時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(宮内公文書館)
明治36年(1903)4月、明治天皇は大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会に行幸になり、開会式で勅語を述べられた。改正条約実施後初の博覧会であるため諸外国からの出品も認められ、夜間には電灯によるイルミネーションが施されるなど、最後の内国勧業博覧会にして最大規模となった。博覧会の第2会場である堺には「附属水族館」(現・大浜公園内)が設置され、天皇と皇后(昭憲皇太后)は、5月5日と同6日にそれぞれ行幸・行啓になった。その後、堺の名所として知られるようになった堺水族館には、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう)(後の大正天皇)や同妃(後の貞明皇后)、明治天皇の皇女常宮昌子内親王(つねのみやまさこないしんのう)(後の竹田宮恒久王妃)、周宮房子内親王(かねのみやふさこないしんのう)(後の北白川宮成久王妃)なども訪れている。
立面図は、第5回内国勧業博覧会関係資料の一部として明治天皇の御手許へとあげられた資料(明治天皇御手許書類)(めいじてんのうおてもとしょるい)である。宮内公文書館では、水族館の図面のほか、博覧会で使用された各建物の図面等も所蔵している。
(宮内公文書館)
明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった小山(現栃木県小山市)・高橋家の御座所を撮影した1枚。同家は旧日光街道脇本陣で、明治9年(1876)6月、明治天皇は東北・北海道巡幸の折に、栃木県内で初めてお立ち寄りになった地である。栃木県は東北・北海道へと至る陸羽(りくう)街道(旧奥羽街道)が通る交通の要衝であった。明治14年の巡幸時にも再び、小山駅高橋満司宅が行在所となった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、収集されたもので、大正・昭和初期の様子がうかがえる。
その後、小山行在所となった家の門前には、大正14年(1925)6月に記念碑が建てられた。揮毫(きごう)は明治天皇側近として宮内省で侍従などを歴任した藤波言忠(ふじなみことただ)による。昭和8年(1933)11月には史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく明治天皇の「史蹟」として指定された(昭和23年指定解除)。
(宮内公文書館)
この写真は、明治38年(1905)11月に栃木中学校(前第二中学校、現栃木県立栃木高等学校)に建てられた聖駕駐蹕碑(せいがちゅうひつひ)である。「元帥公爵山縣有朋(げんすいこうしゃくやまがたありとも)」の題字になるこの碑は、明治32年の栃木県行幸に際して、第二中学校が行在所(あんざいしょ)となったことを記念して建立された。
当初、この行幸では第二中学校に隣接する新築の栃木尋常小学校が行在所にあてられる予定だった。行幸に先立ち、侍従の廣幡忠朝(ひろはたただとも)などが下見を行ったところ、新築であるがゆえに、尋常小学校の壁が乾燥しきっていないことが判明した。廣幡らの報告を受け、宮内省内で再検討が行われた結果、行在所は尋常小学校から第二中学校へと変更された。他方で、尋常小学校の関係者を中心に、行在所が変更されたことに対する失望も広がった。そこで栃木町町民総代から宮内大臣宛に、同校を物産陳列所とし、天覧を願いたいとの請願書が提出された。この請願は聞き入れられ、明治天皇は、物産陳列所として設営された尋常小学校において、県内の名産品などを天覧になった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)に竣工した日光田母沢御用邸のうち、赤坂離宮(旧紀州藩徳川家武家屋敷)から引き直した「御三階」の切断図面である。御用邸の竣工に際しては、明治22年に新築された御車寄も赤坂離宮から移築されている。「御三階」は天保11年(1840)に建設された紀州藩徳川家屋敷の中でも中心的に用いられた建物である。明治6年に紀州藩徳川家より献上され、明治22年まで赤坂仮皇居として利用されていた。
「御三階」は数寄屋風書院造りで、日光田母沢御用邸へ移築されたのちは、1階を御学問所、2階を御寝室、3階を御展望室として利用されていた。1階と3階には共通する大きな丸窓の意匠があり、御用邸としての趣もさることながら旧紀州藩徳川家の武家屋敷の様子も今に伝えている。建物としては、3階へ向かうにつれて数寄屋造りの意匠が強くなり、2階と3階には数寄屋で使う面皮柱と書院で使う角柱が交互に用いられるなど珍しい意匠が採用されている。特に3階からは、大正天皇が御製(ぎょせい)にも詠まれた鳴虫山(なきむしやま)を見晴らすことができる。日光田母沢御用邸はこうした引き直した建築と既存の建築(旧小林年保別邸)を組み合わせるかたちで竣工している。
(宮内公文書館)
大正13年(1924)ころ、東宮御用掛の西園寺八郎を筆頭に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と同妃(後の香淳皇后)の御避暑御用邸新設候補地の調査が進められた。本史料は、大正14年4月に作成された調査の復命書である。
復命書の冒頭では、避暑行啓の必要性を述べ、現在所有する御用邸のうち葉山は近隣の発展が著しく警備に難があり、沼津・宮ノ下・熱海・塩原は狭隘(きょうあい)であるとして、新たな御用邸を設置する必要性を説いている。復命書にあげられている候補地は、油壷(現神奈川県)、那須嶽山麓地方(現栃木県)、箱根(現神奈川県)の3か所である。このうち、那須嶽山麓地方については、気候が爽涼(そうりょう)であり景色も雄大であること、既に那須御料地として宮内省が土地を取得しており土地の売買が不要であること、「御運動」のための土地を十分に確保できていること、などが記されている。結論として海岸地方の第一候補を油壷、山麓地方の第一候補を那須として復命書をまとめている。
最終的に大正15年7月、那須御料地内に御用邸が新設され、那須御用邸と命名された。同月16日に御用邸は竣工し、8月12日には裕仁親王が初めて那須御用邸へ行啓になっている。
(宮内公文書館)
日光御用邸の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。日光御用邸の前身である地はもともと鎌倉・室町時代に座禅院のあった場所で、江戸時代には「御殿地跡」として長らく空き地となっていた。明治に入り、この地に東照宮別当寺大楽院の建物が移築され、「朝陽館(ちょうようかん)」と称された。朝陽館には明治23年(1890)以降、明治天皇の皇女である常宮(つねのみや)昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)・周宮(かねのみや)房子内親王(後の北白川宮成久王妃)がお成りになった。朝陽館の敷地と建物は明治26年に宮内省が買い上げ、日光御用邸が設置された。以後、主に常宮・周宮の避暑地として、ほぼ毎年7月末から9月中旬の約2か月の間利用された。明治29年には、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がご滞在になっている。
建物は和風木造平屋建てで、一部が2階建てとなっている。終戦後、日光御用邸は廃止となり、種々の変遷を経て、現在日光山輪王寺本坊及び寺務所として使われている。現存する建物は日光御用邸の面影をそのままに伝えている。
(宮内公文書館)
日光田母沢御用邸は、明治32年(1899)6月に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の避暑を目的として建設された。御用邸は、民有地や日光町有地など2万7000坪あまりを宮内省が購入したもので、その中には、第三十五国立銀行の頭取などを歴任した小林年保(こばやしねんぽ)の別荘地「田母澤園」もあった。御殿は小林の別荘地の建物と、赤坂離宮から「梅の間」や「御三階」などを引き直して建てられている。
史料は、明治34年1月に調製された田母沢御用邸の庭の図面である。庭は小林の別荘地に付随するものであった。御用邸は田母沢川と大谷川(だいやがわ)が合流する地点にあり、湧水や滝もある庭園であった。また、史料の右下には馬場があった。嘉仁親王は、しばしば御運動のために乗馬されたり、時には乗馬のまま隣接する帝国大学の植物園や日光の町へお出かけになったりしている。御用邸は、時代の経過にあわせて増改築が繰り返されているが、庭園についてはほとんど手を加えられておらず、滝や湧水は無いが、現在まで設置当初の景観を留めている。
(宮内公文書館)
塩原御用邸は、栃木県令などを務めた三島通庸(みしまみちつね)の別荘を明治37年(1904)に宮内省が買い上げたものである。日光田母沢御用邸と同様に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の避暑のために設置された御用邸である。日光田母沢御用邸と異なる点は温泉を引いている点であり、嘉仁親王はご静養のためにしばしば行啓になっている。買い上げ当初の面積は4207坪余りであり、その後、周辺の民有地を追加で買い上げて編入していった。御用邸の土地が広がるとともに御殿も増築され、明治38年には御殿内に玉突き所を増築、同44年には大規模な改修工事が実施されている。
史料はそうした塩原御用邸を俯瞰で撮影した写真である。増築された部屋が連なる入母屋造りとなっていることがわかる。大正期に入ると、塩原御用邸は主に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が利用されるようになる。そのため塩原御用邸は、「嘉仁親王のため」というよりは「皇太子のため」の御用邸であったということができるだろう。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮が取得した,主馬寮庁舎とその周辺部分を描いた図面。表題には「御造営残業掛ヨリ引継」とあり,皇居御造営事務局から引き継いだことがうかがえる。図面の中央には逆コの字型の主馬寮庁舎が描かれ,庁舎の裏手には現在も残る二の丸庭園の池がある。主馬寮庁舎は,明治宮殿の造営に併せて皇居内二の丸に新築され,明治20年12月に落成した。庁舎は2階建で,1階には宿直室や馬医・蹄鉄(ていてつ)工の部屋が,2階には主馬寮の事務室や馭者(ぎょしゃ)の部屋があった。図面を見ると,主馬寮庁舎の上部に朱で加筆されていることがわかる。これは明治22年5月に起工された御料馬車舎であり,既存の馬車舎に加え新たに増築されたものである。主馬寮は,明治宮殿造営後,皇居内の本庁の厩と赤坂分厩を併用して業務にあたる予定であったが,実際に業務が始まると遠隔の赤坂分厩とは,調整がうまく行かなかった。結局,必要な馬匹と馬車を赤坂分厩に残し,皇居内に厩舎と馬車舎を増築することになり,先に予算の付いた馬車舎が建築された。ここから,図面は明治22年前後の二の丸の様子を描いたものであることがわかる。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(図書寮文庫)
大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
(図書寮文庫)
即位礼で用いられる様々な物品の図像・解説を記した絵図。上・下2巻で構成され,上巻には儀場の調度品,下巻には臣下の装束を載せる。室町時代に作成された写本であり,「文安御即位調度図」の名で広く知られる絵図と同様の内容を含む。近年の研究によれば,これらの絵図は永治元年(1141)近衛天皇(1139-55)の即位礼に際して作成されたものがもとになっているという。
掲出の画像は,上巻の高御座(たかみくら)を図示した箇所。高御座は即位礼の際に天皇が登壇される玉座であり,台座の上に八角形の屋形が組まれ,天蓋には金色の鳳凰や鏡などの装飾品を施している。現在の「即位礼正殿の儀」で用いられる高御座は,大正天皇(1879-1926)の即位礼に際して古代以来の諸史料を勘案して製作されたものであるが,本絵図からは,平安後期に遡る高御座の姿を視覚的に知ることができる。
なお,高御座の上部に描かれているのは,儀場である大極殿(だいごくでん)に懸けられる帽額(もこう)という横長の幕で,中央に太陽が,左右に龍や獅子などの霊獣が刺繍されている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)に竣工した東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の記録写真。明治期の写真家である小川一真が撮影した。
明治5年(1872)に設置された赤坂離宮は,明治31年(1898)8月,老朽化のため取り壊された。敷地内には,東宮御所として利用するための新たな建物の建設が進められた。東宮御所御造営局の技監に任じられた片山東熊(明治37年(1904)からは内匠(たくみ)頭)が工事の全体統括を務めた。完成した建物は,石造りで3階建のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築であり,震災予防のため壁中に縦横に鉄骨が入っている。床には鉄板を用いるなど耐火構造にもなっている。一見して,洋風の建築であるが,屋根の意匠(いしょう)には,甲冑(かっちゅう)の武者像が用いられているなど,所々に「和風」のデザインが用いられている。
また,建物の竣工後も庭園や外構の造成は宮内省内匠寮(たくみりょう)や内苑寮(ないえんりょう)が中心となって引き続き進められ,明治42年(1909)に完成した。庭園には,紀州藩徳川邸あるいは赤坂仮皇居時代からの茶屋や建物も多く残されていた。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。
(宮内公文書館)
明治14年(1881)当時の赤坂仮皇居を描いた図面である。同地は,もと紀州徳川家の屋敷地であり,明治5年(1872)と明治6年(1873)の二度に分けて皇室へ献上された。前者には赤坂離宮が,後者には青山御所がそれぞれ設置されている。
明治6年(1873)の皇城炎上後,赤坂離宮が「仮皇居」と定められた。「仮皇居」は,紀州徳川家の武家屋敷をそのまま利用しており,明治天皇と昭憲皇太后,英照皇太后のお住まいと宮内省の庁舎が置かれていた。しかし,お三方のお住まいとして使うには狭小であり,明治7年(1874)に英照皇太后は青山御所へお移りになっている。その後赤坂仮皇居には,明治10年(1877)に太政官庁舎が,明治14年(1881)に祝宴の場として御会食所が新築されるなど,増改築が進められていった。