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(選択を解除)(図書寮文庫)
鳩杖(はとづえ・きゅうじょう)とは、主に長寿を祝う品として贈られた、鳩の装飾が施された杖である。なかでも皇室から老齢の重臣等に贈られたものは、明治以降に宮中杖と呼ばれた。意匠に鳩が選ばれた理由は、餌を食べても喉を詰まらせない鳥であることから健康祈願を託したなど、諸説あり定かでない。
中国では、漢の時代、高齢者や老臣に対し鳩杖を贈る制度があった。日本においても、平安時代には鳩杖という言葉が、鎌倉時代には老臣への鳩杖下賜が文献に確認される。江戸時代半ば以降は現物ではなく、宮中での使用許可と製作料を与えるかたちが通例となった。現行憲法下では、吉田茂はじめ4名に現物が贈られている。
宮内省図書寮編修課は昭和13年(1938)から宮中年中行事調査の一環として鳩杖・宮中杖の調査を行った。本写真帳はその参考資料とみられ、「現行宮中年中行事調査部報告9 宮中杖」の附属写真帳「鳩杖聚成(しゅうせい)」と内容が一致する。ただし、本資料では裏書きに「昭和九」と確認でき、写真自体は調査開始以前の撮影と思われる。
掲出箇所は、前記報告書の「子爵萩原家所蔵員光(かずみつ)ノ鳩杖」に該当する写真である。萩原員光(1821-1902)は幕末・明治の公家・華族。明治34年(1901)に「老年ニ付特旨ヲ以テ」杖の使用を許され、併せて贈られた杖料で本杖を製作した。本体は木製漆塗り(一部銀製)で長さは約1m10cm、鳩形は純銀製で約4cmとある。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
「明治天皇紀」を編修する臨時帝室編修局によって取得された。明治天皇がお召しになった御料四人乗割幌馬車の写真である。同馬車は,明治4年(1871)に宮内省が当時のフランス公使であるウートレーより購入したもので,同年5月に吹上御苑にて天覧に供された記録も残されている。多くの行幸に用いられており,なかでも明治9年の東北・北海道巡幸,同11年の北陸・東海道巡幸,同13年の甲州・東山道巡幸,同18年の山口・広島・岡山巡幸と実に4度の巡幸に用いられている点が特徴である。その後,宮内省主馬寮に保管されていたが,大正11年(1922)12月に「明治天皇御紀念」として,同馬車を含む3輌が帝室博物館へ管轄換えとなっている。戦後,帝室博物館は宮内省の管轄から離れたため,同馬車は現在も帝室博物館の後身である東京国立博物館に所蔵されている。
(宮内公文書館)
新冠(にいかっぷ)御料牧場の広大な土地に洋種牝馬(ひんば)を放牧している様子がうかがえる写真。明治期に撮影されたものと思われる。本写真は明治天皇御手許書類のなかに収められた,新冠御料牧場写真4枚の内の1枚である。
新冠御料牧場は,明治5年(1872)に開拓使が北海道日高国に設置した牧場をはじまりとする。明治5年に開拓使が設置した牧場は,北海道日高国静内(しずない)・新冠・沙流(さる)の3郡にまたがる約7万ヘクタールの土地に設けられた。明治16年12月,農商務省所管の新冠牧馬場が宮内省へ移管され,明治21年には主馬寮の所管となり,同場の名称も新冠御料牧場に改められた。牧場開設以来,日本在来馬の改良・繁殖に力を注いだ。大正11年(1922)には,宮内省下総牧場での馬の繁殖が中止となり,それに伴って同場から優秀な洋種の種馬と繁殖牝馬が移され,馬の生産は新冠で行われることとなった。新冠では,外国から各品種の種牡馬と種牝馬を輸入して,馬の飼養に力を入れた結果,優良な洋種が多数生産された。
(宮内公文書館)
吹上御苑家根(やね)馬場の内部写真。雨天時に乗馬を行う場所であった。屋内であっても天井と両側の窓により,採光を確保する工夫が施されている。小川一真写真館撮影。本写真は大臣官房総務課が作成・取得したもので,吹上御苑内家根馬場の外観写真2枚とともにアルバムに収められている。
吹上御苑内に家根馬場(屋根附馬場)が竣工したのは,大正3年(1914)11月のことであった。これは屋根の付いた馬場(覆馬場(おおいばば))のことで,天候に左右されない屋内専用の乗馬練習場である。約559坪の広さであった。主馬頭などを歴任した藤波言忠の回顧談によれば,「主馬頭奉職中,今上陛下が雨天の際御乗馬の為に建築したるものにして,頗る堅牢なるもの」であったという。家根馬場は,主に大正天皇や皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御乗馬などに使用された。
なお,建物自体は,吹上御苑から皇居三の丸へ移築され,旧窓明館として現存している。
(宮内公文書館)
明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。
(図書寮文庫)
大正天皇(1879-1926)の即位礼・大嘗祭は,大正4年(1915)11月,京都で行われた。大嘗祭では悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎田で収穫された米・粟を神饌(しんせん)に用いるが,香川県は主基地方に選ばれ,綾歌郡(あやうたぐん)山田村大字山田上字田頃(現綾川町山田上)に斎田を選定した。
本資料は香川県内務部が編纂した写真帖で,光栄を永久に記念することを目的として,斎田をはじめとする各施設や器具,稲の生育状況,田植式・地鎮祭・抜穂式(ぬきほしき)といった各種行事や儀式,関係者の写真等が収められた。大正5年10月発行。資料名は図書寮で整理された際に付されたものである。
本資料を同じく香川県内務部編で大正5年3月に発行され,関係者に頒布された『主基斎田写真帖』と比べると,掲載写真や構成など内容的には同一であるが,全体に豪華なつくりとなっている。本資料が『主基斎田写真帖』を献上のため,特別に編纂し直したものであることが見て取れる。
掲出の写真は,大正4年5月27日,主基斎田における田植式の際に行われた田植えの光景である。田植歌の音頭のもと,早乙女たちがこれに唱和し,稲の苗を植えている。
(図書寮文庫)
1872年・1882~83年のオーストリア=ハンガリー帝国による北極探検隊が撮影した写真集。明治23年(1890)に同国海軍ファザナ号艦長より明治天皇に献上された。写真を貼り込んだ台紙50枚を本の形のケースに収める。ほかに同国特命全権公使ビーゲーレーベンから宮内大臣土方久元に宛てた書状とその翻訳(明治天皇御覧)を付す。
同探検隊は,1872年の冬に氷に閉じ込められ氷とともに流されたが,翌73年には新しい陸地を発見し,時の皇帝の名を冠した(フランツ・ヨーゼフ諸島)。
ここに挙げた写真は,1872年撮影のスピッツベルゲン島(ノルウェー)の風景。スピッツベルゲンは,現在も極地科学の研究拠点として知られる。このような北極圏の風景だけでなく,探検隊のアザラシ猟の様子(8枚目)や彼らの船“テゲトフ号”の写真(11枚目)なども見られる。
なお,旧書名『〔墺匈国快走船〕フワザナ号北極探検写真』を,このたび再調査し改めた。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)に竣工した東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の記録写真。明治期の写真家である小川一真が撮影した。
明治5年(1872)に設置された赤坂離宮は,明治31年(1898)8月,老朽化のため取り壊された。敷地内には,東宮御所として利用するための新たな建物の建設が進められた。東宮御所御造営局の技監に任じられた片山東熊(明治37年(1904)からは内匠(たくみ)頭)が工事の全体統括を務めた。完成した建物は,石造りで3階建のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築であり,震災予防のため壁中に縦横に鉄骨が入っている。床には鉄板を用いるなど耐火構造にもなっている。一見して,洋風の建築であるが,屋根の意匠(いしょう)には,甲冑(かっちゅう)の武者像が用いられているなど,所々に「和風」のデザインが用いられている。
また,建物の竣工後も庭園や外構の造成は宮内省内匠寮(たくみりょう)や内苑寮(ないえんりょう)が中心となって引き続き進められ,明治42年(1909)に完成した。庭園には,紀州藩徳川邸あるいは赤坂仮皇居時代からの茶屋や建物も多く残されていた。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日に新橋鉄道館で開催された鉄道開業式の様子を写した写真である。明治2年(1869)11月,鉄道の敷設が決定されると,東京・横浜間の工事が始められた。開業式に先立つ,明治5年(1872)5月7日には,仮開業として品川・横浜間の旅客営業が開始されている。明治天皇も,7月12日に中国・西国巡幸の帰途,開業式に先駆けて横浜から乗車された。
鉄道開業式は,重陽の節句にあわせて9月9日に開催の予定であったが,雨天のため9月12日に延期となった。写真の右奥に写る建物が新橋鉄道館である。『明治天皇紀』によれば,当日は「霖雨(りんう)全く霽れ(はれ)、快晴にて微風(びふう)なし」とあり,晴天のもと大勢の人びとが,線路に沿って集まっている様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
ロシア太公キリル・ウラジミロウィチが来日した際の集合写真である。有栖川宮威仁親王,伏見宮貞愛親王,閑院宮載仁親王の皇族方のほかに,内閣総理大臣大隈重信,内務大臣板垣退助,元帥山縣有朋ら政治家も映っている。明治31年(1898)7月10日,宿泊先として滞在した芝離宮で撮影された。皇室による外国人貴賓の接待では,当初浜離宮延遼館が主に用いられたが,やがて老朽化のため取り壊されると,それに代わって用いられたのが芝離宮であった。
本写真を収める「外賓接待写真帳」には,接待の場となった芝離宮で撮影された外国人貴賓との集合写真が数多く収録されている。明治12年(1879)から大正15年(1926)までの全3冊で,写真自体は,明治14年(1881)以降外国人貴賓の接待事務を主管する宮内省の担当部局(式部寮・外事課・式部職等と変遷)で保有されてきた。昭和29年(1954)になって写真帳として仕立てられた。
(図書寮文庫)
彦根城(滋賀県彦根市)は,徳川家康の重臣井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の合戦の戦功として佐和山城(同市内,石田三成の旧居城)を拝領したのち,その息子直勝(なおかつ)が彦根山に移転して築城を開始し,その弟直孝(なおたか)の代に完成した城郭である。琵琶湖に臨んで水運に長じたほか,中山道にも近く,西日本への抑えとなったといわれている。大老など江戸幕府の重職を担った井伊家の居城として幕末まで続き,現在は現存の天守が国宝に指定されている。
掲出の写真は,城北東の大洞(同市内)から松原内湖(戦中・戦後の干拓により消滅した琵琶湖の入り江)をはさんで彦根城の本丸を望んだもの。中央に天守の上層階が見えるほか,右端に西の丸三重櫓,左端にやや下がって天秤櫓が見える。かつての彦根城の姿をとどめた貴重な写真といえるだろう。撮影年代は定かでないが,他の写真のキャプションに記された施設名などから明治30~40年代に編まれたアルバムと推定される。