時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(陵墓課)
本資料は、奈良県桜井市に所在する孝霊天皇 皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した二重口縁壺形埴輪で、高さは約45cmである。
本資料の胴部(どうぶ)はほぼ球形で、上方にのびる頸部(けいぶ)がつき、頸部上端でいちど水平方向に開いたのち、そこからさらに斜め上方に大きく広がる口縁部がついている。「二重口縁」とは、本資料のように口縁部に段があって二回にわたって開くものを指す用語である。
写真では見えないが、本資料の底には穴があいている。この穴は胴部をつくったあとで焼成前にくり抜かれている。したがって、本資料は壺の形をしているものの、中に何かをためておくという壺本来の機能を果たすことを期待されていなかったことになる。「壺形土器(壺の形をした土器=土でつくられた壺)」ではなく、「壺形埴輪(壺の形をした埴輪)」と呼ばれるのは、それが理由である。
本資料は昭和40年代に大市墓の前方部先端の墳頂付近で出土したものである。大市墓では平成10年に台風被害で多くの倒木が発生したことがあるが、その根起きした箇所からもよく似た形のものが出土している。大市墓の前方部墳頂の平坦面には、多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(陵墓課)
千葉県木更津市に所在していた祇園大塚山古墳から出土した青銅製の鏡である。祇園大塚山古墳は墳長110~115mの前方後円墳で、古墳時代中期の関東地方を代表する古墳の一つであるが、その墳丘はすでに完全に削平されており、現存しない。ここで紹介する四仏四獣鏡のほか、動物文が彫刻された金銅製眉庇付冑(こんどうせいまびさしつきかぶと、東京国立博物館所蔵)などが出土したことでも著名である。
本資料は、中国における南北朝時代の南朝最初の王朝である宋で製作された踏返鏡(ふみかえしきょう:同型鏡(どうけいきょう)ともいう)の一種である。直径は30.4cm、重さは2,748gで、非常に大型の鏡である。長野県御猿堂(おさるどう)古墳出土鏡など数面が知られている画文帯環状乳仏獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうぶつじゅうきょう)の同型鏡を文様の笵(はん)として利用しつつ、素文(そもん)で幅広の外周と断面形状が台形となる縁(ふち)をつけくわえるとともに、鈕(ちゅう:中央のつまみのような突起)をひとまわり大きくする改変がほどこされている。
内区(ないく:内側の文様区画のことで鈕のまわりに位置する)には四つの乳(にゅう:小さな突起)にからむように龍虎を配し、そのあいだには如来(にょらい)の坐像や菩薩(ぼさつ)の立像といった仏像表現がみられる。内区の外側には半円方形帯(はんえんほうけいたい)がめぐり、半円内には花文、方形内には銘が配されているが、鋳造の仕上がりが悪く銘文の判読は困難である。
なお、我が国に仏教が伝わったのは6世紀中頃のことであるが、本資料は5世紀後半頃に日本列島へもたらされており、古墳時代にもたらされた仏像表現として三角縁仏獣鏡(さんかくぶちぶつじゅうきょう)とともに注目される。
(陵墓課)
鍬形石は古墳時代の石製品(せきせいひん)である。その名のとおり、写真下段の板のように見える部分が農具である鍬の先を思わせることから江戸時代にこの名がつき、現在の考古学でもそれを踏襲してこの名称が使われている。実際に農具の鍬として使用したものではない。
鍬形石は、弥生時代の九州地方で使用された貝製の腕輪である貝輪(かいわ)を起源とすることがわかっている。貝輪は古墳時代にも使われるが、主に北陸地方で産出する碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)と呼ばれるきれいな緑色の石材で製作されることが多く、単に装身具としての腕輪だけでなく宝器としての意味ももつようになる。
写真の鍬形石は上下で分かれているが、本来はそれぞれ別の個体である。上下の位置関係は正しいが全面に施されている装飾が異なるため、それぞれ違う鍬形石の破片であることがわかる。この刻みのような装飾は、初期の鍬形石にはないものであり、より貝輪に近かった当初の特徴が失われていることがわかる。そのため、本資料は鍬形石が作られた期間の中でも、もっとも後の時期に作られたと考えられている。二つの破片は細かい装飾で異なるが、全体の特徴はよく似ていることから、作り手が同じか、違う場合でもデザインを共有する近しい関係にあったことが推測される。
なお、ここで紹介した鍬形石の破片はどちらも奈良県北葛城郡広陵町に所在する巣山古墳からの出土が伝えられている資料である。
(陵墓課)
兵庫県神戸市西区に所在する玉津陵墓参考地出土として管理している金環(きんかん)である。金環とは耳環(じかん)と称されることもある古墳時代の耳飾りのことである。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料は、純金特有の黄色みが濃く、欠損部分では金の下に銅特有の緑色の錆がみられることから、銅芯を純度の高い金で覆った銅芯金張製品の可能性がある。
この金環は、直径27mmほどの大きさで、断面の厚さは4から5mmである。平面形はほぼ正円形であり、その断面形も正円形である。金環は本来両耳に着けて揃いで使用されるため、元々は2点1組であったうちの、片方のみが伝わっている。
(陵墓課)
福井県三方上中郡若狭町に所在する西塚古墳から出土した鉄鏃(てつぞく)である。
鉄鏃とは矢の先端に取り付けられた鉄製の鏃(やじり)のことで、全国の古墳から普遍的に出土するものの、時期や地域によって特徴が異なるため、古墳の築造時期や鉄鏃製作時の生産体制、地域間交流を検討するうえで重要な資料といえる。
本資料は片刃(かたば)の長頸鏃(ちょうけいぞく)42点が錆びてまとまり、塊状になったものである。長頸鏃とは、刃がある鏃身部(ぞくしんぶ)と鏃を矢柄に固定する茎部(なかごぶ)との間の部分である頸部(けいぶ)が伸長化した鉄鏃のことをいう。本資料における各鉄鏃の長さは約10~11cm(塊としては長さ15.2cm)、鏃身部の長さは約3cmである。本資料はその形状から製作時期を5世紀後半に位置づけることができる。
なお、鉄鏃の長頸化は5世紀中葉以降にみられる特徴で、鉄製武具の普及によって貫通能力が求められたことや、朝鮮半島からの影響も推測されており、当時の対外交流を考えるうえでも重要である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
この勾玉を作った人や使った人はどのような祈りや願いを込めていたのだろうか。
「勾玉」は古墳時代の人々が最も好んだ玉であるといえる。多くは管玉などほかの玉と組み合わされて首飾りなどのアクセサリーに用いられていた。勾玉の独特なかたちは日本列島内で独自に発展したものであるが,そのルーツについてはよくわかっておらず,動物の牙(きば)という説,胎児(たいじ)を模したものであるという説などがある。
今回紹介する「大勾玉」は,全長9.7㎝,重さ200g超と,類例のない大きさである。サイズ,ボリュームともアクセサリーとして身につけるにはあきらかに不向きといえよう。紐をとおすための孔の周囲は,曲線や直線,直線を組み合わせた三角形などが刻まれて飾られているが,これも通常の勾玉には見られないものである。
「玉」という名称は,「魂(たま)」や「霊(たま)」と語源が同じといわれ,マジカルな力やミステリアスな力を宿す呪術具としての意味を持つとも考えられている。以前に本コーナーで紹介した「子持勾玉」は,そうした呪術的な側面がかたちに表れているものであるが,本品も,かたちこそ通常の勾玉と同じであるが,その大きさや装飾は,身体を飾るアクセサリーとしてではない,呪術具としての側面を現しているものであると考えられる。
これだけ大きな勾玉は古墳時代の出土品としてはほかに例がない。本品は,古墳時代に生きた人々の精神的な活動を知るための手がかりとなる,重要な遺物といえよう。
(陵墓課)
淡い緑色のこの勾玉は,どこで作られたものであろうか。
優美な曲線で構成される「勾玉」は,玉の中でも際立つ存在である。勾玉にはヒスイや碧玉(へきぎょく)といった美しい石を素材としているものも多く,使う人々の好みが表れているともいえる。今回紹介する勾玉はガラスで作られたものであり,頭部の先端付近を欠いていることが惜しまれるが,透きとおる淡い緑色はヒスイなどとはまた違った美しさを放っている。
細かなガラス素材を鋳型(いがた)の中で溶かして作ったと考えられ,緑色に発色しているのは銅を混ぜているからであると思われる。全長が5.4㎝あり,ガラス製のものでこのような大きな勾玉は珍しい。
本品が出土した西塚古墳は,福井県若狭町の脇袋(わきぶくろ)古墳群に所在する前方後円墳である。同古墳や周辺の古墳からは朝鮮半島や北部九州と関わりのある遺構や遺物が多く発見されている。このような考古学的な状況と日本海に面しているという地理的状況から,この地域の豪族(ごうぞく)は,朝鮮半島をはじめとする大陸との交渉役を担っていたものと考えられている。西塚古墳に葬られた人物もそうした役割を果たしていたと考えられ,本品は,そのような被葬者の活動の中で入手されたものである可能性がある。
当時の日本列島ではガラス素材からガラス製品を作ることは行われているが,ガラスそのものの生産は行われていない。本品は,輸入されたガラス素材を用いて列島内で作られたのか,あるいは朝鮮半島で作られたものが輸入されたのか。興味は尽きないが,この勾玉がどこで作られたかの結論は今後の調査研究に委ねられている。
(陵墓課)
光を反射してキラキラと輝く耳飾りは,その美しさと珍しさで人々の注目を集めたに違いない。
本品は,金無垢(きんむく)からなる贅沢(ぜいたく)な作りの耳飾りである。本来は孔が開いている方を上にして,耳たぶに装着した耳環(じかん)から環(わ)や鎖(くさり)を介してぶら下げられていた。本品のようなアクセサリーの先端にぶら下げられている部分を「垂下飾(すいかしょく)」と呼ぶ。写真左側の個体で縦方向の長さ3.9㎝。
水滴(すいてき)を上下逆にしたようなかたちで,本体中央にはコバルトブルーのガラス玉がはめ込まれている。縁(ふち)には「覆輪(ふくりん)」と呼ばれる別のパーツがかぶせられており,丁寧に刻み目が施されている。すぼまった側が本来の下端となるが,左側の個体では,2つのドーナツ状パーツと4つの粒状パーツからなる飾りが付く。右側の個体でこの飾りが失われているのは残念だが,そのおかげで下端の飾りが本体と覆輪とを挟み込むように取り付けられていることがよくわかる。
左側個体下端の飾りに見られるような,金でできた粒状のパーツを「金粒(きんりゅう)」と呼ぶが,金粒が用いられている耳飾りは,朝鮮半島西部の「百済(くだら・ペクチェ)」の墳墓からも出土している。その一方,ガラス玉がはめ込まれた垂下飾は百済では確認されておらず,本品には百済のものとは異なるアレンジが加えられていると見られる。こうした状況から,本品は,百済からの渡来人の手によって,日本列島内で製作された可能性が考えられる。
本品は,古墳時代における貴金属製アクセサリーのうち初期のものの一つに数えられる。古墳時代の金工文化をしのばせる逸品であると同時に,その時代の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府茨木市に所在する継体天皇三嶋藍野陵から出土した朝顔形埴輪である。口縁部(こうえんぶ)の直径約65cm。
朝顔形埴輪とは,器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり,その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となるが,本資料ではその円筒部分の大半が失われている。
朝顔形埴輪は,円筒埴輪とともに墳丘の平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成するものであり,埴輪が出現して間もないころからその終焉(しゅうえん)まで作り続けられた一般的な種類の埴輪といえる。壺はもともと飲食物の容器であり,それを器台にのせた状態を模した朝顔形埴輪は,円筒埴輪と同様に飲食物をささげる行為の象徴であったと考えられる。
なお,本資料では壺部分の肩部外面にイチョウの葉に似た線刻を観察することができる。タイトルのリンク先に線刻の画像を掲載しているので御覧いただきたい。
(陵墓課)
奈良県葛城市に所在する小山古墳から出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。書陵部では,本資料のように金色に輝く耳環の名称を,その色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものの中には,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,材質には様々なものがあり,金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は純金特有の黄色みが淡いことから,金と銀の合金で作られている可能性がある。金と銀の合金は,その色調から「琥珀金(こはくきん)」とも「エレクトラム」とも呼ばれ,銀の比率が高くなるにつれて,金色が薄れて銀色が強くなる。この材質についての所見はあくまでも観察によるものであり,材質を確定させるためには,蛍光X線(けいこうエックスせん)などの理化学的分析が必要となる。
本資料の2点は,全体をみると,ともに直径18㎜ほどで,厚みは1㎜から2㎜である。画像右側のものは正円形に近く,左側のものは楕円形に近いといえるが,大きくは変わらない。環の本体をみると,その断面形はともに正円形である。耳環は,両耳に着けるものであるため,2個で1セットが本来の姿である。本資料の2点は,色調から類推される材質,大きさ,形状などに統一感があり,本来のセットを保っている可能性が高い。しかし,本資料の出土状況は不明であるため,出土時の位置関係を知ることができず,本来のセットであったかどうかを確定させる方法はない。
(陵墓課)
本品は「石釧」と呼ばれる,古墳時代の前半期(4世紀~5世紀前半)に見られる遺物である。形は正円に近く,直径は6.9cm。
「釧」は腕輪の古い呼び方であるので,「石釧」は,文字のとおりだと「石でできた腕輪」となる。しかし実は,その用途は腕輪とは言い切れず,以前に当ギャラリーで紹介した鍬形石(くわがたいし)や車輪石(しゃりんせき)と同様に,所有することに意義がある宝物であると考えられる。
鍬形石はゴホウラという巻貝,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪をそれぞれ原形とする説が有力であるが,石釧はイモガイという巻貝から作られた腕輪がその原形と考えられる。鍬形石,車輪石,石釧のいずれもが腕輪を原形として石で作られていることから,考古学の用語では,この3種類の遺物を総称して,「腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)」と呼ぶこともある。
石釧はこの3種類のうちでは最も出土数が多く,更に出土範囲も広いことから,使用されていた期間が他の2種類に比べて長いものと考えられる。また,材料の石も,硬い碧玉(へきぎょく),やや軟らかめの緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん),更に軟らかい滑石(かっせき)など,他の2種類に比べて多岐にわたっている。こうした状況から,石釧の作られた場所や流通の状況が,他の2種類とは少し異なっていたものと考えられる。いずれにせよ,古墳時代前期の社会を考えていく上で,重要な遺物である。
(陵墓課)
「玉(たま)」は,石を主要な素材としている。美しい色や輝きを放つ石が使われることも多いが,それは「玉」がもつ構成要素のひとつでしかない。
本例は,頭部を欠いているものの現存する部分の長さが約8.6㎝ある大きな勾玉の体部各面に,小さな勾玉状の突起が複数表現されている。このように,大きな勾玉の周囲に小さな勾玉が取り付いているような形状の勾玉を,本体の勾玉を親に,周囲の勾玉を子になぞらえて,考古学の用語では「子持勾玉」と呼んでいる。
本例を始め,子持勾玉は,滑石(かっせき)と呼ばれる軟らかくて加工のしやすい石材で作られている。滑石は翡翠(ひすい)などと比べると見た目の美しさは控えめなため,子持勾玉を製作する際には,見た目の美しさではなく,その形を表現することに主眼が置かれていたものと考えられる。
子持勾玉は,本体の勾玉から新たな勾玉が生まれる様子が表現されていると考えられており,再生や誕生を願う祭具として使用されたと推定されている。古墳時代の中頃(5世紀頃)に出現して日本列島の広い範囲に分布し,古墳時代が終わった後も,飛鳥時代である7世紀後半まで使用されたことがわかっている。
(陵墓課)
本品は,長野県安曇野市に所在する有明古墳群(現在では穂高古墳群と呼ばれている)から出土したものだが,出土地点などの詳細は不明である。明治20年(1887)頃に宮内省によって買い上げられた。左側の個体で最大幅5.1㎝。
銅に金を鍍金(ときん:メッキ)をした金銅(こんどう)の板を切り抜いて,嘴(くちばし),翼(つばさ),脚などを形作っている。想像上の鳥である鳳凰をモチーフにしているとされてきたが,現実に存在する鳥を表現している可能性もある。顔と胴体には孔があけられており,顔のものは,その位置からみて目を表現しているものとみて間違いないだろう。胴体の穴は,2個が対になっていることから,何かに吊すか,結びつけるためのものと考えられる。
よく見ると2点は形がやや異なっている。右側の個体は翼とは反対側に脚を伸ばしており,空中で何かにつかまろうとしている姿を表現したものであると考えられる。左側の個体は,下側が欠けているため脚の有無はわからないが,右側の個体と比べて動きが乏しく,静止した状態を表現しているものと思われる。
本品と同様に鳥を表現した金銅板の製品は,奈良県生駒郡斑鳩町(いこまぐんいかるがちょう)の藤ノ木(ふじのき)古墳(6世紀後半頃)から出土した冠に取り付けられていることが確認できる。本品の用途は不明であるが,類例が冠にみられることから,装身具やその一部として用いられたものと考えられる。
(陵墓課)
大正5年(1916),京都府南部・奈良県北部・大阪府東部に所在する古墳を荒らし回っていた盗掘団が摘発された。その契機となったのが,垂仁天皇(すいにんてんのう)皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵に対する盗掘事件である。盗掘者によって持ち出された副葬品(ふくそうひん)は回収され,埋葬施設(まいそうしせつ)を復旧する工事の際にコンクリート製の箱に納めて埋め戻された。そのため現在は副葬品の実物を目にすることはできないが,石膏による精巧な模造品が残されており,大きさや形状について知ることができる。
石膏模造品が残されている狭木之寺間陵出土品のうち鏡は3面あるが,本品はそのうちの1面である。背面の文様を見ると,連続する内向きの円弧の文様があり,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡」という種類の鏡の文様をベースとしていることがわかる。その一方,中国の「内行花文鏡」では文様が施されない鏡の縁には,「直弧文」と呼ばれる,直線と曲線を組み合わせた日本特有の文様が巡らされている。また,背面中央にある紐を通すための半球形の突起の周囲には,「内行花文鏡」で一般的な葉っぱのような形の文様ではなく,イカの頭のような形の文様が四方に配置されている。さらに,大きさで見ると,本品の直径は34.3㎝であり,中国で見られる内行花文鏡に比べてかなり大きなものである。
本品は,文様や大きさから,大陸から伝わった鏡をモデルとしながらも日本独自のアレンジを加えて製作されたものであると評価することができる。古墳時代の日本列島における鏡生産体制を考えていく上で重要な鏡である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部東側から,昭和44年(1969)に出土した円筒埴輪の破片である。本例は,上半部分の一部が残存しているのみであり,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。口縁部での直径は復元で約44㎝,現状での残存高は約34㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳にみられる埴輪のなかで最も多く作られた種類といえる。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡がみられる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓(ふんぼ)の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪のなかで,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(陵墓課)
熊本県の宮穴横穴群から明治期に出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。本品の名称は色調から「金環」としているが,金環と書かれる場合には銀の芯材(しんざい)に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているもの等,材質には様々な可能性があり,必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない点に注意が必要である。本品は,芯材に銅が使われているものがほとんどで,銅芯に金ないし銀を張るもののほか,銀芯の製品も1点ある。上述の材質については肉眼観察によるため,詳細は蛍光X線(けいこうえっくすせん)などによる理化学的分析を経て明らかになろう。
これらの耳環は,直径20㎜のものから30㎜を超えるものまで様々な大きさがあり,その断面の厚さも2㎜から8㎜までと幅がある。平面形には正円形に近いものと楕円形のものがあり,断面形にも正円形と楕円形がある。
耳環は本来両耳に着けて揃いで使用される。ただし,宮穴横穴群の資料は出土状況が不明であり,本来の組合せは形状と材質により推測するのみである。