時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(宮内公文書館)
股野琢(たく)は、天保9年(1838)龍野藩(現・兵庫県)の儒者の家に生まれた。号は藍田。明治4年(1871)に教部省宣教掛として出仕、その後太政官に入ると内閣記録局長を務めた。明治22年に宮内省へ出仕すると、書記官、文事秘書官長心得などを歴任したほか、久邇宮(くにのみや)家や山階宮(やましなのみや)家の別当を務めた。明治33年に帝室博物館総長に就任、その後、明治41年には内大臣秘書官長を兼任することとなり、大正6年(1917)まで務めた。大正6年には「追々老衰」となり、「繁務ニ難耐」(はんむにたえがたし)として辞職し、帝室博物館総長は図書頭を兼任した森鷗外に譲っている。漢学者としても知られる股野は、帝室博物館総長退任後も、しばしば森鷗外と交流を持っていたようである。「老衰」を理由に官を辞したものの、その辞表には「編修局ニ奉務仕度候」と記されており、大正3年から務めていた臨時帝室編修官長(臨時編修局編修官長/臨時帝室編修局編修長)として、その後も「明治天皇紀」の編修に従事し、亡くなる同10年まで務めている。