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一般には『紫式部日記』とよばれるもの。紫式部(生没年未詳)が、仕えていた藤原彰子(ふじわらのしょうし、一条天皇中宮、988-1074)の出産に関する日記的な記事と随想的な文章とを記した作品。彰子は藤原道長の娘で、寛弘5年(1008)9月に敦成親王(あつひら、のちの後一条天皇)、翌年11月に敦良親王(あつなが、のちの後朱雀天皇)を出産した。紫式部は、主家である藤原道長家の繁栄の様子をつぶさに記録している。
掲出箇所は寛弘5年11月1日、敦成親王の五十日(いか)の祝を道長の邸で行った折の一場面。宴席に控えていた女房たちのいるあたりで、藤原公任(きんとう、966-1041)が「此わたりに、わかむらさきやさぶらふ(この辺りに若紫はおいでですか)」と声をかけ、紫式部は “光源氏もいないのに、まして紫上(若紫)がいるはずがない”と心中で答える箇所である。当代随一の文化人である公任が、あなたの書いた光源氏と若紫の物語を知っていますよ、と戯れかけたのである。これが『源氏物語』について記録された最も古い記事で、平成24年(2012)制定の「古典の日」が11月1日であるのはこのエピソードによる。
なお、当該本は江戸期写本で、国学者である黒川家の旧蔵本である。
(図書寮文庫)
明治の初めまで、天皇・上皇の御所への公家衆の出仕・宿直は、当番制で編成されていた。これが「小番」(こばん)と呼ばれる制度である。
小番に編成されたのは、昇殿を許された家々(堂上(とうしょう))の出身者であり、小番への参仕は彼らの基本的な職務でもあった。その始まりには諸説あるが、基本の形式は、後小松天皇(1377-1433)を後見した足利義満(1358-1408)によって整備されたとされる。
本資料は、禁裏小番(天皇の御所の小番)に編成された公家衆の名前が番ごとに記されたもので、「番文」(ばんもん)や「番帳」(ばんちょう)ともいう。その内容から、正長元年(1428)8月頃、後花園天皇(1419-70)の践祚直後のものと推定される。
番文を読み解くと、当時は7番制(7班交代制)であり、31家32名の公家衆が編成されていたことが分かる。この時期の小番の状況は、当時の公家衆の日記からも部分的に窺えるが、その編成の詳細は、本資料によって初めて明らかになる事柄である。また番文としても、現在確認できる中では最も古い時期のものであり、当時の公家社会やそれを取り巻く政治状況、小番の制度等を知る上で重要な資料といえる。
(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は、日露戦争の際に旅順要塞の攻略戦を第 3 軍司令官として指揮した乃木希典(のぎまれすけ、1849-1912)による同時期の自筆日記である。内容は明治 37 年(1904)11 月1日から翌年 1 月 12 日までの時期で、203 高地の攻撃、次男の戦死、水師営におけるステッセル将軍との会見の記事が含まれる。
掲出箇所は 37 年 11 月 3 日条で、戦地でも天長節(てんちょうせつ、ここでは明治天皇の誕生日)の祝宴が催されたと記述がある。また「外国武官」とあるように、戦地には諸外国の観戦武官も滞在しており、翌日条からは彼らにもシャンパンが贈られたことが分かる。この他、本資料には乃木と面会した人物として従軍記者、日本人の僧侶、視察に訪れた議員なども登場し、戦地近傍を多様な人びとが往来していた様子が浮かび上がってくる。加えて、病院への砲撃状況につきロシア側から軍使が派遣された際の法律顧問有賀長雄(ありがながお、1860-1921)を交えた答案協議など、直接的な戦闘に限らない戦地の様相を窺い知ることもできる。
なお、本資料を含む全 26 冊の日記及び記録は、昭和 9 年(1934)に甥の玉木正之ほかより図書寮に献納されたものである。
(図書寮文庫)
嘉永7年・安政元年(1854)10月、江戸幕府から下田に来航したロシア使節プチャーチン(1803-83)の応接を命じられた、勘定奉行兼海防掛川路聖謨(かわじとしあきら、1801-68)の日記。同月17日から安政2年4月29日までの出来事を記述する。
掲出箇所は、長楽寺において日露和親条約の調印式が行われた、安政元年12月21日条。この日は、本来ならば日本側から豪勢な料理を提供し、満艦飾(まんかんしょく)のロシア軍艦から祝砲が撃たれるはずであったが、11月4日に発生した大地震と津波によって下田は壊滅的被害を受け、ロシア軍艦も沈没したため、いずれも実施できず、わずかに酒三献と鯛を台の上に積み上げて供したと、尋常ならざる状況下で調印式が行われたことを日記は伝えている。
日米和親条約(同年3月)・同附録(5月)、日英約定(8月)に続いて調印された日露和親条約について、日記には「日本魯西亜(ロシア)永世之会盟とも可申(申すべし)」とあることから、川路がもはや鎖国への回帰は困難であると捉えていたことがうかがわれよう。日記にはこのほかにも、川路が「布恬廷(プチャーチン)はいかにも豪傑也」(安政元年12月14日条)と評価していたことなどが記述されていて興味深い。
(宮内公文書館)
宮内省では、巡幸(じゅんこう)中の現地での出来事などを記録した供奉(ぐぶ)日記を作成している。巡幸とは天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることで、特に明治前期のものを総称して「六大巡幸」と呼ばれ、明治天皇は、明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり日本各地を巡幸になった。史料は、明治9年に東北・北海道へ巡幸された際の宮内省の巡幸供奉日記のうち、明治9年6月3日条の記事で、行幸啓に関する公文書がまとめられている「幸啓録」に収められている。
史料の記事は、巡幸の途中で埼玉県東部を通られた時のものである。明治9年6月3日、明治天皇は、埼玉県令白根多助(しらねたすけ)の進言により、草加駅(現草加市)と大沢駅(現越谷市)の間にある蒲生村(現越谷市)にてしばらく馬車を停め、挿秧(そうおう、田植え)を御覧になっている。同地では、200名ほどのたすき掛けの農夫による田植えの光景が見られたという。また、田植え御覧のことは各新聞社にも発表され、多くの人びとにも知られることとなった。六大巡幸で立ち寄られた各地では、このように明治天皇が自らその土地の風景や地域の生業(せいぎょう)を視察された。
(宮内公文書館)
宮内省主猟局長を務めた山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)の日記の写本。山口は明治天皇からの内命を受けて狩猟をするため、あるいは御猟場を見回るために、しばしば各地の御猟場を訪れている。明治25年(1892)2月1日からは、出張を命じられ千葉・埼玉の両県にまたがる江戸川筋御猟場を訪ねた。千葉県側から御猟場に入った山口は、2月3日より埼玉県側に移り、翌4日には宝珠花村(ほうしゅばなむら、現春日部市)に至る。史料は、4日の記事である。宝珠花村の堤上から雁猟(がんりょう)を見ていた山口は、見回(猟師)に雁猟の方法を指示すると、14羽の雁を猟獲したという。その日は午後から降雪のため、宝珠花村の中島市兵衛宅に宿泊し、雁猟をしていた見回(猟師)らを招いて晩酌をし、見回(猟師)らは皆、的確な山口の指示を賞賛したことが述べられている。
(宮内公文書館)
山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)は水戸藩の出身で、明治期に長く侍従を務め、御猟場掛長、主猟局長、主殿(とのも)頭などを歴任した。史料は山口正定の日記で、大正9年(1920)に臨時帝室編修局が写したものである。宮内公文書館には、明治9年(1876)から亡くなる明治35年までの日記が断続的に残されている。
史料は、明治17年4月21日から25日に至る記事である。この時、山口は御猟場掛長として、江戸川筋御猟場の区域内を巡回している。記事を見ると、21日には巡回中に藤塚村(現在の春日部市)の高橋豊吉宅で鯉魚の饗宴があり、夜は幸手宿(現在の幸手市)の田口清平宅に宿泊している。22日には行幸堤(みゆきづつみ、現在の幸手市)を訪れ、土手に咲く満開の菜花を見て詩を詠んでいる。22日から24日までは西宝珠花村(にしほうしゅばな、現在の春日部市)の中島市平宅に宿泊しており、依頼を受けて揮毫をしたり、雉子(きじ)猟をしたりするなど、地域の人びとと交流している。山口にとって、御猟場の巡回は、区域内を見回るだけでなく、御猟場の運営に携わる地域の人びととの交流も目的にあったことがうかがえる。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の公卿九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の自筆日記。寛永11年(1634)記は,現存する道房の日記のうち最初の年次のもの。この年の暦1巻の余白部分に書かれており,書き切れない場合はその部分に白紙を継ぎ足して,本文の続きや図が書き込まれている。
道房は初めの名を忠象(ただかた)といい,父は摂関家の一つである九条家の当主幸家(ゆきいえ),母は豊臣秀勝(秀吉の甥)の娘完子。兄に二条家の養子となった康道がいる。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)によれば,道房は寛永9年12月に24才で内大臣に任じられているが,当時,大臣クラスの人事には江戸幕府の承認が必要であり,その調整に歳月を要したため,実際に任官が認められたのは同12年7月のことであった。この経緯は,寛永11年記にも散見され,道房が日記をつけ始めたことと関係がありそうである。
このほかの記事も豊富で,実弟の道基(みちもと,後の松殿道昭)の元服,将軍徳川家光の京都入り,白馬節会などの宮廷儀式の作法,和歌懐紙の書き様など,内容は多岐にわたり,公家社会の様相はもとより,江戸時代前期の政治や文化を知る上で欠かせない貴重な資料となっている。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(宮内庁書陵部,令和4年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本記は,九条道房の自筆日記のうち,寛永16年(1639)10月の仙洞歌合(うたあわせ)に関する,別記的な性格を持つ記録。歌合とは歌人を左右にわけて,和歌の優劣を競う催しで,各組が相手の詠草(えいそう)を論ずる(難陳〈なんちん,ディベート〉)。当時の仙洞(上皇)は後水尾上皇(ごみずのお)で,上皇は久しく行われていなかった仙洞歌合の開催に意欲的だった。上皇より歌題を賜った道房は,歌人の中院通村(なかのいんみちむら)と相談し,詠草を整え進上する(9月22,29,30日条)。次いで二度の御習礼(リハーサル)を行い(10月3,4日条),歌合当日を迎える(10月5日条)。久しぶりの開催で,当時実力のある歌人に恵まれなかったため,予定調和とはならず,道房の詠草は通村と調整したにもかかわらず,難陳での行き違いから水無瀬氏成(みなせうじなり)との論戦に発展,道房には不満の残る行事となってしまったらしい。なお,この歌合については,参加者だった近衛信尋(このえのぶひろ)・八条宮智忠親王(はちじょうのみやとしただしんのう)・中院通純(みちずみ)・勧修寺経広(かじゅうじつねひろ)などの記録や,詠草・判詞(優劣についての審判である判者のコメント)を載せた『寛永十六年仙洞歌合』も数種伝わり,これらにより行事の様子を立体的に復元できる。本記は,『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(令和4年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
本資料は,室町期の公卿高倉永行(たかくらながゆき,?-1416)の日記『永行卿記』の明徳3年(1392)12月3日条の抄出で,北朝第3代崇光天皇(当時は上皇,1334-98)が御落飾(同年11月30日)された折の記録である。端裏書には「本院御落飾記 明徳三」とある。本院とは崇光上皇のこと。従来上皇の御落飾に関しては,簡略な記事しか知られなかったが,本資料によって詳しい状況を知ることができる。筆跡は永行自筆と考えられ,永行自身が上皇の御落飾の記事を日記から抄出したものとみられる。
内容は,御落飾の概要は冷泉範定からの情報としたうえで,その儀は内々のもので戒師が相国寺の常光国師(空谷明応)であったことやその様子,あるいは御供として出家した五辻朝仲のこと,また御落飾後の御法衣や国師の袈裟などについての記事である。高倉家は山科家とともに御服調進の家で,崇光上皇の御法衣も高倉家の調進であった可能性があり,それ故に装束についての詳細が記されたのではないだろうか。署名の官職等を勘案すれば,応永3年(1396)をさほど遡らない時期の筆跡と考えられ,御落飾当時のものである可能性もある。料紙に押紙を付して文字を訂正しているが,すべて当初の文字と同じで,その意図は不明。
(図書寮文庫)
本資料は,安徳天皇(1178-85)の御即位を山陵に奉告する宣命(せんみょう)の案(下書き)の写しである。宣命とは,天皇の命令や意思を和文体で書いたもの。
安徳天皇は治承4年(1180),3歳で皇位を継承された。当時の記録により,使者が天智天皇などの山陵に遣わされたことや,宣命の起草と清書を勤めたのは少内記(しょうないき)大江成棟であることが知られるが,宣命の内容は本資料でわかる。山陵の厚い慈しみを受けることで,天下を無事に守ることができるであろう,との旨が記されている。実際の宣命は「官位姓名」を使者の名に,「某御陵」を山陵名に書き換えて,山陵一所につき一通が使者に授けられる。
本資料が収められる『古宣命』は,室町時代に書写された安徳天皇・後伏見上皇・光厳上皇・後醍醐天皇・後小松天皇の宣命案と,壬生忠利(ただとし,1600-63)の筆による後西天皇の宣命案などからなる。なお,本資料の紙背(裏面)に書かれているのは,壬生晴富(はれとみ,1422-97)の子・梵恕(ぼんじょ,幼名は弥一丸)の日記『梵恕記』とされる。
(図書寮文庫)
「あづま路の道の果てよりも」の冒頭文が有名な菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ,1008-?)の日記。
「日記」と呼び慣わされているが,平安時代の女性の「日記」は現代でいう回想記に当たる(女性に仮託した紀貫之の土左日記も含む)。『更級日記』も夫である橘俊通(1002-58)の死を契機に我が身を振り返り,13歳で父の任地であった上総国を離れることになってからの約40年間を記した。『源氏物語』に憧れる少女の頃の文章は教科書などにもよく引用される。
『更級日記』は藤原定家(1162-1241)筆本が現存し(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵),この図書寮文庫蔵本はそれの精密な模写本である。図書寮文庫本には「寛文二臘六日一校了」と後西天皇の書き入れがあるが,後水尾天皇ご所蔵の定家筆本の写しを後西天皇が求められたとわかる。
なお定家筆本は錯簡(綴じ間違い)があり,明治時代以前の写本・版本はみなこの錯簡の影響を受けていることが知られているが,図書寮文庫本によって錯簡の時期が寛文2年(1662)以前とわかる。
(図書寮文庫)
平安中期の歌人として名高い和泉式部(生没年未詳)の日記。帥宮敦道親王(そちのみやあつみち,冷泉天皇皇子,981-1007)との恋愛のはじまりを,二人の贈答歌を中心に物語風に綴った作品。日記は長保5年(1003)4月,為尊親王(ためたか,冷泉天皇皇子,977-1002)と死別した和泉式部のもとに、その弟の帥宮から文が届けられる場面から始まり,和泉式部が帥宮邸に引き取られた翌年の正月,帥宮の正妻が宮邸を退去した場面で終わる。
身分差のある二人が和歌を詠み合うことで,交流を深めていくさまが読み取れる(掲げた画像中,2字下がりの部分が和歌)。
この図書寮文庫本は三条西家旧蔵本で,室町時代を代表する公卿三条西実隆(1455-1537)の書写と伝えられ,多くの活字本の底本として用いられている。
(図書寮文庫)
室町時代前期の陰陽師である賀茂在貞(かものあきさだ,1388-1473)が,2月の末に貴族の万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)に送った書状。上巳の祓に用いる人形を進上しますと伝えている。時房は,受け取った書状の紙背(裏面)を自分の日記『建内記』の嘉吉3年(1443)2月30日条の料紙として用い,「在貞から人形が到来したので枕元に置いた」と記している。人形を身近に置いて罪や穢れを移した後,また在貞に返して祓えが行われたと考えられる。伏見宮家旧蔵本。
(図書寮文庫)
平安時代後期の公卿,源俊房(みなもとのとしふさ,1035-1121)の自筆日記。世界記憶遺産となった藤原道長の自筆日記『御堂関白記』に次いで我が国で2番目に古く,図書寮文庫が所蔵する自筆日記の中で最古のものである。源俊房は文筆・政道に優れ,能書家としても知られた。白河天皇(1053-1129),堀河天皇(1079-1107),鳥羽天皇(1103-56)の三代,30年に渡って政務を総轄する左大臣の任についた。画像は康平7年(1064)3月28日条で,前九年の役 (1051-62)の顛末を伝える貴重な記事を伝えている。書名の由来は源の「氵(水)」と左大臣の「左」との組み合わせによる。
(図書寮文庫)
平安時代後期の関白藤原忠通(ただみち,1097-1164)の自筆日記。父忠実(ただざね,1078-1162)や弟頼長(よりなが,1120-56)との対立は,保元の乱(1156)の原因となった。晩年出家し法性寺に住んだことから,法性寺殿とも称される。文芸に優れたほか能書家としても知られ,その書風は法性寺流として鎌倉時代を通じて重んじられた。端正な書風は当日記からも窺える。画像は天治2年(1125)9月14日条で,斎王守子内親王(1111頃-56)の伊勢群行当日の記事である。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の第92代伏見天皇(1265-1317)宸筆の御日記。天皇は後深草天皇(1243-1304)の第2皇子。政務や儀式を記す他,学問・文芸に優れたため,教養・趣味に関する記述も多い。屈指の能書家で,平安時代の優麗な書風に学ぶ伏見院流を開かれた。画像は永仁元年(1293)8月27日条で,伏見天皇が勅撰集『玉葉和歌集』の編纂を二条為世(ためよ)らにお命じになった際の記事である。
(図書寮文庫)
室町時代の公卿,万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)の自筆日記。内容は朝廷の儀式や所領経営の他,時房は室町幕府との連絡役であったことから,室町幕府の動向も詳しく記されている。画像は嘉吉元年(1441)6月24日条で,赤松満祐(あかまつみつすけ,1381-1441)が室町幕府第6代将軍足利義教(あしかがよしのり,1394-1441)に対して反乱を起こした嘉吉の乱(1441)に関わる伝聞記事。
(図書寮文庫)
室町時代,公卿山科家に仕えた大沢久守(おおさわひさもり,1429-98),重胤(しげたね)等の自筆の業務日記。特に久守は立花の名手としても知られる。主家山科家に関する記述を主としながらも,応仁の乱(1467-77)や土一揆の様子も記している。画像は延徳元年(1489)3月30日条で,近江国へ出陣中病没した室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ,1465-89)の遺骸を京に送る行列の中で,義尚の母日野富子(1440-96)が人目を憚らず号泣していた様子を記している。