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資料名の「甲子」は幕末期の元治元年(1864)の干支(かんし)に当たり、「兵燹」は“戦争で生じた火災”を指す。本資料は元治元年 7 月 19 日、政治的復権を図る長州藩軍と、京都御所を警備する会津藩・薩摩藩らの間で勃発した禁門の変を描いた絵巻。京都生まれの画家前川五嶺(ごれい、1806-76)の実見記と画を縮図して、明治 26 年(1893)8 月 5 日付で発行された。
この戦いでは長州藩邸から出た火によって大規模火災が発生し、翌日夜までに焼失した町数は 811、戸数は 2 万 7513 軒にものぼったとされ、京都市中に甚大な被害をもたらした。
掲出図は、燃える土蔵を竜吐水(りゅうどすい、手押しポンプ)により消火している場面で、本資料は被害を受けた京都民衆の姿を中心に描いている点が特徴的である。
「甲子兵燹図」は異本(いほん)が各地に現存しているが、本資料は明治 26 年 10月、戦没者の三十年慰霊祭の首唱者である旧長州藩士松本鼎・阿武素行から明治天皇に献上されたものである。
(図書寮文庫)
「大日本維新史料稿本」は、明治維新の政治過程を明らかにするために、文部省維新史料編纂会(1911-41)が編纂した 4,000 冊を超える史料集。孝明天皇が即位した弘化 3 年(1846)から廃藩置県の明治 4 年(1871)までが対象で、手書きで年月日順に綱文(見出し)を立てて史料を配列し、事件の概要を示している。
本資料はその「大日本維新史料稿本」の複本で、タイプライターで作成されている点を特徴とする。大正 12 年(1923)の関東大震災で収集資料に被害を受けた維新史料編纂会は危機感を強め、タイプライターで複本を 4 部作成し、1 部を編纂会の倉庫で保存し、1 部を明治神宮に奉納し、2 部を「宮廷」(皇室)に献上することにした。このうち皇室献上の分は 1 部が宮内省図書寮で、もう 1 部は遠隔地の京都御所で保管されることになった。
昭和 3 年(1928)から段階的に作成されたが、第二次世界大戦の影響からか、複製業務は未完で終了した。
掲出箇所は明治元年 3 月の五箇条御誓文の原案の一つ。タイプ打ちで表現困難な史料は写真を挟むなど、複本作成時の工夫がみられる。
(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。受講者が書き留め、後に加筆されたのが本書にあたる。
九条家旧蔵本で、本書の2冊目~4冊目は関白九条稙通(くじょうたねみち、1507-94)の筆。
稙通は『源氏物語』をこよなく愛し、その注釈書である『孟津抄』(もうしんしょう)を著したが、戦乱の世の中で京都を離れ、摂津、播磨、大和などを往還し、武力との繋がりを持ってもいた。下向先で土地の権力者に『源氏物語』や『古今和歌集』の講釈を行っていたこともわかっている。この『古今集注』もそのような用途であったかと考えられる。
天正6年(1578)5月16日に書き始めたことが附属の紙罫(しけい、罫線が引いてある紙製の下敷き)の書き付けからもわかる。稙通はこのとき、72歳。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。本書は、その講釈を受けた人物が書き留めた中書本的存在で、『古今集注』(九・5322)と同系ではあるが、一方が他方を見て書写したというわけではないらしい。『古今集注』と比べると走り書きの様子が看て取れる。
九条家旧蔵本で、『古今和歌集』の春上から墨滅歌(すみけちうた)まで記す。ただし、6冊目(巻10物名歌、巻20大歌所御歌)については『古聞』の注本文に一致する。講釈が5冊目で終わり、『古聞』の書写で代えたものか。
奥書に「伝受之事 永正十年五月七日よりして六月廿六日終畢、守継」とある(永正10年は1513年)。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に対校本文として用いた。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の九条家当主である九条幸家(くじょうゆきいえ、1586-1665)が記した目録。『古今集注』(九・5322)『古今集聞書』(九・5321)と同じ箱に納められていた。慶安元年(1648)8月2日に九条家の文庫からこれらの書を取り出した時のもの。幸家は『古今集注』を書写した九条稙通(くじょうたねみち)の孫。
1行目に『古今聞書』として「東光院殿御自筆 六冊」とあるが、これに相当する『古今集聞書』(九・5321)は東光院(九条稙通のこと)の筆ではない。ほかにもこの目録によって「逍遥院」(しょうよういん、三条西実隆、1455-1537、稙通の祖父)筆や「後浄土寺殿」(のちのじょうどじどの、九条道房、1609-47、幸家の子)筆の注釈書があったことがわかるが、現在の図書寮文庫蔵九条家本には見当たらない。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)解題中に翻刻を掲載している。
(図書寮文庫)
延喜式は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちのひとつである式を官司別に編纂したもので、醍醐天皇(だいごてんのう、885~930)の命により、延喜5年(905)に編纂がはじめられ延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行された。式は施行細則という性格上、延喜式も細かい内容の規定が多く見られ、百科全書的な趣を持ち、歴史学のみならず、考古学、薬学、食品学、技術史等の各分野の研究対象となっている。
本資料は「勢多蔵書」印や勢多章純(せたのりずみ、1734~95)の印である「家世明法儒中原氏蔵書」印を持つ勢多家旧蔵本で、50巻49冊からなる板本である。正保4年(1647)及び慶安元年(1648)の跋を持つが、内容的には正保4年に板行された本を改訂したものである。ただし、巻1、巻4、巻6は嘉永7年(1854)に火災で焼失したために安政3年(1856)に書写後補、巻2、巻3は他の巻とは異なる時期に板行された本を合綴したものである。勢多治勝(せたはるかつ、1625~79)の奥書を持つほか、勢多章甫(せたのりみ、1830~94)までの歴代当主による書き込みが見られる。
(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。
(図書寮文庫)
伏見法皇(第92代)は文保元年(1317)6月14日に御発病後、御領等の処置について4紙にわたる10箇条の御置文(おんおきぶみ)をしたためられた。当部にはそのうち2紙目から4紙目までが所蔵されており、掲載の写真はその2紙目と3紙目(全体の3紙目と4紙目)の裏の紙継ぎ目にすえられた法皇の御花押である。
紙継ぎ目の裏花押は、各紙が分離した際に、本来接続して一体である証拠となることなどを目的にすえられる。本御置文の1紙目(全体の2紙目)裏にも、御花押の右半分が残されているが、実は東山御文庫に所蔵されている「伏見天皇御処分帳」(勅封番号101-1-1-1)一通の裏に、御花押の左半分が存在し、表の記載内容からも、両者が本来一体のものであったことが判明する。裏花押の役割が全うされた好例といえるだろう。
なお、御置文がしたためられた当時の朝廷は、鎌倉幕府の影響を受けつつ内部に対立状況が存在し、本来花園天皇(第95代)が継承されるべき御領は半減しており、御置文で法皇はその完全な回復を切望されている。また、法皇御近親の女性皇族方への御配慮の御様子も伺われ、法皇の本置文の内容を後世に伝え残そうとする強いお気持ちから、紙継ぎ目に御花押をすえられたものと思われる。法皇の御病状はその後快復されることなく、同年9月3日、53歳で崩御されている。
(図書寮文庫)
鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(図書寮文庫)
本資料は、江戸時代後期の天保12年(1841)閏正月27日、前年11月に崩御した太上天皇(御名は兼仁(ともひと)、1771-1840)に「光格天皇」の称号が贈られた際の詔書。年月日部分のうち、日付の「廿七」は仁孝天皇(1800-46)の自筆で御画日(ごかくじつ)という。
「光格」は生前の功績を讃(たた)える美称で諡号(しごう)に該当する。諡号は9世紀の光孝天皇(830-87)を最後に、一部の例外を除き贈られなくなり、代わりに御在所の名称などを贈る追号(ついごう)が一般的となっていた。
さらに「天皇」号も10世紀の村上天皇(926-67)が最後で、以後は「〇〇院」などの院号が贈られることが長く続いていた。そのため、「光格天皇」号は、「諡号+天皇号」の組み合わせとしては約950年ぶりの復活であった。院号は幕府の将軍から庶民まで使用されていたことから、天皇号の再興(さいこう)は画期的なことといえた。
これは、光格天皇が約40年に及ぶ在位期間中に、焼失した京都御所を平安時代の規模で再建させたことを始め、長期間中断していた朝廷儀式の再興や、簡略化されていた儀式の古い形式への復古(ふっこ)に尽力したことが高く評価されたためであった。
(図書寮文庫)
安政4年(1857)、アメリカから通商条約の締結を要求された江戸幕府は、世界情勢の変化を考慮して許可することを決定し、その経緯を朝廷に報告した。さらに勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得た後に条約を締結することとし、翌5年2月、勅許を求めるために派遣された老中(ろうじゅう)が京都に到着した。
本資料は、その直前に当たる安政5年正月17日、孝明天皇(1831-66)から関白九条尚忠(ひさただ、1798-1871)に宛てて書かれた天皇自筆の書状。通商条約に「日本国中不服」では「大騒動」が起きてしまうと憂慮した内容で、“自分の代でそのようになっては後々までの恥の恥となるであろうし、伊勢神宮を始めとする神々にはまことに恐縮である。さらに歴代天皇に対する「不孝」となり、自分は身の置きどころがない”と苦しい心中が記載されている。
結局、条約を勅許するには公家のみならず、御三家(水戸藩・尾張藩・和歌山藩)を始めとする全国の諸大名からの広い合意が必要と判断した孝明天皇は、条約の勅許を認めなかった。それ以降、条約勅許問題は幕末政治の大きな争点となっており、本資料は孝明天皇の意思がうかがえる貴重なものである。
(図書寮文庫)
詔書とは,国家の重要な案件について,天皇の意志を伝えるために作成される文書である。掲出の資料は,安政3年(1856)8月8日,九条尚忠(ひさただ,1798-1871)を関白に任じる際に作られた詔書の原本である。
内容は,尚忠を関白に任じる旨の命令を,修辞を凝らした漢文体で記したものである。文章の起草・清書は大内記(だいないき,天皇意志に関わる文書の作成を職掌とする)東坊城夏長(なつなが)が担当し,料紙には黄紙(おうし)と呼ばれる鮮やかな黄蘗(きはだ)色の紙が用いられた。また,文書末尾の年月日部分のうち,日付の「八」のみ書きぶりが他と異なるが,これは自らの決裁を示す孝明天皇(1831-66)の宸筆であり,この記入を御画日(ごかくじつ)という。
尚忠は関白就任後,幕末の困難な政治情勢下において,江戸幕府と朝廷の間の折衝役として尽力した。しかし,日米修好通商条約の締結などをめぐって孝明天皇や廷臣の支持を得られず,最終的には文久2年(1862)に関白を辞任した。
なお,この時の関白任命にあたっては,いくつかの関連文書も共に作成されたが,図書寮文庫にはそれらの原本も所蔵されている(本資料のもう一点「随身兵仗勅書」および函架番号九・1638「九条尚忠関白・氏長者・随身牛車宣旨」)。
(図書寮文庫)
本資料は,貞享4年(1687)に行われた,東山天皇(1675-1709)の大嘗祭に関連する儀式で実際に使用された文書である。室町時代後期より中絶していた大嘗祭は,東山天皇の代に至り,約220年ぶりに再興された。
掲出の画像は,例文(れいぶみ)と呼ばれる文書である。左の2巻は,大嘗祭の実務を取り仕切る役職である,検校(けんぎょう)と行事(ぎょうじ)を任命する儀式で用いられた。右の1巻は,神宮・石清水・賀茂の三社へ大嘗祭の挙行を告げる,三社奉幣使(さんしゃほうべいし)と呼ばれる使者を任命する儀式で用いられた。
例文とは,かつてその役職に任命された人物が記された文書のことで,元々は人物選定の参考として儀式で使われていた。その機能はこの頃すでに形骸化していたが,儀式の再興にあたり,古式に則り例文が作成されたのである。例文には直前の例を記すのが一般的だが,この時は直前となる文正元年(1466)の大嘗祭ではなく,吉例であるとの理由により,更にその前,永享2年(1430)に行われた大嘗祭の例が記された。
題籤軸(だいせんじく)を伴う装丁など,儀式で用いる文書の特殊な形態を知り得る,貴重な資料である。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,昭和大礼における即位礼・大嘗祭後に催された饗宴(きょうえん)(大饗〈だいきょう〉)の際の献立である。大礼とは,践祚(せんそ)(皇位を継承すること)の後,即位を内外へ広く知らせるために行われる一連の儀式である。昭和天皇の即位礼は,昭和3年(1928)11月10日に京都御所にて挙行された。11月14日・15日の大嘗祭(だいじょうさい)を終えると,16日・17日の2日間にわたって大饗が催された。京都御所の東側に仮設された饗宴場にて,天皇・皇后の御臨席のもと,皇族,内閣総理大臣以下閣僚,官僚,各国大公使などを招いて行われた。1日目の「大饗第一日の儀」は944名が,2日目の「大饗第二日の儀」は203名が,同日の「大饗夜宴の儀」は2,779名がそれぞれ参列した。
写真は,17日の「大饗第二日の儀」の献立である。朱塗りの門を彩色で描いた表紙(写真右側)を開くと,写真左側には西洋料理のコース(和文・仏文)が見える。献立には鼈清羹(スッポンのコンソメスープ),鱒蒸煮(マスの料理),鶉煮冷(ウズラの冷製),牛肉焙焼(牛フィレ肉),凍酒(シャンパンのシャーベット),蔬菜(セロリのサラダ),七面鳥炙焼(七面鳥のロティ),温菓(デザート)というメニューが並んでいる。
(宮内公文書館)
本絵図は明治天皇の即位礼の場面を描いたものである。明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)年8月27日に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で執り行われた。王政復古が実現し,古典を考証するなかで,それまでの唐風が排され,儀式に地球儀が用いられるなど,新しい趣向が凝らされた。
本絵図を収めている「明治天皇紀」附図の稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が作成したものである。この附図1帙(ちつ)は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。制作したのは,2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。奉呈された附図と稿本では構図や彩色等に微妙な差異があり,奉呈本が81題あるのに対して稿本は54題のみ伝わっている。鉛筆書のメモに見えるように,附図の作成に当たっての丹念な時代考証の跡がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治天皇の即位礼の調度のうち,玉座(ぎょくざ)である御帳台(みちょうだい)の屋形内部の絵図。彩色を施した絵図からは,儀式で用いられた調度品について視覚的に形状を知ることができる。新政府内では,即位の礼を王政復古・庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀として挙行すべく,古典などの考証が進められた。その結果,調度品からは唐風のものが一掃された。新しい点としては,幕末期に前水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)から孝明天皇へ献上された地球儀などが用いられた。
本図は宮内省内匠寮(たくみりょう)に伝わったものだが,国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,これと類似した絵図がみられることから,原図は新たな式次第の検討に深く関わった亀井茲監(かめいこれみ)が中心となって作成させたものと思われる。
(図書寮文庫)
本図は,寛政11年(1799)に出版された京都の名園案内書に描かれた蹴鞠の風景。本文の説明には,当時は七夕を恒例の開催日として,飛鳥井・難波両家で蹴鞠の会が開催されたとある。この両家は,蹴鞠が貴族社会に受け入れられていく中で,技術・故実(作法)を蓄積した家として成長し,いわば蹴鞠の家元として指導的な立場に立った。画像から鞠場の周囲に柵が設けられ,競技者と観覧者とが明確に分けられていることがわかる。技術の高度化・複雑化によって,蹴鞠は遊戯から競技として鑑賞・観覧の対象に変化していったと考えられる。