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(選択を解除)(図書寮文庫)
江戸時代の幕末に描かれた、蓮華峯寺陵の図である。蓮華峯寺陵は、京都の北嵯峨に所在する陵墓。後宇多天皇及びその母后の御陵であるとともに、亀山天皇以下3方の分骨所でもある。図の右側には、御陵の中核をなす大型の石造五輪塔1基と、小型の石造五輪塔2基が描かれる。これら3基の石塔は、実際には木造の覆い堂の中に安置されている。左側に描かれている建物がそれである。
掲出図は、図書寮文庫が所蔵する「文久山陵図(草稿)」という資料の一部。資料名にみえる「文久山陵図」とは、幕末に行われた陵墓の修補事業に関連して作成された画帖である。本資料はこの「文久山陵図」作成時の草稿(下図)に相当するものと考えられている。本資料には、「文久山陵図」と画題・構図を異にする図がいくつか収載されており、掲出図もその一つである。蓮華峯寺陵を描いた図は、本資料中に3点ある。そのうち、掲出図を除く2点は「文久山陵図」収載の図と酷似する。しかし、掲出図のような覆い堂と石塔のみを描いた図は、本資料独自のものである。
(図書寮文庫)
本書は、永正9年(1512)4月26日に行われた知仁親王(ともひと、1496-1557、のちの第105代後奈良天皇〈御在位1526-57〉)御元服の記録で、紀伝道家の公卿東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが、1460-1530)の日記『和長卿記』の別記である。内容は「永正九年若宮御元服記」(『続群書類従』公事部所収)として知られているものではあるが、本書は室町後期写の善本である。知仁親王は第104代後柏原天皇(御在位1500-26)の第二皇子で、この年4月8日に親王宣下があって知仁の名を賜り、26日に小御所において元服の儀が行われた。時に親王17歳。元服は加冠とも称され、理髪(成人の髪に結う)・加冠(冠を被せる)が行われ、成人となる儀式である。これ以降、髷(まげ)を結い日常的に烏帽子(えぼし)ないし冠を身に着ける。儀式の中心である理髪の役は頭右中将正親町実胤(おおぎまちさねたね、1490-1566)、加冠の役は関白九条尚経(くじょうひさつね、1469-1530)がつとめた。本書が九条家に伝来したのはこのあたりに理由があろうか。和長は当日、童形装束の儀に参仕し、故実への関心より小御所の室礼の図などを含めて、元服の儀全般にわたって詳細な記録を残したのである。ちなみに本書には『続群書類従』本と同じく永正9年の持明院基春(じみょういんもとはる、1453-1535)の元奥書、さらに寛永20年(1643)の九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の一見奥書がある。九条家本。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土したと伝えられる水鳥形埴輪である。現在は首から頭部にかけてのみ残存しているが、本来は、嘴(くちばし)や胴部もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約32.5cmである。
水鳥形埴輪は、ガン・カモ類などの水鳥をかたどった埴輪を指し、本資料は、首が長いことから、白鳥を現しているとの意見もある。
頭部の両側面には穴があけられており、嘴の近くには竹管による表現が2箇所見られる。一見すると、目と鼻孔を現しているように見えるが、水鳥形埴輪の鼻孔は、扁平な工具を刺突して細長く表現することが多い。また、本資料の目は低い位置にあり、写実的とはいえない。
一方、両側面の穴で耳孔を、竹管を押しつけて目を現した事例も存在する。耳孔を穿つ事例としては鶏形埴輪があり、本資料の表現は酷似しているが、鶏冠の表現や痕跡はない。水鳥形埴輪でも耳孔を表現した事例は確認されているが、穴ではなく工具の刺突や竹管による表現が多い。
本資料は見方によって印象が変わる、魅力と謎の多い埴輪である。
(図書寮文庫)
本資料は、「賢人右府」(けんじんうふ)と称された藤原実資(ふじわらのさねすけ、957-1046)の日記である。掲出箇所は長和5年(1016)正月29日に、三条天皇(976-1017)から敦成親王(あつひら、後一条天皇、1008-36)への譲位に当たり、皇位の象徴である剣璽(けんじ)が親王のもとに移される場面である。
当時、藤原道長(みちなが、966-1028)は、娘藤原彰子(しょうし、988-1074)所生の敦成親王を即位させようと、三条天皇に度重なる圧力をかけていた。天皇は持病の眼病の悪化もあり、ついにこの日位を退かれた。この時、天皇の御在所である枇杷院(びわいん)から、幼少の敦成親王が住む道長邸の土御門殿(つちみかどどの)へ、どのように剣璽を移動させるかが議論となった。その結果、公卿たちが行幸の如く行列を組み、京内を移動して剣璽が土御門殿にもたらされることとなった。
掲出箇所には、土御門殿到着後、左大臣の道長らが剣璽のそばに付き従い、母后(彰子)のいる寝殿の前を通過したことが記されている。絶頂期を迎えつつあった道長政権を象徴する一幕といえよう。
なお、本資料は、平安時代から鎌倉時代頃に書写された九条家旧蔵本で、掲出箇所を含む長和5年正月の部分については、現存する唯一の古写本である。
(図書寮文庫)
室町時代以前には、大嘗祭を挙行する年の10月末に、天皇が賀茂川岸に行幸し、自ら身を清められる御禊行幸が行われていた。本資料は、延慶2年(1309)10月21日に行われた花園天皇(1297-1348)の御禊行幸について、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)が記した記録である。
洞院公賢はその邸宅「中園殿」(なかぞのどの)にちなんで中園太政大臣と称されたため、彼の日記は『園太暦』と呼ばれる。掲出画像冒頭に「愚記」とあるのは自らの日記を謙遜した呼称である。本資料所収の記事は一般に流布した日次記には含まれず、知られる限りでは最も古いものである。本書は図書寮文庫所蔵「大嘗会御禊行幸記」(415・307)と接続するもので、もともとは御禊行幸の部類記を構成する記録の1つであったが、極めて貴重な自筆の園太暦ということで旧蔵者により個別に装訂された。
洞院公賢は当時参議左大弁で、この日の御禊行幸に随従した公卿のうちの1人である。彼は河原に到着した後は幄舎(あくしゃ)で待機していたらしく、天皇の御禊儀に関する記述は伝聞によるものだが、行幸に供奉した官人の一覧を、行列次第の順に記しているのが注目され、当時の行幸のあり方を知ることができる点で興味深い。
(図書寮文庫)
本資料は、花園天皇(1297-1348)の大嘗祭に先立ち、延慶2年(1309)10月21日に行われた賀茂川岸への御禊行幸に関する記録を、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)がまとめた部類記である。
収録されている記録は順番に、良枝記(記主:清原良枝(きよはらのよしえ、1253-1331))、経親卿記(記主:平経親(たいらのつねちか、生没年未詳))、継塵記(記主:三条実任(さんじょうさねとう、1264-1338))で、本来は良枝記と経親卿記の間(掲出箇所)に図書寮文庫所蔵「園太暦」(415・309)が接続していたが、旧蔵者により分離されている。
御禊行幸は平安時代後期より上皇が沿道に御桟敷を設けて行列を見物されるのが通例となるが、この日は花園天皇の父・伏見上皇(1265-1317)と、兄・後伏見上皇(1288-1336)による御見物が行われた。平経親は伏見上皇の近臣として御見物に供奉しており、本資料は御見物の詳細を知ることができる貴重な記録といえよう。なお、この日の御見物は御桟敷を略して車中にて行われている。
(図書寮文庫)
令和6年(2024)は後亀山天皇(?-1424)の崩御から600年に当たる。後亀山天皇は明徳3年(1392)に南北朝の合一が果たされた時の南朝の天皇であり、本資料は、天皇が吉野(南山)から京都に入御され、三種の神器を北朝の後小松天皇(1377-1433)に譲られた際の記録である。
南朝勢力の減退が著しい中即位された後亀山天皇は、北朝方との和平交渉を進められた。そして、譲位の儀式による後亀山天皇から後小松天皇への神器の授与、両朝交互の皇位継承などの講和条件が、北朝方の室町幕府将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)から提示され、後亀山天皇はこれを受諾された。
掲出画像は、明徳3年10月28日に後亀山天皇が吉野を出発された際の行列部分である。腰輿に乗られた天皇が弟宮とわずかな廷臣・武士を従えた、少人数の一行であったことが分かる。翌閏10月2日、天皇は京都の大覚寺に入られ、同月5日に神器が後小松天皇のもとに移され内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)が行われたものの、譲位の儀式は行われなかった。
なお、応永19年(1412)、後小松天皇から皇子躬仁親王(みひと、称光天皇、1401-28)への譲位が行われ、後亀山天皇の御子孫が皇位につくことはなかった。
(図書寮文庫)
本資料は、嘉永元年(1848)11月に行われた、孝明天皇(1831-66)の大嘗祭(大祀とも称する)の豊明節会で用いられた笏紙である。豊明節会とは、五節舞姫(ごせちのまいひめ)による舞などが披露される饗宴儀礼であり、大嘗祭の場合は通例4日目の午の日に行われた。
笏紙とは、儀式本番での失敗を防ぐため公家たちが用いた、一種の手控えである。掲出画像左側にあるものを見ると、笏の形に合わせて縦30㎝弱に切られた紙に、儀式の次第が書き連ねられているのが分かる。これを笏の裏側に貼ることで、参列者は儀式当日に笏を構えた際、儀式の流れを暗に確認できた。
本資料は鷹司家に伝来したもので、豊明節会の内弁(ないべん、儀式の進行を統括する役職)を務めた鷹司輔煕(たかつかさすけひろ、1807-78)によって作成された。輔煕は念のため、天皇が出御した場合の笏紙(掲出画像の右)と、不出御となった場合の笏紙(同左)の2枚を作ったが、当日天皇は節会に出御したため、前者が用いられた。右の笏紙は次第を記した表面ではなく、裏面を掲出しているが、その上下端はわずかに変色している。これは当日、笏に貼り付けた際の糊跡である。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地は奈良市に所在する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、墳長は約270mである。当参考地では、令和2年に整備工事に先立つ事前調査が行われ、墳丘第1段平坦面における円筒埴輪列などが確認された(令和4年3月刊行『書陵部紀要』第73号〔陵墓篇〕に掲載)。また、この調査の際には、墳丘の裾部分において多くの埴輪片が採集された(令和6年3月刊行『書陵部紀要』第75号〔陵墓篇〕に掲載)。
本資料は、上記の調査が実施される以前に採集されたもので(詳細は不明)、鰭付円筒埴輪の口縁部~胴部にかけての破片である。鰭付円筒埴輪とは円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部(鰭)を取りつけたもので、古墳時代前期によくみられる円筒埴輪の一種である。本資料でみられる間隔の狭い口縁部や、三角形の透孔(すかしこう)も同様に古墳時代前期の埴輪にみられる特徴といえる。
しかし、当参考地の埴輪にみられるその他の製作技法(焼成方法や外面の調整方法)は古墳時代中期中頃の特徴を示すものであり、上記の外形的な特徴が盛行した年代とは齟齬をきたす。この点については、古墳時代前期における埴輪の外形的な特徴が復古的に採用されたと考えられている。
なお、本資料は外面に赤色顔料が塗布されており、欠損部分と比較すると本資料の完成時はかなり赤い色であったことが推測される。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)は直径約30mの円墳で、宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の飛地として昭和20年の終戦直前まで宮内省によって管理されていたが、進駐軍のキャンプ地に取り込まれたため、結果的に削平されて墳丘は現存していない。
築造されたと推定される位置から判断して宇和奈辺陵墓参考地の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる。大和6号墳は鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄の延べ板が昭和20年に削平された際に大量に出土したことで著名であり、しばしば教科書にも紹介されることがある。
本資料は、この大和6号墳から出土したと推測される鰭付円筒埴輪と呼ばれる円筒埴輪の一種の破片で、胴部から底部にかけて残存している。主墳(しゅふん)である宇和奈辺陵墓参考地とは古墳の形や規模が大きく異なるものの、使用されている円筒埴輪の形状や大きさが宇和奈辺陵墓参考地と同じ様相であり、大和6号墳の規模からすると大型なものが使用されている点が特徴的といえる。これは同時期における同規模の円墳では想定しがたい円筒埴輪の様相であり、主墳(しゅふん)と陪冢(ばいちょう)という関係を踏まえて埴輪の生産と供給を考える必要性をうかがわせる。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)と同様に宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる直径約10mの円墳である。大和3号墳は大和6号墳(円墳:直径約30m)と同様に宇和奈辺陵墓参考地の陪冢とされるが、その墳丘の規模はかなり小さい。
大和3号墳の埴輪には、宇和奈辺陵墓参考地や大和6号墳と同様のものも含まれる一方で、本資料のような小型品も含まれる点が特徴といえる。本資料は奈良市周辺においてこうした小型品の出現期となるものであり、小型品が成立する過程を考えるうえで重要な資料といえる。
なお、朝顔形埴輪とは器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり、その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。朝顔形埴輪の壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となっている。朝顔形埴輪は円筒埴輪とともに古墳の墳丘平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成していた。本資料では壺部分の大半が失われている。
(陵墓課)
鍬形石とは、過去に当ギャラリーで紹介したことがあるが、本来は貝の腕輪をかたどって碧玉(へきぎょく)と呼ばれるきれいな緑色の石材で作られた権威を象徴する器物の一種であり、大きな古墳を築くことのできる、比較的地位の高い人物の所有品という側面をもっている。しかし、本資料は大半の部位を欠いているため、「残欠」という名称が付随しており、見た目の全体像もわかりにくい。掲出した画像で縦方向の現存長が7.9cm である。
考古学で扱う資料は、一般に「出土品」などと呼ばれるように、地中に埋没していたことで、壊れていたり、表面が磨り減ったりした状態で発見されることが多い。一方で、見た目も立派で全体像がわかる資料の方が、博物館の展示などでは重宝されるが、それだけでは資料の価値は決まらない。破片資料は、時には意図的に壊したりしたと考えられる状況で発見されることもあれば、壊れていることによって、外からでは見えない作り方や断面の情報が得られることがあり、無傷の資料では得られない情報を提供してくれることも多い。
能登半島で発見された本資料の場合は、近畿地方を中心に出土する鍬形石の分布域の東縁にあたり、古墳時代の王権の影響力が何らかの形で反映されたものと考えられ、それを示す重要な資料として位置づけられる。発見されてから既に100年以上が経過しているが、未だこの分布域より東での新資料の発見はない。いずれ、さらに東の地域で発見される時が来るかもしれないが、本資料が重要であることに変わりはない。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(図書寮文庫)
本資料は、朝廷の政治事務を司る官職である「外記・史」(げき・し)の「分配」(ぶんぱい)に関する記録である。「分配」とは、朝廷の儀式や行事の役割分担、配置をあらかじめ定めておくことをいう。史を統括する壬生家に伝わったもので、天文4年(1535)~寛永8年(1631)の分について、儀式・行事ごとに開催年月日、分配の対象者、下行(げぎょう、経費・給与の支給)等が記されている。これらから、戦国~江戸時代の朝廷儀礼、外記・史の人々の様相をうかがい知ることができる。
画像中央に「天正十四年 関白秀吉様/太政大臣 宣下」と見えるのは、天正14年(1586)、羽柴(豊臣)秀吉が太政大臣に任じられた際のもので、この時は外記・史を兼任する中原「康政」が宣下の儀式に参仕したことがわかる。また、「三貫」(約30~60万円)の下行のあったことが注記されている。
また、その右側にある「着陣」とは、廷臣が叙位・任官した後、初執務を行う儀礼で、名前の見える羽柴「美濃守」秀長、羽柴「孫七郎」秀次、徳川「家康」、「伊勢御本所」こと織田信雄は、この天正14年に官位が昇進している。
(陵墓課)
本資料は、福岡県京都郡苅田町に所在する御所山古墳から出土した碧玉製の管玉を首飾り状に連ねたものである。管玉とは、石材を円筒形に加工した玉類の一種で、縦方向に穿たれた孔に紐を通すことで装身具として使用された。
本資料は、計10点の管玉から構成されており、個別の長さは1.2~1.8cmである。管玉一つ一つに目を向けると、太さや色調は個体ごとに少しずつ異なり、一部には朱が付着しているようすを確認できる。勾玉のような特徴的な形はしていないが、写真のように連なることで、碧玉の美しい青緑色が強調され、目を奪われる。
本資料が出土した御所山古墳は、古墳時代中期の豊前(ぶぜん)地域を代表する墳長約120mの前方後円墳である。明治20年(1887)に実施された学術調査の記録によると、管玉などの装飾品は被葬者の頭部周辺に集まっていたとされ、本資料は装身具として被葬者が身につけていたと考えられる。
(図書寮文庫)
延喜式(50巻)は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。
本資料は壬生(みぶ)家旧蔵で、巻1から巻8と巻13を欠き、2巻ずつを1冊(巻14のみ1冊)とした21冊本である。各冊の表紙に「共廿五」とあることから、本来は25冊であったことがうかがえる。ただし巻14のみ1冊であることから、もとより巻13を欠いていたとみられている。8冊に壬生家の蔵書印である「禰家蔵書」(でいけぞうしょ)印が捺される。
書写に関する奥書等は存しないが、江戸初期の本とみられる。全体を通して付されている傍訓やヲコト点等、古い写本の流れを受け継ぐ他、巻17には他の写本にあまりみられない「弘」「貞」といった標注が見えている。
鈴鹿(すずか)文庫旧蔵(現在大和文華館所蔵)の延喜式板本に清岡長親(きよおかながちか、1772-1821)が文政3年(1820)に壬生以寧(みぶしげやす、1793-1847)所蔵本で校訂した旨の奥書が見えるが、その本が本資料に当たるとみられる。
(陵墓課)
愛媛県松山市に所在する波賀部神社古墳から出土した金環である。金環とは古墳時代の耳飾りのことであり、本資料は垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)ともいわれるタイプの耳飾りの一部である。垂飾付耳飾は主環に垂飾(垂れ飾り)が付属したものであるが、本資料は垂飾が失われており、主環に連結された小さな銀製の遊環が残るのみである。主環の平面形はやや楕円で幅約20㎜、断面形は正円で直径3.5㎜である。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料の主環は、純金特有の黄色みが薄く、破断面も銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金をほどこした銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品であった可能性がある。このことは、蛍光X線分析で銅と銀が強く、金と水銀がわずかに検出されたことからも裏付けられる。
(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(図書寮文庫)
古代において、土地税である田租の賦課対象でありながら、災害等により特定の年に耕作不能となった田地を、不堪佃田(ふかんでんでん、佃(たつく)るに堪えざる田)という。
平安時代には、不堪佃田は各国の官長である受領(ずりょう)が朝廷に申請し、天皇の裁可を得ることにより、その年の租税の一部を免除された。この手続きは、各国の申請をとりまとめ、先例を調査した結果を記した勘文(かんもん)とともに奏上する荒奏(あらそう)、天皇の指示を受けて公卿が審議する不堪佃田定(ふかんでんでんさだめ)、審議の結果を記した定文(さだめぶみ)を奏上する和奏(にぎそう)からなる。
本資料は、建長 6 年(1254)度の申請を対象とする手続きにあたり作成された文書の写しで、申請国を整理した注文と勘文・定文(掲出箇所)の 3 種類が貼り継がれている。鎌倉時代のものであるが、平安時代の儀式書に記された文書様式とよく一致し、古い政務の具体像を復元する一助となる。
本資料の勘文は文永 3 年(1266)、定文は元応元年(1319)に奏上された旨が記されており、申請年と荒奏・和奏の間隔が大きく離れていて、租税免除の実態は既に失われている。政務が形骸化しつつも、地方統治を象徴する吉礼として行われたと考えられる。
(図書寮文庫)
本資料は、寛永 20 年(1643)に行われた後光明天皇(1633-54)の即位礼に際して作られたと推定される、天皇の礼服(らいふく)のミニチュア・モデルである。礼服とは、古代中国の制度を起源とする、特定の国家的儀式で着用する礼装のことである。日本においては、平安時代前期に即位礼などで用いられる服装として定められ、弘化 4 年(1847)に行われた孝明天皇の即位礼に至るまで用いられた。
天皇の礼服は、中国の皇帝が同様の儀式で着する衣装を踏襲したもので、多くの服飾から成るが、本資料で模造されているのは、上下の上着部分である大袖(おおそで、掲出画像の上部)および裳(も、掲出画像の下部)のみである。実物は鮮やかな赤色の生地であり、左右の袖に織られた二匹の龍をはじめ、十二章(じゅうにしょう)と総称される文様が刺繍されているが、ここでは紙を切り合わせて縦 20 ㎝・横 30 ㎝前後のサイズで形状を再現し、文様や折り目を墨で描いている。ただし、現存する天皇の礼服と比べると、図像の一部に相違や省略がある。なお、礼服の詳細については、『皇室制度史料 儀制 践祚・即位 二』(宮内庁、令和 5 年 3 月)も参照されたい。