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この埴輪は,大阪府茨木市に所在する継体天皇三嶋藍野陵から出土した朝顔形埴輪である。口縁部(こうえんぶ)の直径約65cm。
朝顔形埴輪とは,器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり,その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となるが,本資料ではその円筒部分の大半が失われている。
朝顔形埴輪は,円筒埴輪とともに墳丘の平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成するものであり,埴輪が出現して間もないころからその終焉(しゅうえん)まで作り続けられた一般的な種類の埴輪といえる。壺はもともと飲食物の容器であり,それを器台にのせた状態を模した朝顔形埴輪は,円筒埴輪と同様に飲食物をささげる行為の象徴であったと考えられる。
なお,本資料では壺部分の肩部外面にイチョウの葉に似た線刻を観察することができる。タイトルのリンク先に線刻の画像を掲載しているので御覧いただきたい。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部東側から,昭和44年(1969)に出土した円筒埴輪の破片である。本例は,上半部分の一部が残存しているのみであり,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。口縁部での直径は復元で約44㎝,現状での残存高は約34㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳にみられる埴輪のなかで最も多く作られた種類といえる。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡がみられる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓(ふんぼ)の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪のなかで,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部から,昭和47年に出土した円筒埴輪である。本例は,その上半部分が欠損しており,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。底部での直径は約30㎝,現状での高さは約37㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳に見られる埴輪の中で最も多く作られた種類と言える。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡が見られる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪の中で,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(陵墓課)
本例は,奈良県大和高田市に所在する磐園(いわぞの)陵墓参考地から出土した鰭付(ひれつき)円筒埴輪である。
鰭付円筒埴輪とは,円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部を取りつけているもので,板状部分をヒレに見立てて,そう呼び習わしている。おもに古墳時代の前期から中期にかけて見られる。
古墳の墳丘上や周囲に埴輪を立て並べる際には,矢の入れ物である靫(ゆぎ)や盾(たて)といった武器・武具の形をした埴輪も並べられることがある。武器や武具は敵を追い払うためのものであることから,埴輪列は,古墳内への侵入を拒み,古墳や被葬者の静安を護ろうとするものであったと考えられる。本例のような鰭付円筒埴輪は,埴輪列に並べる際には,ヒレ同士が接するか,ヒレ同士を重ねるように立て並べることが知られている。埴輪同士の隙間を埋めるという意図が見て取れ,鰭付円筒埴輪も,古墳を護ろうとする意識を表現するものであったと思われる。
本例の復元高は110.0㎝,両側のヒレからヒレまでの最大幅は51.5㎝。本例は,鰭付円筒埴輪の全形をうかがいしることができる貴重な資料である。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(陵墓課)
本資料は,戦闘時に身を護る甲冑(かっちゅう/よろいかぶと)を表現した埴輪で,胴を護る短甲(たんこう/みじかよろい)部と,肩を護る肩甲(けんこう/かたよろい)部とが残る。現状高23.0cm。短甲とは,古代に用いられた甲のうち,歩兵が着用していたと考えられているものである。
古墳時代の短甲の実例に,三角形に加工した鉄板を革紐(かわひも)で綴じるものがある。この埴輪の短甲部は,粘土に刻んだ線で三角形の鉄板を,線をまたぐ粘土の粒で革紐を表現している。実物を横に置いて見ながら作ったのではないかと思えるほど,写実的に表現されている。
本資料は,宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群内に所在する男狭穂塚女狭穂塚(おさほづかめさほづか)陵墓参考地のうちの,女狭穂塚から出土した。女狭穂塚からは,本例のほか,円筒(えんとう)埴輪,朝顔形(あさがおがた)埴輪,家・盾・鶏などを模した形象埴輪が確認されている。これらの埴輪の種類と作り方の特徴は,遠く離れた大阪府羽曳野(はびきの)市・藤井寺(ふじいでら)市の古市(ふるいち)古墳群に所在する大型前方後円墳から出土したものとの共通点が多い。古墳時代における両地域の関係を知る上でも貴重な資料である。
(陵墓課)
靫(ゆき)の形を模した埴輪である。靫とは,矢を持ち運ぶ容器(矢入れ具)のうち,矢じりを上に向けて収納し,ランドセルのように背中に背負う種類のものをいう。
本品は,地面に立て並べるための四角い台の上に,靫そのものを模した部分が表現されている。矢を入れる容器を表現した箱形の部分はよく残っているが,その周囲に取り付いていた文様のある板状の部分は,左側の一部を除いて失われている。箱形部分の表面は直弧文(ちょっこもん)で飾られており,上端には,矢じりが浮き彫りによって写実的に表現されている。
現状で,高さ97.1㎝,最大幅55.4㎝。応神天皇恵我藻伏崗陵飛地ほ号(史跡墓山古墳)の後円部から,昭和25年に出土したものと伝わる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した,馬形埴輪の頭部である。元々は胴体も作られていたと考えられるが,現在は頭部のみが残存している。
眼,口,耳,たてがみのほか,ウマを操るために馬体に装着された部品(馬具)が表現されている。
たてがみは,上端を平たく切りそろえた状態を示しているものと思われる。
馬具は,頭部にめぐらされたベルトと,それらをつなぐ円環状の部品が表現されている。円環状の部品は,金属製のものの実例があり,実物をかなり忠実に再現していると考えられる。
このように本品は写実性が非常に高いにもかかわらず,乗馬に必要な轡(くつわ)や手綱(たづな)は表現されていない。乗馬用とは異なる目的に用いられたウマであったようだ。
本品は,我が国における初期のウマの利用方法を知ることができるだけではなく,馬形埴輪としても最古級の事例であり,埴輪祭祀の変遷を考える上で,非常に重要な資料である。現存高23.7㎝。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府羽曳野市に所在する応神天皇恵我藻伏崗陵から出土した蓋形埴輪である。
蓋とは,身分の高い人が外出する際にさしかける日傘のことで,衣笠や絹傘とも表記される。現在でも,お堂や厨子(ずし)の中に安置されている仏像の頭上に吊されているものや,寺院の儀式において身分の高い僧が歩く際にさしかけられているものを見ることができる。
蓋形埴輪のうち,蓋そのものを表現しているのは上半部で,下半部の台部は墳丘上に立て並べるためのものである。蓋部分は,スカート状に広がる笠部と,笠部の上の飾りを表現した立ち飾り部からなる例が多い。本品も,本来は上部の円筒部に立ち飾り部が差し込まれていたと思われるが,現在は失われている。
笠部には,横向きに粘土の帯を貼り付け,その上下の区画に,間隔を空けて縦向きの線が刻まれている。実物の蓋は,布や板などを骨組みに貼り合わせて作られていたと考えられており,粘土の帯や線刻はこれを表現したものと考えられる。現状高59.1㎝,笠部直径69.8㎝。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
奈良県桜井市に所在する倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した壺形埴輪である。
平成10年の台風7号は近畿地方を縦断して大きな被害を与えたが,大市墓においても墳丘上の樹木が多数倒れる被害が出た。本品は,その倒木の根起きによって出土したものである。
外見からは,通常の土器である「土師器(はじき)」の壺と区別することが難しいが,実は,焼き上げる前から底に孔があけられている。「貯める」という,壺の基本的な機能が否定されていることから,最初から「埴輪」として作られたことがわかる。
大市墓では昭和40年代にも壺形埴輪が出土しており,それと考え合わせると,前方部頂上の平坦面に,多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。