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(選択を解除)(宮内公文書館)
本資料は、皇太子明仁親王(現上皇陛下)の家庭教師を務めた米国人エリザベス・グレイ・ヴァイニング(1902-99)が、昭和21年(1946)10月17日に昭和天皇・香淳皇后及び皇太子に初めて謁見した際の記録である。
謁見は、宮内省庁舎内の表拝謁ノ間で行われた。ヴァイニングが宮内省御用掛高木多都雄の誘導にて入室の後、天皇・皇后及び皇太子がお出ましになった。握手が交わされ、ついで皇后からヴァイニングに皇太子の御紹介があり、御着席、御会談という運びであった。また、この謁見に際し、皇后からヴァイニングに花束が贈られたことも記録されている。そのほか添付の図面(掲出画像左)から、「「サロン」風ニ配置」したという間内の様子も確認できる。
この謁見については、『昭和天皇実録』及び『香淳皇后実録』の同日条に記事があり、本資料は典拠資料の一つに挙げられている。以後、ヴァイニングは、契約満了に伴い帰国する昭和25年まで、皇太子のみならず皇后にも英語の進講を定期的に行った。
(宮内公文書館)
股野琢(たく)は、天保9年(1838)龍野藩(現・兵庫県)の儒者の家に生まれた。号は藍田。明治4年(1871)に教部省宣教掛として出仕、その後太政官に入ると内閣記録局長を務めた。明治22年に宮内省へ出仕すると、書記官、文事秘書官長心得などを歴任したほか、久邇宮(くにのみや)家や山階宮(やましなのみや)家の別当を務めた。明治33年に帝室博物館総長に就任、その後、明治41年には内大臣秘書官長を兼任することとなり、大正6年(1917)まで務めた。大正6年には「追々老衰」となり、「繁務ニ難耐」(はんむにたえがたし)として辞職し、帝室博物館総長は図書頭を兼任した森鷗外に譲っている。漢学者としても知られる股野は、帝室博物館総長退任後も、しばしば森鷗外と交流を持っていたようである。「老衰」を理由に官を辞したものの、その辞表には「編修局ニ奉務仕度候」と記されており、大正3年から務めていた臨時帝室編修官長(臨時編修局編修官長/臨時帝室編修局編修長)として、その後も「明治天皇紀」の編修に従事し、亡くなる同10年まで務めている。