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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治35年(1902)5月6日、陵墓守長筒井幸四郎(つついこうしろう)が宮内省諸陵寮へ上申した「陪冢(ばいちょう)取調図」。「乙第廿一部古墳墓取調略図」と題された本資料には、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の三陵周辺の陪冢(小古墳)、陵墓参考地(御陵墓伝説地)について詳密に調査・記録されている。宮内公文書館は同種の図を3鋪(しき)所蔵しているが、この内「陵墓資料」の1つとして諸陵寮で保存されたもので、陵墓管理に活かされたと考えられる。
本資料を上申した筒井は、陵墓守長として百舌鳥周辺の陵墓全般の管理を担当した地域の名望家である。文久3年(1863)年、現在の八尾市に生まれ、後嗣として中百舌鳥村(現・大阪府堺市北区)の筒井家に入った。明治22年に堺市書記、明治27年に中百舌鳥村村農会長を経たのち、明治28年になって宮内省諸陵寮乙第二十一部甲部守長に採用された。以後、仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群の管理に尽力し、死去する直前の大正11年(1922)には陵墓監に昇任した。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、宮内省にも甚大な被害をもたらした。震災当時、諸陵寮は、和田倉門内にある帝室林野管理局庁舎の2階を事務室として使用していたが、この庁舎は震災により全焼した。したがって、庁舎で保管されていた諸陵寮の資料はその多くが灰燼に帰した。
そこで、諸陵寮では、焼失した陵墓資料の復旧(復元)が宮内省御用掛の増田于信(ゆきのぶ)を中心に試みられた。この意見書は増田が宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)宛てに作成したもの。9月21日に増田から宮内次官の関屋貞三郎に提出され、翌日、実施が決定された。増田は復旧事業実施の決定をうけ、天皇陵と皇族墓の鳥瞰図と平面図が描かれた「御陵図」の控えを謄写するため、大阪府庁に調査に行ったり、諸陵寮の沿革を記した「諸陵寮誌」を作成したりするなど、陵墓資料の復旧に尽力した。
(図書寮文庫)
本文書は、九条家出身の僧慶政の作で九条家旧蔵の『金堂本仏修治記』の紙背に残された一通で、建長年間(1249-56)頃、大仏師運慶の孫康円(1207-?)が慶政に宛てた書状である。冒頭を欠くが、同門康清の死去を知らせるほか、「谷御堂」こと最福寺(京都市西京区、現廃寺)の五智如来像の修理が「一門越後房」に命じられたことを宛先の人物に抗議している。
康円は、運慶の次男康運の息子かとされ、康清(運慶の四男康勝の息子か)とともに伯父湛慶(運慶の嫡男)を補佐し、湛慶亡き後はその地位を継いで慶派の中心にあった仏師であった。京都三十三間堂の千体千手観音像(国宝)の一部や、東京国立博物館ほか所蔵の四天王眷属像(重要文化財)、同館所蔵の文殊菩薩騎獅像および侍者立像(国宝)などが作例として現存する。本書状は、その康円の墨跡を伝えるとともに、慶派内部の競合も示す、貴重な一通である。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 定能卿記部類外』(宮内庁書陵部、令和6年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
『神今食行幸次第』は、毎年6月・12月の11日に禁中で行われた神事、神今食(じんこんじき)に天皇が臨席される際の式次第を書いたものである。もとは、4通の書状を横長に二つ折りし、折り目を下にして重ね右端を綴じ、横長の冊子の形で使用・保管されていた。江戸前期までに、折り目が切断され、式次第がおもてになるように張り継がれ、巻子(かんす)の形態に改められた。そのため現在、紙背の書状は上下に切断されて継がれ、紙数は8枚となっている。画像は、写真を合成して、もとの形に復元したものである。
その紙背文書のなかの一通である本文書は、鎌倉後期~南北朝期の九条家当主、九条道教(くじょうみちのり、1315-49)の花押が確認でき、自筆書状と判断される。 内容は、道教周辺の人物の出仕に係るものと考えられるが、詳細は知りがたい。他の3通の紙背文書から、年代は元弘年間(1331-34)前後のもので、九条家や同家に仕えた人々の家に集積された文書群と推定される。いずれも、『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 定能卿記部類外』(宮内庁書陵部、令和6年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
明治の初めまで、天皇・上皇の御所への公家衆の出仕・宿直は、当番制で編成されていた。これが「小番」(こばん)と呼ばれる制度である。
小番に編成されたのは、昇殿を許された家々(堂上(とうしょう))の出身者であり、小番への参仕は彼らの基本的な職務でもあった。その始まりには諸説あるが、基本の形式は、後小松天皇(1377-1433)を後見した足利義満(1358-1408)によって整備されたとされる。
本資料は、禁裏小番(天皇の御所の小番)に編成された公家衆の名前が番ごとに記されたもので、「番文」(ばんもん)や「番帳」(ばんちょう)ともいう。その内容から、正長元年(1428)8月頃、後花園天皇(1419-70)の践祚直後のものと推定される。
番文を読み解くと、当時は7番制(7班交代制)であり、31家32名の公家衆が編成されていたことが分かる。この時期の小番の状況は、当時の公家衆の日記からも部分的に窺えるが、その編成の詳細は、本資料によって初めて明らかになる事柄である。また番文としても、現在確認できる中では最も古い時期のものであり、当時の公家社会やそれを取り巻く政治状況、小番の制度等を知る上で重要な資料といえる。
(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月6日、栃木県那須郡那須村高久(現那須町)における御統監(ごとうかん)のご様子を写した明治天皇の御写真。明治天皇が統監された地は御野立所(おのだてしょ)として、那須野が原を眼下に見下ろす眺望のきく高台であった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、昭和2年(1927)に臨時帝室編修官長三上参次より寄贈された。
明治42年の栃木県行幸では、11月5日から11日までの間、陸軍特別大演習統監のため滞在された。明治32年の行幸と同様に、栃木県庁を大本営とした。この大演習は非常に大規模なものとなり、演習地も高久(現那須町)、泉村山田(現矢板市)、阿久津(現高根沢町)、氏家(現さくら市)など広範囲に及んだ。明治42年の行幸後、明治天皇の高久御野立所には記念の木標が建てられ、同地にはその後、大正4年(1915)11月に石碑が建立された。昭和9年11月には文部省によって「明治天皇高久御野立所」として史蹟に指定された(昭和23年指定解除)。現在は「聖蹟愛宕山公園」として整備されている。
(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は、日露戦争の際に旅順要塞の攻略戦を第 3 軍司令官として指揮した乃木希典(のぎまれすけ、1849-1912)による同時期の自筆日記である。内容は明治 37 年(1904)11 月1日から翌年 1 月 12 日までの時期で、203 高地の攻撃、次男の戦死、水師営におけるステッセル将軍との会見の記事が含まれる。
掲出箇所は 37 年 11 月 3 日条で、戦地でも天長節(てんちょうせつ、ここでは明治天皇の誕生日)の祝宴が催されたと記述がある。また「外国武官」とあるように、戦地には諸外国の観戦武官も滞在しており、翌日条からは彼らにもシャンパンが贈られたことが分かる。この他、本資料には乃木と面会した人物として従軍記者、日本人の僧侶、視察に訪れた議員なども登場し、戦地近傍を多様な人びとが往来していた様子が浮かび上がってくる。加えて、病院への砲撃状況につきロシア側から軍使が派遣された際の法律顧問有賀長雄(ありがながお、1860-1921)を交えた答案協議など、直接的な戦闘に限らない戦地の様相を窺い知ることもできる。
なお、本資料を含む全 26 冊の日記及び記録は、昭和 9 年(1934)に甥の玉木正之ほかより図書寮に献納されたものである。
(図書寮文庫)
伏見法皇(第92代)は文保元年(1317)6月14日に御発病後、御領等の処置について4紙にわたる10箇条の御置文(おんおきぶみ)をしたためられた。当部にはそのうち2紙目から4紙目までが所蔵されており、掲載の写真はその2紙目と3紙目(全体の3紙目と4紙目)の裏の紙継ぎ目にすえられた法皇の御花押である。
紙継ぎ目の裏花押は、各紙が分離した際に、本来接続して一体である証拠となることなどを目的にすえられる。本御置文の1紙目(全体の2紙目)裏にも、御花押の右半分が残されているが、実は東山御文庫に所蔵されている「伏見天皇御処分帳」(勅封番号101-1-1-1)一通の裏に、御花押の左半分が存在し、表の記載内容からも、両者が本来一体のものであったことが判明する。裏花押の役割が全うされた好例といえるだろう。
なお、御置文がしたためられた当時の朝廷は、鎌倉幕府の影響を受けつつ内部に対立状況が存在し、本来花園天皇(第95代)が継承されるべき御領は半減しており、御置文で法皇はその完全な回復を切望されている。また、法皇御近親の女性皇族方への御配慮の御様子も伺われ、法皇の本置文の内容を後世に伝え残そうとする強いお気持ちから、紙継ぎ目に御花押をすえられたものと思われる。法皇の御病状はその後快復されることなく、同年9月3日、53歳で崩御されている。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
嘉永7年・安政元年(1854)10月、江戸幕府から下田に来航したロシア使節プチャーチン(1803-83)の応接を命じられた、勘定奉行兼海防掛川路聖謨(かわじとしあきら、1801-68)の日記。同月17日から安政2年4月29日までの出来事を記述する。
掲出箇所は、長楽寺において日露和親条約の調印式が行われた、安政元年12月21日条。この日は、本来ならば日本側から豪勢な料理を提供し、満艦飾(まんかんしょく)のロシア軍艦から祝砲が撃たれるはずであったが、11月4日に発生した大地震と津波によって下田は壊滅的被害を受け、ロシア軍艦も沈没したため、いずれも実施できず、わずかに酒三献と鯛を台の上に積み上げて供したと、尋常ならざる状況下で調印式が行われたことを日記は伝えている。
日米和親条約(同年3月)・同附録(5月)、日英約定(8月)に続いて調印された日露和親条約について、日記には「日本魯西亜(ロシア)永世之会盟とも可申(申すべし)」とあることから、川路がもはや鎖国への回帰は困難であると捉えていたことがうかがわれよう。日記にはこのほかにも、川路が「布恬廷(プチャーチン)はいかにも豪傑也」(安政元年12月14日条)と評価していたことなどが記述されていて興味深い。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の公卿九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の自筆日記。寛永11年(1634)記は,現存する道房の日記のうち最初の年次のもの。この年の暦1巻の余白部分に書かれており,書き切れない場合はその部分に白紙を継ぎ足して,本文の続きや図が書き込まれている。
道房は初めの名を忠象(ただかた)といい,父は摂関家の一つである九条家の当主幸家(ゆきいえ),母は豊臣秀勝(秀吉の甥)の娘完子。兄に二条家の養子となった康道がいる。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)によれば,道房は寛永9年12月に24才で内大臣に任じられているが,当時,大臣クラスの人事には江戸幕府の承認が必要であり,その調整に歳月を要したため,実際に任官が認められたのは同12年7月のことであった。この経緯は,寛永11年記にも散見され,道房が日記をつけ始めたことと関係がありそうである。
このほかの記事も豊富で,実弟の道基(みちもと,後の松殿道昭)の元服,将軍徳川家光の京都入り,白馬節会などの宮廷儀式の作法,和歌懐紙の書き様など,内容は多岐にわたり,公家社会の様相はもとより,江戸時代前期の政治や文化を知る上で欠かせない貴重な資料となっている。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(宮内庁書陵部,令和4年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本資料は,安徳天皇(1178-85)の御即位を山陵に奉告する宣命(せんみょう)の案(下書き)の写しである。宣命とは,天皇の命令や意思を和文体で書いたもの。
安徳天皇は治承4年(1180),3歳で皇位を継承された。当時の記録により,使者が天智天皇などの山陵に遣わされたことや,宣命の起草と清書を勤めたのは少内記(しょうないき)大江成棟であることが知られるが,宣命の内容は本資料でわかる。山陵の厚い慈しみを受けることで,天下を無事に守ることができるであろう,との旨が記されている。実際の宣命は「官位姓名」を使者の名に,「某御陵」を山陵名に書き換えて,山陵一所につき一通が使者に授けられる。
本資料が収められる『古宣命』は,室町時代に書写された安徳天皇・後伏見上皇・光厳上皇・後醍醐天皇・後小松天皇の宣命案と,壬生忠利(ただとし,1600-63)の筆による後西天皇の宣命案などからなる。なお,本資料の紙背(裏面)に書かれているのは,壬生晴富(はれとみ,1422-97)の子・梵恕(ぼんじょ,幼名は弥一丸)の日記『梵恕記』とされる。
(図書寮文庫)
「あづま路の道の果てよりも」の冒頭文が有名な菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ,1008-?)の日記。
「日記」と呼び慣わされているが,平安時代の女性の「日記」は現代でいう回想記に当たる(女性に仮託した紀貫之の土左日記も含む)。『更級日記』も夫である橘俊通(1002-58)の死を契機に我が身を振り返り,13歳で父の任地であった上総国を離れることになってからの約40年間を記した。『源氏物語』に憧れる少女の頃の文章は教科書などにもよく引用される。
『更級日記』は藤原定家(1162-1241)筆本が現存し(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵),この図書寮文庫蔵本はそれの精密な模写本である。図書寮文庫本には「寛文二臘六日一校了」と後西天皇の書き入れがあるが,後水尾天皇ご所蔵の定家筆本の写しを後西天皇が求められたとわかる。
なお定家筆本は錯簡(綴じ間違い)があり,明治時代以前の写本・版本はみなこの錯簡の影響を受けていることが知られているが,図書寮文庫本によって錯簡の時期が寛文2年(1662)以前とわかる。
(図書寮文庫)
九条家本『日王苑寺十二箇条起請』の紙背(裏)に残された,鎌倉幕府の重臣大江広元(おおえのひろもと,1148-1225)の書状。もとは京都の官人であった広元は,源平合戦のころに鎌倉に下って源頼朝に仕え,幕府の樹立に貢献した人物で,頼朝没後も北条政子・義時姉弟をたすけて幕政を支えた。
掲出の画像は,2枚続きの広元書状の第2紙で,壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡して間もない元暦2年(1185)4月のものと推測される。京都の官人から受けた訴訟に対して,一部を除いて鎌倉幕府の管轄外であるので後白河院のもとに訴え出よ,としている。その上で「天下の訴訟も世間の政務も,みな後白河法皇の御沙汰である」と述べていることは,平氏滅亡直後の後白河院と鎌倉幕府との関係を物語るものとして興味深い。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
「公卿補任」(くぎょうぶにん)とは,年ごとの公卿(三位以上)の官員録である。掲出画像は,九条家本『中右記部類』巻5の紙背(裏)に残された天平元年(729)~神護景雲3年(769)の「公卿補任」の断簡のうち天平9年の条で,藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂(むちまろ・ふささき・うまかい・まろ)の四兄弟の官歴が記されている(麻呂は左端に名前のみ)。4人は大宝律令の制定に貢献した藤原不比等の息子で,大化の改新で活躍した鎌足の孫にあたる。妹の光明子が聖武天皇の皇后(光明皇后)になるに及んで,天皇の外戚として権勢をふるったが,折しも流行していた疫病に罹って,天平9年に4人とも相次いで死没した。
この『中右記部類』紙背の「公卿補任」は,没年にその人の官歴を列記しており,一般に知られた流布本とは形態を異にする。古態を示すものとして注目される。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
元久2年(1205)3月,『新古今和歌集』の完成を祝う宴(竟宴:きょうえん)が行われた。『新古今和歌集』は,後鳥羽天皇(1180-1239)の命によって編まれた勅撰和歌集である。その宴席で歌会が行われ,摂政太政大臣九条良経(よしつね:1169-1206)が詠んだ和歌の懐紙を掛幅(かけふく)に仕立てたものである。九条家旧蔵。
作者の良経は,和歌・漢詩・書道に優れた才能を発揮した人物で『百人一首』にも撰ばれた歌人。『新古今和歌集』では和歌所寄人(わかどころよりうど)として撰集に深く関わり,同集の「仮名序」を執筆した。本画像の「敷島や」の歌では歌集編纂の難しさを「ことばの海から玉を拾い磨く」と表現した。
ところで歌会においては,出詠者自らが詠歌を懐紙や短冊に記すのが通例である。良経ら竟宴歌会出詠者の自筆懐紙は,貼り繋いで巻子本にして後鳥羽天皇が保存されたようである(巻子原本は現存しないが,室町中期の模写本が残る)。この懐紙を注意深く見ると「大臣従一位臣」の辺りに重ね書きの痕跡があり,清書ではなく下書きであると思われ,また代々九条家に大事に伝わったことを合わせると,良経の自筆の可能性は高い。ただし,仮名書きの自筆資料が他に見いだせず比較が出来ないため,「伝 九条良経」とする次第である。
(宮内公文書館)
本資料は,足立正声(あだち まさな)の伝記である。宮内庁書陵部陵墓課の前身である諸陵寮(しょりょうりょう)や書陵部図書課の前身である図書寮の長にあたる諸陵頭・図書頭などを歴任した。昭和3年(1928),臨時宮内省御用掛の外崎覚によって謄写されたもので,巻末には外崎の自筆で,「足立諸陵頭ハ在職中薨去相成候のみならす本寮(諸陵寮)とハ深き因縁ありし方なれハ其略伝を謄写」したとあり,資料が作成された背景がうかがえる。
足立正声は,鳥取藩出身で,明治元年(1868),明治政府に出仕し,内務少書記官などを務めた。明治11年(1878)2月,陵墓事務が内務省から宮内省へ移ると,足立は宮内少書記官に任じられた(資料写真中の赤線部分)。その後,足立は陵墓事務をつかさどる諸陵寮の復興を建言するなど,陵墓事務の整備に努め,明治19年(1886)の宮内省官制により,改めて諸陵寮が設けられると,諸陵助(しょりょうのすけ)に任じられている。様々な職務を兼任しながら,明治26年(1893)には諸陵頭に任じられた。その後,諸陵頭の任免は繰り返され,明治40年(1907)4月,諸陵頭に在職中のまま死去している。没後には,在官中陵墓に関して貢献する所が多かったことから褒賞を受け,金一万円が下賜されている。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の摂関家の当主藤原(九条)忠家(1229-75)による手習いの跡である。摂関家の一つ九条家に生まれた忠家は,嘉禎元年(1235)に父教実の急逝に遭うも,摂政関白や関東申次などの要職を歴任して権勢をふるった九条道家(1193-1252)の孫として貴族社会に認められ,仁治2年(1241)13歳で正二位に昇る。さらに寛元2年(1244)内大臣を経て,同4年18歳で右大臣と,早いスピードで昇進した。手習いは,『白氏文集』巻2・巻16の一部や和歌題,書状の定型句などを書き散らす中に,「右大臣(花押)」を繰り返し記しているのが目立つことから,その頃のものである可能性がある。料紙は,主要な政務や儀式の次第を書いた巻子の紙背(裏面)を用いている。歴史上の人物による,こうした手習いの痕跡が残ることは非常に稀である。複雑な花押の書き様には,練習を要したことが判明する。若年ながらも摂関家の子弟に相応しくふるまい,朝政を担うべく努める忠家の気負いが感じられる,貴重な資料である。