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古代において、土地税である田租の賦課対象でありながら、災害等により特定の年に耕作不能となった田地を、不堪佃田(ふかんでんでん、佃(たつく)るに堪えざる田)という。
平安時代には、不堪佃田は各国の官長である受領(ずりょう)が朝廷に申請し、天皇の裁可を得ることにより、その年の租税の一部を免除された。この手続きは、各国の申請をとりまとめ、先例を調査した結果を記した勘文(かんもん)とともに奏上する荒奏(あらそう)、天皇の指示を受けて公卿が審議する不堪佃田定(ふかんでんでんさだめ)、審議の結果を記した定文(さだめぶみ)を奏上する和奏(にぎそう)からなる。
本資料は、建長 6 年(1254)度の申請を対象とする手続きにあたり作成された文書の写しで、申請国を整理した注文と勘文・定文(掲出箇所)の 3 種類が貼り継がれている。鎌倉時代のものであるが、平安時代の儀式書に記された文書様式とよく一致し、古い政務の具体像を復元する一助となる。
本資料の勘文は文永 3 年(1266)、定文は元応元年(1319)に奏上された旨が記されており、申請年と荒奏・和奏の間隔が大きく離れていて、租税免除の実態は既に失われている。政務が形骸化しつつも、地方統治を象徴する吉礼として行われたと考えられる。
(図書寮文庫)
本文書は、正安元年(1299)に鎌倉幕府が御家人長沼宗秀(ながぬまむねひで)に与えた下文で、宗秀の亡父宗泰の譲与のとおりに、美濃国石太・五里郷(いそほ・ごのりごう、現在の岐阜県大野町)や下野国長沼荘(現在の栃木県二宮町)等の領有を認めたものである。ときの執権「相模守」北条貞時と連署の「陸奥守」同宣時が花押をすえている。
長沼氏は長沼荘を本領とする御家人で、藤原秀郷の末裔、同国の大豪族小山氏の分流にあたる。家祖の宗政(小山政光の二男、宗秀の曾祖父)は、父や兄弟の小山朝政・結城朝光とともに治承・寿永の内乱(源平合戦)や承久の乱でも活躍し、陸奥国長江荘(現在の福島県南会津町ほか)や淡路国守護職を獲得した。この文書にも、長沼家が相伝した列島各地の所領等が列記されている。
本文書は本来、長沼家とその末裔皆川家の家伝文書(現在は個人蔵および文化庁所蔵などに分割)の一通だったと思われるが、いつしか分かれて園城寺(現在の滋賀県大津市)のもとに移り、のち当部の所蔵するところとなった。
(図書寮文庫)
伏見法皇(第92代)は文保元年(1317)6月14日に御発病後、御領等の処置について4紙にわたる10箇条の御置文(おんおきぶみ)をしたためられた。当部にはそのうち2紙目から4紙目までが所蔵されており、掲載の写真はその2紙目と3紙目(全体の3紙目と4紙目)の裏の紙継ぎ目にすえられた法皇の御花押である。
紙継ぎ目の裏花押は、各紙が分離した際に、本来接続して一体である証拠となることなどを目的にすえられる。本御置文の1紙目(全体の2紙目)裏にも、御花押の右半分が残されているが、実は東山御文庫に所蔵されている「伏見天皇御処分帳」(勅封番号101-1-1-1)一通の裏に、御花押の左半分が存在し、表の記載内容からも、両者が本来一体のものであったことが判明する。裏花押の役割が全うされた好例といえるだろう。
なお、御置文がしたためられた当時の朝廷は、鎌倉幕府の影響を受けつつ内部に対立状況が存在し、本来花園天皇(第95代)が継承されるべき御領は半減しており、御置文で法皇はその完全な回復を切望されている。また、法皇御近親の女性皇族方への御配慮の御様子も伺われ、法皇の本置文の内容を後世に伝え残そうとする強いお気持ちから、紙継ぎ目に御花押をすえられたものと思われる。法皇の御病状はその後快復されることなく、同年9月3日、53歳で崩御されている。
(図書寮文庫)
鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本状は,九条家領荘園のひとつ摂津国生嶋荘(いくしまのしょう・現在の兵庫県尼崎市)の関連史料で,写真はその本文部分。作成者覚照は,同荘を開発した一族の流れを汲むと称する人物である。彼によれば,理由なく没収された同荘の返還を九条家に求めたところ,同家領荘園の播磨国田原荘(たはらのしょう・現在の兵庫県福崎町)西光寺(さいこうじ)院主職(いんじゅしき)が代替として与えられることになったが,西光寺の僧侶や田原荘の住人たちは激しく反発して受け入れられなかった。そこで正応4年(1291)7月改めて生嶋荘の返還を要求したのが,本状である。覚照は田原荘の住人たちが様々な悪行を行って抵抗したとしており,別の文書ではその中心人物である行心たちを「悪党」と糾弾している。
悪党は,13世紀末期以降の地域社会において,統治体制の変化などから自らの権益や正当性が脅かされそうになったとき,実力でその保全を達成しようとした人びとに対する呼称である。覚照が新たに田原荘の中核的寺院の要職に送り込まれることは,住人が作り上げ,維持していた地域社会のバランスが動揺する危険をはらんでいた。行心たちは,荘園領主九条家の事情によってもたらされた地域社会の危機に対応したのである。
(図書寮文庫)
『白氏文集』(はくしぶんしゅう)は,中国唐代中期の詩人・白居易(はく・きょい,772-846,字は楽天)の詩文集。はじめ親友の元稹(げん・じん,779-831)により編まれ,その後居易自身が生涯にわたって加筆したもの。『文集』は早くも居易の生前よりもてはやされ,日本にも存命中に渡来した。日本の漢文学はもちろん,『源氏物語』など国文学へも強く影響したことが知られる。
さて,本資料は,九条家旧蔵の残巻類の包みより出現した,鎌倉初期の書写と思われる『文集』巻16の残簡1葉。大ぶりの料紙に墨で界線(枠)を引き,毎行15字で書かれ,欠損はあるが24行残存している。内容は巻頭の「東南行(東南のうた)」という詩の一部である。居易が左遷された都・長安より東南の江州の景や,長安での思い出を詠んだ作品。文中の小字は居易自身による注釈(自注)を写したもの。本資料はたった1枚にすぎないが,唐代に写本で流布した『文集』の本文が我が国において保存された,いわゆる「旧鈔本」(ふるい手書き本)のひとつの姿を伝える点に意義がある。
なお,『管見記』(F11・1)巻102の紙背にも,鎌倉時代の書写で,同じく『文集』巻16の別の部分(巻末)が遺る。
(図書寮文庫)
「宿曜勘文」(すくよう/しゅくよう かんもん)とは,占いや呪いを行う宿曜師(すくようじ/しゅくようじ)と呼ばれた僧侶が,個人の運命や吉凶を占った文書のこと。承元2年(1208)11月付けの本文書は,翌3年に40歳になるある人物について占ったもので,前後の文書との関係や年齢などから公家飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に宛てたものと推測される。本文には「妻子や眷属に不快なことが起こる」「春・夏ごろ,潔白でも他人の誹謗に遭う」「秋・冬ごろは裕福になり名声も得る」「正・4・7・8・10・11月は厄月」などと書かれているが,実際にその年の雅経の運命がどうだったのかは記録がなく定かではない。
九条家本『賭弓部類記』巻1-2の紙背に残された一通であり,残存例が決して多くない宿曜勘文のひとつとして,貴重なものである。『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
この文書は,九条家本『賭弓部類記』巻2のうちの1紙の紙背で,もとは某の書状の礼紙(第2紙)であった。右端にはその「六月九日」の日付や宛名書きの「少将殿」などが見えるが,それとともに,紙の全体にわたってぼんやりと左右逆の文字が並んでいるのも確認できるだろう。これは「墨影文書(ぼくえいもんじょ,墨映文書とも)」と呼ばれるもので,紙どうしが湿気を含んだ状態で長時間圧着されると,にじんだ墨が隣の紙にうつって起こる現象である。
この墨影文書のもとの文書も,同じ『賭弓部類記』巻2の紙背に存在する。ただし,中途で切り分けられ,ばらばらの状態で残されており,それだけでは本来のかたちがわからなかった。それが,この墨影によってもとはつながった1通の書状だったと復元できるのである。これらの書状が不要となったのち反故紙としてストックされ,裏を返して『賭弓部類記』を書写されるまでの間の,紙のありようをさまざまに物語っている。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
この文書は,後鳥羽上皇(1180-1239,在位1183-98)が「二条中将」と呼ばれた飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に与えた院宣である。承元3年(1209)のものと推定される。近江国伊庭荘(いばのしょう,現在の滋賀県東近江市一帯)に課されたなんらかの税負担について,伊勢神宮内宮の式年遷宮と重なって立て込んでいるけれども,ぬかりないように納めよと命じる内容のもの。奉者は後鳥羽上皇の近臣の民部卿藤原長房(ながふさ,1170-1243)か。伊庭荘の一部は九条家領だったと思しいが,これに飛鳥井雅経がなぜかかわったのかは明らかでない。
九条家本『賭弓部類記』巻2の紙背に残された1通で,『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
九条家本『日王苑寺十二箇条起請』の紙背(裏)に残された,鎌倉幕府の重臣大江広元(おおえのひろもと,1148-1225)の書状。もとは京都の官人であった広元は,源平合戦のころに鎌倉に下って源頼朝に仕え,幕府の樹立に貢献した人物で,頼朝没後も北条政子・義時姉弟をたすけて幕政を支えた。
掲出の画像は,2枚続きの広元書状の第2紙で,壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡して間もない元暦2年(1185)4月のものと推測される。京都の官人から受けた訴訟に対して,一部を除いて鎌倉幕府の管轄外であるので後白河院のもとに訴え出よ,としている。その上で「天下の訴訟も世間の政務も,みな後白河法皇の御沙汰である」と述べていることは,平氏滅亡直後の後白河院と鎌倉幕府との関係を物語るものとして興味深い。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
元久2年(1205)3月,『新古今和歌集』の完成を祝う宴(竟宴:きょうえん)が行われた。『新古今和歌集』は,後鳥羽天皇(1180-1239)の命によって編まれた勅撰和歌集である。その宴席で歌会が行われ,摂政太政大臣九条良経(よしつね:1169-1206)が詠んだ和歌の懐紙を掛幅(かけふく)に仕立てたものである。九条家旧蔵。
作者の良経は,和歌・漢詩・書道に優れた才能を発揮した人物で『百人一首』にも撰ばれた歌人。『新古今和歌集』では和歌所寄人(わかどころよりうど)として撰集に深く関わり,同集の「仮名序」を執筆した。本画像の「敷島や」の歌では歌集編纂の難しさを「ことばの海から玉を拾い磨く」と表現した。
ところで歌会においては,出詠者自らが詠歌を懐紙や短冊に記すのが通例である。良経ら竟宴歌会出詠者の自筆懐紙は,貼り繋いで巻子本にして後鳥羽天皇が保存されたようである(巻子原本は現存しないが,室町中期の模写本が残る)。この懐紙を注意深く見ると「大臣従一位臣」の辺りに重ね書きの痕跡があり,清書ではなく下書きであると思われ,また代々九条家に大事に伝わったことを合わせると,良経の自筆の可能性は高い。ただし,仮名書きの自筆資料が他に見いだせず比較が出来ないため,「伝 九条良経」とする次第である。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の摂関家の当主藤原(九条)忠家(1229-75)による手習いの跡である。摂関家の一つ九条家に生まれた忠家は,嘉禎元年(1235)に父教実の急逝に遭うも,摂政関白や関東申次などの要職を歴任して権勢をふるった九条道家(1193-1252)の孫として貴族社会に認められ,仁治2年(1241)13歳で正二位に昇る。さらに寛元2年(1244)内大臣を経て,同4年18歳で右大臣と,早いスピードで昇進した。手習いは,『白氏文集』巻2・巻16の一部や和歌題,書状の定型句などを書き散らす中に,「右大臣(花押)」を繰り返し記しているのが目立つことから,その頃のものである可能性がある。料紙は,主要な政務や儀式の次第を書いた巻子の紙背(裏面)を用いている。歴史上の人物による,こうした手習いの痕跡が残ることは非常に稀である。複雑な花押の書き様には,練習を要したことが判明する。若年ながらも摂関家の子弟に相応しくふるまい,朝政を担うべく努める忠家の気負いが感じられる,貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に著わされた大毘廬遮那成仏経巻20の注釈書を,鎌倉幕府の要職にあった安達泰盛(あだちやすもり,1231-85)が願主となり高野山で開版(版木を作成し印刷・出版すること)・刊行されたものである。ちなみに大毘廬遮那成仏経は,大日如来の功徳を説いた経典で,真言宗の基本経典の一つ。経疏とは注釈書の意である。
高野山では経典や注釈書などが開版され,地元産の厚手の和紙に印刷された。これらを高野版と称している。出版方法は,版木に文字を彫る整版法である。泰盛は,高野山に深く帰依しており,そのため開版の願主となったのであろう。本書には,泰盛開版を示す弘安2年(1279)の刊記(出版の趣旨を記した文章)がある。泰盛はのち霜月騒動(弘安8年)で一族とともに滅亡した。
(図書寮文庫)
鎌倉時代に成立した説話集。「鬼に癭(こぶ)とらるゝ事」(こぶ取り爺さん)などの昔話から仏教的な説話まで,幅広い内容を収めている。寛永年間(1624-44)に印刷された古活字による版本。画像は仏道修行している者が百鬼夜行に遭遇した場面。『百鬼夜行絵巻物』では絵画でその様が描かれるが,本書では「ちかくて見れば,目一つきたりなどさまざまなり。人にもあらず,あさましき物どもなりけり。あるひはつのおひたり」として,文章で百鬼の様子が詳しく描写されている。
(図書寮文庫)
橘成季(たちばなのなりすえ,生没年未詳)が建長6年(1254)にまとめた説話集。本書は江戸時代初期に写された本である。画像は,漢詩に長けていた菅原文時(ふみとき,899-981)の家の前を鬼神が通りがかったところ,その漢詩の才能に敬意を表して拝礼をして通ったという夢をある人が見た話。鬼が野蛮で心がない存在ではなく,人間と同じく漢詩を敬う心を持っていたということが描かれている。
(図書寮文庫)
元弘元年(1331)頃に成立した,兼好法師(1283-1352)による随筆。本書は室町時代中期に書写された本である。画像は,伊勢国(三重県)から鬼女が京都に連れてこられたという噂に人々が惑わされる話。結局噂だけで鬼女を見た者はいないが,話の結末では鬼女の噂が立ったのはその頃に流行った病の前兆であるとして,両者を結びつける見方をする者がいたことが語られる。中世において病は鬼が原因であるということが,このような話からも窺える。
(図書寮文庫)
本書中,藍色の雲紙に書かれているのは,琵琶の撥合という奏法の譜面である。下無(しもむ)は洋楽の音名の「嬰ヘ」に相当する。譜のあとに後伏見天皇(第93代,1288-1336)の宸筆の奥書と花押があり,それによれば,入道相国(西園寺実兼)が書いて進上してきた撥合(かきあわせ)の譜を,天皇御自身が練習のため宸筆で書写したことがわかる。伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,伏見天皇(第92代,1265-1317)の宸筆御集(御製集)である。能書で知られる伏見天皇であるが,なかでも緩急自在に書かれたこの御集の断簡は「広沢切」と称され特に珍重されている。本書の紙背(裏面)は嘉元5年(徳治2年,1307)の具注暦で,その裏に夏の歌を書写して一巻としている。恐らくは天皇御自身が,御製集編纂のために書写した草稿本と推測される。
(図書寮文庫)
琵琶の3つの秘曲の譜面で,文永4年(1267)と5年に,刑部卿局から後深草上皇(1243-1304)へ3秘曲伝授が行われた際に作成されたもの。譜のあとに「さつけまいらせさふらひぬ」(お授け申し上げました)とみえることから,伝授状と分かる。刑部卿局は本名を藤原博子といい,下級貴族の出身ながら琵琶の名手として宮中に仕えた女性であった。上皇にたてまつる伝授状にふさわしく,上下藍色の雲紙が用いられ,3曲の中でも最秘曲にあたる啄木調(たくぼくちょう)には,金泥の界線が施されている。
(図書寮文庫)
我が国の琵琶のおこりは,遣唐使藤原貞敏(さだとし,807-67)が唐の廉承武(れんしょうぶ)より奏法を学び,その技術を持ち帰ったことに始まるとされる。本系図は,それから鎌倉時代に至るまでの相伝の系譜で,50余名におよぶ人名が記されている。中には「従三位源博雅」「太政大臣藤原師長」など朝廷に重きをなした公卿のほか,「賢円」「院禅」など僧侶や「尾張尼」「息女」などの女性もみえる。のちに琵琶の相伝には西流(にしりゅう)・桂流(かつらりゅう)の二つの流派が発生し,西流は鎌倉時代の公卿西園寺公経(さいおんじきんつね,1171-1244)までが本系図に記載される。公経は,朝廷の要職にあって鎌倉幕府とも緊密な関係を築いた公卿で,琵琶や和歌にも優れた功績をのこした。一方の桂流は僧春円まで記載され,その箇所に「系図に入れおわんぬ。正応四年(1291)十月五日清空(花押)」と書き込みがあり,本系図のおおよその成立年代が判明する。