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淡い緑色のこの勾玉は,どこで作られたものであろうか。
優美な曲線で構成される「勾玉」は,玉の中でも際立つ存在である。勾玉にはヒスイや碧玉(へきぎょく)といった美しい石を素材としているものも多く,使う人々の好みが表れているともいえる。今回紹介する勾玉はガラスで作られたものであり,頭部の先端付近を欠いていることが惜しまれるが,透きとおる淡い緑色はヒスイなどとはまた違った美しさを放っている。
細かなガラス素材を鋳型(いがた)の中で溶かして作ったと考えられ,緑色に発色しているのは銅を混ぜているからであると思われる。全長が5.4㎝あり,ガラス製のものでこのような大きな勾玉は珍しい。
本品が出土した西塚古墳は,福井県若狭町の脇袋(わきぶくろ)古墳群に所在する前方後円墳である。同古墳や周辺の古墳からは朝鮮半島や北部九州と関わりのある遺構や遺物が多く発見されている。このような考古学的な状況と日本海に面しているという地理的状況から,この地域の豪族(ごうぞく)は,朝鮮半島をはじめとする大陸との交渉役を担っていたものと考えられている。西塚古墳に葬られた人物もそうした役割を果たしていたと考えられ,本品は,そのような被葬者の活動の中で入手されたものである可能性がある。
当時の日本列島ではガラス素材からガラス製品を作ることは行われているが,ガラスそのものの生産は行われていない。本品は,輸入されたガラス素材を用いて列島内で作られたのか,あるいは朝鮮半島で作られたものが輸入されたのか。興味は尽きないが,この勾玉がどこで作られたかの結論は今後の調査研究に委ねられている。
(陵墓課)
光を反射してキラキラと輝く耳飾りは,その美しさと珍しさで人々の注目を集めたに違いない。
本品は,金無垢(きんむく)からなる贅沢(ぜいたく)な作りの耳飾りである。本来は孔が開いている方を上にして,耳たぶに装着した耳環(じかん)から環(わ)や鎖(くさり)を介してぶら下げられていた。本品のようなアクセサリーの先端にぶら下げられている部分を「垂下飾(すいかしょく)」と呼ぶ。写真左側の個体で縦方向の長さ3.9㎝。
水滴(すいてき)を上下逆にしたようなかたちで,本体中央にはコバルトブルーのガラス玉がはめ込まれている。縁(ふち)には「覆輪(ふくりん)」と呼ばれる別のパーツがかぶせられており,丁寧に刻み目が施されている。すぼまった側が本来の下端となるが,左側の個体では,2つのドーナツ状パーツと4つの粒状パーツからなる飾りが付く。右側の個体でこの飾りが失われているのは残念だが,そのおかげで下端の飾りが本体と覆輪とを挟み込むように取り付けられていることがよくわかる。
左側個体下端の飾りに見られるような,金でできた粒状のパーツを「金粒(きんりゅう)」と呼ぶが,金粒が用いられている耳飾りは,朝鮮半島西部の「百済(くだら・ペクチェ)」の墳墓からも出土している。その一方,ガラス玉がはめ込まれた垂下飾は百済では確認されておらず,本品には百済のものとは異なるアレンジが加えられていると見られる。こうした状況から,本品は,百済からの渡来人の手によって,日本列島内で製作された可能性が考えられる。
本品は,古墳時代における貴金属製アクセサリーのうち初期のものの一つに数えられる。古墳時代の金工文化をしのばせる逸品であると同時に,その時代の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(図書寮文庫)
1872年・1882~83年のオーストリア=ハンガリー帝国による北極探検隊が撮影した写真集。明治23年(1890)に同国海軍ファザナ号艦長より明治天皇に献上された。写真を貼り込んだ台紙50枚を本の形のケースに収める。ほかに同国特命全権公使ビーゲーレーベンから宮内大臣土方久元に宛てた書状とその翻訳(明治天皇御覧)を付す。
同探検隊は,1872年の冬に氷に閉じ込められ氷とともに流されたが,翌73年には新しい陸地を発見し,時の皇帝の名を冠した(フランツ・ヨーゼフ諸島)。
ここに挙げた写真は,1872年撮影のスピッツベルゲン島(ノルウェー)の風景。スピッツベルゲンは,現在も極地科学の研究拠点として知られる。このような北極圏の風景だけでなく,探検隊のアザラシ猟の様子(8枚目)や彼らの船“テゲトフ号”の写真(11枚目)なども見られる。
なお,旧書名『〔墺匈国快走船〕フワザナ号北極探検写真』を,このたび再調査し改めた。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,本品は大正5年に西塚古墳の石室から出土した。写真左側は鉸具(かこ)と呼ばれるバックル部分,中央と右側は銙板(かばん)と呼ばれる帯の飾りの部分である。全ての部材が銅に金メッキをほどこした金銅製で作られている。鉸具の飾り板部分は破損しているが,鳳凰が描かれていたようである。銙板は少なくとも7点分は確認でき,写真ではその中の2点を示している。写真中央のものには龍,右側のものには鳳凰が描かれている。龍と鳳凰は,彫金技術によって浮き出るよう立体的に表現される。銙板の下側には鈴が装着されており,この帯を身に着けた人物が動くたび,周囲の人々には鈴の音が聞こえていたであろう。西塚古墳から同時に出土した他の品々からみて,本品は5世紀後半頃に使われたものである。
本品と同様のモチーフと彫金技術がみられる事例は,熊本県江田船山古墳出土例など日本列島の古墳出土品の中に数例が確認できる。龍と鳳凰のモチーフや,これを立体的に表現する彫金技術は,当時の日本列島では定着していないことから,本品は朝鮮半島南部,あるいは中国大陸からもたらされたものである可能性が高い。5世紀後半は,中国の歴史書に「倭の五王」が登場する時代にあたり,本品は当時の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土した34面の鏡のうちの1面である。直径27.2㎝。
名称の「鼉龍」とは,ワニをモデルとするといわれる中国の伝説上の怪物であるが,実は,この鏡の文様は鼉龍ではない。神仙(しんせん)像と神獣(しんじゅう)像を四体ずつ配置する,「四神四獣鏡(ししんしじゅうきょう)」をモデルとしているが,神仙像の頭部には,下方の着物を着たような胴体と,右斜め上方向から弧を描く蛇体のような胴体の,二つの胴体がある。棒のようなものをくわえた神獣像の方は,長く伸ばした首の先の胴体に脚がない。この鏡の文様をデザインした工人は,神仙・神獣の図像をよく理解していなかったため,このような,蛇体の怪物がうねっているような文様になってしまったのである。こうした文様の鏡を,慣例的に「鼉龍鏡」と呼んでいるが,別名の「変形神獣鏡」の方が実態に即している。
本例では,神仙像・神獣像のほかにも,本来は銘文があるべきところにないなど,モデルである中国製の鏡から逸脱している点が見られ,我が国の工人の手によるものだと考えられる。一方,文様そのものは精緻(せいち)に鋳出されており,工人の技術のレベルは低いものではなかったことがうかがえる。
古墳時代になって我が国において本格的な鏡作りが始められたころの状況を知ることのできる,貴重な資料である。
(陵墓課)
本資料は,明治45年に現在の岡山市北区新庄下の榊山古墳(さかきやまこふん)から出土したと伝わる金銅製の金具であり,馬具の一種と考えられている。直径が約5センチで半球形を呈し,溶かした銅を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造(ちゅうぞう)」で成形されている。側面には左を向いた2頭の龍の透かしがみられ,彫金(ちょうきん)技術によって龍の眼、口、脚などが立体的に表現されている。当時の日本列島における金工技術の水準を超えたものであり,海外からもたらされた可能性が高い。形態,文様,製作技術に共通点が認められる金具が,中国東北部の遼寧省(りょうねいしょう)に位置する「前燕(ぜんえん)」(337-370年,五胡十六国時代の国の一つ)の墳墓で出土していることから,本品も当地域で製作されたものであろう。
日本列島内で本品のような金具は他に出土しておらず,周辺では韓国南東部に位置する4世紀代の墳墓からの出土が確認されている。本品は中国東北部から朝鮮半島南部を介して日本列島に伝わったと考えられ,当時の東北アジアにおける交流の実態を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地の石室から出土したものである。直径28.0㎝。
背面の中央には紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形の突起があり,鈕からは葉っぱのような文様が四方にのびている。そこから外側は同心円で3分割されており,最も内側の区画と最も外側の区画は日本の古墳時代特有の文様で,直線と曲線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)が鋳出(いだ)されている。
一方,2番目の区画に鋳出された8つの花文(弧文)は,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」という種類の鏡と同じ特徴を持つ。ただし,本鏡の八花文は花文の一単位ごとで内区に近い部分に突出した箇所があり,単純に弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。
つまりこの鏡は,大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて,日本列島で製作されたものと考えられる。当時の鏡作り職人の創意工夫が感じられる資料である。
(図書寮文庫)
八条宮智仁親王(としひとしんのう,1579-1629)が長岡藤孝(細川幽斎,1534-1610)から相伝された『古今伝受資料』のうちの1点。包紙に智仁親王御筆で「幽斎より相伝之墨」とある。
墨には「〈祁邑葉璲精造〉金壺清」「〈東岩主人督製〉金壺清」との銘があるが,「祁邑(きゆう)」は中国山西省の祁県(きけん)の古称で,「葉璲(しょう・すい)」「東岩主人(とうがんしゅじん)」は職人の名・号と考えられる。
附属の幽斎自筆の書付によれば,九州平定のため羽柴秀吉に従って長門国(山口県)まで下向した幽斎が,宿泊した同地の妙栄寺の住職から,大内義隆の旧蔵品の「からすミ(唐墨)」として贈られたものという。幽斎の『九州道の記』には,天正15年(1587)5月11日,妙栄寺に到る前に義隆終焉の地である大寧寺に立ち寄ったことが記されており,贈られたことはそれと関係があるかもしれない。
大内義隆は日明貿易に積極的に関与し,天文年間に2度貿易船を明に派遣している。当時遣明使節の幹部だった禅僧策彦周良(さくげん・しゅうりょう)の記録『初渡集』『再渡集』に,中国で墨を購入したり,中国人から贈られたりしたことが確認されるので,そのようにして入手したうちの1点である可能性はあろう。いずれにせよ,明代に我が国へもたらされた墨は残存例が少ないので,極めて貴重である。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した,馬形埴輪の頭部である。元々は胴体も作られていたと考えられるが,現在は頭部のみが残存している。
眼,口,耳,たてがみのほか,ウマを操るために馬体に装着された部品(馬具)が表現されている。
たてがみは,上端を平たく切りそろえた状態を示しているものと思われる。
馬具は,頭部にめぐらされたベルトと,それらをつなぐ円環状の部品が表現されている。円環状の部品は,金属製のものの実例があり,実物をかなり忠実に再現していると考えられる。
このように本品は写実性が非常に高いにもかかわらず,乗馬に必要な轡(くつわ)や手綱(たづな)は表現されていない。乗馬用とは異なる目的に用いられたウマであったようだ。
本品は,我が国における初期のウマの利用方法を知ることができるだけではなく,馬形埴輪としても最古級の事例であり,埴輪祭祀の変遷を考える上で,非常に重要な資料である。現存高23.7㎝。
(図書寮文庫)
フランスのオルトラン(Théodore Ortolan,1808-74)が著した"Règles internationales et diplomatie de la mer"(海の国際法と外交)のオランダ語訳。榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)旧蔵本。
榎本武揚(通称釜次郎)は文久2年(1862)オランダに留学し慶応2年(1866)に帰国,幕府海軍副総裁となる。大政奉還後,新政府への軍艦引渡を拒み五稜郭(現在の北海道函館市)に籠もって抵抗したが(箱館戦争),明治2年(1869)5月降伏。入獄,特赦の後,明治政府に仕え,海軍卿・文部大臣・外務大臣などを歴任した。
本書は,冒頭に師フレデリックスから榎本に宛てた序文(印刷)があり,以降の本文はペンで浄書されている。欄外に榎本のオランダ語・日本語の注記がある。
榎本は降伏の際,本書が混乱で失われるのを惜しみ,官軍参謀の黒田清隆(1840-1900)に託した。掲出した"Geschenk aan de Admiraal van de Keizerlijk Japansche marine van Enomotto Kamadiro"「提督への贈り物」と筆で書かれた一文はこの時のものとされる。
明治13年海軍卿となった榎本は海軍省図書のうちに本書を見出し,許可を得て手元に戻した。その後,武揚の孫である榎本武英から大正15年(1926)に宮内省へ献納された。武英は,本文は「ふれでりつくす氏ノ手筆ニ係ル」とし,祖父の書き込みを「蝿頭ノ細字」(ようとうのさいじ)と評している(宮内公文書館蔵『図書録』大正15年第62号〈識別番号990292〉)。
(陵墓課)
本資料は,大と小のセットで作られた刀剣の柄頭(つかがしら)である(写真左幅5.0㎝)。柄頭とは,刀剣の握る部分(柄)の端のことで,装飾が施されたり,本資料のような装飾のための部品が装着されたりすることが多い。本資料のように,柄頭が環状(かんじょう:輪のような形)になっているものを環頭柄頭(かんとうつかがしら)と呼ぶ。本資料の環頭は,かまぼこの断面のような形をしており,中央に三つ叉の装飾を配している。この三つ叉の部分を植物の葉に見立てたことから,三葉環頭(さんようかんとう)の名がある。
本資料にはわずかに金色が見られることから,大・小ともに,銅で作られたのちに金メッキを施した,金銅(こんどう)製と考えられている。本資料と類似したものは,日本の古墳時代と同時代に朝鮮半島南東部に存在していた古代国家,新羅の勢力圏内から多く出土していることから,本資料も新羅からもたらされた可能性がある。
(陵墓課)
本資料は,馬鐸(ばたく)と呼ばれる馬具の一種で,装飾や音による効果を意図してウマの体に吊したベルである。写真左端のもので現存長12.5㎝,溶かした銅を型に流し込んで作った鋳造品である。
当参考地からは,計4点の馬鐸が出土しており,その文様から2点ずつの二つの群に分類することができる。一つは左側2点の「王」と「☓」を組み合わせたような線で分割するもので,もう一つは右側2点の「三」と「☓」を組み合わせたような線で分割するものである。分割線の外側には珠文(しゅもん:粒のように見える小さな円形)を配している。各群の2点は互いに文様が酷似しているものの,細部をみると完全には一致しないようである。これらの文様は,鐸身の片面のみにみられ,反対面は無文である。
なお,当参考地では鹿角(ろっかく)製と考えられる舌(ぜつ)(馬鐸の内部に吊って,音を鳴らす部材)も1点みつかっている。
(陵墓課)
本資料は,横長の鉄板(横矧板(よこはぎいた))を主要な部材として,各パーツを鋲(びょう)で留めた,鉄製の冑(かぶと)である(高さ15.8㎝)。被った時に正面にくる部分(写真左側)が鋭角に尖っている点が特徴的で,こうした形の冑は,その部分を衝角(しょうかく:軍艦船首の喫水線の下に装着された,体当たり用の武装)に見立てて,「衝角付冑」と呼ばれている。
古墳時代になると,武器や防具は鉄で作られるものが主流となり,数が飛躍的に増えるとともに,技術や性能の面でも著しい発達を遂げていく。古墳時代に盛んとなった東アジア諸国との交流によって海外からもたらされたものや,その影響を受けて日本で製作されるようになったものがあるが,本資料のような衝角付冑は,日本で伝統的に作られてきた冑の系譜に連なるものである。全体の形はほとんど変化しないが,鉄製のパーツをつなぎ合わせる方法が,当初は革紐(かわひも)を通して結び付けていたものが,鉄製の鋲で留める方法へと変化していくことが知られている。
(陵墓課)
本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
(陵墓課)
本資料は「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれる鏡の一種で,現状での直径は9.6㎝である。全体が銹(さび)に覆われているが,レントゲン写真によって文様や銘文の詳細が判明した。
鏡裏面の中心には紐(ひも)をとおすための「鈕(ちゅう)」と呼ばれる盛り上がりが作られ,その周りには,コウモリが翼を広げたような形の文様が4方向に配置されている。4つのコウモリ形の文様の間には,「長」,「宜」,「子」,「孫」の字が配置されている。これは,「長く子孫に宜(よろ)し」と読み,「(この鏡を持てば)子孫が長く繁栄します」という意味である。
本資料は,文様の特徴でみると,中国の後漢で2世紀前半に製作されたものとなる。一方,この鏡が出土した妻鳥陵墓参考地は,他の出土品からみて6世紀代に築造されたものだと考えられ,製作されてから日本で副葬されるまでに,四百年前後の時間差がある。この間,どのような人の手を経てきたのかは分からないが,日本の古墳時代における鏡の存在意義を考えるときには,非常に興味深い事例である。
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
本資料は,持ち手に環が作り出されたと考えられ,そこから「素環頭剣」と呼ばれている。現存長は80.7センチで,刃部の断面形状は菱形であり,明瞭ではないが鎬(しのぎ)をもつようである。全体にわたって朱(しゅ)などが点々と付着していることから,石棺内に副葬されていたものと推測される。
その重厚長大な造りがほかに例をみない鉄製の剣(両側に長い刃部をもつ手持ちの武器)であり,剣本体は中国などからの輸入品であった可能性がある。
副葬時には鞘(さや)や把(つか)などの木製装具(そうぐ)が装着されていたようであるが現状ではその痕跡をわずかに確認できる程度しか残存していない。これらの装具については,その構造的特徴から判断して日本列島製と推測される。
なお,藤井寺陵墓参考地からは,同様の素環頭剣が少なくとももう1点出土している。