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(選択を解除)(図書寮文庫)
本資料は、嘉永元年(1848)11月に行われた、孝明天皇(1831-66)の大嘗祭(大祀とも称する)の豊明節会で用いられた笏紙である。豊明節会とは、五節舞姫(ごせちのまいひめ)による舞などが披露される饗宴儀礼であり、大嘗祭の場合は通例4日目の午の日に行われた。
笏紙とは、儀式本番での失敗を防ぐため公家たちが用いた、一種の手控えである。掲出画像左側にあるものを見ると、笏の形に合わせて縦30㎝弱に切られた紙に、儀式の次第が書き連ねられているのが分かる。これを笏の裏側に貼ることで、参列者は儀式当日に笏を構えた際、儀式の流れを暗に確認できた。
本資料は鷹司家に伝来したもので、豊明節会の内弁(ないべん、儀式の進行を統括する役職)を務めた鷹司輔煕(たかつかさすけひろ、1807-78)によって作成された。輔煕は念のため、天皇が出御した場合の笏紙(掲出画像の右)と、不出御となった場合の笏紙(同左)の2枚を作ったが、当日天皇は節会に出御したため、前者が用いられた。右の笏紙は次第を記した表面ではなく、裏面を掲出しているが、その上下端はわずかに変色している。これは当日、笏に貼り付けた際の糊跡である。
(図書寮文庫)
明治の初めまで、天皇・上皇の御所への公家衆の出仕・宿直は、当番制で編成されていた。これが「小番」(こばん)と呼ばれる制度である。
小番に編成されたのは、昇殿を許された家々(堂上(とうしょう))の出身者であり、小番への参仕は彼らの基本的な職務でもあった。その始まりには諸説あるが、基本の形式は、後小松天皇(1377-1433)を後見した足利義満(1358-1408)によって整備されたとされる。
本資料は、禁裏小番(天皇の御所の小番)に編成された公家衆の名前が番ごとに記されたもので、「番文」(ばんもん)や「番帳」(ばんちょう)ともいう。その内容から、正長元年(1428)8月頃、後花園天皇(1419-70)の践祚直後のものと推定される。
番文を読み解くと、当時は7番制(7班交代制)であり、31家32名の公家衆が編成されていたことが分かる。この時期の小番の状況は、当時の公家衆の日記からも部分的に窺えるが、その編成の詳細は、本資料によって初めて明らかになる事柄である。また番文としても、現在確認できる中では最も古い時期のものであり、当時の公家社会やそれを取り巻く政治状況、小番の制度等を知る上で重要な資料といえる。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮が取得した,主馬寮庁舎とその周辺部分を描いた図面。表題には「御造営残業掛ヨリ引継」とあり,皇居御造営事務局から引き継いだことがうかがえる。図面の中央には逆コの字型の主馬寮庁舎が描かれ,庁舎の裏手には現在も残る二の丸庭園の池がある。主馬寮庁舎は,明治宮殿の造営に併せて皇居内二の丸に新築され,明治20年12月に落成した。庁舎は2階建で,1階には宿直室や馬医・蹄鉄(ていてつ)工の部屋が,2階には主馬寮の事務室や馭者(ぎょしゃ)の部屋があった。図面を見ると,主馬寮庁舎の上部に朱で加筆されていることがわかる。これは明治22年5月に起工された御料馬車舎であり,既存の馬車舎に加え新たに増築されたものである。主馬寮は,明治宮殿造営後,皇居内の本庁の厩と赤坂分厩を併用して業務にあたる予定であったが,実際に業務が始まると遠隔の赤坂分厩とは,調整がうまく行かなかった。結局,必要な馬匹と馬車を赤坂分厩に残し,皇居内に厩舎と馬車舎を増築することになり,先に予算の付いた馬車舎が建築された。ここから,図面は明治22年前後の二の丸の様子を描いたものであることがわかる。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(宮内公文書館)
吹上御苑家根(やね)馬場の内部写真。雨天時に乗馬を行う場所であった。屋内であっても天井と両側の窓により,採光を確保する工夫が施されている。小川一真写真館撮影。本写真は大臣官房総務課が作成・取得したもので,吹上御苑内家根馬場の外観写真2枚とともにアルバムに収められている。
吹上御苑内に家根馬場(屋根附馬場)が竣工したのは,大正3年(1914)11月のことであった。これは屋根の付いた馬場(覆馬場(おおいばば))のことで,天候に左右されない屋内専用の乗馬練習場である。約559坪の広さであった。主馬頭などを歴任した藤波言忠の回顧談によれば,「主馬頭奉職中,今上陛下が雨天の際御乗馬の為に建築したるものにして,頗る堅牢なるもの」であったという。家根馬場は,主に大正天皇や皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御乗馬などに使用された。
なお,建物自体は,吹上御苑から皇居三の丸へ移築され,旧窓明館として現存している。
(宮内公文書館)
皇城・吹上御苑の図面。図面中央下のだ円形の箇所が,406間(約738メートル)の馬場である。明治6年(1873)の皇城炎上により,明治天皇が赤坂仮皇居にお住まいを移されてからも,吹上御苑にはしばしば行幸になった。
吹上御苑で催された天覧競馬は,初回の明治8年以降,明治宮殿が竣工する直前の明治17年まで続いた。競馬実施にあたっては,明治9年に皇室建築を担当する宮内省内匠課(たくみか)が吹上御苑内の広芝に廻馬場を整備した。馬場のコース両側には丸太柵を設けて,拡張したものであった。明治14年には,吹上御苑内での競馬を御覧になるための「御馬見所」が新設された。吹上御苑競馬は乗馬奨励を目的として,主に軍人や宮内官,華族らが参加し,勝者には賞品として織物が下賜された。
以後,明治天皇は皇居近郊の戸山競馬や上野不忍池競馬,三田育種場競馬などに行幸になった他,東京府外にも足を伸ばし,横浜根岸の天覧競馬では,明治32年を最後とするまで13回を数えた。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。
(宮内公文書館)
明治14年(1881)当時の赤坂仮皇居を描いた図面である。同地は,もと紀州徳川家の屋敷地であり,明治5年(1872)と明治6年(1873)の二度に分けて皇室へ献上された。前者には赤坂離宮が,後者には青山御所がそれぞれ設置されている。
明治6年(1873)の皇城炎上後,赤坂離宮が「仮皇居」と定められた。「仮皇居」は,紀州徳川家の武家屋敷をそのまま利用しており,明治天皇と昭憲皇太后,英照皇太后のお住まいと宮内省の庁舎が置かれていた。しかし,お三方のお住まいとして使うには狭小であり,明治7年(1874)に英照皇太后は青山御所へお移りになっている。その後赤坂仮皇居には,明治10年(1877)に太政官庁舎が,明治14年(1881)に祝宴の場として御会食所が新築されるなど,増改築が進められていった。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,大正7年(1918)3月12日に小川一真写真店にて撮影された土方久元の写真である。土方は,宮内大臣や宮中顧問官を歴任しており,このときは,臨時帝室編修局初代総裁を務めていた。同年11月4日に在職中のまま死去したことを考えれば,最晩年の写真といえるだろう。
臨時帝室編修局は,大正3年(1914)12月1日に「明治天皇紀」編修のために設けられた臨時編修局が前身である(大正5年(1916)に臨時帝室編修局と改称)。臨時編修局は,土方を総裁,帝室博物館総長兼内大臣秘書官である股野琢を編修長として創設され,その事業は臨時帝室編修局へと引き継がれていった。当初は5か年の編修計画であり,土方は股野編修長を中心に資料蒐集に着手させた。また,土方は維新史料編纂会とも協定を結び,嘉永(かえい)5年(1852)から明治4年(1871)に至る期間の資料蒐集を同会へ委託している。
しかし,事業は5年では終わらず,土方の存命中に,「明治天皇紀」の完成には至らなかった。同局の総裁職は田中光顕,金子堅太郎へと引き継がれ,「明治天皇紀」は,昭和8年(1933)に完成し,昭和天皇へ奉呈された。臨時帝室編修局は,同年をもって廃局となっている。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(宮内公文書館)
この図面は,皇居御造営事務局が明治25年(1892)に初期の宮内省庁舎を描いたものである。近代の宮内省は,明治2年(1869)7月8日の職員令によって設置された。平成31年(2019)は近代宮内省の誕生から150年にあたる。
発足当初の宮内省の職掌は宮中の庶務であり,庁舎は太政官や天皇の住まいと共に皇城(こうじょう)(旧江戸城西の丸)内に置かれていた。明治6年(1873)5月に皇城が焼失し,明治天皇が即日仮皇居と定められた赤坂離宮へ移徙(いし)すると,宮内省も仮皇居内へ移動している。皇室との距離の近さは,宮内省の職掌をよく表しているといえるだろう。
その後,新たに明治宮殿が造営されるなか,宮内省庁舎は紅葉山下に建設されることが決定する。宮内省は,たび重なる官制の改正により所掌事務が増大し,組織も拡大していた。明治21年(1888)の庁舎落成によって,宮内省は初めて天皇の住まいから独立したものとなったのである。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
本絵図は明治天皇の即位礼の場面を描いたものである。明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)年8月27日に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で執り行われた。王政復古が実現し,古典を考証するなかで,それまでの唐風が排され,儀式に地球儀が用いられるなど,新しい趣向が凝らされた。
本絵図を収めている「明治天皇紀」附図の稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が作成したものである。この附図1帙(ちつ)は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。制作したのは,2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。奉呈された附図と稿本では構図や彩色等に微妙な差異があり,奉呈本が81題あるのに対して稿本は54題のみ伝わっている。鉛筆書のメモに見えるように,附図の作成に当たっての丹念な時代考証の跡がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭に使用された調度品や儀式の模様を描いた画帖。上・下二冊からなり,作者は不詳である。上巻には祭具や神饌が,下巻には悠紀(ゆき)・主基(すき)国郡卜定(こくぐんぼくじょう)から大嘗祭当日までの諸儀の場面などが描かれている。本絵図は大嘗祭当日,明治天皇が廻立殿(かいりゅうでん)(沐浴をし,装束を改める殿舎)を出られ,柴垣内の斎殿に向かわれる場面を描いている。この後,悠紀殿(ゆきでん),続いて主基殿(すきでん)へと移り,祭儀が進められた。
「明治天皇紀」編修の過程で宮内省臨時帝室編修局が取得したが,その前は同省式部職が所蔵していた。作成年は不明であるが,画家浮田可成(うきたよしなり)が一部を模写したものが国立公文書館所蔵「公文附属の図」に含まれており,その奥書に明治27年(1894)3月と年紀があることから本資料はそれ以前の作だと判明する。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月11日,憲法発布式が午前10時40分から宮中の正殿において催された。式典には,内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)や枢密院議長伊藤博文(いとうひろぶみ)をはじめ,皇族や元老,閣僚,陸海軍将官,地方長官,高級官僚,各国公使以下の外国人らが出席している。明治天皇は内大臣の三条実美から憲法の入った筥(はこ)を受け取った後,勅語を述べられ,憲法を黒田に授けられた。式典後,天皇は青山練兵場へ行幸し観兵式(かんぺいしき)に臨まれ,午後7時からは豊明殿(ほうめいでん)ほかで宴会が催された。
絵画は,薩摩藩出身で司法省検事の床次正精(とこなみまさよし)が描いた記録絵画のうちの1枚である。絵画は8枚組であり,観兵式臨幸之図(かんぺいしきりんこうのず)や豊明殿御陪食之図(ほうめいでんごばいしょくのず)などが含まれ,発布式当日に行われた一連の行事の様子が伝わる。
(宮内公文書館)
明治27年(1894)3月9日,明治天皇と昭憲皇太后の御結婚満25年を祝う式典が挙行された。天皇・皇后は鳳凰(ほうおう)の間に出御(しゅつぎょ)し,有栖川宮熾仁親王をはじめとした皇族方や,内閣総理大臣伊藤博文ら200余名の拝賀を受けた。その後,在日外交官を通じて外国元首からの祝賀を受けられ,青山練兵場にて観兵式(かんぺいしき)に臨まれた。還御(かんぎょ)後,豊明殿(ほうめいでん)にて祝宴が催され,さらに正殿にて舞楽を御覧になっている。
絵画は舞楽のうち,太平楽を御覧になっている場面で,記録に基づいて祝典当日の模様を再現描写したものである。正面中央の台座に着席された天皇の右側には皇族男子,及び宮内大臣をはじめとする高官・外国使臣とその夫人が,一方,皇后の左側には皇族女子が陪席している。舞楽の陪覧者は男子1072人,女子136人に上った。
(図書寮文庫)
平安時代から清涼殿には,儀式や祭祀等が書き連ねてあった衝立障子が備え付けられていた。本書はそれを書写したものである。甘露寺親長(かんろじちかなが,1424-1500)の奥書を持つ。「百官唐名」(ひゃっかんとうめい,日本の官職名に唐の官職名をあてたもの)と合綴されている。
画像は5月の年中行事の部分で,「平家本」「中家本」といった諸家の本による注記が書き込まれていたり,色分けされた読み方が見えている。これらは本奥書によれば,諸家による読み方毎に色分けしたものであり,行事名の正確な読み方が重要視されていたことが分かる。現在の清涼殿の年中行事障子については,「《京都》御所と離宮の栞(其の三)」(PDF:http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori3.pdf)を参照。