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(選択を解除)(図書寮文庫)
藤原宗忠(1062-1141)の日記『中右記』(ちゅうゆうき、宗忠が「中御門右大臣」と称されたことによる)の写本は多いが、九条家旧蔵の当該本は鎌倉初期の書写とされ、紙背には多くの文書等が残る。そのなかの1点がこの嘉禄2年(1226)仮名暦(かなごよみ)断簡で、現存する仮名暦としては石川武美記念図書館所蔵『請来六勘物』紙背の承元元年(1207)の断簡に次いで古いとされる。
日本の律令制下中務省に属した陰陽寮(おんようりょう)では、吉凶を判断するために様々な注記(暦注〈れきちゅう〉)を書き込んだ暦(具注暦〈ぐちゅうれき〉)を毎年作成・頒布したが、暦注を簡略にして仮名文字としたのが仮名暦。平安後期頃、宮廷の女性たちの求めに応じて作成され始めたといわれ、日常的に使う暦として簡潔でわかりやすかったことなどから、次第に民衆社会にも受容されていったと推定される。
鎌倉前期成立といわれる『宇治拾遺物語』収載の「仮名暦あつらへたる事」という話では、ある女房が若い僧侶に仮名暦を書いてもらっており、すでに身近なものとなっていたことがわかる。この仮名暦も11月6日・7日条に合点(がってん、確認などのために付けられた斜線)があり、実用の暦であったのだろう。
(図書寮文庫)
明治期の礼法研究家松岡止波(まつおかとわ,止波子)が作ったとされる,色紐・色紙(いろひも・いろがみ)で結方と折形の雛形を作り貼付した見本帳。組紐や熨斗袋に残る日本のラッピングのかたちである。
松岡家は,江戸後期の松岡辰方(ときかた,1764-1840)以降,公家・武家の礼法や有職故実(ゆうそくこじつ)を家業とした。松岡家旧蔵本の中には『結方口伝(むすびかたくでん)』(209・1782,江戸末期写)など,これに対応する口伝書がある。本書は市販のノート(附属資料として保管)に貼られていたが,現在は当部修補係によって厚みのある冊子に仕立てられ保管されている。
なお,結方と折形の名前に「真…」「草…」とあるのは「真行草」(書道・華道・茶道などに用いられる表現法の三態)による。結方78点,折形139点。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の摂関家の当主藤原(九条)忠家(1229-75)による手習いの跡である。摂関家の一つ九条家に生まれた忠家は,嘉禎元年(1235)に父教実の急逝に遭うも,摂政関白や関東申次などの要職を歴任して権勢をふるった九条道家(1193-1252)の孫として貴族社会に認められ,仁治2年(1241)13歳で正二位に昇る。さらに寛元2年(1244)内大臣を経て,同4年18歳で右大臣と,早いスピードで昇進した。手習いは,『白氏文集』巻2・巻16の一部や和歌題,書状の定型句などを書き散らす中に,「右大臣(花押)」を繰り返し記しているのが目立つことから,その頃のものである可能性がある。料紙は,主要な政務や儀式の次第を書いた巻子の紙背(裏面)を用いている。歴史上の人物による,こうした手習いの痕跡が残ることは非常に稀である。複雑な花押の書き様には,練習を要したことが判明する。若年ながらも摂関家の子弟に相応しくふるまい,朝政を担うべく努める忠家の気負いが感じられる,貴重な資料である。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(図書寮文庫)
室町時代前期の陰陽師である賀茂在貞(かものあきさだ,1388-1473)が,2月の末に貴族の万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)に送った書状。上巳の祓に用いる人形を進上しますと伝えている。時房は,受け取った書状の紙背(裏面)を自分の日記『建内記』の嘉吉3年(1443)2月30日条の料紙として用い,「在貞から人形が到来したので枕元に置いた」と記している。人形を身近に置いて罪や穢れを移した後,また在貞に返して祓えが行われたと考えられる。伏見宮家旧蔵本。
(図書寮文庫)
あまがつ(天児)の由緒や作り方を示した,伊勢貞丈(さだたけ,1717-84)の著作。あまがつとは,人間の代わりに災厄を引き受ける人形のこと。祓えに用いられる使い捨ての人形と異なり,子の誕生と同時に新調され,一定期間その子の側に置かれた。伊勢流の礼法故実を伝える貞丈によれば,男子は15歳まで所持し,女子は嫁入りの時までも携帯すると説かれている。松岡家旧蔵本。
(図書寮文庫)
ともに日本画家である久保田米亝(べいさん,1874-1937)と西澤笛畝(てきほ,1889-1965)の共編によるもので,各地に伝わる雛人形を集め,模写したもの。西澤は人形玩具の蒐集研究家としても知られている。巻頭には児童文学者巌谷小波(いわやさざなみ,1870-1933)の序文が添えられている。
(図書寮文庫)
本図は,寛政11年(1799)に出版された京都の名園案内書に描かれた蹴鞠の風景。本文の説明には,当時は七夕を恒例の開催日として,飛鳥井・難波両家で蹴鞠の会が開催されたとある。この両家は,蹴鞠が貴族社会に受け入れられていく中で,技術・故実(作法)を蓄積した家として成長し,いわば蹴鞠の家元として指導的な立場に立った。画像から鞠場の周囲に柵が設けられ,競技者と観覧者とが明確に分けられていることがわかる。技術の高度化・複雑化によって,蹴鞠は遊戯から競技として鑑賞・観覧の対象に変化していったと考えられる。
(図書寮文庫)
平安時代より行われた,宮中の年中行事である追儺の儀式の順序を記した図書。追儺は中国から伝わった疫病を払う儀式で,中国では季節の変わり目に,日本では大晦日の夜(午後8時前後)に行われていた。追儺は社寺や民間でも行われるようになり,室町時代になると節分の豆まきと結びつき現在のような形となったとされる。画像は,疫病の原因となる疫鬼(えきき)という鬼の姿。鬼は病を引き起こすものという認識があったことが分かる。本書は江戸時代末期に書写されたもの。