した文書。帝室博物館総長兼図書頭としての鷗外は、決裁文書に花押を据えることを常としていたが、この時は珍しく「林太郎」の印鑑を捺している。
鷗外が図書頭に就任してからわずか2日後の大正6年(1917)12月27日、公文書類編纂保管規程が改正された。同規程は、明治40年(1907)に制定されていたが、この改正により、公文書類の保存年限が「永久・二十年・五年」から「永久・三十年・十年」に変更となった。保存年限の変更については、すでに大正4年から検討されていた。大正4年段階では、公文書類の保存期限を「永久・五十年・二十年・十年」と改正するよう、当時の図書頭山口鋭之助より宮内大臣波多野敬直に宛て上申が行われている。
理由は判然としないが、大正6年の改正では、上記のとおり「永久・三十年・十年」に変更され、大正4年の上申は採用されなかった。このように大正4年以来検討されてきた公文書類の保存年限改正は、鷗外が図書頭に就任した直後に実施され、結果的に図書頭鷗外として最初期の業務となった。
この改正を契機として、公文書類の索引のため作成される件名録の作製方法や、どのような内容の公文書類を何年保存とするのかなど、公文書類の保管に関する制度が見直された。現在、宮内公文書館で所蔵される公文書類のうち、茶色い表紙が装丁された資料の制度的淵源は、これらの規程の改正に求められる。
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図書頭の鷗外が、歴代天皇の代数などについて調査した記録に寄せた序文。「図書頭医学博士文学博士森林太郎」の署名がみえる。歴代天皇の代数が、正式に確定されたのは、大正15年(1926)の皇統譜令制定に際してのことである。皇統譜に関する事項も所掌する図書寮ではそれ以前から、皇統譜令制定の前提となる御歴代の確定について調査を進めていた。鷗外自身も、皇室令に係る案件を審議する帝室制度審議会の御用掛として、皇統譜令の制定に役割を果たそうとする。
掲出の史料も、図書寮での御歴代調査に関連して作成されたと考えられる。この調査記録自体は、大正6年以前に作成されていたようだが、タイプ版に印刷し直し、「検閲ニ便ス」とある。中表紙には「五味」の印が捺されており、資料の末尾には「大正七年一月十五日 宮内事務官五味均平草」と記されている。このことから、本資料が宮内事務官五味均平の手になることがわかる。
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本図は、大正11年(1922)に作成された三年町御料地(現・千代田区霞が関、文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され、明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり、三年町御料地が設定された。
明治17年に宮内省内に設置された図書寮は、当初赤坂仮皇居(赤坂離宮)の宮内省庁舎内に置かれた。その後、明治22年に宮城(明治宮殿)が完成すると、宮内省庁舎は紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に置かれるが、図書寮は狭隘のため宮内省内に置かれず、馬場先門内にあった旧元老院庁舎内に移された。しかし、諸陵寮や帝室制度取調局と合同の庁舎であったことに加え、老朽化していたこともあり、明治24年には再び赤坂離宮内に移っている。さらに、明治32年には、東宮御所の造営にともない再度移転を余儀なくされ、図書寮は三年町御料地に移るのである。
三年町御料地の図書寮庁舎は「維新草創ノ建築」であり、東京府内の洋館のなかでも特に古いものであったという。これらの庁舎は、大正12年の関東大震災で大きな被害を受けたため、昭和3年(1928)に図書寮庁舎は現在の地(東御苑内)に移るのである。なお、以前に当ギャラリーで紹介した「三年町御料地総図(関係図面録(三年町御料地)6大正・昭和のうち)」は、大正15年の震災後の状況を示した図面であり、あわせてみると、震災の被害状況がうかがえる。
(宮内公文書館)
三年町御料地(現・千代田区霞が関、文部科学省庁舎一帯)内の図書寮庁舎は「維新草創ノ建築」であり、大正6年(1917)の段階でレンガに亀裂が入り、基礎には狂いが生じるなど危険な状態であった。このため、図書寮は新築庁舎の建設に向けて動き出す。
史料は、その際に図書寮で作成された「新築図書寮調査及文庫平面略図」である。本来、宮内省内の建築にかかわる事務調整や設計は内匠寮が担当するが、本図は図書寮が主体的に作成している点に特徴がある。図書寮は、東京府下の南葵(なんき)文庫、慶應義塾図書館、内閣文庫などへ問い合わせ、文庫の大小や窓の有無、書架延長などを調査して本図を作成したようである。図面をみると1階はロの字になっており、左側に公文書の担当掛と書庫、右側に図書の担当掛と文庫があることがわかる。また、2階には図書頭や高等官の部屋がある。総じて建物の左右で図書と公文書の別を、上下で高等官と判任官の別が区切られていることがわかる。
しかしながら、図書寮による庁舎新築の一件は、大正7年6月を最後に公文書上からは姿を消し、実際に建設されることもなかった。おそらく省の方針転換や、予算措置上の問題があったのだと考えられる。その後、三年町御料地は関東大震災で大きな被害を受け、皇居内に図書寮と諸陵寮との合同庁舎が建てられ、昭和3年(1928)に図書寮は現在の書陵部の地へ移った。図書寮が作成した庁舎図面は、まさに「幻」に終わったのである。
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明治17年(1884)8月、宮内省内に図書寮が置かれた。図書寮の業務は「御系譜并ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍・古器物・書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等」を所掌した。皇室の一切の記録を編輯することとされたことから、図書寮に記録掛が設けられて「図書寮記録」や「帝室日誌」などを編纂した。
本史料は宮内省の例規や実例等を体系的に編纂した記録「帝室例規類纂」で、現在宮内公文書館には正本・稿本・索引・未定稿等を合わせて2,943件を所蔵している。その内、凡例と明治天皇の御元服に関する記録等を収めた巻1である。図書寮では明治22年から43年にかけて、宮内省各部局から公文書類を借り受けて筆写したもので、年ごとに部門に分類されている。部門は年によって異なるが、典礼門、族爵門、官職門、宮廷門、賞恤(しょうじゅつ)門、財政門、陵墓門、外交門、学事門、図書門、什宝門、膳羞(ぜんしゅう)門、用度門、土木門、守衛門、衛生門などに分かれている。明治期の宮内省の記録をうかがう上で、貴重な史料である。
(宮内公文書館)
赤坂離宮内の図書寮において行われた、正倉院御物(宝物)修理の様子を描いた絵巻物。図書寮が正倉院を所管していた明治22年(1889)5月2日、正倉院御物整理や模造に従事した図書寮属稲生真履の求めに応じて、図書寮嘱託の稲垣太祥によって描かれた「刀剣御手入」の場面である。当時の刀剣修理作業の情景が写実的に描写されている。
正倉院正倉は、東大寺大仏殿(奈良県奈良市)の西北に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の建物として知られている。正倉は奈良時代創建の東大寺倉庫のうちの一つで、聖武天皇と光明皇后ゆかりの品々などの宝物を納める。明治以降は東大寺の手を離れて、明治8年に内務省の所管となった。農商務省を経て、明治18年7月に宮内省図書寮に移管された後、明治22年7月には宮内省所管の帝国奈良博物館(後の奈良帝室博物館)に所管替えとなった。明治25年には宮内省正倉院御物整理掛が赤坂離宮内に設置され、明治37年に廃止されるまで、修理対象の宝物を奈良から移して正倉院宝物の整理や模造に従事した。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、宮内省にも甚大な被害をもたらした。震災当時、諸陵寮は、和田倉門内にある帝室林野管理局庁舎の2階を事務室として使用していたが、この庁舎は震災により全焼した。したがって、庁舎で保管されていた諸陵寮の資料はその多くが灰燼に帰した。
そこで、諸陵寮では、焼失した陵墓資料の復旧(復元)が宮内省御用掛の増田于信(ゆきのぶ)を中心に試みられた。この意見書は増田が宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)宛てに作成したもの。9月21日に増田から宮内次官の関屋貞三郎に提出され、翌日、実施が決定された。増田は復旧事業実施の決定をうけ、天皇陵と皇族墓の鳥瞰図と平面図が描かれた「御陵図」の控えを謄写するため、大阪府庁に調査に行ったり、諸陵寮の沿革を記した「諸陵寮誌」を作成したりするなど、陵墓資料の復旧に尽力した。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)に発生した関東大震災により、陵墓の管理を担う諸陵寮の資料は、その多くを焼失することになった。諸陵寮の沿革などに関係する文書が編綴(へんてつ)されていた陵墓録や考証録なども震災により焼失した。そこで作成されたのが諸陵寮誌である。
もともと諸陵寮の沿革については、諸陵属の渡楫雄により文久2年(1862)から明治37年(1904)までの資料が収集されていた。大正5年に渡の事業を引き継いだ烟田真幹が、収集資料をもとに寮誌の編纂を始めたが、大正10年に病死してしまう。この時、文久2年から明治30年までは成稿し、明治31年から明治40年までは草稿が出来ていたという。しかし、これらの資料は関東大震災によりすべて焼失してしまった。増田于信(ゆきのぶ)らを中心として、震災資料の復旧事業が開始されると、寮誌もその対象となり、烟田の遺族に寮誌に関係する資料の提供を求めたが、発見できなかった。前諸陵頭の山口鋭之助にも情報提供を求めたところ、山口の家から、成稿となっていた寮誌が発見された。この寮誌をもとに作成されたのが諸陵寮誌である。
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「明治天皇紀」を編修する臨時帝室編修局によって取得された。明治天皇がお召しになった御料四人乗割幌馬車の写真である。同馬車は,明治4年(1871)に宮内省が当時のフランス公使であるウートレーより購入したもので,同年5月に吹上御苑にて天覧に供された記録も残されている。多くの行幸に用いられており,なかでも明治9年の東北・北海道巡幸,同11年の北陸・東海道巡幸,同13年の甲州・東山道巡幸,同18年の山口・広島・岡山巡幸と実に4度の巡幸に用いられている点が特徴である。その後,宮内省主馬寮に保管されていたが,大正11年(1922)12月に「明治天皇御紀念」として,同馬車を含む3輌が帝室博物館へ管轄換えとなっている。戦後,帝室博物館は宮内省の管轄から離れたため,同馬車は現在も帝室博物館の後身である東京国立博物館に所蔵されている。
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宮内省内匠寮が取得した,主馬寮庁舎とその周辺部分を描いた図面。表題には「御造営残業掛ヨリ引継」とあり,皇居御造営事務局から引き継いだことがうかがえる。図面の中央には逆コの字型の主馬寮庁舎が描かれ,庁舎の裏手には現在も残る二の丸庭園の池がある。主馬寮庁舎は,明治宮殿の造営に併せて皇居内二の丸に新築され,明治20年12月に落成した。庁舎は2階建で,1階には宿直室や馬医・蹄鉄(ていてつ)工の部屋が,2階には主馬寮の事務室や馭者(ぎょしゃ)の部屋があった。図面を見ると,主馬寮庁舎の上部に朱で加筆されていることがわかる。これは明治22年5月に起工された御料馬車舎であり,既存の馬車舎に加え新たに増築されたものである。主馬寮は,明治宮殿造営後,皇居内の本庁の厩と赤坂分厩を併用して業務にあたる予定であったが,実際に業務が始まると遠隔の赤坂分厩とは,調整がうまく行かなかった。結局,必要な馬匹と馬車を赤坂分厩に残し,皇居内に厩舎と馬車舎を増築することになり,先に予算の付いた馬車舎が建築された。ここから,図面は明治22年前後の二の丸の様子を描いたものであることがわかる。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(宮内公文書館)
吹上御苑家根(やね)馬場の内部写真。雨天時に乗馬を行う場所であった。屋内であっても天井と両側の窓により,採光を確保する工夫が施されている。小川一真写真館撮影。本写真は大臣官房総務課が作成・取得したもので,吹上御苑内家根馬場の外観写真2枚とともにアルバムに収められている。
吹上御苑内に家根馬場(屋根附馬場)が竣工したのは,大正3年(1914)11月のことであった。これは屋根の付いた馬場(覆馬場(おおいばば))のことで,天候に左右されない屋内専用の乗馬練習場である。約559坪の広さであった。主馬頭などを歴任した藤波言忠の回顧談によれば,「主馬頭奉職中,今上陛下が雨天の際御乗馬の為に建築したるものにして,頗る堅牢なるもの」であったという。家根馬場は,主に大正天皇や皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御乗馬などに使用された。
なお,建物自体は,吹上御苑から皇居三の丸へ移築され,旧窓明館として現存している。
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明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
皇城・吹上御苑の図面。図面中央下のだ円形の箇所が,406間(約738メートル)の馬場である。明治6年(1873)の皇城炎上により,明治天皇が赤坂仮皇居にお住まいを移されてからも,吹上御苑にはしばしば行幸になった。
吹上御苑で催された天覧競馬は,初回の明治8年以降,明治宮殿が竣工する直前の明治17年まで続いた。競馬実施にあたっては,明治9年に皇室建築を担当する宮内省内匠課(たくみか)が吹上御苑内の広芝に廻馬場を整備した。馬場のコース両側には丸太柵を設けて,拡張したものであった。明治14年には,吹上御苑内での競馬を御覧になるための「御馬見所」が新設された。吹上御苑競馬は乗馬奨励を目的として,主に軍人や宮内官,華族らが参加し,勝者には賞品として織物が下賜された。
以後,明治天皇は皇居近郊の戸山競馬や上野不忍池競馬,三田育種場競馬などに行幸になった他,東京府外にも足を伸ばし,横浜根岸の天覧競馬では,明治32年を最後とするまで13回を数えた。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)に竣工した東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の記録写真。明治期の写真家である小川一真が撮影した。
明治5年(1872)に設置された赤坂離宮は,明治31年(1898)8月,老朽化のため取り壊された。敷地内には,東宮御所として利用するための新たな建物の建設が進められた。東宮御所御造営局の技監に任じられた片山東熊(明治37年(1904)からは内匠(たくみ)頭)が工事の全体統括を務めた。完成した建物は,石造りで3階建のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築であり,震災予防のため壁中に縦横に鉄骨が入っている。床には鉄板を用いるなど耐火構造にもなっている。一見して,洋風の建築であるが,屋根の意匠(いしょう)には,甲冑(かっちゅう)の武者像が用いられているなど,所々に「和風」のデザインが用いられている。
また,建物の竣工後も庭園や外構の造成は宮内省内匠寮(たくみりょう)や内苑寮(ないえんりょう)が中心となって引き続き進められ,明治42年(1909)に完成した。庭園には,紀州藩徳川邸あるいは赤坂仮皇居時代からの茶屋や建物も多く残されていた。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。