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現在、宮内公文書館では、御用邸や宮内省庁舎など皇室、宮内省に関連する施設、あるいは明治天皇の御手許に上げられた写真類を数多く所蔵している。しかし、帝室博物館の写真は、ここで紹介している写真帳に収められている写真のほか管見の限り見当たらない。
本写真帳には、大正12年(1923)に関東一円を襲った関東大震災直後に撮影された写真が収められている。そのうちのひとつに掲出の東京帝室博物館の写真がある。明治14年(1881)、英国人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)設計の博物館(上野博物館、のちの東京帝室博物館)が上野公園内に竣工した。竣工当時は、博物局(内務省)から農商務省に博物館事務が移管される過渡期であり、建物の設計も含め、宮内省は特に関与していない。
写真を仔細に見てみると、正面入り口の階段には石のようなものが散乱し、屋根は波打つほどに破損している。当日の観覧人にけが人などは出なかったというが、関東大震災により東京帝室博物館は、写真にみえる1号館を中心に甚大な被害を受けた。そこで、昭和3年(1928)頃から再建の機運が高まり、昭和12年に新たな博物館が竣工した。この時竣工となった博物館本館が、現在も上野恩賜公園内にそびえる東京国立博物館本館である。
(宮内公文書館)
股野琢(たく)は、天保9年(1838)龍野藩(現・兵庫県)の儒者の家に生まれた。号は藍田。明治4年(1871)に教部省宣教掛として出仕、その後太政官に入ると内閣記録局長を務めた。明治22年に宮内省へ出仕すると、書記官、文事秘書官長心得などを歴任したほか、久邇宮(くにのみや)家や山階宮(やましなのみや)家の別当を務めた。明治33年に帝室博物館総長に就任、その後、明治41年には内大臣秘書官長を兼任することとなり、大正6年(1917)まで務めた。大正6年には「追々老衰」となり、「繁務ニ難耐」(はんむにたえがたし)として辞職し、帝室博物館総長は図書頭を兼任した森鷗外に譲っている。漢学者としても知られる股野は、帝室博物館総長退任後も、しばしば森鷗外と交流を持っていたようである。「老衰」を理由に官を辞したものの、その辞表には「編修局ニ奉務仕度候」と記されており、大正3年から務めていた臨時帝室編修官長(臨時編修局編修官長/臨時帝室編修局編修長)として、その後も「明治天皇紀」の編修に従事し、亡くなる同10年まで務めている。
(宮内公文書館)
掲出の資料は、世伝(せでん)御料すなわち世襲財産で分割や譲渡が認められていない土地に関する情報をまとめた台帳である世伝御料土地台帳のうち、正倉院宝庫(正倉)に関する記載である。正倉は、間口約33m、奥行約9.4m、床下約2.7m、総高約14mに達する校倉造(あぜくらづくり)の建築物である。聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇「遺愛ノ御物」を奉納する宝庫で、奈良時代以来1000年余りにわたって、勅封(天皇の命による封印)により宝物を守り続けた。その敷地面積は5161坪に及び、明治23年(1890)には、世伝御料に編入された。
帝室博物館総長に就任した鷗外だが、その職掌のひとつに正倉院の管理事務統轄があった。実際に鷗外は、帝室博物館総長在任中に正倉院の開封・閉封の儀に立ち会い、御物(ぎょぶつ)の確認を行うなど、奈良に赴くことも多かった。また、正倉院の御物曝涼(ばくりょう)中に実施される正倉院御物拝観に際して、それまでは高等官や有爵者、学位取得者に限定されていた拝観資格を「学術技芸ニ相当ノ経歴アリト」宮内大臣に認められた者にも拡大するなどの改善策を講じた。
(宮内公文書館)
鷗外が図書頭就任後、早々に決裁した文書。帝室博物館総長兼図書頭としての鷗外は、決裁文書に花押を据えることを常としていたが、この時は珍しく「林太郎」の印鑑を捺している。
鷗外が図書頭に就任してからわずか2日後の大正6年(1917)12月27日、公文書類編纂保管規程が改正された。同規程は、明治40年(1907)に制定されていたが、この改正により、公文書類の保存年限が「永久・二十年・五年」から「永久・三十年・十年」に変更となった。保存年限の変更については、すでに大正4年から検討されていた。大正4年段階では、公文書類の保存期限を「永久・五十年・二十年・十年」と改正するよう、当時の図書頭山口鋭之助より宮内大臣波多野敬直に宛て上申が行われている。
理由は判然としないが、大正6年の改正では、上記のとおり「永久・三十年・十年」に変更され、大正4年の上申は採用されなかった。このように大正4年以来検討されてきた公文書類の保存年限改正は、鷗外が図書頭に就任した直後に実施され、結果的に図書頭鷗外として最初期の業務となった。
この改正を契機として、公文書類の索引のため作成される件名録の作製方法や、どのような内容の公文書類を何年保存とするのかなど、公文書類の保管に関する制度が見直された。現在、宮内公文書館で所蔵される公文書類のうち、茶色い表紙が装丁された資料の制度的淵源は、これらの規程の改正に求められる。
(宮内公文書館)
図書頭の鷗外が、歴代天皇の代数などについて調査した記録に寄せた序文。「図書頭医学博士文学博士森林太郎」の署名がみえる。歴代天皇の代数が、正式に確定されたのは、大正15年(1926)の皇統譜令制定に際してのことである。皇統譜に関する事項も所掌する図書寮ではそれ以前から、皇統譜令制定の前提となる御歴代の確定について調査を進めていた。鷗外自身も、皇室令に係る案件を審議する帝室制度審議会の御用掛として、皇統譜令の制定に役割を果たそうとする。
掲出の史料も、図書寮での御歴代調査に関連して作成されたと考えられる。この調査記録自体は、大正6年以前に作成されていたようだが、タイプ版に印刷し直し、「検閲ニ便ス」とある。中表紙には「五味」の印が捺されており、資料の末尾には「大正七年一月十五日 宮内事務官五味均平草」と記されている。このことから、本資料が宮内事務官五味均平の手になることがわかる。
(宮内公文書館)
本図は、大正11年(1922)に作成された三年町御料地(現・千代田区霞が関、文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され、明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり、三年町御料地が設定された。
明治17年に宮内省内に設置された図書寮は、当初赤坂仮皇居(赤坂離宮)の宮内省庁舎内に置かれた。その後、明治22年に宮城(明治宮殿)が完成すると、宮内省庁舎は紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に置かれるが、図書寮は狭隘のため宮内省内に置かれず、馬場先門内にあった旧元老院庁舎内に移された。しかし、諸陵寮や帝室制度取調局と合同の庁舎であったことに加え、老朽化していたこともあり、明治24年には再び赤坂離宮内に移っている。さらに、明治32年には、東宮御所の造営にともない再度移転を余儀なくされ、図書寮は三年町御料地に移るのである。
三年町御料地の図書寮庁舎は「維新草創ノ建築」であり、東京府内の洋館のなかでも特に古いものであったという。これらの庁舎は、大正12年の関東大震災で大きな被害を受けたため、昭和3年(1928)に図書寮庁舎は現在の地(東御苑内)に移るのである。なお、以前に当ギャラリーで紹介した「三年町御料地総図(関係図面録(三年町御料地)6大正・昭和のうち)」は、大正15年の震災後の状況を示した図面であり、あわせてみると、震災の被害状況がうかがえる。
(宮内公文書館)
三年町御料地(現・千代田区霞が関、文部科学省庁舎一帯)内の図書寮庁舎は「維新草創ノ建築」であり、大正6年(1917)の段階でレンガに亀裂が入り、基礎には狂いが生じるなど危険な状態であった。このため、図書寮は新築庁舎の建設に向けて動き出す。
史料は、その際に図書寮で作成された「新築図書寮調査及文庫平面略図」である。本来、宮内省内の建築にかかわる事務調整や設計は内匠寮が担当するが、本図は図書寮が主体的に作成している点に特徴がある。図書寮は、東京府下の南葵(なんき)文庫、慶應義塾図書館、内閣文庫などへ問い合わせ、文庫の大小や窓の有無、書架延長などを調査して本図を作成したようである。図面をみると1階はロの字になっており、左側に公文書の担当掛と書庫、右側に図書の担当掛と文庫があることがわかる。また、2階には図書頭や高等官の部屋がある。総じて建物の左右で図書と公文書の別を、上下で高等官と判任官の別が区切られていることがわかる。
しかしながら、図書寮による庁舎新築の一件は、大正7年6月を最後に公文書上からは姿を消し、実際に建設されることもなかった。おそらく省の方針転換や、予算措置上の問題があったのだと考えられる。その後、三年町御料地は関東大震災で大きな被害を受け、皇居内に図書寮と諸陵寮との合同庁舎が建てられ、昭和3年(1928)に図書寮は現在の書陵部の地へ移った。図書寮が作成した庁舎図面は、まさに「幻」に終わったのである。
(図書寮文庫)
森鷗外(もりおうがい、森林太郎〈もりりんたろう〉、1862-1922)が宮内省図書頭だった時代に編纂され、神武天皇から明治天皇に至る歴代天皇の諡号(しごう)の由来、出典について考証したもので、大正10年(1921)に宮内省図書寮から100部が刊行された。図書寮文庫には、大正10年刊行の2点のほか、草稿2点(原本・副本)、校正刷1点の、計5点を所蔵する。草稿原本(272・206)は、鷗外が朱書や墨書で書き込みを行い、草稿副本(272・204)は、草稿原本の鷗外筆校正を別の人物が丁寧な形で書き直し、鷗外が朱書や墨書で更なる加筆修正を施している。掲出図版は校正刷であるが、全体を通して朱墨、墨書、朱ペン等、複数の筆記具による書き込みが見られ、その大部分が鷗外筆と認められる。書き込みの内容は、誤字脱字、出典文献、引用本文の加筆修正、体裁の修正や指示等、多岐にわたっており、刊行に至るいずれの段階においても鷗外自身が全体の構成から細部に至るまで積極的に関与していることが分かる。
(宮内公文書館)
本資料は大阪府内の行幸・行啓を記録した資料で、明治元年(1868)から大正3年(1914)までを収める。宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のために、大正8年10月、大阪府立図書館所蔵の資料を底本として筆写した。この内、見開き箇所は明治天皇が初めて堺県を訪問された明治10年2月13日条である。
この明治10年行幸ではご滞在中、京都・神戸間鉄道開業式への臨席や、東大寺大仏殿を会場とした奈良博覧会の観覧、正倉院宝物の蘭奢待(らんじゃたい)と呼ばれる香木を切り取り焚いたことがよく知られている。1月24日の東京ご出発後、鹿児島で西郷隆盛ら私学校生徒が蜂起した西南戦争により、7月30日まで還幸は延期し、畿内滞在は半年近くに及んだ。堺へ到着した2月13日には、熊野(ゆや)小学校での授業天覧、堺県庁(本願寺堺別院内)での県令からの県勢報告、同所での県内物産陳列場の視察、戎島(えびすじま)綿糸紡績所での器械天覧などが行われた。堺の行在所(あんざいしょ)滞在中には、西南戦争に発展する、鹿児島での私学校生徒の挙兵の一報が明治天皇に伝えられた。
(宮内公文書館)
明治12年(1879)10月の測量調査に基づき、精密かつ彩色で描かれた、仁徳天皇陵の平面図。陵墓が所在する府県によって測量調査が行われ、陵墓の実測図(平面図・鳥瞰図)が宮内省へ提出された。本資料には「三千分ノ一ヲ以製之」の記載があることから、元の原図はもっと大きかった可能性が高い。
だが、宮内省が所蔵していた原図は、保管していた諸陵寮の庁舎が被災したため、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。そこで水戸出身の国学者として知られる、宮内省御用掛増田于信(ゆきのぶ)が改めて大阪府、奈良県が所蔵していた控えの図を採集した。大正14年3月20日に謄写して作成されたのが、本資料を収録した「御陵図」と呼ばれる絵図帖である。大和国(奈良県)と河内国・和泉国(大阪府)にある陵墓について、それぞれの平面図と鳥瞰図を描いたものを収める。「御陵図」には各府県の測量調査に基づく大きさや面積の数値が記載されており、明治12年当時の陵墓の現状を知る上で貴重な資料である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月、仁徳天皇陵の前方部中段において石室が露出した。本資料はこの時に出土した副葬品のうち、甲冑を描いた図である。冑は「総体銅鍍金(めっき)」の小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)であり、全体図と各部の詳細図を描いている。
だが、明治5年当時の記録は大正12年(1923)の関東大震災により諸陵寮の文書が焼失したため、存在していない。本件の絵図については複数の写本が知られているが、宮内公文書館では2点を所蔵している。本資料は震災後の公文書復旧事業によって、個人が所蔵していた絵図を模写したものの一つである。この絵図の写しは、大正14年2月に陵墓監松葉好太郎から諸陵寮庶務課長兼考証課長山口巍に宛てて送られた。松葉が堺の筒井家に交渉して入手した筒井本の写本と思われる。
なお、この原図を作成した人物は明治5年実施の関西古社寺宝物調査(壬申検査〈じんしんけんさ〉)に随行した、柏木貨一郎(政矩〈まさのり〉)とされる。この時、柏木は仁徳天皇陵石室開口の情報に接し、この図を作成することとなった。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、宮内省にも甚大な被害をもたらした。震災当時、諸陵寮は、和田倉門内にある帝室林野管理局庁舎の2階を事務室として使用していたが、この庁舎は震災により全焼した。したがって、庁舎で保管されていた諸陵寮の資料はその多くが灰燼に帰した。
そこで、諸陵寮では、焼失した陵墓資料の復旧(復元)が宮内省御用掛の増田于信(ゆきのぶ)を中心に試みられた。この意見書は増田が宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)宛てに作成したもの。9月21日に増田から宮内次官の関屋貞三郎に提出され、翌日、実施が決定された。増田は復旧事業実施の決定をうけ、天皇陵と皇族墓の鳥瞰図と平面図が描かれた「御陵図」の控えを謄写するため、大阪府庁に調査に行ったり、諸陵寮の沿革を記した「諸陵寮誌」を作成したりするなど、陵墓資料の復旧に尽力した。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)に発生した関東大震災により、陵墓の管理を担う諸陵寮の資料は、その多くを焼失することになった。諸陵寮の沿革などに関係する文書が編綴(へんてつ)されていた陵墓録や考証録なども震災により焼失した。そこで作成されたのが諸陵寮誌である。
もともと諸陵寮の沿革については、諸陵属の渡楫雄により文久2年(1862)から明治37年(1904)までの資料が収集されていた。大正5年に渡の事業を引き継いだ烟田真幹が、収集資料をもとに寮誌の編纂を始めたが、大正10年に病死してしまう。この時、文久2年から明治30年までは成稿し、明治31年から明治40年までは草稿が出来ていたという。しかし、これらの資料は関東大震災によりすべて焼失してしまった。増田于信(ゆきのぶ)らを中心として、震災資料の復旧事業が開始されると、寮誌もその対象となり、烟田の遺族に寮誌に関係する資料の提供を求めたが、発見できなかった。前諸陵頭の山口鋭之助にも情報提供を求めたところ、山口の家から、成稿となっていた寮誌が発見された。この寮誌をもとに作成されたのが諸陵寮誌である。
(宮内公文書館)
明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった小山(現栃木県小山市)・高橋家の御座所を撮影した1枚。同家は旧日光街道脇本陣で、明治9年(1876)6月、明治天皇は東北・北海道巡幸の折に、栃木県内で初めてお立ち寄りになった地である。栃木県は東北・北海道へと至る陸羽(りくう)街道(旧奥羽街道)が通る交通の要衝であった。明治14年の巡幸時にも再び、小山駅高橋満司宅が行在所となった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、収集されたもので、大正・昭和初期の様子がうかがえる。
その後、小山行在所となった家の門前には、大正14年(1925)6月に記念碑が建てられた。揮毫(きごう)は明治天皇側近として宮内省で侍従などを歴任した藤波言忠(ふじなみことただ)による。昭和8年(1933)11月には史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく明治天皇の「史蹟」として指定された(昭和23年指定解除)。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月6日、栃木県那須郡那須村高久(現那須町)における御統監(ごとうかん)のご様子を写した明治天皇の御写真。明治天皇が統監された地は御野立所(おのだてしょ)として、那須野が原を眼下に見下ろす眺望のきく高台であった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、昭和2年(1927)に臨時帝室編修官長三上参次より寄贈された。
明治42年の栃木県行幸では、11月5日から11日までの間、陸軍特別大演習統監のため滞在された。明治32年の行幸と同様に、栃木県庁を大本営とした。この大演習は非常に大規模なものとなり、演習地も高久(現那須町)、泉村山田(現矢板市)、阿久津(現高根沢町)、氏家(現さくら市)など広範囲に及んだ。明治42年の行幸後、明治天皇の高久御野立所には記念の木標が建てられ、同地にはその後、大正4年(1915)11月に石碑が建立された。昭和9年11月には文部省によって「明治天皇高久御野立所」として史蹟に指定された(昭和23年指定解除)。現在は「聖蹟愛宕山公園」として整備されている。
(宮内公文書館)
大正13年(1924)ころ、東宮御用掛の西園寺八郎を筆頭に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と同妃(後の香淳皇后)の御避暑御用邸新設候補地の調査が進められた。本史料は、大正14年4月に作成された調査の復命書である。
復命書の冒頭では、避暑行啓の必要性を述べ、現在所有する御用邸のうち葉山は近隣の発展が著しく警備に難があり、沼津・宮ノ下・熱海・塩原は狭隘(きょうあい)であるとして、新たな御用邸を設置する必要性を説いている。復命書にあげられている候補地は、油壷(現神奈川県)、那須嶽山麓地方(現栃木県)、箱根(現神奈川県)の3か所である。このうち、那須嶽山麓地方については、気候が爽涼(そうりょう)であり景色も雄大であること、既に那須御料地として宮内省が土地を取得しており土地の売買が不要であること、「御運動」のための土地を十分に確保できていること、などが記されている。結論として海岸地方の第一候補を油壷、山麓地方の第一候補を那須として復命書をまとめている。
最終的に大正15年7月、那須御料地内に御用邸が新設され、那須御用邸と命名された。同月16日に御用邸は竣工し、8月12日には裕仁親王が初めて那須御用邸へ行啓になっている。
(宮内公文書館)
日光御用邸の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。日光御用邸の前身である地はもともと鎌倉・室町時代に座禅院のあった場所で、江戸時代には「御殿地跡」として長らく空き地となっていた。明治に入り、この地に東照宮別当寺大楽院の建物が移築され、「朝陽館(ちょうようかん)」と称された。朝陽館には明治23年(1890)以降、明治天皇の皇女である常宮(つねのみや)昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)・周宮(かねのみや)房子内親王(後の北白川宮成久王妃)がお成りになった。朝陽館の敷地と建物は明治26年に宮内省が買い上げ、日光御用邸が設置された。以後、主に常宮・周宮の避暑地として、ほぼ毎年7月末から9月中旬の約2か月の間利用された。明治29年には、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がご滞在になっている。
建物は和風木造平屋建てで、一部が2階建てとなっている。終戦後、日光御用邸は廃止となり、種々の変遷を経て、現在日光山輪王寺本坊及び寺務所として使われている。現存する建物は日光御用邸の面影をそのままに伝えている。
(宮内公文書館)
塩原御用邸は、栃木県令などを務めた三島通庸(みしまみちつね)の別荘を明治37年(1904)に宮内省が買い上げたものである。日光田母沢御用邸と同様に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の避暑のために設置された御用邸である。日光田母沢御用邸と異なる点は温泉を引いている点であり、嘉仁親王はご静養のためにしばしば行啓になっている。買い上げ当初の面積は4207坪余りであり、その後、周辺の民有地を追加で買い上げて編入していった。御用邸の土地が広がるとともに御殿も増築され、明治38年には御殿内に玉突き所を増築、同44年には大規模な改修工事が実施されている。
史料はそうした塩原御用邸を俯瞰で撮影した写真である。増築された部屋が連なる入母屋造りとなっていることがわかる。大正期に入ると、塩原御用邸は主に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が利用されるようになる。そのため塩原御用邸は、「嘉仁親王のため」というよりは「皇太子のため」の御用邸であったということができるだろう。
(宮内公文書館)
明治2年(1869)に始まる外賓接待は、外国交際の途を開いた近代日本にとって重要な行事のひとつに位置付けられる。明治期以来現在まで、数多くの外賓接待が行われてきたが、ここで紹介するのは、大正11年(1922)に来日した、英国皇太子エドワード・アルバート(後の英国国王エドワード8世)の写真である。
大正11年4月12日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)訪英の答礼として、軍艦「レナウン」で横浜港に上陸した英国皇太子は、裕仁親王の答訪を受けるなど同月18日まで東京府内での各種行事に出席し、翌日から各地方遊覧へと出発した。このとき、最初の地方遊覧の地に選ばれたのが日光である。
日光御用邸に宿泊した英国皇太子は、日光東照宮をはじめ、華厳滝(けごんのたき)や「提燈行列」を見学した。上記の写真もその際に撮られたもので、中禅寺湖を訪れた際に、湖畔で茶屋を営んでいた星野直八夫妻とともに収まったポートレートである。
このように、外賓接待などの様子をうかがい知ることのできる資料として、宮内公文書館では、「外賓接待録」や写真帖などを所蔵している。
(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。