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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月、仁徳天皇陵の前方部中段において石室が露出した。本資料はこの時に出土した副葬品のうち、甲冑を描いた図である。冑は「総体銅鍍金(めっき)」の小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)であり、全体図と各部の詳細図を描いている。
だが、明治5年当時の記録は大正12年(1923)の関東大震災により諸陵寮の文書が焼失したため、存在していない。本件の絵図については複数の写本が知られているが、宮内公文書館では2点を所蔵している。本資料は震災後の公文書復旧事業によって、個人が所蔵していた絵図を模写したものの一つである。この絵図の写しは、大正14年2月に陵墓監松葉好太郎から諸陵寮庶務課長兼考証課長山口巍に宛てて送られた。松葉が堺の筒井家に交渉して入手した筒井本の写本と思われる。
なお、この原図を作成した人物は明治5年実施の関西古社寺宝物調査(壬申検査〈じんしんけんさ〉)に随行した、柏木貨一郎(政矩〈まさのり〉)とされる。この時、柏木は仁徳天皇陵石室開口の情報に接し、この図を作成することとなった。
(宮内公文書館)
陵墓の拝所付近に設置された、銃猟を禁じる英文制札の絵図写しである。陵墓制札は江戸時代から存在していたが、明治6年(1873)に初めて陵墓制札の雛形が定められ、英文・仏文でも表記するように規定された。本資料には銃を交差して描かれた図の下に、「銃猟禁制」「Foreigners are requested not to shoot or catch birds or beasts.」(外国人が鳥獣を射撃すること、あるいは捕獲することを禁ず)と記されている。
また、本資料の左下には「堺県」の文字が見える。このことから、堺県が大阪府から分割して設置された明治元年から、明治14年に同府へ編入されるまでの時期に使用されていたと推定される。明治12年の清寧天皇陵(現・羽曳野市)の鳥瞰図を見ると、この「銃猟禁制」と思われる制札が拝所前に描かれている(「陵墓資料(図帖類)御陵図」識別番号42087、宮内公文書館所蔵)。
なお、本資料は昭和24年(1949)7月25日、宮内庁書陵部陵墓課において、大阪府南河内郡藤井寺町(現・藤井寺市)の個人所蔵文書を模写したものである。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の中央に二匹の龍が向かい合って玉をくわえた表現が特徴的な環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことで、本資料は銅に金メッキされた金銅製品であり、彫金で細部の文様がほどこされている。龍の眼や玉は立体的に造形され、環には二匹の龍の胴体が表現されている。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。掲出した画像の縦方向の長さは8.4cmである。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種であり、6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。双龍環頭大刀は蘇我氏(そがし)によって生産され、各地に戦略的に配付されていたという説もあり、政治性の高い器物といえる。
(陵墓課)
福井県三方上中郡若狭町に所在する西塚古墳から出土した鉄鏃(てつぞく)である。
鉄鏃とは矢の先端に取り付けられた鉄製の鏃(やじり)のことで、全国の古墳から普遍的に出土するものの、時期や地域によって特徴が異なるため、古墳の築造時期や鉄鏃製作時の生産体制、地域間交流を検討するうえで重要な資料といえる。
本資料は片刃(かたば)の長頸鏃(ちょうけいぞく)42点が錆びてまとまり、塊状になったものである。長頸鏃とは、刃がある鏃身部(ぞくしんぶ)と鏃を矢柄に固定する茎部(なかごぶ)との間の部分である頸部(けいぶ)が伸長化した鉄鏃のことをいう。本資料における各鉄鏃の長さは約10~11cm(塊としては長さ15.2cm)、鏃身部の長さは約3cmである。本資料はその形状から製作時期を5世紀後半に位置づけることができる。
なお、鉄鏃の長頸化は5世紀中葉以降にみられる特徴で、鉄製武具の普及によって貫通能力が求められたことや、朝鮮半島からの影響も推測されており、当時の対外交流を考えるうえでも重要である。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(陵墓課)
本資料は,戦闘時に身を護る甲冑(かっちゅう/よろいかぶと)を表現した埴輪で,胴を護る短甲(たんこう/みじかよろい)部と,肩を護る肩甲(けんこう/かたよろい)部とが残る。現状高23.0cm。短甲とは,古代に用いられた甲のうち,歩兵が着用していたと考えられているものである。
古墳時代の短甲の実例に,三角形に加工した鉄板を革紐(かわひも)で綴じるものがある。この埴輪の短甲部は,粘土に刻んだ線で三角形の鉄板を,線をまたぐ粘土の粒で革紐を表現している。実物を横に置いて見ながら作ったのではないかと思えるほど,写実的に表現されている。
本資料は,宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群内に所在する男狭穂塚女狭穂塚(おさほづかめさほづか)陵墓参考地のうちの,女狭穂塚から出土した。女狭穂塚からは,本例のほか,円筒(えんとう)埴輪,朝顔形(あさがおがた)埴輪,家・盾・鶏などを模した形象埴輪が確認されている。これらの埴輪の種類と作り方の特徴は,遠く離れた大阪府羽曳野(はびきの)市・藤井寺(ふじいでら)市の古市(ふるいち)古墳群に所在する大型前方後円墳から出土したものとの共通点が多い。古墳時代における両地域の関係を知る上でも貴重な資料である。
(陵墓課)
靫(ゆき)の形を模した埴輪である。靫とは,矢を持ち運ぶ容器(矢入れ具)のうち,矢じりを上に向けて収納し,ランドセルのように背中に背負う種類のものをいう。
本品は,地面に立て並べるための四角い台の上に,靫そのものを模した部分が表現されている。矢を入れる容器を表現した箱形の部分はよく残っているが,その周囲に取り付いていた文様のある板状の部分は,左側の一部を除いて失われている。箱形部分の表面は直弧文(ちょっこもん)で飾られており,上端には,矢じりが浮き彫りによって写実的に表現されている。
現状で,高さ97.1㎝,最大幅55.4㎝。応神天皇恵我藻伏崗陵飛地ほ号(史跡墓山古墳)の後円部から,昭和25年に出土したものと伝わる。
(陵墓課)
本資料は,大と小のセットで作られた刀剣の柄頭(つかがしら)である(写真左幅5.0㎝)。柄頭とは,刀剣の握る部分(柄)の端のことで,装飾が施されたり,本資料のような装飾のための部品が装着されたりすることが多い。本資料のように,柄頭が環状(かんじょう:輪のような形)になっているものを環頭柄頭(かんとうつかがしら)と呼ぶ。本資料の環頭は,かまぼこの断面のような形をしており,中央に三つ叉の装飾を配している。この三つ叉の部分を植物の葉に見立てたことから,三葉環頭(さんようかんとう)の名がある。
本資料にはわずかに金色が見られることから,大・小ともに,銅で作られたのちに金メッキを施した,金銅(こんどう)製と考えられている。本資料と類似したものは,日本の古墳時代と同時代に朝鮮半島南東部に存在していた古代国家,新羅の勢力圏内から多く出土していることから,本資料も新羅からもたらされた可能性がある。
(陵墓課)
本資料は,横長の鉄板(横矧板(よこはぎいた))を主要な部材として,各パーツを鋲(びょう)で留めた,鉄製の冑(かぶと)である(高さ15.8㎝)。被った時に正面にくる部分(写真左側)が鋭角に尖っている点が特徴的で,こうした形の冑は,その部分を衝角(しょうかく:軍艦船首の喫水線の下に装着された,体当たり用の武装)に見立てて,「衝角付冑」と呼ばれている。
古墳時代になると,武器や防具は鉄で作られるものが主流となり,数が飛躍的に増えるとともに,技術や性能の面でも著しい発達を遂げていく。古墳時代に盛んとなった東アジア諸国との交流によって海外からもたらされたものや,その影響を受けて日本で製作されるようになったものがあるが,本資料のような衝角付冑は,日本で伝統的に作られてきた冑の系譜に連なるものである。全体の形はほとんど変化しないが,鉄製のパーツをつなぎ合わせる方法が,当初は革紐(かわひも)を通して結び付けていたものが,鉄製の鋲で留める方法へと変化していくことが知られている。
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
本資料の弓弭(ゆはず)(写真左側,長さ6.6センチ)は弓の両端に付けて弦(つる)を掛ける部品,矢筈(やはず)は矢の後端に付けて弦に引っ掛けるための部品で,ともに銅の鋳造品である。弓筈の表面はほとんどサビで覆われているものの,金色のメッキもわずかに残る。矢筈についても弦を受ける部分にごく少量のメッキが残ることから,作られた当初は黄金色であったと考えられる。
(陵墓課)
本資料は,持ち手に環が作り出されたと考えられ,そこから「素環頭剣」と呼ばれている。現存長は80.7センチで,刃部の断面形状は菱形であり,明瞭ではないが鎬(しのぎ)をもつようである。全体にわたって朱(しゅ)などが点々と付着していることから,石棺内に副葬されていたものと推測される。
その重厚長大な造りがほかに例をみない鉄製の剣(両側に長い刃部をもつ手持ちの武器)であり,剣本体は中国などからの輸入品であった可能性がある。
副葬時には鞘(さや)や把(つか)などの木製装具(そうぐ)が装着されていたようであるが現状ではその痕跡をわずかに確認できる程度しか残存していない。これらの装具については,その構造的特徴から判断して日本列島製と推測される。
なお,藤井寺陵墓参考地からは,同様の素環頭剣が少なくとももう1点出土している。
(陵墓課)
大正5年に西塚古墳から出土した,衝角付冑と呼ばれる冑である。衝角の名称は,軍艦の艦首(かんしゅ)の尖った部分を連想してつけられた。
右側頭部~後頭部にかけて大きく欠損していたが,現在は保存処理をおこない欠損部を修復している。地板(じいた)に小札(こざね)と呼ばれる小型の鉄板が用いられ,伏板(ふせいた),胴巻板(どうまきいた),腰巻板(こしまきいた)の各部材と重ね合わせて,鋲(びょう)を打つことで接合される点が特徴である。
本資料は,古墳時代中期に製作されたものである。エリート層が競って武器武具を手に入れようとした時期であり,被葬者の権威を示す器物として機能していたと考えられる。
(図書寮文庫)
本図は,馬に乗らず,立った姿勢で弓を射る歩射(ぶしゃ)の種目の一つ草鹿(くさじし)の射場の見取図で,画像は,鹿をかたどった的の部分。本図は江戸時代中期頃に書写されたもので,松岡家に伝えられた。
草鹿は,本来野の鹿を狩る練習として行われるものであるため,鹿をかたどった作り物を的として掛けていた。射手から的までは25m前後の距離があり,的の大きさは胴体部分が55cm×25cm程度のもの。実際の射技は,伝統的な作法にのっとって射ることや,星(胴体の斑点模様)に的中すること,更にはどの星に的中したのかを申告することで初めて当たりとみなされるなど,的中以外の要素も求められる競技となっていった。
(図書寮文庫)
走り回る犬を騎馬で追って稽古する犬追物(いぬおうもの,犬を傷付けないよう蟇目という特殊な矢を使用)は鎌倉時代に始まったが,世の乱れに従って廃れた。やがて江戸時代になると,室町時代から続く大名の小笠原・島津両家と室町幕府の儀礼を担当した伊勢家の子孫が作法を伝えるだけとなった。
本図は,弓弦が袖を払わないよう犬追物で左腕に着用する「犬射籠手」(いぬいごて)の紙製の模型。外袋には,伊勢家伝来の室町幕府の様式だと書かれている。本品を所蔵していた松岡辰方は伊勢家の当主貞春の弟子であった人物。なお,ほかの2点は,辰方と交流のあった本多忠憲という有職故実研究家が所持していた小笠原流の仕様による籠手の紙製の模型。