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(選択を解除)(陵墓課)
鍬形石は古墳時代の石製品(せきせいひん)である。その名のとおり、写真下段の板のように見える部分が農具である鍬の先を思わせることから江戸時代にこの名がつき、現在の考古学でもそれを踏襲してこの名称が使われている。実際に農具の鍬として使用したものではない。
鍬形石は、弥生時代の九州地方で使用された貝製の腕輪である貝輪(かいわ)を起源とすることがわかっている。貝輪は古墳時代にも使われるが、主に北陸地方で産出する碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)と呼ばれるきれいな緑色の石材で製作されることが多く、単に装身具としての腕輪だけでなく宝器としての意味ももつようになる。
写真の鍬形石は上下で分かれているが、本来はそれぞれ別の個体である。上下の位置関係は正しいが全面に施されている装飾が異なるため、それぞれ違う鍬形石の破片であることがわかる。この刻みのような装飾は、初期の鍬形石にはないものであり、より貝輪に近かった当初の特徴が失われていることがわかる。そのため、本資料は鍬形石が作られた期間の中でも、もっとも後の時期に作られたと考えられている。二つの破片は細かい装飾で異なるが、全体の特徴はよく似ていることから、作り手が同じか、違う場合でもデザインを共有する近しい関係にあったことが推測される。
なお、ここで紹介した鍬形石の破片はどちらも奈良県北葛城郡広陵町に所在する巣山古墳からの出土が伝えられている資料である。
(図書寮文庫)
「神武必勝論」は,幕末に尊王攘夷論を唱えて活動した平野国臣(くにおみ:1828-1864)が,文久2年(1862)から翌年にかけ福岡の獄中にあった際,攘夷に関する自らの基本方策をつづったものである。筆や墨を得られなかったことから,紙捻(こより)を切り張りした文字で記された。
平野は出獄後,文久3年(1863)に尊攘派公家沢宣嘉(のぶよし)を擁して但馬国生野(兵庫県朝来(あさご)市)で挙兵したが捕らえられ(生野の変),翌年処刑された。この際,同書は同志の農民等に遺品として与えられ,その子孫が保管してきたが,明治20年(1887)の明治天皇京都行幸の途次,兵庫県知事内海忠勝を通じて献上された。
本資料はこれを複製したもので,原本が世に知られていないことを遺憾とした明治天皇の命により,宮内省を通じ,大蔵省印刷局が石膏版を用いて作成したとみられる。内閣総理大臣伊藤博文による序文と,皇太后宮大夫杉孫七郎による跋文(ばつぶん)が付されており,1ページに2面ずつ,紙捻文字の凹凸を再現するかたちで印刷されている。
本資料は侍従職が保管したのち図書寮に移されたものであるが,献上者をはじめ,皇族や大臣等にも同種の複製が下賜されたという。なお,紙捻製の原本は御物とされたのち,現在は三の丸尚蔵館に所蔵されている。
(陵墓課)
熊本県の宮穴横穴群から明治期に出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。本品の名称は色調から「金環」としているが,金環と書かれる場合には銀の芯材(しんざい)に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているもの等,材質には様々な可能性があり,必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない点に注意が必要である。本品は,芯材に銅が使われているものがほとんどで,銅芯に金ないし銀を張るもののほか,銀芯の製品も1点ある。上述の材質については肉眼観察によるため,詳細は蛍光X線(けいこうえっくすせん)などによる理化学的分析を経て明らかになろう。
これらの耳環は,直径20㎜のものから30㎜を超えるものまで様々な大きさがあり,その断面の厚さも2㎜から8㎜までと幅がある。平面形には正円形に近いものと楕円形のものがあり,断面形にも正円形と楕円形がある。
耳環は本来両耳に着けて揃いで使用される。ただし,宮穴横穴群の資料は出土状況が不明であり,本来の組合せは形状と材質により推測するのみである。
(陵墓課)
本資料は,戦闘時に身を護る甲冑(かっちゅう/よろいかぶと)を表現した埴輪で,胴を護る短甲(たんこう/みじかよろい)部と,肩を護る肩甲(けんこう/かたよろい)部とが残る。現状高23.0cm。短甲とは,古代に用いられた甲のうち,歩兵が着用していたと考えられているものである。
古墳時代の短甲の実例に,三角形に加工した鉄板を革紐(かわひも)で綴じるものがある。この埴輪の短甲部は,粘土に刻んだ線で三角形の鉄板を,線をまたぐ粘土の粒で革紐を表現している。実物を横に置いて見ながら作ったのではないかと思えるほど,写実的に表現されている。
本資料は,宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群内に所在する男狭穂塚女狭穂塚(おさほづかめさほづか)陵墓参考地のうちの,女狭穂塚から出土した。女狭穂塚からは,本例のほか,円筒(えんとう)埴輪,朝顔形(あさがおがた)埴輪,家・盾・鶏などを模した形象埴輪が確認されている。これらの埴輪の種類と作り方の特徴は,遠く離れた大阪府羽曳野(はびきの)市・藤井寺(ふじいでら)市の古市(ふるいち)古墳群に所在する大型前方後円墳から出土したものとの共通点が多い。古墳時代における両地域の関係を知る上でも貴重な資料である。
(陵墓課)
宮穴横穴墓群(熊本県熊本市)から明治期に出土した玉類である。
上段は勾玉で,1列目左から硬玉(翡翠(ひすい))製3点,滑石(かっせき)製1点,硬玉(翡翠)製1点,2列目は瑪瑙(めのう)製6点である。下段左側はガラス製の玉で,丸玉が7点に,左下が連珠玉1点である。下段右側は,左からガラス製棗玉1点,碧玉(へきぎょく)製管玉1点,碧玉製平玉2点,瑪瑙製丸玉1点である。
連珠玉は複数の丸玉を連ねた形状のものを,棗玉は樽のように胴が膨らんだ形状のものを,平玉は扁平(へんぺい)な形状のものを,それぞれそう呼び習わしている。
古墳時代後期の玉は,形や材質の種類が増えることが知られており,本資料の多様な玉からもそうした状況を窺うことができる。
横穴墓とは,斜面や崖面に横方向の穴を掘って埋葬施設とする墓制で,古墳時代後期以降に見られる。単独で造られることはなく,狭い範囲に多数が集中して造られることが特徴である。
(図書寮文庫)
これは,慶応2年(1866)正月23日に木戸孝允より坂本龍馬(1836-67)に宛てられ,2月5日,裏に龍馬自筆で薩長同盟の裏書をし,木戸に送り返された書簡。表は薩長同盟の6か条を記した木戸の書簡で,龍馬がその求めに応じ,6か条に誤りがないことを保証するため朱墨で裏書をした。薩長同盟の内容はこの書簡によって明らかとなる。画像は龍馬による裏書部分。
(図書寮文庫)
これは,幕末維新期,薩摩藩の大立者であった小松清廉(1835-70)の明治元年(1868)閏4月17日付の木戸宛の書簡。文中に「徳川御所置(=御処置)」の文言があり,画像にも「家名相続は徳川亀之助(家達)」「秩禄高百十万石」「移封の地は駿府」と見える。別に「徳川御所置」という文言を含む書簡もあるので,木戸・小松という薩長首脳部の間で,当時慶喜隠居後の徳川家の処遇をめぐる議論がなされていたことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,薩摩藩士の大久保利通(1830-78)が一蔵(いちぞう)と名乗っていた時期の書簡。書かれた年次は不明だが,正月2日に木戸宛に送られたもの。当時の情勢に触れた本文では黒田(清隆)・村田(新八)・川村(純義)といった薩摩藩の人名が見えるほか,「上坂」(大坂に上ること)とあるので,関西方面での動きに注目したもののようだ。また追伸部分は,明治天皇の御動座に関する内容で,「物議騒然」たるときゆえ「用心」せよと書かれている。
(図書寮文庫)
これは,かつて肥前佐賀支藩・鹿島(かしま)藩主であった鍋島直彬(なべしまなおよし,1843-1915)が明治10年(1877)5月13日付で木戸に充てた書簡。鍋島は渡米経験もあり,その経験に相応しく,朱で世界地図を印刷した珍しい紙に手紙を書いている。同年の西南戦争に際し旧領鎮撫のために肥前に下った鍋島が,現地の近況を報告するとともに,木戸の病の重いことを聞き療養を勧めている。木戸は同月26日に,国家を案じつつ亡くなった。