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明治38年(1905)春季,横浜・根岸競馬場において「皇帝陛下御賞典」(帝室御賞典)が始まった際の記事。宮内省で儀式に関する事務を行う式部職において作成・集積された日本競馬会に関する書類に収められている。本記事からは,「此度ノ賞品ハ例年ノモノニ比シ一層大形ニシテ革張ノ函ニ収容シアリ,頗ル美事ナルモノ」であったことがわかる。
現在の天皇賞につながる優勝賞品の下賜は,明治13年に根岸競馬場で行われた「ミカドズベースレース」(Mikado's Vase Race)に遡る。明治32年5月に明治天皇の最後となった競馬行幸以降も,皇室からの優勝賞品の下賜が続いた。以後,皇室としては,花瓶等の優勝賞品の下賜を通じて近代競馬の普及に貢献した。そして,これまでの御下賜品競走を統一して,最大の栄誉を勝馬と馬主に与えようとして生まれたのが,明治38年のエンペラーズカップ(皇帝陛下御賞盃競走,明治39年以降,帝室御賞典競走に名称を統一)である。下賜の賞品も,例年より豪華でサイズも大きい銀鉢へと変わった。
(宮内公文書館)
横浜の人々による憲法発布を祝う祝詞。明治22年(1889)2月11日の憲法発布式典に合わせて,横浜では本町(ほんちょう)町会所で発布を祝う式典が催された。資料は高島嘉右衛門(かえもん)ら6人が,宮内省へ送った憲法発布と明治天皇の偉業を讃える祝詞である。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)の憲法発布式に際しては,居留外国人で構成される横浜商法会議所(会頭ジョン・トーマス)から祝文が送られた。憲法を発布した明治天皇の偉業を讃えるとともに,諸外国も天皇を信用するものであると記している。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)8月12日,横浜市雲井町(現・中区長者町5丁目の一部)より出火し,横浜の歓楽街をほとんど焼いた「雲井町大火」の火災状況図。図のうち赤い部分が焼失場所,青い部分が罹災者(りさいしゃ)避難場所(主に学校等)となっている。
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明治35年(1902)9月28日の暴風雨による横浜港被害写真。横浜市真砂町(まさごちょう)に写真館を構えた鈴木真一による撮影。資料は4枚の写真で構成され,写真は「横浜港北水堤之部甲」と題されたもの。横浜港灯台までの堤防が崩壊するなど,甚大な被害の様子がわかる。
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明治35年(1902)10月,横浜のペスト病発生に伴う予防処置に関する緊急勅令の閣議案。明治天皇の御覧後,枢密院で発布が撤回されたため,御手許(おてもと)に残された。「明治天皇御手許書類」に内閣総理大臣以下の花押の入った閣議案が残る例は珍しい。
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明治38年(1905)10月の観艦式における艦艇の配置図。この観艦式は,日露戦争終結直後に横浜沖で開催された。大きく六つの艦列が朱で記されており,165隻の艦艇が参加していることがわかる。明治天皇は巡洋艦「浅間」に乗艦され観艦式に臨まれた。
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明治2年(1869)3月10日付H・シーベル宛都築荘蔵・町田久成書簡。外国官(後の外務省)から在横浜スイス公使に明治天皇の東京再幸について知らせている。シーベルはスイス総領事代理を務め,シーベル・ブレンワルト商会を営んだ人物である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治7年(1874),横浜灯台寮への行幸啓関係書類。洋式灯台を天覧した翌日には,横浜の実業家高島嘉右衛門(かえもん)が創業した横浜瓦斯(がす)会社にも行幸啓があった。洋式灯台や瓦斯灯は横浜の文明開化を象徴するものであった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899),日本競馬会社から根岸競馬場への行幸を出願した書類。日本競馬会社社長アーネスト・サトウが英文で提出した。天覧競馬は計13回行われたが,不平等条約が改正された同年をもって,内外の社交場であった競馬場への行幸は最後となった。
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明治43年(1910)・44年に行われた日本競馬会の入場チケットと番組表。根岸競馬場は慶応2年(1866)から昭和17年(1942)まで,近代競馬の中心的役割を果たした。明治天皇の行幸や優勝賞品の下賜(かし)など,皇室として競馬文化を積極的に奨励した。