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明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は、日露戦争の際に旅順要塞の攻略戦を第 3 軍司令官として指揮した乃木希典(のぎまれすけ、1849-1912)による同時期の自筆日記である。内容は明治 37 年(1904)11 月1日から翌年 1 月 12 日までの時期で、203 高地の攻撃、次男の戦死、水師営におけるステッセル将軍との会見の記事が含まれる。
掲出箇所は 37 年 11 月 3 日条で、戦地でも天長節(てんちょうせつ、ここでは明治天皇の誕生日)の祝宴が催されたと記述がある。また「外国武官」とあるように、戦地には諸外国の観戦武官も滞在しており、翌日条からは彼らにもシャンパンが贈られたことが分かる。この他、本資料には乃木と面会した人物として従軍記者、日本人の僧侶、視察に訪れた議員なども登場し、戦地近傍を多様な人びとが往来していた様子が浮かび上がってくる。加えて、病院への砲撃状況につきロシア側から軍使が派遣された際の法律顧問有賀長雄(ありがながお、1860-1921)を交えた答案協議など、直接的な戦闘に限らない戦地の様相を窺い知ることもできる。
なお、本資料を含む全 26 冊の日記及び記録は、昭和 9 年(1934)に甥の玉木正之ほかより図書寮に献納されたものである。
(図書寮文庫)
1872年・1882~83年のオーストリア=ハンガリー帝国による北極探検隊が撮影した写真集。明治23年(1890)に同国海軍ファザナ号艦長より明治天皇に献上された。写真を貼り込んだ台紙50枚を本の形のケースに収める。ほかに同国特命全権公使ビーゲーレーベンから宮内大臣土方久元に宛てた書状とその翻訳(明治天皇御覧)を付す。
同探検隊は,1872年の冬に氷に閉じ込められ氷とともに流されたが,翌73年には新しい陸地を発見し,時の皇帝の名を冠した(フランツ・ヨーゼフ諸島)。
ここに挙げた写真は,1872年撮影のスピッツベルゲン島(ノルウェー)の風景。スピッツベルゲンは,現在も極地科学の研究拠点として知られる。このような北極圏の風景だけでなく,探検隊のアザラシ猟の様子(8枚目)や彼らの船“テゲトフ号”の写真(11枚目)なども見られる。
なお,旧書名『〔墺匈国快走船〕フワザナ号北極探検写真』を,このたび再調査し改めた。
(図書寮文庫)
フランスのオルトラン(Théodore Ortolan,1808-74)が著した"Règles internationales et diplomatie de la mer"(海の国際法と外交)のオランダ語訳。榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)旧蔵本。
榎本武揚(通称釜次郎)は文久2年(1862)オランダに留学し慶応2年(1866)に帰国,幕府海軍副総裁となる。大政奉還後,新政府への軍艦引渡を拒み五稜郭(現在の北海道函館市)に籠もって抵抗したが(箱館戦争),明治2年(1869)5月降伏。入獄,特赦の後,明治政府に仕え,海軍卿・文部大臣・外務大臣などを歴任した。
本書は,冒頭に師フレデリックスから榎本に宛てた序文(印刷)があり,以降の本文はペンで浄書されている。欄外に榎本のオランダ語・日本語の注記がある。
榎本は降伏の際,本書が混乱で失われるのを惜しみ,官軍参謀の黒田清隆(1840-1900)に託した。掲出した"Geschenk aan de Admiraal van de Keizerlijk Japansche marine van Enomotto Kamadiro"「提督への贈り物」と筆で書かれた一文はこの時のものとされる。
明治13年海軍卿となった榎本は海軍省図書のうちに本書を見出し,許可を得て手元に戻した。その後,武揚の孫である榎本武英から大正15年(1926)に宮内省へ献納された。武英は,本文は「ふれでりつくす氏ノ手筆ニ係ル」とし,祖父の書き込みを「蝿頭ノ細字」(ようとうのさいじ)と評している(宮内公文書館蔵『図書録』大正15年第62号〈識別番号990292〉)。
(宮内公文書館)
明治2年(1869)3月10日付H・シーベル宛都築荘蔵・町田久成書簡。外国官(後の外務省)から在横浜スイス公使に明治天皇の東京再幸について知らせている。シーベルはスイス総領事代理を務め,シーベル・ブレンワルト商会を営んだ人物である。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治10年(1877)から同13年までのイギリス留学中に収集したロンドンの写真。画像はシティの証券取引所で,現在は高級ショッピングモールになっている。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治19年(1886)から5年間に及ぶドイツ留学中に収集したベルリンとポツダムの写真。画像は19世紀末に電化される以前のベルリン馬車鉄道の証券取引所駅。
この写真には右下に浮印があり,かすかに「1882 berlin」と読み取れる。証券取引所駅は1882年の開業で,現在はハッケシャー・マルクト駅となっているが,開業当時の面影を残している。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は明治22年(1889)に開催されたパリ万国博覧会を見学しており,その際に収集したパリの写真帖。画像はエトワール凱旋門。エトワール凱旋門はアウステルリッツの戦いの勝利を記念してナポレオン・ボナパルトの命で1806年に建設が開始され,ナポレオン没後の1836年に完成した。
(図書寮文庫)
オーストリア=ハンガリー帝国の二つの首都ウィーンとブダペストの写真。画像はウィーンのシュテファン大聖堂の写真。
ドイツ留学中の亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,帰国が決まると,明治24年(1891)7月13日にベルリンを発ってオーストリア各地を歴訪し,同27日にシュテファン大聖堂などを見学したのちイタリアのベニス(ヴェネツィア)に向かった。シュテファン大聖堂はハプスブルグ家の歴代君主の墓所であるほか,W・A・モーツァルトの結婚式及び葬儀が行われたことで有名。この大聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年に世界遺産に登録されている。
(図書寮文庫)
イタリアのベニス(ヴェネツィア)およびローマの写真帖。画像はベニスの有名な観光名所であるリアルト橋とゴンドラの写真。ベニスのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つであるリアルト橋は,1591年に完成し,「白い巨象」とも呼ばれた。ヴェネツィア共和国が設計案を一般公募した際には,ミケランジェロも応募したといわれている。
明治24年(1891)7月28日にオーストリアよりベニスに着いた亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,北イタリアを歴訪し,8月14日にローマに着いた。約2週間滞在したのち,さらにイタリア各地を回り帰国の途に就いた。同年11月6日に帰朝,12月17日に明治天皇に拝謁している。
(図書寮文庫)
ポンペイの遺跡は19世紀後半から本格的な発掘調査が行われており,明治期にヨーロッパに留学した亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,ポンペイだけで2冊の写真帖を作成している。画像はポンペイ市街の写真。