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(選択を解除)(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(図書寮文庫)
資料名の「甲子」は幕末期の元治元年(1864)の干支(かんし)に当たり、「兵燹」は“戦争で生じた火災”を指す。本資料は元治元年 7 月 19 日、政治的復権を図る長州藩軍と、京都御所を警備する会津藩・薩摩藩らの間で勃発した禁門の変を描いた絵巻。京都生まれの画家前川五嶺(ごれい、1806-76)の実見記と画を縮図して、明治 26 年(1893)8 月 5 日付で発行された。
この戦いでは長州藩邸から出た火によって大規模火災が発生し、翌日夜までに焼失した町数は 811、戸数は 2 万 7513 軒にものぼったとされ、京都市中に甚大な被害をもたらした。
掲出図は、燃える土蔵を竜吐水(りゅうどすい、手押しポンプ)により消火している場面で、本資料は被害を受けた京都民衆の姿を中心に描いている点が特徴的である。
「甲子兵燹図」は異本(いほん)が各地に現存しているが、本資料は明治 26 年 10月、戦没者の三十年慰霊祭の首唱者である旧長州藩士松本鼎・阿武素行から明治天皇に献上されたものである。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(宮内公文書館)
明治天皇の利根川御渡船の様子を描いた絵図の写し。明治9年(1876)6月4日、明治天皇は巡幸の途中、栗橋宿(現久喜市)の池田鴨平宅で御小休になった。栗橋からその先の茨城県へ向かう間には利根川があり、明治天皇は御座船に乗って渡られている。この御渡船中に、明治天皇は利根川の鯉漁(こいりょう)を御覧になった。白衣を身にまとい潜水した漁夫数人がこぞって鯉を抱きかかえて捕獲したとされ、計48尾に上ったという。
史料は、昭和3年(1928)に宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のため、池田家から借用して作成されたものである。絵図下部に池田鴨平宅、上部が茨城県の中田駅、中央にある利根川の堤と明治天皇の御座船が描かれている。画賛(がさん)には利根川御渡船の経緯と、この時供奉(ぐぶ)した宮内省皇学御用掛近藤芳樹が詠んだ次の歌2首が記されている。「龍の門登らで老し身にも猶/こひねがはるゝ/君の千代かな」「利根川の淀みに引し/網の目に洩ぬ恵みの/深さをぞ思ふ」。なお、近藤の歌については「十府の菅薦」と校合し、適宜濁点を付した。
(図書寮文庫)
家仁親王(やかひと,1703-67,桂宮第8代)が古歌を書き,京都の絵師狩野正栄(かのうしょうえい,近信,生没年未詳)がそれに合った絵を描いた帖。桂宮旧蔵本。家仁親王は和歌にも入木道(じゅぼくどう,書道)にも力を注いだ。当文庫には家仁親王が詩歌を書き正栄に絵を描かせたものがこのほかにもある(『四季月帖』〈F4・155〉など)。
なお,この帖に描かれる月は満月と下弦の月である。満月は7首目「鐘の音もきこえぬたびのやま路にはあけゆく空をつきにしるかな」(画像)のように月の入りは朝,下弦の月は夜に月が出て朝に南中となるので5首目「やすらはでねなまし物をさよふけてかたぶくまでの月をみしかな」のように描かれる。昼に見える上弦の月が歌(和歌・短歌)に詠まれるのは明治以降になる。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(図書寮文庫)
『帝鑑図説』は,中国明代の宰相張居正(ちょうきょせい,1525-82)が,幼くして皇帝に即位した万暦帝(ばんれきてい,在位1572-1620)の帝王学の教科書として,古代から宋代までの君主の事蹟を絵入りでまとめた本。前半で名君の善政,後半で暴君の悪政を扱う。掲出部分は漢の高祖が3人の名臣,張良・蕭何・韓信を上手に用いたことで天下を統一できたことを記している。
皇帝の教育係でもあった張居正は,万暦帝を理想の帝王にすべく厳しく育てたが,かえって堕落し,奢侈と政治への無関心から,明を滅ぼす端緒を開いたことは皮肉である。
さて本書は,特大(50.2cm×41.3cm)の折帖で,図などの特徴から,万暦帝への奉呈本に非常に近く,張居正周辺で作られた模本をもとに万暦年間(1573-1620)刊行された可能性が指摘されている。
明治時代に旧幕府から宮内省が引き継いだもので,寛文11年(1671)紅葉山文庫に収められた『御覧帝鑑図(ぎょらんていかんず)』が本書に相当する。本書よりひと回り大きい,今は失われた徳川家康旧蔵の『帝鑑図説』の箱に収められている。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(宮内公文書館)
本絵図は明治天皇の即位礼の場面を描いたものである。明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)年8月27日に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で執り行われた。王政復古が実現し,古典を考証するなかで,それまでの唐風が排され,儀式に地球儀が用いられるなど,新しい趣向が凝らされた。
本絵図を収めている「明治天皇紀」附図の稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が作成したものである。この附図1帙(ちつ)は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。制作したのは,2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。奉呈された附図と稿本では構図や彩色等に微妙な差異があり,奉呈本が81題あるのに対して稿本は54題のみ伝わっている。鉛筆書のメモに見えるように,附図の作成に当たっての丹念な時代考証の跡がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治天皇の即位礼の調度のうち,玉座(ぎょくざ)である御帳台(みちょうだい)の屋形内部の絵図。彩色を施した絵図からは,儀式で用いられた調度品について視覚的に形状を知ることができる。新政府内では,即位の礼を王政復古・庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀として挙行すべく,古典などの考証が進められた。その結果,調度品からは唐風のものが一掃された。新しい点としては,幕末期に前水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)から孝明天皇へ献上された地球儀などが用いられた。
本図は宮内省内匠寮(たくみりょう)に伝わったものだが,国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,これと類似した絵図がみられることから,原図は新たな式次第の検討に深く関わった亀井茲監(かめいこれみ)が中心となって作成させたものと思われる。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭に使用された調度品や儀式の模様を描いた画帖。上・下二冊からなり,作者は不詳である。上巻には祭具や神饌が,下巻には悠紀(ゆき)・主基(すき)国郡卜定(こくぐんぼくじょう)から大嘗祭当日までの諸儀の場面などが描かれている。本絵図は大嘗祭当日,明治天皇が廻立殿(かいりゅうでん)(沐浴をし,装束を改める殿舎)を出られ,柴垣内の斎殿に向かわれる場面を描いている。この後,悠紀殿(ゆきでん),続いて主基殿(すきでん)へと移り,祭儀が進められた。
「明治天皇紀」編修の過程で宮内省臨時帝室編修局が取得したが,その前は同省式部職が所蔵していた。作成年は不明であるが,画家浮田可成(うきたよしなり)が一部を模写したものが国立公文書館所蔵「公文附属の図」に含まれており,その奥書に明治27年(1894)3月と年紀があることから本資料はそれ以前の作だと判明する。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月11日,憲法発布式が午前10時40分から宮中の正殿において催された。式典には,内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)や枢密院議長伊藤博文(いとうひろぶみ)をはじめ,皇族や元老,閣僚,陸海軍将官,地方長官,高級官僚,各国公使以下の外国人らが出席している。明治天皇は内大臣の三条実美から憲法の入った筥(はこ)を受け取った後,勅語を述べられ,憲法を黒田に授けられた。式典後,天皇は青山練兵場へ行幸し観兵式(かんぺいしき)に臨まれ,午後7時からは豊明殿(ほうめいでん)ほかで宴会が催された。
絵画は,薩摩藩出身で司法省検事の床次正精(とこなみまさよし)が描いた記録絵画のうちの1枚である。絵画は8枚組であり,観兵式臨幸之図(かんぺいしきりんこうのず)や豊明殿御陪食之図(ほうめいでんごばいしょくのず)などが含まれ,発布式当日に行われた一連の行事の様子が伝わる。
(宮内公文書館)
明治27年(1894)3月9日,明治天皇と昭憲皇太后の御結婚満25年を祝う式典が挙行された。天皇・皇后は鳳凰(ほうおう)の間に出御(しゅつぎょ)し,有栖川宮熾仁親王をはじめとした皇族方や,内閣総理大臣伊藤博文ら200余名の拝賀を受けた。その後,在日外交官を通じて外国元首からの祝賀を受けられ,青山練兵場にて観兵式(かんぺいしき)に臨まれた。還御(かんぎょ)後,豊明殿(ほうめいでん)にて祝宴が催され,さらに正殿にて舞楽を御覧になっている。
絵画は舞楽のうち,太平楽を御覧になっている場面で,記録に基づいて祝典当日の模様を再現描写したものである。正面中央の台座に着席された天皇の右側には皇族男子,及び宮内大臣をはじめとする高官・外国使臣とその夫人が,一方,皇后の左側には皇族女子が陪席している。舞楽の陪覧者は男子1072人,女子136人に上った。
(図書寮文庫)
立雛図は明治期に活躍した日本画家川端玉章(1842-1913)画。有栖川宮熾仁親王が御讃(その図画にちなむ詩や文のこと)を添えられている。玉章の印は「源玉章印」「子文」。この形の印章が用いられたのは玉章40歳代の頃と推測されることから,明治20年代前半の作と思われる。御讃は雛図に寄せた和歌で,「花の名の ももとせかけていもとせの かみこそあつき ちきりなりけれ」。有栖川宮家旧蔵。
(図書寮文庫)
ともに日本画家である久保田米亝(べいさん,1874-1937)と西澤笛畝(てきほ,1889-1965)の共編によるもので,各地に伝わる雛人形を集め,模写したもの。西澤は人形玩具の蒐集研究家としても知られている。巻頭には児童文学者巌谷小波(いわやさざなみ,1870-1933)の序文が添えられている。
(図書寮文庫)
本図に描かれた柿本人麻呂(人麿,生没年未詳)は持統・文武朝(690-707)に活躍した万葉集の主要歌人。古今和歌集仮名序で「歌の聖」と讃えられ,平安時代末期には歌道上達を願う人々の信仰の対象となった。粟田兼房(あわたのかねふさ)という人の夢に人麻呂が現れたので,その姿(直衣・指貫・烏帽子姿,右手に筆,左手に紙を持つ)を絵にして拝礼したところ歌が上手くなったという故事(人麿影供)による。影供に用いられる人麿像は,下図のようなものが典型例だが,ここでは葦手(平安末期頃から用いられた遊戯的な絵文字)書きの「柿本人丸」で姿を作っている。この葦手書きの人麿像も人々に好まれた。なお,人麻呂は平安時代中期から「人丸(ひとまる)」とも呼ばれていた。
本作品は第107代後陽成天皇(1571-1617)宸筆と伝えられる,伏見宮旧蔵のものである。好学の天皇のユーモラスな一面が見て取れる。
(図書寮文庫)
本図は「天神さま」として親しまれる菅原道真(845-903)の肖像画。左遷された道真が大宰府で失意の内に没した後,異変や災害が頻発したため,朝廷はこれを道真の怨霊の仕業と考え,名誉回復を図ることで鎮魂につとめた。永延元年(987)8月5日一条天皇は道真に「天満天神」の号を贈った。学問の神として広く信仰されたのは江戸時代以降,寺子屋の守り神として崇敬されたためと言われている。
その道真の肖像画には公家の装束である束帯姿のものと,中国風の法衣をまとったものがある。道真が神通力で唐に渡り,中国の高名な禅僧無準師範(ぶしゅんしはん)の弟子になったという「渡唐天神」伝説が室町時代に広まり,盛んに中国風の衣装の渡唐天神図が作られた。梅の枝を持つのは,道真が大宰府に流される時に詠んだ「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」による。本作品は室町期に描かれ,五摂家のひとつ九条家に所蔵されていたもの。
(図書寮文庫)
本図は百人一首の作者たち100人を描いた巻子本で江戸初期の作と考えられる。人名を記した小札が剥がれている箇所もあり,現在の百人一首の順序と肖像画の装束を比べると身分が合わず順序が異なると思われる部分もある。画像は絶世の美女と称された小野小町(生没年未詳)である。現在多く流通している歌がるたや著名な佐竹本三十六歌仙絵巻断簡など,小野小町は顔を見せていないものが多いが,本作品では顔を見せている。
なお百人一首の歌がるたはポルトガルから伝来したカードゲームから派生したもので,江戸時代初期に作られ始めたと言われている。日野家旧蔵。
(図書寮文庫)
剣豪として知られる宮本武蔵(1584?-1645)自筆と伝えられる肖像画。伝来は不明だが,明治期に皇室に献上されたものと考えられる。武蔵の伝記については不明な点が多いが,武道修行のため諸国をめぐり,のち二天一流(にてんいちりゅう)兵法の祖となった。巌流島での佐々木小次郎との決闘は著名。肥後藩に仕え兵法書『五輪書』(ごりんのしょ)を著している。本図はよく知られる二刀流の姿を描き,武蔵の独特の風貌を伝えている。
(図書寮文庫)
新井白石(1657-1725)は江戸時代中期の儒学者・政治家。久留里(現・千葉県君津市)藩士の子として,江戸に生まれる。名は君美(きんみ),白石は号。師である木下順庵の推挙で甲府藩主徳川綱豊に仕えた。綱豊が家宣と改名して6代将軍になると将軍侍講として活躍。7代家継の代にわたって7年あまりの間,幕政の改革にあたった(正徳の治)。白石の著作として自伝『折たく柴の記』や,日本に密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問した『西洋紀聞』などがある。
本図に見える威儀を正した白石の姿は,武士として,また儒者としての威厳を感じさせるものとなっており,新井家所蔵本の模写本ながら見事な出来栄えといえよう。有職故実で名高い松岡家旧蔵本のひとつ。