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令和6年(2024)は後亀山天皇(?-1424)の崩御から600年に当たる。後亀山天皇は明徳3年(1392)に南北朝の合一が果たされた時の南朝の天皇であり、本資料は、天皇が吉野(南山)から京都に入御され、三種の神器を北朝の後小松天皇(1377-1433)に譲られた際の記録である。
南朝勢力の減退が著しい中即位された後亀山天皇は、北朝方との和平交渉を進められた。そして、譲位の儀式による後亀山天皇から後小松天皇への神器の授与、両朝交互の皇位継承などの講和条件が、北朝方の室町幕府将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)から提示され、後亀山天皇はこれを受諾された。
掲出画像は、明徳3年10月28日に後亀山天皇が吉野を出発された際の行列部分である。腰輿に乗られた天皇が弟宮とわずかな廷臣・武士を従えた、少人数の一行であったことが分かる。翌閏10月2日、天皇は京都の大覚寺に入られ、同月5日に神器が後小松天皇のもとに移され内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)が行われたものの、譲位の儀式は行われなかった。
なお、応永19年(1412)、後小松天皇から皇子躬仁親王(みひと、称光天皇、1401-28)への譲位が行われ、後亀山天皇の御子孫が皇位につくことはなかった。
(図書寮文庫)
『神今食行幸次第』は、毎年6月・12月の11日に禁中で行われた神事、神今食(じんこんじき)に天皇が臨席される際の式次第を書いたものである。もとは、4通の書状を横長に二つ折りし、折り目を下にして重ね右端を綴じ、横長の冊子の形で使用・保管されていた。江戸前期までに、折り目が切断され、式次第がおもてになるように張り継がれ、巻子(かんす)の形態に改められた。そのため現在、紙背の書状は上下に切断されて継がれ、紙数は8枚となっている。画像は、写真を合成して、もとの形に復元したものである。
その紙背文書のなかの一通である本文書は、鎌倉後期~南北朝期の九条家当主、九条道教(くじょうみちのり、1315-49)の花押が確認でき、自筆書状と判断される。 内容は、道教周辺の人物の出仕に係るものと考えられるが、詳細は知りがたい。他の3通の紙背文書から、年代は元弘年間(1331-34)前後のもので、九条家や同家に仕えた人々の家に集積された文書群と推定される。いずれも、『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 定能卿記部類外』(宮内庁書陵部、令和6年3月刊)に全文活字化されている。
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本文書は、永徳元年(1382)に安房国守護結城直光(ゆうきただみつ、法名聖朝、1330?-1396)が、安房国長狭郡(あわのくにながさぐん、現在の千葉県鴨川市)の龍興寺に寺領の知行を保証したものである。土地を寺社に寄附する寄進状の体裁をとっているが、対象地はすでに寺領であり、実際には所領の領有を保証する安堵状というべきものである。4行目の「寺」の字には修正痕があり、その裏にすえられた花押は、本文書を作成した結城家の右筆のものかと推測される。南北朝期の東国守護家の右筆のものとして貴重である。
龍興寺は、鎌倉府の御料所(直轄領)長狭郡柴原子郷にあった寺院で、鎌倉公方の厚い保護を受け、のちに鎌倉府の祈願所となった。そうしたなかで守護結城氏も同寺を保護したことをうかがわせるのが、本文書である。龍興寺は戦国期に廃絶し、織豊期に龍江寺として再興されたという。
結城直光は、秀郷流藤原氏の一流、下総結城氏の当主で、足利方に属して父や兄の戦死後も南北朝の内乱を戦い抜き、鎌倉府の信任も得て安房国守護に任じられた。平安時代以来の源氏の威光を描いた軍記物『源威集』の著者ともいわれている。
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鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
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大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
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この文書は,元弘3年(1333)7月に,後醍醐天皇(1288-1339,在位1318-39)が播磨(はりま)の寺田孫太郎範長に当知行地(実効支配している土地)の安堵(支配の保証)をしたものである。綸旨(りんじ)とは,天皇の命令を蔵人が奉じた文書で,宿紙(しゅくし)と呼ばれる漉き返した灰色の紙に書かれる。本文書の奉者は,後醍醐天皇の近臣である左少弁中御門宣明(なかみかどのぶあき,1302-65)。
後醍醐天皇はこの年の5月に足利尊氏らの力を得て鎌倉幕府を滅亡させ,6月に京都に還御して建武の新政を開始した。そのおり,後醍醐天皇は服従した勢力に対して大量に安堵の綸旨を発し,本文書もその一通となる。安堵された寺田範長は,播磨国矢野荘(やののしょう,現在の兵庫県相生市)の武士で,鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて同荘の支配をめぐって領主の東寺と対立し,「国中名誉の大悪党」と呼ばれた祖父法念とともに勢威をふるったが,のち東寺に敗れて没落した。
寺田氏が持っていた文書の多くは,その没落後に東寺に入ったが,本文書はいつしか東寺から流れて蒐集家の手に渡り,幕末~明治の国学者谷森善臣(1817-1911)を経て,当部の蔵するところとなった。
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本書は,鎌倉末期に禅僧虎関師錬(こかんしれん,1278-1346)によって,我が国への仏教伝来から700年間の歴史や高僧400余人の伝記などを著述した仏教書で,永和3年(1377)頃に東福寺で開版・刊行されたものである。書名の由来は,元亨2年(1322)に朝廷に献上された仏教書(釈書)であるところからの命名という。鎌倉末期以降,京都・鎌倉などの禅宗寺院(五山)では,経典や高僧の語録などが開版されたが,これらは五山版と称される。本書も整版法による出版である。捺されている蔵書印から安土・桃山時代の妙心寺の禅僧功澤宗勲の旧蔵書であったことがわかる。
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本書は,鎌倉末~南北朝時代に起きた美濃国船木荘只越郷(ただこしごう,現在の岐阜県瑞穂市)をめぐる争いにおいて,当事者の一方の法眼盛祐が暦応2年(1339)に朝廷(北朝)に提出した訴状である。本文のあとに,参考資料として由緒を示す関係文書を書写したものとともに当事者双方の系図が付されており,盛祐が自らの相伝の正当性を示す論拠のひとつとしている。紙継目の裏には,訴訟の担当者である北朝の廷臣柳原宗光(1322-47)の花押が書かれている。
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本書は,嵯峨天皇(786-842,52代)から後村上天皇(1328-68,97代)までの箏(琴の一種)の師承関係を,南北朝時代に書写された系図である。箏は笙や篳篥などと異なり,女性もしばしば演奏した楽器であり,本書にも天皇や摂関,大臣などの貴族のほか,皇女や女房など女性の名も多く見える。末尾は後醍醐天皇皇女,後村上天皇,長慶天皇(1343-94,98代)と南朝方における相伝関係を示している。
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本書は,後光厳天皇(北朝第4代,御在位1352-71)の宸筆や関連文書をまとめたもので,5紙目(7番目の画像)以降が後光厳天皇の宸筆。画像は貞治元年(南朝は正平17年,1362),天皇25歳の時の書と考えられている。兄の崇光天皇が,その皇子栄仁親王(よしひと)の書道の手本のために名筆を所望されたことに対しての御返書と推測される。小野道風,嵯峨天皇,醍醐天皇等の書についての言及が見られ,当時名筆とされたものをうかがうことができ,書道史の面からも貴重な史料と言える。
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新田義貞(にったよしさだ,1300-38)が公卿四条隆資(しじょうたかすけ)に,法隆寺が所有していた播磨国(現在の兵庫県南部)の所領保全と訴訟の取り計らいを依頼した書状。内容から,義貞の軍勢が足利尊氏方の赤松一族を討つため,播磨国に出陣した延元元年(1336)のものと推定されている。義貞自筆ではなく右筆(書記)が書いたものと考えられるが,義貞の出した文書として貴重なものである。法隆寺旧蔵。
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室町幕府初代将軍足利尊氏(1305-58)が,公卿柳原資明(やなぎわらすけあきら)に宛てた書状で,「天下静謐」(内乱の終息)を喜び,神祇伯(神祇官の長官)の人事についても触れている。観応3年(1352)の,尊氏自筆のものと推定される。公家の日野家旧蔵。
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本書の内容は,平安時代後期の公卿で,管絃の名手であった藤原師長(もろなが,1138-92)が編んだ琵琶の譜面集成。本書は正平10年(1355),後村上天皇(第97代,南朝,御在位1339-68)に授けられた際のもので,裏には伝受された後村上天皇御自身による書き付けが見られる。黄蘗(きはだ)で染められた和紙に書かれており,南朝に関する史料が少ない中,貴重な史料の一つである。なお,「三五」とは琵琶の異称で,長さが三尺五寸であったことに由来する。
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本書は,崇光天皇(北朝第3代,御在位1348-51)によって書写された,琵琶の最秘曲とされた啄木(たくぼく)の秘事口伝に関するもの。譜面の他,撥(ばち)の持ち方や弾き方などの秘伝も図示されているが,描き直しをされている箇所も見られる。朱線が引かれた後の部分は,崇光天皇の第1皇子の栄仁親王(よしひと,1351-1416)が書き継いでいる。
(図書寮文庫)
本書は『年中行事歌合』とも呼ばれ,貞和5年(1350)に北朝の関白二条良基(よしもと)が,宮中の神事や習慣などを題材に催した五十番の歌合の内容を記した本。東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが,1338-1411)が祈年祭を歌題として「祈てふとしのをなかき君が代は三千々余の神やうくらん」と詠んで,祈年祭によって皇室の繁栄が神々に約束されたことを慶び祝い,主催者の良基は祈年祭を「国の大事」と評している。