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(選択を解除)(図書寮文庫)
本書は、永正9年(1512)4月26日に行われた知仁親王(ともひと、1496-1557、のちの第105代後奈良天皇〈御在位1526-57〉)御元服の記録で、紀伝道家の公卿東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが、1460-1530)の日記『和長卿記』の別記である。内容は「永正九年若宮御元服記」(『続群書類従』公事部所収)として知られているものではあるが、本書は室町後期写の善本である。知仁親王は第104代後柏原天皇(御在位1500-26)の第二皇子で、この年4月8日に親王宣下があって知仁の名を賜り、26日に小御所において元服の儀が行われた。時に親王17歳。元服は加冠とも称され、理髪(成人の髪に結う)・加冠(冠を被せる)が行われ、成人となる儀式である。これ以降、髷(まげ)を結い日常的に烏帽子(えぼし)ないし冠を身に着ける。儀式の中心である理髪の役は頭右中将正親町実胤(おおぎまちさねたね、1490-1566)、加冠の役は関白九条尚経(くじょうひさつね、1469-1530)がつとめた。本書が九条家に伝来したのはこのあたりに理由があろうか。和長は当日、童形装束の儀に参仕し、故実への関心より小御所の室礼の図などを含めて、元服の儀全般にわたって詳細な記録を残したのである。ちなみに本書には『続群書類従』本と同じく永正9年の持明院基春(じみょういんもとはる、1453-1535)の元奥書、さらに寛永20年(1643)の九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の一見奥書がある。九条家本。
(図書寮文庫)
本資料は、朝廷の政治事務を司る官職である「外記・史」(げき・し)の「分配」(ぶんぱい)に関する記録である。「分配」とは、朝廷の儀式や行事の役割分担、配置をあらかじめ定めておくことをいう。史を統括する壬生家に伝わったもので、天文4年(1535)~寛永8年(1631)の分について、儀式・行事ごとに開催年月日、分配の対象者、下行(げぎょう、経費・給与の支給)等が記されている。これらから、戦国~江戸時代の朝廷儀礼、外記・史の人々の様相をうかがい知ることができる。
画像中央に「天正十四年 関白秀吉様/太政大臣 宣下」と見えるのは、天正14年(1586)、羽柴(豊臣)秀吉が太政大臣に任じられた際のもので、この時は外記・史を兼任する中原「康政」が宣下の儀式に参仕したことがわかる。また、「三貫」(約30~60万円)の下行のあったことが注記されている。
また、その右側にある「着陣」とは、廷臣が叙位・任官した後、初執務を行う儀礼で、名前の見える羽柴「美濃守」秀長、羽柴「孫七郎」秀次、徳川「家康」、「伊勢御本所」こと織田信雄は、この天正14年に官位が昇進している。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。受講者が書き留め、後に加筆されたのが本書にあたる。
九条家旧蔵本で、本書の2冊目~4冊目は関白九条稙通(くじょうたねみち、1507-94)の筆。
稙通は『源氏物語』をこよなく愛し、その注釈書である『孟津抄』(もうしんしょう)を著したが、戦乱の世の中で京都を離れ、摂津、播磨、大和などを往還し、武力との繋がりを持ってもいた。下向先で土地の権力者に『源氏物語』や『古今和歌集』の講釈を行っていたこともわかっている。この『古今集注』もそのような用途であったかと考えられる。
天正6年(1578)5月16日に書き始めたことが附属の紙罫(しけい、罫線が引いてある紙製の下敷き)の書き付けからもわかる。稙通はこのとき、72歳。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代末期から戦国時代初期に上野国の新田岩松氏に仕えた長楽寺(現在の群馬県太田市に所在)の僧,松陰軒(1438-?)の回想録。新田岩松氏の動向や関東の状勢を伝える貴重な史料だが,松陰軒の自筆本は現存せず,新井白石(1657-1725)が書写した本書も第1・3を欠いて全文は伝わらない。
画像は,文明8年(1476)に関東管領上杉顕定の重臣長尾景春(1443-1514)が主家に対して起こした「長尾景春の乱」に関する箇所(第5)。このころ,上杉氏は利根川を挟んで古河公方足利氏と争っていた(享徳の乱,1454-82)が,景春は主人顕定らと対立して,鉢形城(現在の埼玉県寄居町に所在)に立て籠もった。翌9年,景春は上杉方の本陣武蔵五十子(いかっこ/いかつこ,現在の同本庄市)を壊滅させたものの,各地の景春派は上杉方の太田道灌らに鎮圧され,古河公方と結んで抵抗を続けた景春もまもなく没落した。その後も再起を繰り返し,晩年には越後の長尾為景(上杉謙信の実父)や伊豆の伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)と結んで顕定と戦い続けた景春は,関東の戦国時代の幕開けを象徴する人物のひとりに数えられる。
(図書寮文庫)
源氏物語は世界最古の長編小説とも言われる,日本を代表する物語である。
物語の始まりである桐壺巻の冒頭文は,古典の授業で覚えた方も多いと思われる。源氏物語は平安中期[寛弘5年(1008)ごろ]成立の著作であるが,全54帖の揃いは室町時代以降のものしか残されていない。この写本は,室町時代の公卿三条西実隆(さんじょうにしさねたか:1455-1537)が監督して書写させたものである。実隆は有職故実に秀で内大臣まで進んだ人物で,和歌や書道に優れた当代随一の文化人であり,源氏学者でもあったため,実隆が校閲した本文は非常に尊重された。奥書は桐壺巻・夢浮橋巻にあり,その他の巻は校閲のサインとして,実隆の花押が据えられている。
なお,源氏物語は何人かで分担して書く寄合書(よりあいがき)で写されるのが通例で,本資料についても寄合書で写されており,実隆は最も分量の少ない篝火(かがりび)巻を書写している。
源氏物語60点の内訳は,54冊のほかに目録類5点及び極札(きわめふだ)集が含まれる。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代後期の公卿九条稙通(たねみち,1506-94)が源氏物語の講釈を受け終えた祝宴に掛けた掛幅である。稙通の着想で土佐光元に描かせ,師であり伯父の三条西公条(きんえだ,1487-1563,法名仍覚)に讃を依頼した。公条による源氏物語講釈は弘治元年(1555)に始まり永禄3年(1560)に終了。図様は,紫式部が源氏物語を石山寺で構想したという伝承に基づく。九条家旧蔵。
(図書寮文庫)
戦国時代の前関白九条政基(くじょうまさもと,1445-1516)の自筆日記。所領であった和泉国日根荘(ひねのしょう,現・大阪府泉佐野市)に下り,自ら支配を行なった際(1501-04)に記したとされる。旅引付とは旅行中の記録のことで,公家の日記には珍しく,村落生活や周辺勢力の動向を記すなど,戦国時代の村の様相を知ることができる。画像は文亀元年(1501)年7月20日条で,日根荘内の瀧宮(火走神社)の社頭で行なわれた雨乞いの様子を記した記事である。
(図書寮文庫)
本書は,後柏原天皇(第104代,御在位1500-26)宸筆の色紙幅で,金・銀の薄と月の下絵に漢詩と古歌が散らし書きにされている。漢詩は出典未詳,和歌は4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』第235番歌(よみ人知らず)。薄,月は秋の景物であり,漢詩,和歌共に風による秋の到来を実感させるものが選ばれている。
(図書寮文庫)
本書は,後奈良天皇(第105代,御在位1526-57)宸筆の和歌懐紙で,永正9年(1512)七夕和歌御会の際に詠進された,天皇がまだ親王であった17歳の時の書と考えられている。歌は区切れとは関係なく3行と3文字に分けて書かれており,この書き方は現在の歌会始の懐紙でも受け継がれている。
(図書寮文庫)
中国地方の戦国大名大内義興(おおうちよしおき,1477-1528)が,土御門家に宛てた所領の獲得を祝した書状。書かれた年代は不明。義興は,室町幕府10代将軍足利義稙(よしたね)を助けて幕府の実権を握るなど中央でも活躍し,大内氏の最盛期を築いた人物として知られている。本文は右筆(書記)が書いたものと思われ,日付の下に義興の名と花押が書かれている。土御門家旧蔵。