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明治天皇は明治9年(1876)の東北・北海道巡幸で、初めて栃木県を訪問された。巡幸は天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることをいい、特に明治5年から同18年にかけて6度にわたる日本各地への巡幸は「六大巡幸」と呼ばれる。本史料は日光山の絵図で、行幸啓に関する公文書である「幸啓録」に収められている。絵図には、中央に日光山内の二社一寺である、日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、日光東照宮(とうしょうぐう)、日光山満願寺(まんがんじ、現・輪王寺)の境内地、左上に華厳滝(けごんのたき)や中禅寺湖が精細に描かれている。
明治9年の巡幸では、6月6日に宇都宮を出発されたのち、行在所である満願寺に入られた。翌7日は大雨の中、日光山内の東照宮や二荒山神社を巡覧された。雨の収まった8日には7時30分に満願寺を出発、正午には中宮祠(ちゅうぐうし)へ到着され、中禅寺湖や華厳滝をご覧になった。同湖はその後、この行幸に因んで「幸の湖(さちのうみ)」とも呼ばれるようになった。
(宮内公文書館)
日光御猟場の区域を示した図面である。御猟場は、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治15年(1882)5月、関東近郊に「聖上御遊猟場」が設定されることとなり、この時、群馬県、埼玉県、神奈川県、静岡県のほか、栃木県上都賀郡(かみつがぐん)の一円が指定された。その後、明治17年3月に指定の区域内において鳥獣猟が禁止となり、7月には禁止区域を拡張して、「日光御猟場」の名称が定められた。
本史料は明治19年の御猟場区域図で、広大な区域のため「狩猟ノ不便」で「取締向」も行き届かないことから、区域の縮小を行った際のものである。中央の青い部分に記された「幸之湖」は、現在の中禅寺湖にあたる。中禅寺湖や男体山(なんたいさん)を囲む山林一帯が御猟場区域に指定されたことが分かる。日光御猟場では雉(きじ)、鸐雉(やまどり)、兎(うさぎ)、鹿、猪、熊、羚羊(れいよう)などを対象に狩猟が行われていた。その後、日光御猟場は区域の変更を伴いながらも継続したが、大正14年(1925)に廃止された。
(宮内公文書館)
日光田母沢御用邸は、明治32年(1899)6月に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の避暑を目的として建設された。御用邸は、民有地や日光町有地など2万7000坪あまりを宮内省が購入したもので、その中には、第三十五国立銀行の頭取などを歴任した小林年保(こばやしねんぽ)の別荘地「田母澤園」もあった。御殿は小林の別荘地の建物と、赤坂離宮から「梅の間」や「御三階」などを引き直して建てられている。
史料は、明治34年1月に調製された田母沢御用邸の庭の図面である。庭は小林の別荘地に付随するものであった。御用邸は田母沢川と大谷川(だいやがわ)が合流する地点にあり、湧水や滝もある庭園であった。また、史料の右下には馬場があった。嘉仁親王は、しばしば御運動のために乗馬されたり、時には乗馬のまま隣接する帝国大学の植物園や日光の町へお出かけになったりしている。御用邸は、時代の経過にあわせて増改築が繰り返されているが、庭園についてはほとんど手を加えられておらず、滝や湧水は無いが、現在まで設置当初の景観を留めている。
(図書寮文庫)
本資料は、寛永 20 年(1643)に行われた後光明天皇(1633-54)の即位礼に際して作られたと推定される、天皇の礼服(らいふく)のミニチュア・モデルである。礼服とは、古代中国の制度を起源とする、特定の国家的儀式で着用する礼装のことである。日本においては、平安時代前期に即位礼などで用いられる服装として定められ、弘化 4 年(1847)に行われた孝明天皇の即位礼に至るまで用いられた。
天皇の礼服は、中国の皇帝が同様の儀式で着する衣装を踏襲したもので、多くの服飾から成るが、本資料で模造されているのは、上下の上着部分である大袖(おおそで、掲出画像の上部)および裳(も、掲出画像の下部)のみである。実物は鮮やかな赤色の生地であり、左右の袖に織られた二匹の龍をはじめ、十二章(じゅうにしょう)と総称される文様が刺繍されているが、ここでは紙を切り合わせて縦 20 ㎝・横 30 ㎝前後のサイズで形状を再現し、文様や折り目を墨で描いている。ただし、現存する天皇の礼服と比べると、図像の一部に相違や省略がある。なお、礼服の詳細については、『皇室制度史料 儀制 践祚・即位 二』(宮内庁、令和 5 年 3 月)も参照されたい。
(図書寮文庫)
資料名の「甲子」は幕末期の元治元年(1864)の干支(かんし)に当たり、「兵燹」は“戦争で生じた火災”を指す。本資料は元治元年 7 月 19 日、政治的復権を図る長州藩軍と、京都御所を警備する会津藩・薩摩藩らの間で勃発した禁門の変を描いた絵巻。京都生まれの画家前川五嶺(ごれい、1806-76)の実見記と画を縮図して、明治 26 年(1893)8 月 5 日付で発行された。
この戦いでは長州藩邸から出た火によって大規模火災が発生し、翌日夜までに焼失した町数は 811、戸数は 2 万 7513 軒にものぼったとされ、京都市中に甚大な被害をもたらした。
掲出図は、燃える土蔵を竜吐水(りゅうどすい、手押しポンプ)により消火している場面で、本資料は被害を受けた京都民衆の姿を中心に描いている点が特徴的である。
「甲子兵燹図」は異本(いほん)が各地に現存しているが、本資料は明治 26 年 10月、戦没者の三十年慰霊祭の首唱者である旧長州藩士松本鼎・阿武素行から明治天皇に献上されたものである。
(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
御猟場とは、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治17年(1884)、宮内省内に御猟場掛が設置され、明治21年には主猟局、同41年には主猟寮と改められ、全国の御猟場を管理していった。史料は明治16年6月に東京府(無色)・千葉県(朱色)・埼玉県(黄色)にわたる広範な範囲に設定された江戸川筋御猟場の範囲を示すものである。この時、習志野原(千葉県)、連光寺村(神奈川県、現在の東京都)、千波湖(茨城県)の3か所もあわせて御猟場に設定されている。江戸川筋御猟場では雁や鴨、鷭(ばん)、鷺、雉子(きじ)、千鳥などを対象に鳥猟が行われた。
東側はおよそ江戸川を、西側は陸羽街道(日光街道)を境界として、南側は東京湾まで範囲(史料中の朱線の内側)がおよんでいることがわかる。さらに、明治16年9月には東京府全域が削除され、明治17年6月には西側の境界が陸羽街道から岩槻街道へと広げられるなど、区域が改められた。この後、江戸川筋御猟場は縮小と拡大を繰り返しながらも存続し、昭和26年(1951)に廃止された。
(宮内公文書館)
明治23年(1890)8月、北関東は暴風雨により洪水の被害に見舞われた。このときの水害では、利根川、荒川流域の堤防が決壊し、埼玉県にも被害をもたらした。
史料は、その際の被害状況を明治天皇に報告するために作成された書類のうち、南埼玉郡の浸水地域を示した図面である。南埼玉郡は、明治12年の郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)施行により成立した。史料右側が北の方角で、範囲は南埼玉郡(現在のさいたま市岩槻区、蓮田市、白岡市、久喜市、宮代町、春日部市、越谷市、草加市、八潮市)に相当する。史料の左側(南部)は垳川(がけがわ)を挟んで東京府南足立郡(現在の東京都足立区)と接している。史料中の緑色に着色された部分が浸水地で、南埼玉郡では5か町39か村が浸水したことが見て取れる。被害の大きな地域では、水が軒まで及ぶところもあったというほどである。
以上のような被害報告を受けて、救恤金(きゅうじゅつきん)として明治天皇から金700円、昭憲皇太后から金300円が埼玉県に下賜された。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮が取得した,主馬寮庁舎とその周辺部分を描いた図面。表題には「御造営残業掛ヨリ引継」とあり,皇居御造営事務局から引き継いだことがうかがえる。図面の中央には逆コの字型の主馬寮庁舎が描かれ,庁舎の裏手には現在も残る二の丸庭園の池がある。主馬寮庁舎は,明治宮殿の造営に併せて皇居内二の丸に新築され,明治20年12月に落成した。庁舎は2階建で,1階には宿直室や馬医・蹄鉄(ていてつ)工の部屋が,2階には主馬寮の事務室や馭者(ぎょしゃ)の部屋があった。図面を見ると,主馬寮庁舎の上部に朱で加筆されていることがわかる。これは明治22年5月に起工された御料馬車舎であり,既存の馬車舎に加え新たに増築されたものである。主馬寮は,明治宮殿造営後,皇居内の本庁の厩と赤坂分厩を併用して業務にあたる予定であったが,実際に業務が始まると遠隔の赤坂分厩とは,調整がうまく行かなかった。結局,必要な馬匹と馬車を赤坂分厩に残し,皇居内に厩舎と馬車舎を増築することになり,先に予算の付いた馬車舎が建築された。ここから,図面は明治22年前後の二の丸の様子を描いたものであることがわかる。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(図書寮文庫)
大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
(図書寮文庫)
即位礼で用いられる様々な物品の図像・解説を記した絵図。上・下2巻で構成され,上巻には儀場の調度品,下巻には臣下の装束を載せる。室町時代に作成された写本であり,「文安御即位調度図」の名で広く知られる絵図と同様の内容を含む。近年の研究によれば,これらの絵図は永治元年(1141)近衛天皇(1139-55)の即位礼に際して作成されたものがもとになっているという。
掲出の画像は,上巻の高御座(たかみくら)を図示した箇所。高御座は即位礼の際に天皇が登壇される玉座であり,台座の上に八角形の屋形が組まれ,天蓋には金色の鳳凰や鏡などの装飾品を施している。現在の「即位礼正殿の儀」で用いられる高御座は,大正天皇(1879-1926)の即位礼に際して古代以来の諸史料を勘案して製作されたものであるが,本絵図からは,平安後期に遡る高御座の姿を視覚的に知ることができる。
なお,高御座の上部に描かれているのは,儀場である大極殿(だいごくでん)に懸けられる帽額(もこう)という横長の幕で,中央に太陽が,左右に龍や獅子などの霊獣が刺繍されている。
(図書寮文庫)
御挿頭(おかざし,「御挿華」「御挿頭花」とも)とは,大嘗祭後の饗宴の際天皇に献上される花(冠に挿す造花)のことで,それを載せる飾り台を洲浜(すはま)という。
御挿頭と洲浜は,それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)の2つが作られ,花の選定や洲浜のデザインには天皇の長寿延命を祈念する意味が込められることが多い。
掲出画像は文政元年(1818)の仁孝天皇(にんこう)の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案。梨の花が描かれ,造花にする際の各部位の材質も判明する。「御治定」(ごちてい)の裏書きはこの案が採用されたことを示しており,御物(ぎょぶつ)として現存する御挿頭の実物と形状・色彩が一致している。
「御挿頭花洲浜伺絵形」は全10紙からなり,第1紙から第4紙までが文政度大嘗祭の御挿頭と洲浜の決定図で,第5紙から第10紙までは嘉永元年(1848)の孝明天皇の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案である。特に第5紙以降は決定案である第6紙の梧桐(あおぎり)のみならず,不採用案(第5紙の芝草(しそう)・第7紙の大椿(だいちん)・第8紙から第10紙の芝草)も判明する。
御挿頭の花と材質が検討された経緯が視覚的にわかる興味深い資料である。
(宮内公文書館)
明治元年(1868)9月20日,明治天皇は東京へ行幸になるため京都を出発された(東幸)。行列には,総勢3,300人余が供奉(ぐぶ)したという。10月12日,品川宿に宿泊した御一行は,翌13日の午前7時ごろ同宿を出発された。高輪にあった久留米藩有馬頼咸邸にて小憩,次いで増上寺にて小休した後,午後2時ごろ江戸城西の丸(東京城)へ入られた。錦絵は,高輪の大木戸付近を通過する東幸の行列を描いたものである。背景には,小憩した有馬邸や当時英国公使館が置かれていた東禅寺,泉岳寺などが書き込まれている。中央の鳳輦(ほうれん)に明治天皇がお乗りになっている。史料は,軸装されており宮内省臨時帝室編修局が収集した錦絵のひとつである。臨時帝室編修局の蔵書印と合わせて,「東京林縫之助蔵書」とあることから,同局が林氏から入手した可能性が高い。
(宮内公文書館)
明治14年(1881)当時の赤坂仮皇居を描いた図面である。同地は,もと紀州徳川家の屋敷地であり,明治5年(1872)と明治6年(1873)の二度に分けて皇室へ献上された。前者には赤坂離宮が,後者には青山御所がそれぞれ設置されている。
明治6年(1873)の皇城炎上後,赤坂離宮が「仮皇居」と定められた。「仮皇居」は,紀州徳川家の武家屋敷をそのまま利用しており,明治天皇と昭憲皇太后,英照皇太后のお住まいと宮内省の庁舎が置かれていた。しかし,お三方のお住まいとして使うには狭小であり,明治7年(1874)に英照皇太后は青山御所へお移りになっている。その後赤坂仮皇居には,明治10年(1877)に太政官庁舎が,明治14年(1881)に祝宴の場として御会食所が新築されるなど,増改築が進められていった。
(宮内公文書館)
明治11年(1878)7月5日,明治天皇が英照皇太后とともに,青山御所に新設された能舞台で演能をご覧になる場面が描かれている。古典芸能のなかでも能楽(能・狂言)は,明治維新を経て衰退の一途をたどっていた。そこで能楽の再興に尽くされたのが,能楽鑑賞に親しまれた英照皇太后であった。英照皇太后は昭憲皇太后とともに,青山御所能舞台と芝公園能楽堂で度々能楽を御覧になるなど,能楽の振興に寄与された。
本資料は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇に奉呈された附図の稿本2巻の内の一つである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)で,「明治天皇紀」に所載される主な場面が描かれている。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月19日,明治天皇・昭憲皇太后が赤坂離宮で行われた観菊会へ行幸啓になった際を描いたものである。明治天皇は毎年の陸軍大演習の統監により,久しく観菊会へ臨席されていなかったが,この年は秋の観菊会に臨まれ菊花をご覧になった。秋の観菊会は,戦前に現在の園遊会と同様の行事として,春の観桜会とともに行われていた。欧州の園遊会にならい,内外の要人を招待する皇室行事で,それぞれ桜と菊の観賞を目的とした社交の場として催されていた。明治13年(1880)に始まった観菊会は,昭和4年(1929)に会場を新宿御苑に変更するまで,赤坂離宮で行われていた。
本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇へ奉呈された附図の稿本に収められたものである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。