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(選択を解除)(図書寮文庫)
令和6年(2024)は後亀山天皇(?-1424)の崩御から600年に当たる。後亀山天皇は明徳3年(1392)に南北朝の合一が果たされた時の南朝の天皇であり、本資料は、天皇が吉野(南山)から京都に入御され、三種の神器を北朝の後小松天皇(1377-1433)に譲られた際の記録である。
南朝勢力の減退が著しい中即位された後亀山天皇は、北朝方との和平交渉を進められた。そして、譲位の儀式による後亀山天皇から後小松天皇への神器の授与、両朝交互の皇位継承などの講和条件が、北朝方の室町幕府将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)から提示され、後亀山天皇はこれを受諾された。
掲出画像は、明徳3年10月28日に後亀山天皇が吉野を出発された際の行列部分である。腰輿に乗られた天皇が弟宮とわずかな廷臣・武士を従えた、少人数の一行であったことが分かる。翌閏10月2日、天皇は京都の大覚寺に入られ、同月5日に神器が後小松天皇のもとに移され内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)が行われたものの、譲位の儀式は行われなかった。
なお、応永19年(1412)、後小松天皇から皇子躬仁親王(みひと、称光天皇、1401-28)への譲位が行われ、後亀山天皇の御子孫が皇位につくことはなかった。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地は奈良市に所在する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、墳長は約270mである。当参考地では、令和2年に整備工事に先立つ事前調査が行われ、墳丘第1段平坦面における円筒埴輪列などが確認された(令和4年3月刊行『書陵部紀要』第73号〔陵墓篇〕に掲載)。また、この調査の際には、墳丘の裾部分において多くの埴輪片が採集された(令和6年3月刊行『書陵部紀要』第75号〔陵墓篇〕に掲載)。
本資料は、上記の調査が実施される以前に採集されたもので(詳細は不明)、鰭付円筒埴輪の口縁部~胴部にかけての破片である。鰭付円筒埴輪とは円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部(鰭)を取りつけたもので、古墳時代前期によくみられる円筒埴輪の一種である。本資料でみられる間隔の狭い口縁部や、三角形の透孔(すかしこう)も同様に古墳時代前期の埴輪にみられる特徴といえる。
しかし、当参考地の埴輪にみられるその他の製作技法(焼成方法や外面の調整方法)は古墳時代中期中頃の特徴を示すものであり、上記の外形的な特徴が盛行した年代とは齟齬をきたす。この点については、古墳時代前期における埴輪の外形的な特徴が復古的に採用されたと考えられている。
なお、本資料は外面に赤色顔料が塗布されており、欠損部分と比較すると本資料の完成時はかなり赤い色であったことが推測される。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)は直径約30mの円墳で、宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の飛地として昭和20年の終戦直前まで宮内省によって管理されていたが、進駐軍のキャンプ地に取り込まれたため、結果的に削平されて墳丘は現存していない。
築造されたと推定される位置から判断して宇和奈辺陵墓参考地の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる。大和6号墳は鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄の延べ板が昭和20年に削平された際に大量に出土したことで著名であり、しばしば教科書にも紹介されることがある。
本資料は、この大和6号墳から出土したと推測される鰭付円筒埴輪と呼ばれる円筒埴輪の一種の破片で、胴部から底部にかけて残存している。主墳(しゅふん)である宇和奈辺陵墓参考地とは古墳の形や規模が大きく異なるものの、使用されている円筒埴輪の形状や大きさが宇和奈辺陵墓参考地と同じ様相であり、大和6号墳の規模からすると大型なものが使用されている点が特徴的といえる。これは同時期における同規模の円墳では想定しがたい円筒埴輪の様相であり、主墳(しゅふん)と陪冢(ばいちょう)という関係を踏まえて埴輪の生産と供給を考える必要性をうかがわせる。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)と同様に宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる直径約10mの円墳である。大和3号墳は大和6号墳(円墳:直径約30m)と同様に宇和奈辺陵墓参考地の陪冢とされるが、その墳丘の規模はかなり小さい。
大和3号墳の埴輪には、宇和奈辺陵墓参考地や大和6号墳と同様のものも含まれる一方で、本資料のような小型品も含まれる点が特徴といえる。本資料は奈良市周辺においてこうした小型品の出現期となるものであり、小型品が成立する過程を考えるうえで重要な資料といえる。
なお、朝顔形埴輪とは器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり、その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。朝顔形埴輪の壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となっている。朝顔形埴輪は円筒埴輪とともに古墳の墳丘平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成していた。本資料では壺部分の大半が失われている。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(陵墓課)
本資料は、奈良県桜井市に所在する孝霊天皇 皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した二重口縁壺形埴輪で、高さは約45cmである。
本資料の胴部(どうぶ)はほぼ球形で、上方にのびる頸部(けいぶ)がつき、頸部上端でいちど水平方向に開いたのち、そこからさらに斜め上方に大きく広がる口縁部がついている。「二重口縁」とは、本資料のように口縁部に段があって二回にわたって開くものを指す用語である。
写真では見えないが、本資料の底には穴があいている。この穴は胴部をつくったあとで焼成前にくり抜かれている。したがって、本資料は壺の形をしているものの、中に何かをためておくという壺本来の機能を果たすことを期待されていなかったことになる。「壺形土器(壺の形をした土器=土でつくられた壺)」ではなく、「壺形埴輪(壺の形をした埴輪)」と呼ばれるのは、それが理由である。
本資料は昭和40年代に大市墓の前方部先端の墳頂付近で出土したものである。大市墓では平成10年に台風被害で多くの倒木が発生したことがあるが、その根起きした箇所からもよく似た形のものが出土している。大市墓の前方部墳頂の平坦面には、多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(陵墓課)
鍬形石は古墳時代の石製品(せきせいひん)である。その名のとおり、写真下段の板のように見える部分が農具である鍬の先を思わせることから江戸時代にこの名がつき、現在の考古学でもそれを踏襲してこの名称が使われている。実際に農具の鍬として使用したものではない。
鍬形石は、弥生時代の九州地方で使用された貝製の腕輪である貝輪(かいわ)を起源とすることがわかっている。貝輪は古墳時代にも使われるが、主に北陸地方で産出する碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)と呼ばれるきれいな緑色の石材で製作されることが多く、単に装身具としての腕輪だけでなく宝器としての意味ももつようになる。
写真の鍬形石は上下で分かれているが、本来はそれぞれ別の個体である。上下の位置関係は正しいが全面に施されている装飾が異なるため、それぞれ違う鍬形石の破片であることがわかる。この刻みのような装飾は、初期の鍬形石にはないものであり、より貝輪に近かった当初の特徴が失われていることがわかる。そのため、本資料は鍬形石が作られた期間の中でも、もっとも後の時期に作られたと考えられている。二つの破片は細かい装飾で異なるが、全体の特徴はよく似ていることから、作り手が同じか、違う場合でもデザインを共有する近しい関係にあったことが推測される。
なお、ここで紹介した鍬形石の破片はどちらも奈良県北葛城郡広陵町に所在する巣山古墳からの出土が伝えられている資料である。
(陵墓課)
この勾玉を作った人や使った人はどのような祈りや願いを込めていたのだろうか。
「勾玉」は古墳時代の人々が最も好んだ玉であるといえる。多くは管玉などほかの玉と組み合わされて首飾りなどのアクセサリーに用いられていた。勾玉の独特なかたちは日本列島内で独自に発展したものであるが,そのルーツについてはよくわかっておらず,動物の牙(きば)という説,胎児(たいじ)を模したものであるという説などがある。
今回紹介する「大勾玉」は,全長9.7㎝,重さ200g超と,類例のない大きさである。サイズ,ボリュームともアクセサリーとして身につけるにはあきらかに不向きといえよう。紐をとおすための孔の周囲は,曲線や直線,直線を組み合わせた三角形などが刻まれて飾られているが,これも通常の勾玉には見られないものである。
「玉」という名称は,「魂(たま)」や「霊(たま)」と語源が同じといわれ,マジカルな力やミステリアスな力を宿す呪術具としての意味を持つとも考えられている。以前に本コーナーで紹介した「子持勾玉」は,そうした呪術的な側面がかたちに表れているものであるが,本品も,かたちこそ通常の勾玉と同じであるが,その大きさや装飾は,身体を飾るアクセサリーとしてではない,呪術具としての側面を現しているものであると考えられる。
これだけ大きな勾玉は古墳時代の出土品としてはほかに例がない。本品は,古墳時代に生きた人々の精神的な活動を知るための手がかりとなる,重要な遺物といえよう。
(陵墓課)
我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(陵墓課)
奈良県葛城市に所在する小山古墳から出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。書陵部では,本資料のように金色に輝く耳環の名称を,その色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものの中には,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,材質には様々なものがあり,金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は純金特有の黄色みが淡いことから,金と銀の合金で作られている可能性がある。金と銀の合金は,その色調から「琥珀金(こはくきん)」とも「エレクトラム」とも呼ばれ,銀の比率が高くなるにつれて,金色が薄れて銀色が強くなる。この材質についての所見はあくまでも観察によるものであり,材質を確定させるためには,蛍光X線(けいこうエックスせん)などの理化学的分析が必要となる。
本資料の2点は,全体をみると,ともに直径18㎜ほどで,厚みは1㎜から2㎜である。画像右側のものは正円形に近く,左側のものは楕円形に近いといえるが,大きくは変わらない。環の本体をみると,その断面形はともに正円形である。耳環は,両耳に着けるものであるため,2個で1セットが本来の姿である。本資料の2点は,色調から類推される材質,大きさ,形状などに統一感があり,本来のセットを保っている可能性が高い。しかし,本資料の出土状況は不明であるため,出土時の位置関係を知ることができず,本来のセットであったかどうかを確定させる方法はない。
(陵墓課)
本品は「石釧」と呼ばれる,古墳時代の前半期(4世紀~5世紀前半)に見られる遺物である。形は正円に近く,直径は6.9cm。
「釧」は腕輪の古い呼び方であるので,「石釧」は,文字のとおりだと「石でできた腕輪」となる。しかし実は,その用途は腕輪とは言い切れず,以前に当ギャラリーで紹介した鍬形石(くわがたいし)や車輪石(しゃりんせき)と同様に,所有することに意義がある宝物であると考えられる。
鍬形石はゴホウラという巻貝,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪をそれぞれ原形とする説が有力であるが,石釧はイモガイという巻貝から作られた腕輪がその原形と考えられる。鍬形石,車輪石,石釧のいずれもが腕輪を原形として石で作られていることから,考古学の用語では,この3種類の遺物を総称して,「腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)」と呼ぶこともある。
石釧はこの3種類のうちでは最も出土数が多く,更に出土範囲も広いことから,使用されていた期間が他の2種類に比べて長いものと考えられる。また,材料の石も,硬い碧玉(へきぎょく),やや軟らかめの緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん),更に軟らかい滑石(かっせき)など,他の2種類に比べて多岐にわたっている。こうした状況から,石釧の作られた場所や流通の状況が,他の2種類とは少し異なっていたものと考えられる。いずれにせよ,古墳時代前期の社会を考えていく上で,重要な遺物である。
(陵墓課)
大正5年(1916),京都府南部・奈良県北部・大阪府東部に所在する古墳を荒らし回っていた盗掘団が摘発された。その契機となったのが,垂仁天皇(すいにんてんのう)皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵に対する盗掘事件である。盗掘者によって持ち出された副葬品(ふくそうひん)は回収され,埋葬施設(まいそうしせつ)を復旧する工事の際にコンクリート製の箱に納めて埋め戻された。そのため現在は副葬品の実物を目にすることはできないが,石膏による精巧な模造品が残されており,大きさや形状について知ることができる。
石膏模造品が残されている狭木之寺間陵出土品のうち鏡は3面あるが,本品はそのうちの1面である。背面の文様を見ると,連続する内向きの円弧の文様があり,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡」という種類の鏡の文様をベースとしていることがわかる。その一方,中国の「内行花文鏡」では文様が施されない鏡の縁には,「直弧文」と呼ばれる,直線と曲線を組み合わせた日本特有の文様が巡らされている。また,背面中央にある紐を通すための半球形の突起の周囲には,「内行花文鏡」で一般的な葉っぱのような形の文様ではなく,イカの頭のような形の文様が四方に配置されている。さらに,大きさで見ると,本品の直径は34.3㎝であり,中国で見られる内行花文鏡に比べてかなり大きなものである。
本品は,文様や大きさから,大陸から伝わった鏡をモデルとしながらも日本独自のアレンジを加えて製作されたものであると評価することができる。古墳時代の日本列島における鏡生産体制を考えていく上で重要な鏡である。
(陵墓課)
本品は「車輪石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。楕円形を呈しており,長径は14.0cmである。その名称から,「石でできた車輪」を連想するかもしれないが,その用途は車輪ではない。そもそもわが国において,古墳時代に車輪を用いる「車」は確認されていない。それではその用途は何かといえば,以前に当コーナーで紹介した鍬形石(くわがたいし)と同様に,所有することに意義を持つ宝物であったと考えられる。鍬形石はゴホウラという巻貝から作られた腕輪を原形とするのに対し,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪を原形とする説が有力である。その理由は,車輪石の表面に見られる放射状の表現が,オオツタノハの貝殻のかたちによく似ているからである。鍬形石と車輪石をどのように使い分けていたのかについては様々な学説があるが,鍬形石は男性に,車輪石は女性に副葬されたのではないかという説がある。この「車輪石」という名称も,鍬形石と同様に,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が名付けたとされており,作られた場所や流通などについて謎の多い出土品である。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土した34面の鏡のうちの1面である。直径27.2㎝。
名称の「鼉龍」とは,ワニをモデルとするといわれる中国の伝説上の怪物であるが,実は,この鏡の文様は鼉龍ではない。神仙(しんせん)像と神獣(しんじゅう)像を四体ずつ配置する,「四神四獣鏡(ししんしじゅうきょう)」をモデルとしているが,神仙像の頭部には,下方の着物を着たような胴体と,右斜め上方向から弧を描く蛇体のような胴体の,二つの胴体がある。棒のようなものをくわえた神獣像の方は,長く伸ばした首の先の胴体に脚がない。この鏡の文様をデザインした工人は,神仙・神獣の図像をよく理解していなかったため,このような,蛇体の怪物がうねっているような文様になってしまったのである。こうした文様の鏡を,慣例的に「鼉龍鏡」と呼んでいるが,別名の「変形神獣鏡」の方が実態に即している。
本例では,神仙像・神獣像のほかにも,本来は銘文があるべきところにないなど,モデルである中国製の鏡から逸脱している点が見られ,我が国の工人の手によるものだと考えられる。一方,文様そのものは精緻(せいち)に鋳出されており,工人の技術のレベルは低いものではなかったことがうかがえる。
古墳時代になって我が国において本格的な鏡作りが始められたころの状況を知ることのできる,貴重な資料である。
(陵墓課)
本品は「鍬形石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。鍬形石の原形は,ゴホウラという奄美大島以南の海で採集される巻貝から作られた腕輪であると言われている。弥生時代の九州地方では,実際に身につけてその人の身分を示す装身具であったと考えられている。この貝製の腕輪が古墳時代には,材質が石へと変化し,実際に身につけるというよりは,所有することに意義を持つ宝物として副葬されるようになった。
本個体は,奈良県の巣山古墳から出土したと伝えられており,最大の特徴は中央部にある突起が左側にある点である。左側に突起がある例としては,奈良県島の山(しまのやま)古墳から出土した可能性がある一例に限られている。
鍬形石という名前は,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が命名したとされている。よって,古墳時代に何と呼ばれていたかは明らかでなく,その用途や作られた場所,さらには流通などについても謎の多い出土品である。
(陵墓課)
本例は,奈良県大和高田市に所在する磐園(いわぞの)陵墓参考地から出土した鰭付(ひれつき)円筒埴輪である。
鰭付円筒埴輪とは,円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部を取りつけているもので,板状部分をヒレに見立てて,そう呼び習わしている。おもに古墳時代の前期から中期にかけて見られる。
古墳の墳丘上や周囲に埴輪を立て並べる際には,矢の入れ物である靫(ゆぎ)や盾(たて)といった武器・武具の形をした埴輪も並べられることがある。武器や武具は敵を追い払うためのものであることから,埴輪列は,古墳内への侵入を拒み,古墳や被葬者の静安を護ろうとするものであったと考えられる。本例のような鰭付円筒埴輪は,埴輪列に並べる際には,ヒレ同士が接するか,ヒレ同士を重ねるように立て並べることが知られている。埴輪同士の隙間を埋めるという意図が見て取れ,鰭付円筒埴輪も,古墳を護ろうとする意識を表現するものであったと思われる。
本例の復元高は110.0㎝,両側のヒレからヒレまでの最大幅は51.5㎝。本例は,鰭付円筒埴輪の全形をうかがいしることができる貴重な資料である。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地の石室から出土したものである。直径28.0㎝。
背面の中央には紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形の突起があり,鈕からは葉っぱのような文様が四方にのびている。そこから外側は同心円で3分割されており,最も内側の区画と最も外側の区画は日本の古墳時代特有の文様で,直線と曲線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)が鋳出(いだ)されている。
一方,2番目の区画に鋳出された8つの花文(弧文)は,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」という種類の鏡と同じ特徴を持つ。ただし,本鏡の八花文は花文の一単位ごとで内区に近い部分に突出した箇所があり,単純に弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。
つまりこの鏡は,大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて,日本列島で製作されたものと考えられる。当時の鏡作り職人の創意工夫が感じられる資料である。