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(図書寮文庫)
明治30年代の岡山市の市街地を写した写真。左に写る高層の建物は,現在の北区天神町にあった亜公園(あこうえん)の集成閣。後楽園に亜(つ)ぐ公園として名付けられた亜公園は,明治25年(1892)に開園したテーマパークで,集成閣を中心に娯楽施設や商店が並んで賑わったという。写真の奥(南)には,工場の煙突や煙りも写っている。
同じ写真帖には,後楽園や津山城(鶴山城)址などの県内の名所のほか,第六高等学校(明治33年開校)や県立女子師範学校(同35年開校)など教育機関の写真も収められている。そのうち江戸時代に設立した閑谷学校(しずたにがっこう:現在の岡山県備前市に所在)は「私立閑谷中学校」と題されており、その名称が使われていた明治36~37年頃にこのアルバム『岡山県名勝写真』が編まれたことがわかる。
明治・大正期には,地方の実情を伝えるものとしてこうしたアルバムが各地で数多く作られ,皇室に献上された。
(宮内公文書館)
本資料は,大正7年(1918)3月12日に小川一真写真店にて撮影された土方久元の写真である。土方は,宮内大臣や宮中顧問官を歴任しており,このときは,臨時帝室編修局初代総裁を務めていた。同年11月4日に在職中のまま死去したことを考えれば,最晩年の写真といえるだろう。
臨時帝室編修局は,大正3年(1914)12月1日に「明治天皇紀」編修のために設けられた臨時編修局が前身である(大正5年(1916)に臨時帝室編修局と改称)。臨時編修局は,土方を総裁,帝室博物館総長兼内大臣秘書官である股野琢を編修長として創設され,その事業は臨時帝室編修局へと引き継がれていった。当初は5か年の編修計画であり,土方は股野編修長を中心に資料蒐集に着手させた。また,土方は維新史料編纂会とも協定を結び,嘉永(かえい)5年(1852)から明治4年(1871)に至る期間の資料蒐集を同会へ委託している。
しかし,事業は5年では終わらず,土方の存命中に,「明治天皇紀」の完成には至らなかった。同局の総裁職は田中光顕,金子堅太郎へと引き継がれ,「明治天皇紀」は,昭和8年(1933)に完成し,昭和天皇へ奉呈された。臨時帝室編修局は,同年をもって廃局となっている。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
昭和初期に撮影された新宿御苑内の御凉亭(ごりょうてい)(台湾閣)と目の前の池の写真(部分)。当時としては珍しいパノラマ写真である。御凉亭は,皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念して台湾在住者から贈られ,昭和2年(1927)に竣工した。裕仁親王は大正13年(1924)4月12日より5月1日まで,台湾へ行啓しており,台湾側はそれに感謝の意を表すため,募金活動を実施し,御涼亭の献上に至った。戦災を免れ,現在まで新宿御苑に伝わる貴重な建物の一つである。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)4月17日に開催された観桜会での昭和天皇と香淳皇后。ご即位後,初めての観桜会であった。春に催される観桜会は現在の園遊会と同様の行事として,秋の観菊会(かんぎくかい)とともに内外の要人を招待する皇室行事であった。それぞれ桜と菊の観賞を目的にした社交の場として催されている。明治14年(1881)に吹上御苑で始まった観桜会は,明治16年から大正5年(1916)まで浜離宮で行われていたが,浜離宮は「狭隘(きょうあい)」との理由から会場を変更し,大正6年から新宿御苑が観桜会の会場となった。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)にご誕生になり,慶応3年(1867)に明治天皇の女御(にょうご)となると,明治元年(1868)入内(じゅだい)し皇后となった。明治2年3月,明治天皇が再幸されると,同年10月に昭憲皇太后も東京へ行啓になり,皇城(旧江戸城西の丸)をお住まいとされた。写真は,明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。昭憲皇太后が初めて洋服をお召しになるのは明治19年(1886)の華族女学校行啓の際であり,よく知られる大礼服を召した御写真は明治22年に写真師鈴木真一らによって撮影されたものである。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)9月28日の暴風雨による横浜港被害写真。横浜市真砂町(まさごちょう)に写真館を構えた鈴木真一による撮影。資料は4枚の写真で構成され,写真は「横浜港北水堤之部甲」と題されたもの。横浜港灯台までの堤防が崩壊するなど,甚大な被害の様子がわかる。
(宮内公文書館)
大正期の宮内省下総牧場(現成田・富里市域)の写真。明治天皇行幸を記念して敷地内に植えられた御幸桜。三里塚は桜の名所として知られていた。御料牧場は,明治8年(1875)に開設した内務省の下総牧羊場・取香種畜場(とっこうしゅちくじょう)に淵源を持つ。明治18年に下総種畜場が宮内省の所管となって以降,名称を下総牧場,下総御料牧場等と変遷しながら,昭和44年(1969)に閉場した。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。
(図書寮文庫)
明治20年(1887)頃の写真で,那覇を中心とした沖縄の風景や人物が撮影されている。沖縄を写した写真としてはかなり古く,明治12年の琉球処分からそれほどの歳月を経ていないだけに,琉球国時代の雰囲気が色濃く残るものとなっている。
(宮内公文書館)
松ヶ岡開墾場は明治5年(1872)から旧庄内藩士族3千名によって開拓された。明治14年の明治天皇東北巡幸時,同所に差遣された北白川宮能久親王(よしひさしんのう)が写真を持ち帰り天皇にお渡しした。蚕室の構造は,富岡製糸場で有名な群馬地方から導入した上州式(二階建ての上に換気用屋根がある)である。また,開墾場では多くの女性が働いていたことも写し出されている。開墾当初は農作物の収獲は見込めないことから,女性たちの養蚕による収入はまさに生命線だったのである。なお明治41年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)が同所に行啓された際,当時と同じ写真が再び献上された。今回のギャラリーではこの時の写真を使用している。
(図書寮文庫)
「琵琶湖疏水工事之図」は,明治20年(1887)に明治天皇が京都府庁に行幸された際,府知事北垣国道(きたがきくにみち)より献上された絵図である。京都府画学校教諭で洋画家の田村宗立(そうりゅう)の指導のもと,学校の優等生徒十名が分担して写景に当たったもので,全三巻,計四十図からなる。第一巻・第二巻には工事現場の見取り図が,第三巻には工事竣成後の予想図が収められている。工事における困難や,疏水完成後の姿が期待を込めて美しい彩色によって描かれている。掲載した図は,第一トンネル入口付近の京都側の工事場面を描いたものである。
(図書寮文庫)
明治43年(1910)11月14日,岡山県の岡山孤児院に派遣された侍従が持ち帰った写真帖である。同院は明治37年以降,明治天皇・皇后(昭憲皇太后)から下賜金を賜わるなど,皇室からも注目される慈善活動を展開していた。写真帖には子供達の食事の様子や授業風景の他,著名な会社の寄付で建造された建物(ライオン館),ロシア人や朝鮮人孤児の写真も含まれており,広範な慈善活動の一端が垣間見える。
(宮内公文書館)
日本のスキー発祥の地は新潟県上越市とされている。これは明治44年(1911)1月に,同地でオーストリア国陸軍のレルヒ少佐が日本兵にスキー技術を指導したことに由来する。レルヒ少佐によるスキー指導を記録した写真は,この状況を視察するために派遣された侍従武官が持ち帰ったものと思われる。「雪艇(スキー)」という単語や,ストックが1本だったことなど,新技術として導入されて間もない時期ならではの情報が含まれる。ちなみに上越市のゆるキャラ「レルヒさん」も,先のソチ五輪ノルディックジャンプ男子団体銅メダルメンバー清水礼留飛(れるひ)選手の名前も,レルヒ少佐に由来している。
(図書寮文庫)
富士山を各地から撮影した写真。もともとは大正天皇の御手許写真であったものが昭和12年(1937)に書陵部に引き継がれた。画像はさったトンネル(現在の静岡市清水区)から富士山を写したものである。写真に写っている鉄道の線路が単線であることが窺えるため,線路が開通した明治22年(1889)から複線となる明治31年7月までの間の写真であると推測される。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治10年(1877)から同13年までのイギリス留学中に収集したロンドンの写真。画像はシティの証券取引所で,現在は高級ショッピングモールになっている。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治19年(1886)から5年間に及ぶドイツ留学中に収集したベルリンとポツダムの写真。画像は19世紀末に電化される以前のベルリン馬車鉄道の証券取引所駅。
この写真には右下に浮印があり,かすかに「1882 berlin」と読み取れる。証券取引所駅は1882年の開業で,現在はハッケシャー・マルクト駅となっているが,開業当時の面影を残している。
(図書寮文庫)
オーストリア=ハンガリー帝国の二つの首都ウィーンとブダペストの写真。画像はウィーンのシュテファン大聖堂の写真。
ドイツ留学中の亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,帰国が決まると,明治24年(1891)7月13日にベルリンを発ってオーストリア各地を歴訪し,同27日にシュテファン大聖堂などを見学したのちイタリアのベニス(ヴェネツィア)に向かった。シュテファン大聖堂はハプスブルグ家の歴代君主の墓所であるほか,W・A・モーツァルトの結婚式及び葬儀が行われたことで有名。この大聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年に世界遺産に登録されている。