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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治12年(1879)10月の測量調査に基づき、精密かつ彩色で描かれた、仁徳天皇陵の平面図。陵墓が所在する府県によって測量調査が行われ、陵墓の実測図(平面図・鳥瞰図)が宮内省へ提出された。本資料には「三千分ノ一ヲ以製之」の記載があることから、元の原図はもっと大きかった可能性が高い。
だが、宮内省が所蔵していた原図は、保管していた諸陵寮の庁舎が被災したため、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。そこで水戸出身の国学者として知られる、宮内省御用掛増田于信(ゆきのぶ)が改めて大阪府、奈良県が所蔵していた控えの図を採集した。大正14年3月20日に謄写して作成されたのが、本資料を収録した「御陵図」と呼ばれる絵図帖である。大和国(奈良県)と河内国・和泉国(大阪府)にある陵墓について、それぞれの平面図と鳥瞰図を描いたものを収める。「御陵図」には各府県の測量調査に基づく大きさや面積の数値が記載されており、明治12年当時の陵墓の現状を知る上で貴重な資料である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月、仁徳天皇陵の前方部中段において石室が露出した。本資料はこの時に出土した副葬品のうち、甲冑を描いた図である。冑は「総体銅鍍金(めっき)」の小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)であり、全体図と各部の詳細図を描いている。
だが、明治5年当時の記録は大正12年(1923)の関東大震災により諸陵寮の文書が焼失したため、存在していない。本件の絵図については複数の写本が知られているが、宮内公文書館では2点を所蔵している。本資料は震災後の公文書復旧事業によって、個人が所蔵していた絵図を模写したものの一つである。この絵図の写しは、大正14年2月に陵墓監松葉好太郎から諸陵寮庶務課長兼考証課長山口巍に宛てて送られた。松葉が堺の筒井家に交渉して入手した筒井本の写本と思われる。
なお、この原図を作成した人物は明治5年実施の関西古社寺宝物調査(壬申検査〈じんしんけんさ〉)に随行した、柏木貨一郎(政矩〈まさのり〉)とされる。この時、柏木は仁徳天皇陵石室開口の情報に接し、この図を作成することとなった。
(宮内公文書館)
陵墓の拝所付近に設置された、銃猟を禁じる英文制札の絵図写しである。陵墓制札は江戸時代から存在していたが、明治6年(1873)に初めて陵墓制札の雛形が定められ、英文・仏文でも表記するように規定された。本資料には銃を交差して描かれた図の下に、「銃猟禁制」「Foreigners are requested not to shoot or catch birds or beasts.」(外国人が鳥獣を射撃すること、あるいは捕獲することを禁ず)と記されている。
また、本資料の左下には「堺県」の文字が見える。このことから、堺県が大阪府から分割して設置された明治元年から、明治14年に同府へ編入されるまでの時期に使用されていたと推定される。明治12年の清寧天皇陵(現・羽曳野市)の鳥瞰図を見ると、この「銃猟禁制」と思われる制札が拝所前に描かれている(「陵墓資料(図帖類)御陵図」識別番号42087、宮内公文書館所蔵)。
なお、本資料は昭和24年(1949)7月25日、宮内庁書陵部陵墓課において、大阪府南河内郡藤井寺町(現・藤井寺市)の個人所蔵文書を模写したものである。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、宮内省にも甚大な被害をもたらした。震災当時、諸陵寮は、和田倉門内にある帝室林野管理局庁舎の2階を事務室として使用していたが、この庁舎は震災により全焼した。したがって、庁舎で保管されていた諸陵寮の資料はその多くが灰燼に帰した。
そこで、諸陵寮では、焼失した陵墓資料の復旧(復元)が宮内省御用掛の増田于信(ゆきのぶ)を中心に試みられた。この意見書は増田が宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)宛てに作成したもの。9月21日に増田から宮内次官の関屋貞三郎に提出され、翌日、実施が決定された。増田は復旧事業実施の決定をうけ、天皇陵と皇族墓の鳥瞰図と平面図が描かれた「御陵図」の控えを謄写するため、大阪府庁に調査に行ったり、諸陵寮の沿革を記した「諸陵寮誌」を作成したりするなど、陵墓資料の復旧に尽力した。
(宮内公文書館)
明治36年(1903)4月、明治天皇は大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会に行幸になり、開会式で勅語を述べられた。改正条約実施後初の博覧会であるため諸外国からの出品も認められ、夜間には電灯によるイルミネーションが施されるなど、最後の内国勧業博覧会にして最大規模となった。博覧会の第2会場である堺には「附属水族館」(現・大浜公園内)が設置され、天皇と皇后(昭憲皇太后)は、5月5日と同6日にそれぞれ行幸・行啓になった。その後、堺の名所として知られるようになった堺水族館には、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう)(後の大正天皇)や同妃(後の貞明皇后)、明治天皇の皇女常宮昌子内親王(つねのみやまさこないしんのう)(後の竹田宮恒久王妃)、周宮房子内親王(かねのみやふさこないしんのう)(後の北白川宮成久王妃)なども訪れている。
立面図は、第5回内国勧業博覧会関係資料の一部として明治天皇の御手許へとあげられた資料(明治天皇御手許書類)(めいじてんのうおてもとしょるい)である。宮内公文書館では、水族館の図面のほか、博覧会で使用された各建物の図面等も所蔵している。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府茨木市に所在する継体天皇三嶋藍野陵から出土した朝顔形埴輪である。口縁部(こうえんぶ)の直径約65cm。
朝顔形埴輪とは,器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり,その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となるが,本資料ではその円筒部分の大半が失われている。
朝顔形埴輪は,円筒埴輪とともに墳丘の平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成するものであり,埴輪が出現して間もないころからその終焉(しゅうえん)まで作り続けられた一般的な種類の埴輪といえる。壺はもともと飲食物の容器であり,それを器台にのせた状態を模した朝顔形埴輪は,円筒埴輪と同様に飲食物をささげる行為の象徴であったと考えられる。
なお,本資料では壺部分の肩部外面にイチョウの葉に似た線刻を観察することができる。タイトルのリンク先に線刻の画像を掲載しているので御覧いただきたい。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部東側から,昭和44年(1969)に出土した円筒埴輪の破片である。本例は,上半部分の一部が残存しているのみであり,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。口縁部での直径は復元で約44㎝,現状での残存高は約34㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳にみられる埴輪のなかで最も多く作られた種類といえる。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡がみられる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓(ふんぼ)の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪のなかで,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部から,昭和47年に出土した円筒埴輪である。本例は,その上半部分が欠損しており,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。底部での直径は約30㎝,現状での高さは約37㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳に見られる埴輪の中で最も多く作られた種類と言える。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡が見られる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪の中で,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(陵墓課)
靫(ゆき)の形を模した埴輪である。靫とは,矢を持ち運ぶ容器(矢入れ具)のうち,矢じりを上に向けて収納し,ランドセルのように背中に背負う種類のものをいう。
本品は,地面に立て並べるための四角い台の上に,靫そのものを模した部分が表現されている。矢を入れる容器を表現した箱形の部分はよく残っているが,その周囲に取り付いていた文様のある板状の部分は,左側の一部を除いて失われている。箱形部分の表面は直弧文(ちょっこもん)で飾られており,上端には,矢じりが浮き彫りによって写実的に表現されている。
現状で,高さ97.1㎝,最大幅55.4㎝。応神天皇恵我藻伏崗陵飛地ほ号(史跡墓山古墳)の後円部から,昭和25年に出土したものと伝わる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した,馬形埴輪の頭部である。元々は胴体も作られていたと考えられるが,現在は頭部のみが残存している。
眼,口,耳,たてがみのほか,ウマを操るために馬体に装着された部品(馬具)が表現されている。
たてがみは,上端を平たく切りそろえた状態を示しているものと思われる。
馬具は,頭部にめぐらされたベルトと,それらをつなぐ円環状の部品が表現されている。円環状の部品は,金属製のものの実例があり,実物をかなり忠実に再現していると考えられる。
このように本品は写実性が非常に高いにもかかわらず,乗馬に必要な轡(くつわ)や手綱(たづな)は表現されていない。乗馬用とは異なる目的に用いられたウマであったようだ。
本品は,我が国における初期のウマの利用方法を知ることができるだけではなく,馬形埴輪としても最古級の事例であり,埴輪祭祀の変遷を考える上で,非常に重要な資料である。現存高23.7㎝。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府羽曳野市に所在する応神天皇恵我藻伏崗陵から出土した蓋形埴輪である。
蓋とは,身分の高い人が外出する際にさしかける日傘のことで,衣笠や絹傘とも表記される。現在でも,お堂や厨子(ずし)の中に安置されている仏像の頭上に吊されているものや,寺院の儀式において身分の高い僧が歩く際にさしかけられているものを見ることができる。
蓋形埴輪のうち,蓋そのものを表現しているのは上半部で,下半部の台部は墳丘上に立て並べるためのものである。蓋部分は,スカート状に広がる笠部と,笠部の上の飾りを表現した立ち飾り部からなる例が多い。本品も,本来は上部の円筒部に立ち飾り部が差し込まれていたと思われるが,現在は失われている。
笠部には,横向きに粘土の帯を貼り付け,その上下の区画に,間隔を空けて縦向きの線が刻まれている。実物の蓋は,布や板などを骨組みに貼り合わせて作られていたと考えられており,粘土の帯や線刻はこれを表現したものと考えられる。現状高59.1㎝,笠部直径69.8㎝。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま:写真①)に代表される玉は,現代においても装飾品として馴染みがある。古墳時代には,これに加え,祭りの道具としての性格を重視した玉も作られた。この写真の勾玉(写真②)や臼玉(うすだま)とも呼ばれる小玉(こだま:写真③)は,形は装飾品の玉と変わらないが,一般に滑石(かっせき)と呼ばれる灰色を基調とした加工しやすい軟らかい石材で,祭りの道具として作られている。これらの玉とともに祭りに用いるための道具として石で作られたものには,小型のナイフをかたどったもの(石製刀子[せきせいとうす:写真④,⑤]),矢じりをかたどったもの(石製鏃[せきせいぞく:写真⑥]),剣をかたどったもの(石製剣[せきせいけん:写真⑦])などがあり,これらを「石製模造品」と呼んでいる。
これに対して,車輪石(しゃりんせき:写真⑧,⑨)や鍬形石(くわがたいし,[石製品残欠:写真⑩]はその一部だと考えられている)などと呼ばれる腕輪の形を模した製品は「石製品」と呼ばれ,見た目にもきれいな緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)などが使われており,権威の象徴としての宝物と考えられている。
これらの出土品から,当時の権力者が持っていた宝物や,権力者の葬儀に伴う祭りの一端を垣間見ることができる。
(参考:[石製刀子:写真⑤=長さ8.6センチ],[残欠(ざんけつ)=破片のこと])
(陵墓課)
本資料は,中国からもたらされた鏡で,バラバラに割れていたが,足りない部分を補って修復している(直径17.9センチ。)。中心部にある紐かけ=鈕(ちゅう)のまわりに,侍者を従えた2つの神像と,向かい合う2頭の獣像2対の図像が配置された,「二神四獣鏡」である。2神は,「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」,向かい合う獣像は,龍と虎であろう。図像の外側には銘文(めいぶん)が巡らされており,現状で10字を確認できる。うち2字は部分的にしか残っていないが,ほかの鏡の例を参照することで,「竟 幽 湅 三 [商]」,「配 象 [萬] 彊 曽」と判読できる。その意味は,「この鏡(を作る際には),三種の金属をよく混ぜ合わせた。」,「・・・多くの図像を配置した。(寿命が)のび・・・」というものである。
鏡の縁の断面の形が左右対称の三角形状となる鏡を「三角縁」と呼ぶことは広く知られている。それに対し,この鏡は,鏡縁の外側斜面に比して内側斜面の角度が緩く,断面形が左右対称の三角形状とはならない。こうしたものを「半三角縁」,あるいは「斜縁」と呼称している。
(陵墓課)
この鏡は本参考地出土のなかでは最も残りがよいものであるが,現状では縁の一部が欠けており,その部分を補って修復している(直径13.3センチ)。主文様は,鈕(ちゅう)を取り囲むように配置された2体の獣像である。これらは胴部の表現が異なっており,鱗状の表現が認められるものが龍,もう1体が虎と考えられる。本来の龍虎の表現とは少し異なっているが,まだ見分けが付く段階のものである。龍と虎の外側には,直線を組合わせた記号のような文様が巡るが,ここは本来銘文(めいぶん)が巡る場所である。しかし,文字が認識できなかったため,記号のようなものになってしまっている。以上のことから,中国鏡を真似て日本列島で製作された鏡であると考えられる。
なお,発掘直後の報告では鈕の中に紐が残っていたとされるが,現状では何の痕跡もみられない。
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
本資料の弓弭(ゆはず)(写真左側,長さ6.6センチ)は弓の両端に付けて弦(つる)を掛ける部品,矢筈(やはず)は矢の後端に付けて弦に引っ掛けるための部品で,ともに銅の鋳造品である。弓筈の表面はほとんどサビで覆われているものの,金色のメッキもわずかに残る。矢筈についても弦を受ける部分にごく少量のメッキが残ることから,作られた当初は黄金色であったと考えられる。