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鍬形石とは、過去に当ギャラリーで紹介したことがあるが、本来は貝の腕輪をかたどって碧玉(へきぎょく)と呼ばれるきれいな緑色の石材で作られた権威を象徴する器物の一種であり、大きな古墳を築くことのできる、比較的地位の高い人物の所有品という側面をもっている。しかし、本資料は大半の部位を欠いているため、「残欠」という名称が付随しており、見た目の全体像もわかりにくい。掲出した画像で縦方向の現存長が7.9cm である。
考古学で扱う資料は、一般に「出土品」などと呼ばれるように、地中に埋没していたことで、壊れていたり、表面が磨り減ったりした状態で発見されることが多い。一方で、見た目も立派で全体像がわかる資料の方が、博物館の展示などでは重宝されるが、それだけでは資料の価値は決まらない。破片資料は、時には意図的に壊したりしたと考えられる状況で発見されることもあれば、壊れていることによって、外からでは見えない作り方や断面の情報が得られることがあり、無傷の資料では得られない情報を提供してくれることも多い。
能登半島で発見された本資料の場合は、近畿地方を中心に出土する鍬形石の分布域の東縁にあたり、古墳時代の王権の影響力が何らかの形で反映されたものと考えられ、それを示す重要な資料として位置づけられる。発見されてから既に100年以上が経過しているが、未だこの分布域より東での新資料の発見はない。いずれ、さらに東の地域で発見される時が来るかもしれないが、本資料が重要であることに変わりはない。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(陵墓課)
福井県三方上中郡若狭町に所在する西塚古墳から出土した鉄鏃(てつぞく)である。
鉄鏃とは矢の先端に取り付けられた鉄製の鏃(やじり)のことで、全国の古墳から普遍的に出土するものの、時期や地域によって特徴が異なるため、古墳の築造時期や鉄鏃製作時の生産体制、地域間交流を検討するうえで重要な資料といえる。
本資料は片刃(かたば)の長頸鏃(ちょうけいぞく)42点が錆びてまとまり、塊状になったものである。長頸鏃とは、刃がある鏃身部(ぞくしんぶ)と鏃を矢柄に固定する茎部(なかごぶ)との間の部分である頸部(けいぶ)が伸長化した鉄鏃のことをいう。本資料における各鉄鏃の長さは約10~11cm(塊としては長さ15.2cm)、鏃身部の長さは約3cmである。本資料はその形状から製作時期を5世紀後半に位置づけることができる。
なお、鉄鏃の長頸化は5世紀中葉以降にみられる特徴で、鉄製武具の普及によって貫通能力が求められたことや、朝鮮半島からの影響も推測されており、当時の対外交流を考えるうえでも重要である。
(図書寮文庫)
嘉永7年・安政元年(1854)10月、江戸幕府から下田に来航したロシア使節プチャーチン(1803-83)の応接を命じられた、勘定奉行兼海防掛川路聖謨(かわじとしあきら、1801-68)の日記。同月17日から安政2年4月29日までの出来事を記述する。
掲出箇所は、長楽寺において日露和親条約の調印式が行われた、安政元年12月21日条。この日は、本来ならば日本側から豪勢な料理を提供し、満艦飾(まんかんしょく)のロシア軍艦から祝砲が撃たれるはずであったが、11月4日に発生した大地震と津波によって下田は壊滅的被害を受け、ロシア軍艦も沈没したため、いずれも実施できず、わずかに酒三献と鯛を台の上に積み上げて供したと、尋常ならざる状況下で調印式が行われたことを日記は伝えている。
日米和親条約(同年3月)・同附録(5月)、日英約定(8月)に続いて調印された日露和親条約について、日記には「日本魯西亜(ロシア)永世之会盟とも可申(申すべし)」とあることから、川路がもはや鎖国への回帰は困難であると捉えていたことがうかがわれよう。日記にはこのほかにも、川路が「布恬廷(プチャーチン)はいかにも豪傑也」(安政元年12月14日条)と評価していたことなどが記述されていて興味深い。
(陵墓課)
淡い緑色のこの勾玉は,どこで作られたものであろうか。
優美な曲線で構成される「勾玉」は,玉の中でも際立つ存在である。勾玉にはヒスイや碧玉(へきぎょく)といった美しい石を素材としているものも多く,使う人々の好みが表れているともいえる。今回紹介する勾玉はガラスで作られたものであり,頭部の先端付近を欠いていることが惜しまれるが,透きとおる淡い緑色はヒスイなどとはまた違った美しさを放っている。
細かなガラス素材を鋳型(いがた)の中で溶かして作ったと考えられ,緑色に発色しているのは銅を混ぜているからであると思われる。全長が5.4㎝あり,ガラス製のものでこのような大きな勾玉は珍しい。
本品が出土した西塚古墳は,福井県若狭町の脇袋(わきぶくろ)古墳群に所在する前方後円墳である。同古墳や周辺の古墳からは朝鮮半島や北部九州と関わりのある遺構や遺物が多く発見されている。このような考古学的な状況と日本海に面しているという地理的状況から,この地域の豪族(ごうぞく)は,朝鮮半島をはじめとする大陸との交渉役を担っていたものと考えられている。西塚古墳に葬られた人物もそうした役割を果たしていたと考えられ,本品は,そのような被葬者の活動の中で入手されたものである可能性がある。
当時の日本列島ではガラス素材からガラス製品を作ることは行われているが,ガラスそのものの生産は行われていない。本品は,輸入されたガラス素材を用いて列島内で作られたのか,あるいは朝鮮半島で作られたものが輸入されたのか。興味は尽きないが,この勾玉がどこで作られたかの結論は今後の調査研究に委ねられている。
(陵墓課)
光を反射してキラキラと輝く耳飾りは,その美しさと珍しさで人々の注目を集めたに違いない。
本品は,金無垢(きんむく)からなる贅沢(ぜいたく)な作りの耳飾りである。本来は孔が開いている方を上にして,耳たぶに装着した耳環(じかん)から環(わ)や鎖(くさり)を介してぶら下げられていた。本品のようなアクセサリーの先端にぶら下げられている部分を「垂下飾(すいかしょく)」と呼ぶ。写真左側の個体で縦方向の長さ3.9㎝。
水滴(すいてき)を上下逆にしたようなかたちで,本体中央にはコバルトブルーのガラス玉がはめ込まれている。縁(ふち)には「覆輪(ふくりん)」と呼ばれる別のパーツがかぶせられており,丁寧に刻み目が施されている。すぼまった側が本来の下端となるが,左側の個体では,2つのドーナツ状パーツと4つの粒状パーツからなる飾りが付く。右側の個体でこの飾りが失われているのは残念だが,そのおかげで下端の飾りが本体と覆輪とを挟み込むように取り付けられていることがよくわかる。
左側個体下端の飾りに見られるような,金でできた粒状のパーツを「金粒(きんりゅう)」と呼ぶが,金粒が用いられている耳飾りは,朝鮮半島西部の「百済(くだら・ペクチェ)」の墳墓からも出土している。その一方,ガラス玉がはめ込まれた垂下飾は百済では確認されておらず,本品には百済のものとは異なるアレンジが加えられていると見られる。こうした状況から,本品は,百済からの渡来人の手によって,日本列島内で製作された可能性が考えられる。
本品は,古墳時代における貴金属製アクセサリーのうち初期のものの一つに数えられる。古墳時代の金工文化をしのばせる逸品であると同時に,その時代の対外交流を考える上で重要な事例である。
(図書寮文庫)
桂宮初代智仁親王(としひと,1579-1629)が慶長13年(1608)・17年,元和5年(1619)・7年,寛永元年(1624)・2年・5年に旅先などで詠じた和歌や発句,狂歌を書き付けた資料。
掲出画像は,親王による江戸下向の際の富士山詠。親王は生涯で二度,元和3年と寛永2年に当時の将軍であった徳川秀忠・家光へ挨拶のため江戸へ下向している。これは二度目の時の詠である。なお,この下向を親王自身が記録した『江戸道中日記』(桂・42)が残っている。これによれば寛永2年3月20日条にこの富士山詠が記されている。「ふしにて から人の歌に有ともミせはやなまことのふしの山のすかたを」「発句 ふしのねもきぬもてつゝむ霞哉」。和歌では富士山の雄大な姿は実見しなければ実感できないであろうとし,発句では春霞がかかった優美な富士山をまるで衣で包んだようだとして面白く詠じている。なお,この二首を含む下向の際に詠じた一連の句を「将軍家」へ見せたことが『江戸道すがらの歌』(457・177)の奥書によって知れる。
ふだん遠出をすることのない親王が,道中の景勝地で和歌を詠じ,時には興に乗って狂歌を詠んだことなどから,二週間程度に及ぶ江戸への長旅を楽しんだことが本資料からはうかがえる。
(図書寮文庫)
固関(こげん)とは,古代において天皇の崩御や譲位などの重大事に際し,畿内に通じる主要道に設けられた三関,すなわち伊勢国鈴鹿関(すずかのせき),美濃国不破関(ふわのせき),越前国愛発関(あらちのせき,平安遷都後ほどなくして近江国逢坂関(おうさかのせき)にかわる)を封鎖する儀である。この儀では木契(もっけい)と呼ばれる割符を使用し,片方を関に赴く使者に携行させ,後日封鎖を解除する際に別の使者にもう片方を持参させ,現地で合わせて正式な使者であることを確認させた。
本資料は宝永6年(1709)東山天皇から中御門天皇への譲位儀に際して行われた固関儀で用いられたと推定される木契の実物で,その寸法は長さ約9.2㎝,両片を合わせた底面は約3㎝四方である。江戸時代には既に三関は廃絶していたが,固関儀は古式にのっとり引き続き行われていた。本資料は上卿を務めた九条輔実(すけざね,1669-1729)の手元に残され伝わったと考えられ,伊勢国あての左右と美濃国・近江国あての右片が現存する。当時の宮中儀礼の実像を知ることのできる興味深い資料である。
(陵墓課)
本品は,長野県安曇野市に所在する有明古墳群(現在では穂高古墳群と呼ばれている)から出土したものだが,出土地点などの詳細は不明である。明治20年(1887)頃に宮内省によって買い上げられた。左側の個体で最大幅5.1㎝。
銅に金を鍍金(ときん:メッキ)をした金銅(こんどう)の板を切り抜いて,嘴(くちばし),翼(つばさ),脚などを形作っている。想像上の鳥である鳳凰をモチーフにしているとされてきたが,現実に存在する鳥を表現している可能性もある。顔と胴体には孔があけられており,顔のものは,その位置からみて目を表現しているものとみて間違いないだろう。胴体の穴は,2個が対になっていることから,何かに吊すか,結びつけるためのものと考えられる。
よく見ると2点は形がやや異なっている。右側の個体は翼とは反対側に脚を伸ばしており,空中で何かにつかまろうとしている姿を表現したものであると考えられる。左側の個体は,下側が欠けているため脚の有無はわからないが,右側の個体と比べて動きが乏しく,静止した状態を表現しているものと思われる。
本品と同様に鳥を表現した金銅板の製品は,奈良県生駒郡斑鳩町(いこまぐんいかるがちょう)の藤ノ木(ふじのき)古墳(6世紀後半頃)から出土した冠に取り付けられていることが確認できる。本品の用途は不明であるが,類例が冠にみられることから,装身具やその一部として用いられたものと考えられる。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,本品は大正5年に西塚古墳の石室から出土した。写真左側は鉸具(かこ)と呼ばれるバックル部分,中央と右側は銙板(かばん)と呼ばれる帯の飾りの部分である。全ての部材が銅に金メッキをほどこした金銅製で作られている。鉸具の飾り板部分は破損しているが,鳳凰が描かれていたようである。銙板は少なくとも7点分は確認でき,写真ではその中の2点を示している。写真中央のものには龍,右側のものには鳳凰が描かれている。龍と鳳凰は,彫金技術によって浮き出るよう立体的に表現される。銙板の下側には鈴が装着されており,この帯を身に着けた人物が動くたび,周囲の人々には鈴の音が聞こえていたであろう。西塚古墳から同時に出土した他の品々からみて,本品は5世紀後半頃に使われたものである。
本品と同様のモチーフと彫金技術がみられる事例は,熊本県江田船山古墳出土例など日本列島の古墳出土品の中に数例が確認できる。龍と鳳凰のモチーフや,これを立体的に表現する彫金技術は,当時の日本列島では定着していないことから,本品は朝鮮半島南部,あるいは中国大陸からもたらされたものである可能性が高い。5世紀後半は,中国の歴史書に「倭の五王」が登場する時代にあたり,本品は当時の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
大正5年に西塚古墳から出土した,衝角付冑と呼ばれる冑である。衝角の名称は,軍艦の艦首(かんしゅ)の尖った部分を連想してつけられた。
右側頭部~後頭部にかけて大きく欠損していたが,現在は保存処理をおこない欠損部を修復している。地板(じいた)に小札(こざね)と呼ばれる小型の鉄板が用いられ,伏板(ふせいた),胴巻板(どうまきいた),腰巻板(こしまきいた)の各部材と重ね合わせて,鋲(びょう)を打つことで接合される点が特徴である。
本資料は,古墳時代中期に製作されたものである。エリート層が競って武器武具を手に入れようとした時期であり,被葬者の権威を示す器物として機能していたと考えられる。
(図書寮文庫)
本書は,中国南宋の陳実(ちんじつ,12世紀頃の人)が,仏教経典の集大成である大蔵経から,事項を抜粋・分類した索引・内容一覧的な仏教書である。
徳川家康が慶長20年(1615)に隠居所駿府(静岡)で出版を命じた「駿河版」(するがばん)と呼ばれる金属活字で印刷した図書のひとつ。家康を深く尊崇する徳川吉宗は,幕府の図書館である紅葉山文庫に,家康の出版物が欠けていたため,元文5年(1740),当時和歌山藩に伝来していたこの大蔵一覧集を取り寄せ紅葉山文庫に収蔵したのである。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉末~南北朝時代に起きた美濃国船木荘只越郷(ただこしごう,現在の岐阜県瑞穂市)をめぐる争いにおいて,当事者の一方の法眼盛祐が暦応2年(1339)に朝廷(北朝)に提出した訴状である。本文のあとに,参考資料として由緒を示す関係文書を書写したものとともに当事者双方の系図が付されており,盛祐が自らの相伝の正当性を示す論拠のひとつとしている。紙継目の裏には,訴訟の担当者である北朝の廷臣柳原宗光(1322-47)の花押が書かれている。
(宮内公文書館)
日本のスキー発祥の地は新潟県上越市とされている。これは明治44年(1911)1月に,同地でオーストリア国陸軍のレルヒ少佐が日本兵にスキー技術を指導したことに由来する。レルヒ少佐によるスキー指導を記録した写真は,この状況を視察するために派遣された侍従武官が持ち帰ったものと思われる。「雪艇(スキー)」という単語や,ストックが1本だったことなど,新技術として導入されて間もない時期ならではの情報が含まれる。ちなみに上越市のゆるキャラ「レルヒさん」も,先のソチ五輪ノルディックジャンプ男子団体銅メダルメンバー清水礼留飛(れるひ)選手の名前も,レルヒ少佐に由来している。
(図書寮文庫)
江戸初期に写された竹取物語の絵巻物。富士山が、物語の最後の場面の,かぐや姫が帝に贈った不死の薬を,帝が勅使に命じて焼かせた場所として描かれる。この不死の薬を焼かせたことによって「富士(不死)山」となった説,また不死の薬を大勢の兵士が山に運んだことから「富(多くの)士(兵士)山」とする説の二つの地名起源説話がある。通常絵巻物には詞書(ことばがき)といって物語本文もともに記されるが,本書では本文がなく絵のみが描かれている。
(図書寮文庫)
円山応挙(1733-95)が描いた富士山の図に,有栖川宮織仁親王(おりひと,1753-1820)が讃(画讃とも,絵の余白などに書き添えられた文章・漢詩・和歌のこと)を付された掛軸。「竜渕王」は,織仁親王が文化9年(1812)の出家後に称された号である。讃は後年に加えられたもの。「雲きりも及ばぬふじのたか根にはおもひくらぶる山の端ぞなき 竜渕王讃」。
(図書寮文庫)
富士山を各地から撮影した写真。もともとは大正天皇の御手許写真であったものが昭和12年(1937)に書陵部に引き継がれた。画像はさったトンネル(現在の静岡市清水区)から富士山を写したものである。写真に写っている鉄道の線路が単線であることが窺えるため,線路が開通した明治22年(1889)から複線となる明治31年7月までの間の写真であると推測される。
(図書寮文庫)
桂宮初代の智仁親王(としひと,1579-1629)による富士山の図。元和3年(1617)に描かれたもの。同年に親王が徳川秀忠に対面するために江戸へ赴かれた折に記された『江戸道中日記』によれば,親王は実際に富士山をご覧になったことが分かる。
(図書寮文庫)
在原業平(ありわらのなりひら,825-80)とされる「昔男」からはじまる物語。本書は室町中期に写されたもの。画像は,男が「東下り」をする道中に,富士山を見て夏であるのに雪が降り積もる様を「ときしらぬ山はふじのねいつとてかかのこまだらに雪のふるらん」と和歌に詠じた場面。