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(選択を解除)(図書寮文庫)
明治42年(1909)9月20日に石川県が発行した『石川県写真帖』は、皇室に献上されたのち宮内省侍従職で管理され、図書寮が昭和6年に受領した。明治時代の石川県内の様子がわかる貴重な資料である。
この写真は、加賀百万石で有名な前田家の居城であった金沢城を南西から眺める構図となっており、手前には犀川(さいがわ)に架かる桜橋が見える。写真中央部には金沢城本丸南側の高石垣(たかいしがき)、その右手側には兼六園の木々が見える。高石垣は前田家が金沢城の整備を始めた初期にあたる慶長年間(1596-1615)に構築された。その中でも、兼六園側の辰巳(たつみ)櫓跡の高石垣は城下町からよく見え、南側は段のない急勾配な石垣だったことから金沢城のシンボルとして知られていたが、明治40年(1907)頃に崩壊し、その後に積み直された際には安全対策で3段とされたため、現在は当時の姿を見ることはできない。
写真では金沢城の石垣の左側に、明治35年(1902)に建設され昭和14年(1939)に焼失した石川県会議事堂が見える。その左隣にある煉瓦造りの建築物は明治24年(1891)に完成した旧第四高等中学校本館で、現在も石川四高(いしかわしこう)記念文化交流館として見ることができる。
“百万石の城下町”の面影を残しつつ近代化していった金沢を見ることのできる資料である。
※画像には文字等を挿入している。
(図書寮文庫)
石川県金沢市の中心部を北東の卯辰山(うたつやま)周辺から撮影した写真である。写真手前には現在のひがし茶屋街付近と浅野川(あさのがわ)が、中央に写る金沢城には今は失われてしまっている建築物を見ることができる。
写真では屋根に石をのせた町屋が目立つが、金沢城では江戸時代から鉛瓦を使用しており、この写真でも鉛瓦が白く輝いている金沢城の長屋を左上付近に確認できる。金沢城では重要文化財の三十間長屋(さんじっけんながや)や平成13年(2001)に復元された五十間長屋(ごじっけんながや)が有名だが、写真の長屋はそれらとは異なり、現在では失われている九十間長屋(きゅうじっけんながや)と考えられる。
九十間長屋の右側に見える洋風の建物は金沢に置かれていた旧陸軍第九師団司令部庁舎である。明治31年(1898)に完成し、現在は国立工芸館の一部として使用されている。司令部庁舎が建てられていた二の丸には幕末まで豪華な御殿や五十間長屋が存在していたが、明治14年(1881)の火災によって焼失してしまった。九十間長屋は焼失を免れ、撮影時は存在していたことがこの写真から分かる。
※画像には文字等を挿入している。
(図書寮文庫)
彦根城(滋賀県彦根市)は,徳川家康の重臣井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の合戦の戦功として佐和山城(同市内,石田三成の旧居城)を拝領したのち,その息子直勝(なおかつ)が彦根山に移転して築城を開始し,その弟直孝(なおたか)の代に完成した城郭である。琵琶湖に臨んで水運に長じたほか,中山道にも近く,西日本への抑えとなったといわれている。大老など江戸幕府の重職を担った井伊家の居城として幕末まで続き,現在は現存の天守が国宝に指定されている。
掲出の写真は,城北東の大洞(同市内)から松原内湖(戦中・戦後の干拓により消滅した琵琶湖の入り江)をはさんで彦根城の本丸を望んだもの。中央に天守の上層階が見えるほか,右端に西の丸三重櫓,左端にやや下がって天秤櫓が見える。かつての彦根城の姿をとどめた貴重な写真といえるだろう。撮影年代は定かでないが,他の写真のキャプションに記された施設名などから明治30~40年代に編まれたアルバムと推定される。