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本資料は、江戸時代後期の天保12年(1841)閏正月27日、前年11月に崩御した太上天皇(御名は兼仁(ともひと)、1771-1840)に「光格天皇」の称号が贈られた際の詔書。年月日部分のうち、日付の「廿七」は仁孝天皇(1800-46)の自筆で御画日(ごかくじつ)という。
「光格」は生前の功績を讃(たた)える美称で諡号(しごう)に該当する。諡号は9世紀の光孝天皇(830-87)を最後に、一部の例外を除き贈られなくなり、代わりに御在所の名称などを贈る追号(ついごう)が一般的となっていた。
さらに「天皇」号も10世紀の村上天皇(926-67)が最後で、以後は「〇〇院」などの院号が贈られることが長く続いていた。そのため、「光格天皇」号は、「諡号+天皇号」の組み合わせとしては約950年ぶりの復活であった。院号は幕府の将軍から庶民まで使用されていたことから、天皇号の再興(さいこう)は画期的なことといえた。
これは、光格天皇が約40年に及ぶ在位期間中に、焼失した京都御所を平安時代の規模で再建させたことを始め、長期間中断していた朝廷儀式の再興や、簡略化されていた儀式の古い形式への復古(ふっこ)に尽力したことが高く評価されたためであった。
(図書寮文庫)
詔書とは,国家の重要な案件について,天皇の意志を伝えるために作成される文書である。掲出の資料は,安政3年(1856)8月8日,九条尚忠(ひさただ,1798-1871)を関白に任じる際に作られた詔書の原本である。
内容は,尚忠を関白に任じる旨の命令を,修辞を凝らした漢文体で記したものである。文章の起草・清書は大内記(だいないき,天皇意志に関わる文書の作成を職掌とする)東坊城夏長(なつなが)が担当し,料紙には黄紙(おうし)と呼ばれる鮮やかな黄蘗(きはだ)色の紙が用いられた。また,文書末尾の年月日部分のうち,日付の「八」のみ書きぶりが他と異なるが,これは自らの決裁を示す孝明天皇(1831-66)の宸筆であり,この記入を御画日(ごかくじつ)という。
尚忠は関白就任後,幕末の困難な政治情勢下において,江戸幕府と朝廷の間の折衝役として尽力した。しかし,日米修好通商条約の締結などをめぐって孝明天皇や廷臣の支持を得られず,最終的には文久2年(1862)に関白を辞任した。
なお,この時の関白任命にあたっては,いくつかの関連文書も共に作成されたが,図書寮文庫にはそれらの原本も所蔵されている(本資料のもう一点「随身兵仗勅書」および函架番号九・1638「九条尚忠関白・氏長者・随身牛車宣旨」)。
(図書寮文庫)
「神武必勝論」は,幕末に尊王攘夷論を唱えて活動した平野国臣(くにおみ:1828-1864)が,文久2年(1862)から翌年にかけ福岡の獄中にあった際,攘夷に関する自らの基本方策をつづったものである。筆や墨を得られなかったことから,紙捻(こより)を切り張りした文字で記された。
平野は出獄後,文久3年(1863)に尊攘派公家沢宣嘉(のぶよし)を擁して但馬国生野(兵庫県朝来(あさご)市)で挙兵したが捕らえられ(生野の変),翌年処刑された。この際,同書は同志の農民等に遺品として与えられ,その子孫が保管してきたが,明治20年(1887)の明治天皇京都行幸の途次,兵庫県知事内海忠勝を通じて献上された。
本資料はこれを複製したもので,原本が世に知られていないことを遺憾とした明治天皇の命により,宮内省を通じ,大蔵省印刷局が石膏版を用いて作成したとみられる。内閣総理大臣伊藤博文による序文と,皇太后宮大夫杉孫七郎による跋文(ばつぶん)が付されており,1ページに2面ずつ,紙捻文字の凹凸を再現するかたちで印刷されている。
本資料は侍従職が保管したのち図書寮に移されたものであるが,献上者をはじめ,皇族や大臣等にも同種の複製が下賜されたという。なお,紙捻製の原本は御物とされたのち,現在は三の丸尚蔵館に所蔵されている。
(図書寮文庫)
明治期の礼法研究家松岡止波(まつおかとわ,止波子)が作ったとされる,色紐・色紙(いろひも・いろがみ)で結方と折形の雛形を作り貼付した見本帳。組紐や熨斗袋に残る日本のラッピングのかたちである。
松岡家は,江戸後期の松岡辰方(ときかた,1764-1840)以降,公家・武家の礼法や有職故実(ゆうそくこじつ)を家業とした。松岡家旧蔵本の中には『結方口伝(むすびかたくでん)』(209・1782,江戸末期写)など,これに対応する口伝書がある。本書は市販のノート(附属資料として保管)に貼られていたが,現在は当部修補係によって厚みのある冊子に仕立てられ保管されている。
なお,結方と折形の名前に「真…」「草…」とあるのは「真行草」(書道・華道・茶道などに用いられる表現法の三態)による。結方78点,折形139点。
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黄赤緑紫白の5色の料紙を用いて作られた『源氏物語』の江戸時代の写本。かつて京都御所に伝えられ,天皇の手許におかれ読まれたと考えられる御所本のうちの一つ。
画像は源氏物語54帖のうちの須磨巻で,失脚して都を離れ,須磨に侘び住まいしていた源氏が,陰陽師を召して上巳(じょうし)の祓えを行わせる場面。「舟にことことしき人形のせて流すを見給ふに,よそへられて」と,祓えの後に人形が須磨浦に流される様子を,須磨の海辺に流浪する自身の身の上と重ね合わせている。
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本書は,大正天皇の皇后であった節子皇后(貞明皇后,1884-1951)が東伏見宮に下賜した色紙である。詞書に「沼津で得た竹の子を贈ったところ,その様が面白いので写生してこちらに贈ってくれた嬉しさに」とあり,東伏見宮妃の周子(かねこ)が竹の子の御礼に写生した絵を贈ったことに対する,皇后からの返礼の御歌と考えられる。御歌は竹の子になぞらえて東伏見宮を寿ぐ内容となっており,また料紙の継色紙は銀泥で鳥や草花が繊細に描かれ,流麗な文字をより華麗なものとしている。東伏見宮旧蔵。
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本書中,藍色の雲紙に書かれているのは,琵琶の撥合という奏法の譜面である。下無(しもむ)は洋楽の音名の「嬰ヘ」に相当する。譜のあとに後伏見天皇(第93代,1288-1336)の宸筆の奥書と花押があり,それによれば,入道相国(西園寺実兼)が書いて進上してきた撥合(かきあわせ)の譜を,天皇御自身が練習のため宸筆で書写したことがわかる。伏見宮旧蔵。
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琵琶の3つの秘曲の譜面で,文永4年(1267)と5年に,刑部卿局から後深草上皇(1243-1304)へ3秘曲伝授が行われた際に作成されたもの。譜のあとに「さつけまいらせさふらひぬ」(お授け申し上げました)とみえることから,伝授状と分かる。刑部卿局は本名を藤原博子といい,下級貴族の出身ながら琵琶の名手として宮中に仕えた女性であった。上皇にたてまつる伝授状にふさわしく,上下藍色の雲紙が用いられ,3曲の中でも最秘曲にあたる啄木調(たくぼくちょう)には,金泥の界線が施されている。
(図書寮文庫)
本書は,後柏原天皇(第104代,御在位1500-26)宸筆の色紙幅で,金・銀の薄と月の下絵に漢詩と古歌が散らし書きにされている。漢詩は出典未詳,和歌は4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』第235番歌(よみ人知らず)。薄,月は秋の景物であり,漢詩,和歌共に風による秋の到来を実感させるものが選ばれている。
(図書寮文庫)
これは,かつて肥前佐賀支藩・鹿島(かしま)藩主であった鍋島直彬(なべしまなおよし,1843-1915)が明治10年(1877)5月13日付で木戸に充てた書簡。鍋島は渡米経験もあり,その経験に相応しく,朱で世界地図を印刷した珍しい紙に手紙を書いている。同年の西南戦争に際し旧領鎮撫のために肥前に下った鍋島が,現地の近況を報告するとともに,木戸の病の重いことを聞き療養を勧めている。木戸は同月26日に,国家を案じつつ亡くなった。
(図書寮文庫)
本書の内容は,平安時代後期の公卿で,管絃の名手であった藤原師長(もろなが,1138-92)が編んだ琵琶の譜面集成。本書は正平10年(1355),後村上天皇(第97代,南朝,御在位1339-68)に授けられた際のもので,裏には伝受された後村上天皇御自身による書き付けが見られる。黄蘗(きはだ)で染められた和紙に書かれており,南朝に関する史料が少ない中,貴重な史料の一つである。なお,「三五」とは琵琶の異称で,長さが三尺五寸であったことに由来する。