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(選択を解除)(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。
(宮内公文書館)
宮内省主猟局長を務めた山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)の日記の写本。山口は明治天皇からの内命を受けて狩猟をするため、あるいは御猟場を見回るために、しばしば各地の御猟場を訪れている。明治25年(1892)2月1日からは、出張を命じられ千葉・埼玉の両県にまたがる江戸川筋御猟場を訪ねた。千葉県側から御猟場に入った山口は、2月3日より埼玉県側に移り、翌4日には宝珠花村(ほうしゅばなむら、現春日部市)に至る。史料は、4日の記事である。宝珠花村の堤上から雁猟(がんりょう)を見ていた山口は、見回(猟師)に雁猟の方法を指示すると、14羽の雁を猟獲したという。その日は午後から降雪のため、宝珠花村の中島市兵衛宅に宿泊し、雁猟をしていた見回(猟師)らを招いて晩酌をし、見回(猟師)らは皆、的確な山口の指示を賞賛したことが述べられている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
「明治天皇紀」を編修する臨時帝室編修局によって取得された。明治天皇がお召しになった御料四人乗割幌馬車の写真である。同馬車は,明治4年(1871)に宮内省が当時のフランス公使であるウートレーより購入したもので,同年5月に吹上御苑にて天覧に供された記録も残されている。多くの行幸に用いられており,なかでも明治9年の東北・北海道巡幸,同11年の北陸・東海道巡幸,同13年の甲州・東山道巡幸,同18年の山口・広島・岡山巡幸と実に4度の巡幸に用いられている点が特徴である。その後,宮内省主馬寮に保管されていたが,大正11年(1922)12月に「明治天皇御紀念」として,同馬車を含む3輌が帝室博物館へ管轄換えとなっている。戦後,帝室博物館は宮内省の管轄から離れたため,同馬車は現在も帝室博物館の後身である東京国立博物館に所蔵されている。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(宮内公文書館)
吹上御苑家根(やね)馬場の内部写真。雨天時に乗馬を行う場所であった。屋内であっても天井と両側の窓により,採光を確保する工夫が施されている。小川一真写真館撮影。本写真は大臣官房総務課が作成・取得したもので,吹上御苑内家根馬場の外観写真2枚とともにアルバムに収められている。
吹上御苑内に家根馬場(屋根附馬場)が竣工したのは,大正3年(1914)11月のことであった。これは屋根の付いた馬場(覆馬場(おおいばば))のことで,天候に左右されない屋内専用の乗馬練習場である。約559坪の広さであった。主馬頭などを歴任した藤波言忠の回顧談によれば,「主馬頭奉職中,今上陛下が雨天の際御乗馬の為に建築したるものにして,頗る堅牢なるもの」であったという。家根馬場は,主に大正天皇や皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御乗馬などに使用された。
なお,建物自体は,吹上御苑から皇居三の丸へ移築され,旧窓明館として現存している。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。
(図書寮文庫)
大正天皇(1879-1926)の即位礼・大嘗祭は,大正4年(1915)11月,京都で行われた。大嘗祭では悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎田で収穫された米・粟を神饌(しんせん)に用いるが,香川県は主基地方に選ばれ,綾歌郡(あやうたぐん)山田村大字山田上字田頃(現綾川町山田上)に斎田を選定した。
本資料は香川県内務部が編纂した写真帖で,光栄を永久に記念することを目的として,斎田をはじめとする各施設や器具,稲の生育状況,田植式・地鎮祭・抜穂式(ぬきほしき)といった各種行事や儀式,関係者の写真等が収められた。大正5年10月発行。資料名は図書寮で整理された際に付されたものである。
本資料を同じく香川県内務部編で大正5年3月に発行され,関係者に頒布された『主基斎田写真帖』と比べると,掲載写真や構成など内容的には同一であるが,全体に豪華なつくりとなっている。本資料が『主基斎田写真帖』を献上のため,特別に編纂し直したものであることが見て取れる。
掲出の写真は,大正4年5月27日,主基斎田における田植式の際に行われた田植えの光景である。田植歌の音頭のもと,早乙女たちがこれに唱和し,稲の苗を植えている。
(陵墓課)
大正5年(1916),京都府南部・奈良県北部・大阪府東部に所在する古墳を荒らし回っていた盗掘団が摘発された。その契機となったのが,垂仁天皇(すいにんてんのう)皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵に対する盗掘事件である。盗掘者によって持ち出された副葬品(ふくそうひん)は回収され,埋葬施設(まいそうしせつ)を復旧する工事の際にコンクリート製の箱に納めて埋め戻された。そのため現在は副葬品の実物を目にすることはできないが,石膏による精巧な模造品が残されており,大きさや形状について知ることができる。
石膏模造品が残されている狭木之寺間陵出土品のうち鏡は3面あるが,本品はそのうちの1面である。背面の文様を見ると,連続する内向きの円弧の文様があり,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡」という種類の鏡の文様をベースとしていることがわかる。その一方,中国の「内行花文鏡」では文様が施されない鏡の縁には,「直弧文」と呼ばれる,直線と曲線を組み合わせた日本特有の文様が巡らされている。また,背面中央にある紐を通すための半球形の突起の周囲には,「内行花文鏡」で一般的な葉っぱのような形の文様ではなく,イカの頭のような形の文様が四方に配置されている。さらに,大きさで見ると,本品の直径は34.3㎝であり,中国で見られる内行花文鏡に比べてかなり大きなものである。
本品は,文様や大きさから,大陸から伝わった鏡をモデルとしながらも日本独自のアレンジを加えて製作されたものであると評価することができる。古墳時代の日本列島における鏡生産体制を考えていく上で重要な鏡である。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。
(宮内公文書館)
本資料は,青山練兵場(現在の明治神宮外苑)内に生えていたヒトツバタゴ(俗称ナンヂャモンヂャ)の写真で,明治41年(1908)4月,東京帝国大学農科大学教授であった白井光太郎氏より明治天皇へ奉呈されたものである。江戸時代以来,同地に生えていたヒトツバタゴは,長くその名称がわからず,「ナンヂャモンヂャ」と呼ばれていた。
ヒトツバタゴの自生する一帯は,明治19年(1886)に青山練兵場とされるが,同木は保存され,さらに大正13年(1924)に天然記念物にも指定されている。しかし,昭和8年(1933)に老木ということもあり枯れてしまう。現在,聖徳記念絵画館の前に残されている木は,白井氏が接ぎ木した2代目であるという。また,写真の背景には,近衛兵や軍馬,建物なども写り込み,当時の青山練兵場の様子をよく伝えている。
明治天皇には,全国からこうした写真や報告書など多くの文書が奉呈されており,それらは「明治天皇御手許書類」として,宮内公文書館に所蔵されている。当館では,これら資料のデジタル化を進め,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムにて,順次公開している。併せて御参照いただきたい。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内省内に諸陵寮(しょりょうりょう)再興を求めた意見書の写しである。明治16年(1883)1月,宮内省御陵墓掛足立正声(あだち まさな)が宮内卿徳大寺実則(とくだいじ さねつね)へ提出したもので,古代の律令制において存在した諸陵寮を復活させようというものであった。
本資料自体は写本で,足立男爵家蔵本から写されたものである。大正12年(1923)の関東大震災により,陵墓関係の公文書のほとんどが失われたため,震災後に作成された貴重な資料である。
元治元年(1864),陵墓管理のため古代の律令制度にならい諸陵寮が再興されたが,維新後は神祇官(じんぎかん),教部省(きょうぶしょう),内務省などの所管官庁を変遷し,明治11年(1878)になって宮内省が陵墓事務を担当した。その後,宮内省内の御陵墓掛に就いた足立は,本資料の意見書を提出し,古代の諸陵寮の名称を再興しようとし,明治19年(1886)2月,宮内省に諸陵寮が設置された。以後,終戦直後まで陵墓の管理・考証・治定に関する事務は,概ね諸陵寮が担った。戦後,諸陵寮は廃止されたが,その事務はいくつかの変遷を経て,宮内庁書陵部陵墓課に引き継がれ,現在に至る。