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(選択を解除)(宮内公文書館)
陵墓の拝所付近に設置された、銃猟を禁じる英文制札の絵図写しである。陵墓制札は江戸時代から存在していたが、明治6年(1873)に初めて陵墓制札の雛形が定められ、英文・仏文でも表記するように規定された。本資料には銃を交差して描かれた図の下に、「銃猟禁制」「Foreigners are requested not to shoot or catch birds or beasts.」(外国人が鳥獣を射撃すること、あるいは捕獲することを禁ず)と記されている。
また、本資料の左下には「堺県」の文字が見える。このことから、堺県が大阪府から分割して設置された明治元年から、明治14年に同府へ編入されるまでの時期に使用されていたと推定される。明治12年の清寧天皇陵(現・羽曳野市)の鳥瞰図を見ると、この「銃猟禁制」と思われる制札が拝所前に描かれている(「陵墓資料(図帖類)御陵図」識別番号42087、宮内公文書館所蔵)。
なお、本資料は昭和24年(1949)7月25日、宮内庁書陵部陵墓課において、大阪府南河内郡藤井寺町(現・藤井寺市)の個人所蔵文書を模写したものである。
(宮内公文書館)
明治36年(1903)4月、明治天皇は大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会に行幸になり、開会式で勅語を述べられた。改正条約実施後初の博覧会であるため諸外国からの出品も認められ、夜間には電灯によるイルミネーションが施されるなど、最後の内国勧業博覧会にして最大規模となった。博覧会の第2会場である堺には「附属水族館」(現・大浜公園内)が設置され、天皇と皇后(昭憲皇太后)は、5月5日と同6日にそれぞれ行幸・行啓になった。その後、堺の名所として知られるようになった堺水族館には、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう)(後の大正天皇)や同妃(後の貞明皇后)、明治天皇の皇女常宮昌子内親王(つねのみやまさこないしんのう)(後の竹田宮恒久王妃)、周宮房子内親王(かねのみやふさこないしんのう)(後の北白川宮成久王妃)なども訪れている。
立面図は、第5回内国勧業博覧会関係資料の一部として明治天皇の御手許へとあげられた資料(明治天皇御手許書類)(めいじてんのうおてもとしょるい)である。宮内公文書館では、水族館の図面のほか、博覧会で使用された各建物の図面等も所蔵している。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)と同様に宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる直径約10mの円墳である。大和3号墳は大和6号墳(円墳:直径約30m)と同様に宇和奈辺陵墓参考地の陪冢とされるが、その墳丘の規模はかなり小さい。
大和3号墳の埴輪には、宇和奈辺陵墓参考地や大和6号墳と同様のものも含まれる一方で、本資料のような小型品も含まれる点が特徴といえる。本資料は奈良市周辺においてこうした小型品の出現期となるものであり、小型品が成立する過程を考えるうえで重要な資料といえる。
なお、朝顔形埴輪とは器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり、その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。朝顔形埴輪の壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となっている。朝顔形埴輪は円筒埴輪とともに古墳の墳丘平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成していた。本資料では壺部分の大半が失われている。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(宮内公文書館)
日光御猟場の区域を示した図面である。御猟場は、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治15年(1882)5月、関東近郊に「聖上御遊猟場」が設定されることとなり、この時、群馬県、埼玉県、神奈川県、静岡県のほか、栃木県上都賀郡(かみつがぐん)の一円が指定された。その後、明治17年3月に指定の区域内において鳥獣猟が禁止となり、7月には禁止区域を拡張して、「日光御猟場」の名称が定められた。
本史料は明治19年の御猟場区域図で、広大な区域のため「狩猟ノ不便」で「取締向」も行き届かないことから、区域の縮小を行った際のものである。中央の青い部分に記された「幸之湖」は、現在の中禅寺湖にあたる。中禅寺湖や男体山(なんたいさん)を囲む山林一帯が御猟場区域に指定されたことが分かる。日光御猟場では雉(きじ)、鸐雉(やまどり)、兎(うさぎ)、鹿、猪、熊、羚羊(れいよう)などを対象に狩猟が行われていた。その後、日光御猟場は区域の変更を伴いながらも継続したが、大正14年(1925)に廃止された。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(宮内公文書館)
埼玉県下の江戸川筋御猟場は、明治16年(1883)の設置後、史料が作成された明治24年まで「人民苦情」もなく運営を続けてきた。しかし、千葉県などに設置された他の御猟場からは、農作物の被害などが多く、解除願いを出されるなど、宮内省は「時勢之変遷ニ随ヒ猶数十年之後迄」御猟場を継続するためには、「今日より粗計画無之テハ難相成」と考えていた。そこで、宮内省は埼玉県と御猟場を区域とする町村との間に契約を結ばせ、手当金を支払うことを決定する。史料は、その件に関して主猟局長であった山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)から埼玉県知事の久保田貫一(くぼたかんいち、1850-1942)へ宛てた照会文書の決裁である。埼玉県との調整の末、向こう15年間の契約で1反歩(約1,000平方メートル)あたり5厘の手当金が出されることになった。この後、契約の切れる明治39年に御猟場のある町村では、契約の更新か、打ち切りかをめぐって「御猟場問題」が持ち上がることになる。
(宮内公文書館)
宮内省主猟局長を務めた山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)の日記の写本。山口は明治天皇からの内命を受けて狩猟をするため、あるいは御猟場を見回るために、しばしば各地の御猟場を訪れている。明治25年(1892)2月1日からは、出張を命じられ千葉・埼玉の両県にまたがる江戸川筋御猟場を訪ねた。千葉県側から御猟場に入った山口は、2月3日より埼玉県側に移り、翌4日には宝珠花村(ほうしゅばなむら、現春日部市)に至る。史料は、4日の記事である。宝珠花村の堤上から雁猟(がんりょう)を見ていた山口は、見回(猟師)に雁猟の方法を指示すると、14羽の雁を猟獲したという。その日は午後から降雪のため、宝珠花村の中島市兵衛宅に宿泊し、雁猟をしていた見回(猟師)らを招いて晩酌をし、見回(猟師)らは皆、的確な山口の指示を賞賛したことが述べられている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
御猟場とは、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治17年(1884)、宮内省内に御猟場掛が設置され、明治21年には主猟局、同41年には主猟寮と改められ、全国の御猟場を管理していった。史料は明治16年6月に東京府(無色)・千葉県(朱色)・埼玉県(黄色)にわたる広範な範囲に設定された江戸川筋御猟場の範囲を示すものである。この時、習志野原(千葉県)、連光寺村(神奈川県、現在の東京都)、千波湖(茨城県)の3か所もあわせて御猟場に設定されている。江戸川筋御猟場では雁や鴨、鷭(ばん)、鷺、雉子(きじ)、千鳥などを対象に鳥猟が行われた。
東側はおよそ江戸川を、西側は陸羽街道(日光街道)を境界として、南側は東京湾まで範囲(史料中の朱線の内側)がおよんでいることがわかる。さらに、明治16年9月には東京府全域が削除され、明治17年6月には西側の境界が陸羽街道から岩槻街道へと広げられるなど、区域が改められた。この後、江戸川筋御猟場は縮小と拡大を繰り返しながらも存続し、昭和26年(1951)に廃止された。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
新冠(にいかっぷ)御料牧場の広大な土地に洋種牝馬(ひんば)を放牧している様子がうかがえる写真。明治期に撮影されたものと思われる。本写真は明治天皇御手許書類のなかに収められた,新冠御料牧場写真4枚の内の1枚である。
新冠御料牧場は,明治5年(1872)に開拓使が北海道日高国に設置した牧場をはじまりとする。明治5年に開拓使が設置した牧場は,北海道日高国静内(しずない)・新冠・沙流(さる)の3郡にまたがる約7万ヘクタールの土地に設けられた。明治16年12月,農商務省所管の新冠牧馬場が宮内省へ移管され,明治21年には主馬寮の所管となり,同場の名称も新冠御料牧場に改められた。牧場開設以来,日本在来馬の改良・繁殖に力を注いだ。大正11年(1922)には,宮内省下総牧場での馬の繁殖が中止となり,それに伴って同場から優秀な洋種の種馬と繁殖牝馬が移され,馬の生産は新冠で行われることとなった。新冠では,外国から各品種の種牡馬と種牝馬を輸入して,馬の飼養に力を入れた結果,優良な洋種が多数生産された。
(宮内公文書館)
明治38年(1905)春季,横浜・根岸競馬場において「皇帝陛下御賞典」(帝室御賞典)が始まった際の記事。宮内省で儀式に関する事務を行う式部職において作成・集積された日本競馬会に関する書類に収められている。本記事からは,「此度ノ賞品ハ例年ノモノニ比シ一層大形ニシテ革張ノ函ニ収容シアリ,頗ル美事ナルモノ」であったことがわかる。
現在の天皇賞につながる優勝賞品の下賜は,明治13年に根岸競馬場で行われた「ミカドズベースレース」(Mikado's Vase Race)に遡る。明治32年5月に明治天皇の最後となった競馬行幸以降も,皇室からの優勝賞品の下賜が続いた。以後,皇室としては,花瓶等の優勝賞品の下賜を通じて近代競馬の普及に貢献した。そして,これまでの御下賜品競走を統一して,最大の栄誉を勝馬と馬主に与えようとして生まれたのが,明治38年のエンペラーズカップ(皇帝陛下御賞盃競走,明治39年以降,帝室御賞典競走に名称を統一)である。下賜の賞品も,例年より豪華でサイズも大きい銀鉢へと変わった。
(宮内公文書館)
吹上御苑家根(やね)馬場の内部写真。雨天時に乗馬を行う場所であった。屋内であっても天井と両側の窓により,採光を確保する工夫が施されている。小川一真写真館撮影。本写真は大臣官房総務課が作成・取得したもので,吹上御苑内家根馬場の外観写真2枚とともにアルバムに収められている。
吹上御苑内に家根馬場(屋根附馬場)が竣工したのは,大正3年(1914)11月のことであった。これは屋根の付いた馬場(覆馬場(おおいばば))のことで,天候に左右されない屋内専用の乗馬練習場である。約559坪の広さであった。主馬頭などを歴任した藤波言忠の回顧談によれば,「主馬頭奉職中,今上陛下が雨天の際御乗馬の為に建築したるものにして,頗る堅牢なるもの」であったという。家根馬場は,主に大正天皇や皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御乗馬などに使用された。
なお,建物自体は,吹上御苑から皇居三の丸へ移築され,旧窓明館として現存している。
(宮内公文書館)
明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
明治天皇は,明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり大規模な巡幸を実施し,六大巡幸とも称されている。明治9年6月2日,明治天皇は六大巡幸の1つである東北・北海道へ巡幸の途に就いた。同月13日に福島県下白河に到着すると,白河城址に臨み,県下長坂村ほか14か村から集められた産馬1500頭余を御覧になった。この他に牧馬の業を興した八田部才助を近くに召しその功労を賞するなどした。写真は,産馬天覧の様子を写真師の長谷川吉次郎が撮影したものである。大正15年(1926)10月5日に白河町長の丸野実行から「明治天皇紀」を編修するために設置された宮内省臨時帝室編修局へ寄贈された。この東北・北海道巡幸ではこの他にも福島県下の須賀川や宮城県,岩手県においても産馬を御覧になっている。特に岩手県下水沢においては,のちに明治天皇の御料馬として知られる金華山号が買い上げられている。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(陵墓課)
本品は「石釧」と呼ばれる,古墳時代の前半期(4世紀~5世紀前半)に見られる遺物である。形は正円に近く,直径は6.9cm。
「釧」は腕輪の古い呼び方であるので,「石釧」は,文字のとおりだと「石でできた腕輪」となる。しかし実は,その用途は腕輪とは言い切れず,以前に当ギャラリーで紹介した鍬形石(くわがたいし)や車輪石(しゃりんせき)と同様に,所有することに意義がある宝物であると考えられる。
鍬形石はゴホウラという巻貝,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪をそれぞれ原形とする説が有力であるが,石釧はイモガイという巻貝から作られた腕輪がその原形と考えられる。鍬形石,車輪石,石釧のいずれもが腕輪を原形として石で作られていることから,考古学の用語では,この3種類の遺物を総称して,「腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)」と呼ぶこともある。
石釧はこの3種類のうちでは最も出土数が多く,更に出土範囲も広いことから,使用されていた期間が他の2種類に比べて長いものと考えられる。また,材料の石も,硬い碧玉(へきぎょく),やや軟らかめの緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん),更に軟らかい滑石(かっせき)など,他の2種類に比べて多岐にわたっている。こうした状況から,石釧の作られた場所や流通の状況が,他の2種類とは少し異なっていたものと考えられる。いずれにせよ,古墳時代前期の社会を考えていく上で,重要な遺物である。