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本資料は、東山天皇(第113代)の第6皇子で、閑院宮初代、直仁親王(なおひと、1704-53)詠、御筆の和歌懐紙である。本懐紙のように、男性の和歌懐紙は、歌題、署名、歌の順に書き、歌は3行と3文字にかけて書くのが通常の書式である。閑院宮家旧蔵資料であるが、初代当主御直筆の懐紙として掛軸に表装され、大切に伝えられたのであろう。
本資料に記された歌題や署名からは和歌会の年次を探ることはできなかったが、その後の調査で、この時に詠まれた懐紙原本の一群が発見された。寛延3年(1750)3月9日に有栖川宮家で催された和歌会であり、参会者34名の懐紙の中に直仁親王が詠まれた和歌懐紙(有栖・19のうち)も存在したことから、本懐紙は清書ではなく下書き、あるいは控えと位置づけられるに至った。双方の懐紙を比較したところ、ほぼ同一の書きぶりとなっており、清書に際しては師匠のお手本が存在した可能性もあろう。
(図書寮文庫)
本資料は寛永16年(1639)10月5日に行われた歌合で、和歌奉行(世話役)を務めた勧修寺経広(かじゅうじつねひろ、1606-88)による記録の写しである。本歌合は後水尾上皇(第108代)によって仙洞で催された。本歌合以前に行われた会は天正8年(1580)の天正内裏歌合まで遡り、そのため歌合の経験があったのは参加者24名のうち西洞院時慶(にしのとういんときよし、1552-1639)1名のみであった。久しぶりの会のため提出する懐紙の封をする作法が分からなくなっている様子が、参加者の一人であった九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の『道房公記』寛永16年記(九・5119のうち)からうかがえる。本資料では歌合に出詠された和歌と詠作者名が記されないのに対して、今までの記録に詳述されていない事前の準備(催行日時および歌題の通知など)や当日の式次第などが中心となって記録されている。これは、経広が具体的な先例が残されていないために苦慮したことからあえて記したものと推測される。本歌合での和歌などについては『寛永十六年仙洞歌合』(鷹・357のうち)などによっても知ることはできるが、本資料以外では奉行という立場から記されている資料は存在しないため貴重な資料であると言えよう。
(図書寮文庫)
本記は,九条道房の自筆日記のうち,寛永16年(1639)10月の仙洞歌合(うたあわせ)に関する,別記的な性格を持つ記録。歌合とは歌人を左右にわけて,和歌の優劣を競う催しで,各組が相手の詠草(えいそう)を論ずる(難陳〈なんちん,ディベート〉)。当時の仙洞(上皇)は後水尾上皇(ごみずのお)で,上皇は久しく行われていなかった仙洞歌合の開催に意欲的だった。上皇より歌題を賜った道房は,歌人の中院通村(なかのいんみちむら)と相談し,詠草を整え進上する(9月22,29,30日条)。次いで二度の御習礼(リハーサル)を行い(10月3,4日条),歌合当日を迎える(10月5日条)。久しぶりの開催で,当時実力のある歌人に恵まれなかったため,予定調和とはならず,道房の詠草は通村と調整したにもかかわらず,難陳での行き違いから水無瀬氏成(みなせうじなり)との論戦に発展,道房には不満の残る行事となってしまったらしい。なお,この歌合については,参加者だった近衛信尋(このえのぶひろ)・八条宮智忠親王(はちじょうのみやとしただしんのう)・中院通純(みちずみ)・勧修寺経広(かじゅうじつねひろ)などの記録や,詠草・判詞(優劣についての審判である判者のコメント)を載せた『寛永十六年仙洞歌合』も数種伝わり,これらにより行事の様子を立体的に復元できる。本記は,『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(令和4年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
本記は,八条宮智忠親王(としただ,1619-62)御筆の記録で,寛永16年10月5日に後水尾上皇によって催された仙洞歌合の記録である。『道房公記』にも記録された仙洞歌合の記録の一つ。内容は,親王御自身の御詠草を含む詠歌や,難陳(なんちん,ディベート)などの歌合の中身には触れておらず,歌合における後水尾上皇以下各参加者の装束・役割分担・歌合の進行の様子を書き留めるだけの簡略な記述に終始しており,むしろのちに故実の参考とするためのものとも考えられる。これは,『道房公記』の記事にあるとおり,当時21歳と若年であるため難陳への参加を免除されたこと,また親王御自身が詠歌・難陳よりも行事自体に強い関心を持っておられたことによるものであろうか。簡潔に過ぎるとはいえ,『道房公記』では,歌合後,場所を改めて酒が出されたことしか記述しないのに対し,本記ではその宴会場が「本(もと)ノ御座敷」であったことや,饅頭が出たことなども記録しており,記事はわずか4丁分ではあるが,『道房公記』には記録されていない記事もあり,注目されてよい。
(図書寮文庫)
桂宮初代智仁親王(としひと,1579-1629)が慶長13年(1608)・17年,元和5年(1619)・7年,寛永元年(1624)・2年・5年に旅先などで詠じた和歌や発句,狂歌を書き付けた資料。
掲出画像は,親王による江戸下向の際の富士山詠。親王は生涯で二度,元和3年と寛永2年に当時の将軍であった徳川秀忠・家光へ挨拶のため江戸へ下向している。これは二度目の時の詠である。なお,この下向を親王自身が記録した『江戸道中日記』(桂・42)が残っている。これによれば寛永2年3月20日条にこの富士山詠が記されている。「ふしにて から人の歌に有ともミせはやなまことのふしの山のすかたを」「発句 ふしのねもきぬもてつゝむ霞哉」。和歌では富士山の雄大な姿は実見しなければ実感できないであろうとし,発句では春霞がかかった優美な富士山をまるで衣で包んだようだとして面白く詠じている。なお,この二首を含む下向の際に詠じた一連の句を「将軍家」へ見せたことが『江戸道すがらの歌』(457・177)の奥書によって知れる。
ふだん遠出をすることのない親王が,道中の景勝地で和歌を詠じ,時には興に乗って狂歌を詠んだことなどから,二週間程度に及ぶ江戸への長旅を楽しんだことが本資料からはうかがえる。
(図書寮文庫)
『白氏文集』(はくしぶんしゅう)は,中国唐代中期の詩人・白居易(はく・きょい,772-846,字は楽天)の詩文集。はじめ親友の元稹(げん・じん,779-831)により編まれ,その後居易自身が生涯にわたって加筆したもの。『文集』は早くも居易の生前よりもてはやされ,日本にも存命中に渡来した。日本の漢文学はもちろん,『源氏物語』など国文学へも強く影響したことが知られる。
さて,本資料は,九条家旧蔵の残巻類の包みより出現した,鎌倉初期の書写と思われる『文集』巻16の残簡1葉。大ぶりの料紙に墨で界線(枠)を引き,毎行15字で書かれ,欠損はあるが24行残存している。内容は巻頭の「東南行(東南のうた)」という詩の一部である。居易が左遷された都・長安より東南の江州の景や,長安での思い出を詠んだ作品。文中の小字は居易自身による注釈(自注)を写したもの。本資料はたった1枚にすぎないが,唐代に写本で流布した『文集』の本文が我が国において保存された,いわゆる「旧鈔本」(ふるい手書き本)のひとつの姿を伝える点に意義がある。
なお,『管見記』(F11・1)巻102の紙背にも,鎌倉時代の書写で,同じく『文集』巻16の別の部分(巻末)が遺る。
(図書寮文庫)
家仁親王(やかひと,1703-67,桂宮第8代)が古歌を書き,京都の絵師狩野正栄(かのうしょうえい,近信,生没年未詳)がそれに合った絵を描いた帖。桂宮旧蔵本。家仁親王は和歌にも入木道(じゅぼくどう,書道)にも力を注いだ。当文庫には家仁親王が詩歌を書き正栄に絵を描かせたものがこのほかにもある(『四季月帖』〈F4・155〉など)。
なお,この帖に描かれる月は満月と下弦の月である。満月は7首目「鐘の音もきこえぬたびのやま路にはあけゆく空をつきにしるかな」(画像)のように月の入りは朝,下弦の月は夜に月が出て朝に南中となるので5首目「やすらはでねなまし物をさよふけてかたぶくまでの月をみしかな」のように描かれる。昼に見える上弦の月が歌(和歌・短歌)に詠まれるのは明治以降になる。
(図書寮文庫)
悠紀主基屏風は,大嘗会に際して卜定(ぼくじょう,占いによって決定される意)された悠紀・主基両国郡の名所風俗を絵に描き,悠紀・主基それぞれ六曲一双(6面で一隻の屏風2隻を一組としたもの)として制作されるもので,大嘗会毎に新調されるのを例とした。また,両国郡に因んだ和歌が詠進され,色紙形(しきしがた)とよばれる料紙に万葉仮名で書かれて屏風に貼られた。完成した屏風は,大嘗会後の節会で披露された。
大嘗会は応仁の乱(1467-77)以降行われなくなり,江戸時代前期の第113代東山天皇御即位の時(貞享4年,1687)に再興されたが,大嘗会の和歌詠進は,第115代桜町天皇の元文3年(1738)の大嘗会にようやく復活した。
掲出の図書は,その時の詠進者2名―悠紀国(滋賀県):烏丸光栄(からすまる みつひで),主基国(京都府):日野資時(ひのすけとき)―がそれぞれ18首ずつの和歌を自筆で記した懐紙原本である。詠進者の烏丸光栄・日野資時は共に日野一流で,当時著名な歌人として知られた公家であった。
文中にみえる六帖とは,1年12ヶ月を2ヶ月分で1回,月次和歌(つきなみわか)3首として詠進するため,その回数を6回(12ヶ月÷2ヶ月)と考えることによるもの。和歌は,悠紀・主基各18首(3首×6回)となる。もと外記局に伝来。
明治時代以降は歌数に変化があったが(明治各2首,大正以降各4首),令和度においても悠紀主基屏風は,名所が描かれた屏風一隻ごと(合計4隻)にそれぞれ和歌2首(合計8首)の色紙形が貼られ,大嘗宮の儀のあとに催された大饗の儀で披露された。
(図書寮文庫)
平安中期の歌人として名高い和泉式部(生没年未詳)の日記。帥宮敦道親王(そちのみやあつみち,冷泉天皇皇子,981-1007)との恋愛のはじまりを,二人の贈答歌を中心に物語風に綴った作品。日記は長保5年(1003)4月,為尊親王(ためたか,冷泉天皇皇子,977-1002)と死別した和泉式部のもとに、その弟の帥宮から文が届けられる場面から始まり,和泉式部が帥宮邸に引き取られた翌年の正月,帥宮の正妻が宮邸を退去した場面で終わる。
身分差のある二人が和歌を詠み合うことで,交流を深めていくさまが読み取れる(掲げた画像中,2字下がりの部分が和歌)。
この図書寮文庫本は三条西家旧蔵本で,室町時代を代表する公卿三条西実隆(1455-1537)の書写と伝えられ,多くの活字本の底本として用いられている。
(図書寮文庫)
元久2年(1205)3月,『新古今和歌集』の完成を祝う宴(竟宴:きょうえん)が行われた。『新古今和歌集』は,後鳥羽天皇(1180-1239)の命によって編まれた勅撰和歌集である。その宴席で歌会が行われ,摂政太政大臣九条良経(よしつね:1169-1206)が詠んだ和歌の懐紙を掛幅(かけふく)に仕立てたものである。九条家旧蔵。
作者の良経は,和歌・漢詩・書道に優れた才能を発揮した人物で『百人一首』にも撰ばれた歌人。『新古今和歌集』では和歌所寄人(わかどころよりうど)として撰集に深く関わり,同集の「仮名序」を執筆した。本画像の「敷島や」の歌では歌集編纂の難しさを「ことばの海から玉を拾い磨く」と表現した。
ところで歌会においては,出詠者自らが詠歌を懐紙や短冊に記すのが通例である。良経ら竟宴歌会出詠者の自筆懐紙は,貼り繋いで巻子本にして後鳥羽天皇が保存されたようである(巻子原本は現存しないが,室町中期の模写本が残る)。この懐紙を注意深く見ると「大臣従一位臣」の辺りに重ね書きの痕跡があり,清書ではなく下書きであると思われ,また代々九条家に大事に伝わったことを合わせると,良経の自筆の可能性は高い。ただし,仮名書きの自筆資料が他に見いだせず比較が出来ないため,「伝 九条良経」とする次第である。
(図書寮文庫)
立雛図は明治期に活躍した日本画家川端玉章(1842-1913)画。有栖川宮熾仁親王が御讃(その図画にちなむ詩や文のこと)を添えられている。玉章の印は「源玉章印」「子文」。この形の印章が用いられたのは玉章40歳代の頃と推測されることから,明治20年代前半の作と思われる。御讃は雛図に寄せた和歌で,「花の名の ももとせかけていもとせの かみこそあつき ちきりなりけれ」。有栖川宮家旧蔵。
(図書寮文庫)
『中右記部類』とは,中御門右大臣藤原宗忠(1062-1141)の日記『中右記』の記事を,項目ごとに部類分けしたもの。鎌倉時代初期に作られたその写本の紙背(裏面)には,11-12世紀に作成された漢詩集が書写されており,漢文学研究史上貴重なものである。九条家旧蔵本。
画像は,天喜4年(1056)3月3日に貴族藤原経成の邸にて催された詩宴において,「勧酔是桃花」という題で作られた詩の数々を収録した部分。とくに画像左端は,学者であり優れた詩人としても有名な藤原明衡(あきひら,?-1066)の作で,曲水の宴の素晴らしい趣と桃花の美しさを称えつつ,「仙源(桃源郷)は不老不死の境地であるというのに,私はむなしく年を取って七〇歳にもなってしまったよ」と詠んでいる。
(図書寮文庫)
本図に描かれた柿本人麻呂(人麿,生没年未詳)は持統・文武朝(690-707)に活躍した万葉集の主要歌人。古今和歌集仮名序で「歌の聖」と讃えられ,平安時代末期には歌道上達を願う人々の信仰の対象となった。粟田兼房(あわたのかねふさ)という人の夢に人麻呂が現れたので,その姿(直衣・指貫・烏帽子姿,右手に筆,左手に紙を持つ)を絵にして拝礼したところ歌が上手くなったという故事(人麿影供)による。影供に用いられる人麿像は,下図のようなものが典型例だが,ここでは葦手(平安末期頃から用いられた遊戯的な絵文字)書きの「柿本人丸」で姿を作っている。この葦手書きの人麿像も人々に好まれた。なお,人麻呂は平安時代中期から「人丸(ひとまる)」とも呼ばれていた。
本作品は第107代後陽成天皇(1571-1617)宸筆と伝えられる,伏見宮旧蔵のものである。好学の天皇のユーモラスな一面が見て取れる。
(図書寮文庫)
本図は百人一首の作者たち100人を描いた巻子本で江戸初期の作と考えられる。人名を記した小札が剥がれている箇所もあり,現在の百人一首の順序と肖像画の装束を比べると身分が合わず順序が異なると思われる部分もある。画像は絶世の美女と称された小野小町(生没年未詳)である。現在多く流通している歌がるたや著名な佐竹本三十六歌仙絵巻断簡など,小野小町は顔を見せていないものが多いが,本作品では顔を見せている。
なお百人一首の歌がるたはポルトガルから伝来したカードゲームから派生したもので,江戸時代初期に作られ始めたと言われている。日野家旧蔵。
(宮内公文書館)
明治維新後,和宮は明治2年(1869)2月に上洛し京都に住んだが,明治7年に再び東京へ上り,同10年に薨去(こうきょ)するまで麻布市兵衛町の旧南部家の屋敷を住まいとした。史料は明治8年1月28日に宮中で催された月次(つきなみ)歌会で詠進(えいしん)した短冊を綴じたもの。「水辺若菜(みづのほとりのわかな)」を題目に詠んだもので,右端が和宮の歌。「沢水にそでハぬるともきみがためちよをわかなにつミてさゝげむ」とあり,明治天皇の治世が幾久しく続くように,と詠まれている。後述のように,同月31日には明治天皇,昭憲皇太后の行幸啓を受けており,皇室と和宮の交流の一端をうかがえる。なお,和宮の隣の短冊は有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)のものである。和宮と熾仁親王は,嘉永4年(1851)に婚約し許嫁のなかであったが,和宮が家茂に嫁ぐことが決まり,婚約が破棄されたという経緯がある。
(図書寮文庫)
十五夜の頃,神楽岡に棲む様々な虫や動物たちが禁裏の御庭に集い,和歌を詠みあうという創作物語を,双六に仕立てたもの。物語は,建保6年(1218)8月13日に第84代順徳天皇(1197-1242)出御のもと中殿(清涼殿)で行われた,有名な和歌・管絃の催し「中殿御会」になぞらえた内容となっている。
双六には46個のマスがあり,それぞれの中には物語に登場する虫や動物が生き生きと描かれる。また,マスの一つ一つには名称が付けられ,賽の目に応じたマスの移動先も示されており,「飛び双六」のルールで進むことが分かる。賽の目は,1~6の数ではなく,「池・月・久・明・和・歌」(「池月久明」は建保6年中殿御会の和歌題)の6文字で構成されたと考えられる。典雅な趣向を凝らした,他に類例をみない珍しい双六である。昭和22年(1947)まで宮内省にあった御歌所旧蔵本。
(図書寮文庫)
橘成季(たちばなのなりすえ,生没年未詳)が建長6年(1254)にまとめた説話集。本書は江戸時代初期に写された本である。画像は,漢詩に長けていた菅原文時(ふみとき,899-981)の家の前を鬼神が通りがかったところ,その漢詩の才能に敬意を表して拝礼をして通ったという夢をある人が見た話。鬼が野蛮で心がない存在ではなく,人間と同じく漢詩を敬う心を持っていたということが描かれている。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇の皇后であった節子皇后(貞明皇后,1884-1951)が東伏見宮に下賜した色紙である。詞書に「沼津で得た竹の子を贈ったところ,その様が面白いので写生してこちらに贈ってくれた嬉しさに」とあり,東伏見宮妃の周子(かねこ)が竹の子の御礼に写生した絵を贈ったことに対する,皇后からの返礼の御歌と考えられる。御歌は竹の子になぞらえて東伏見宮を寿ぐ内容となっており,また料紙の継色紙は銀泥で鳥や草花が繊細に描かれ,流麗な文字をより華麗なものとしている。東伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,1377-1433)宸筆の書状である。年未詳ながら,宛所(宛先)はないが,書止に「謹言」と書いているところ,天皇周辺の然るべき御身分の方宛てに書かれたものである可能性がある。内容は,短冊や詠進に関することが記されており和歌御会などに関するものと推察される。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾天皇(第108代,1596-1680)宸筆による古歌の散らし書き懐紙を掛幅に仕立てたもの。古歌は,藤原公通(きんみち)の『新古今和歌集』夏部所収の和歌(「二こゑときかすはいてしほとゝきす幾夜あかしのとまりなりとも」)である。大意は「ほととぎすよ,二度目の鳴き声を聞かないことには出航はするまい。たとえ何日もこの明石の浦で,夜を明かす停泊になるとしても」。閑院宮旧蔵。