時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(陵墓課)
本資料は、明治18年に奈良県の大塚陵墓参考地から出土したものである。割れてバラバラな状態であったものを、昭和52年に足りない部分を補って修理している。
当部では「直弧文」を主文様とする鏡を3面所蔵しているが、そのうちの1面である(残りの2面は、「直弧文鏡」(官53)と「素文縁(そもんえん)直弧文鏡」(官95))。「直弧文」とは、本資料を4重の同心円とみた場合の内側から2番目と最も外側の4番目の区画に見られるような、直線と曲線を組み合わせた文様のことで、日本の古墳時代によく用いられる。本資料は、大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて、日本列島で製作されたものと考えられる。
本資料の文様構成は、直弧文鏡として最も有名な「直弧文鏡」(官53)と同じである。しかし本資料では、文様の谷間を埋めるように平行線による文様があり、「直弧文鏡」(官53)や「素文縁直弧文鏡」(官95)に比べると余白がない。直径は21㎝で、「直弧文鏡」(官53)の同28㎝、「素文縁直弧文鏡」(官95)の同26㎝より小さいこともあって、賑やかな印象を受ける。
本資料は、古墳時代前期の中頃(およそ4世紀中頃)に日本独自の文様で鏡を製作し始めた頃の代表例の一つである。
(陵墓課)
刀剣を静かに飾る玉。本資料は、岡山県瀬戸内市から出土した古墳時代後期の三輪玉(みわだま)である。全長3.7cm、高さ2.3cmで、平らな底面に三つの山が連なる形が特徴的である。こうした形の玉は、大刀や剣の抦(つか)に付属する護拳帯(ごけんたい、手の甲を保護する部分)を装飾するために用いられ、両側のくびれに紐や糸をかけて縫い付けられた。一振りの刀剣に対して5~10個程度の三輪玉が着装され、刀剣を美しく装飾した。
三輪玉は当初その使用用途が不明であったが、大刀形埴輪(たちがたはにわ)の護拳帯に着装された表現があることから、刀装具(とうそうぐ)であることが判明した。近年では、三輪玉の着装状況がわかるような形で出土した事例も増えてきている。
本資料は「水晶製」と通称されているものの、透明度が低く白濁しており、水晶というよりも石英(せきえい)に近い。このような例は6世紀中頃から7世紀初頭頃のものに多く、本資料もその時期に属すると考えられる。美しい三輪玉を装着した刀剣は、当時の持ち主の威信を高めたであろう。
(陵墓課)
長野県北安曇郡松川村の祖父ヶ塚古墳から出土した耳飾り2点である。「金環」には、金でできているもの、銅に金を張っているものなど、一見して金色が含まれていると判断できるものがある一方で、一見すると金色が見えないものも存在する。本資料は、2点ともに純金特有の黄色みが全くなく、緑青(ろくしょう)で覆われ、破断面観察も銀色である。ただし、蛍光X線分析により金と水銀も微量に検出されたことから、銅芯を銀で覆い、鍍金(ときん)を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性があり、作られた当時は金色の光沢を放っていたと考えられる。このように「金環」という名称は、材質と色調に基づいて判断されている。
左の耳飾りは、直径31㎜ほどの大きさで、断面の厚さは7.6~8.3㎜である。右の耳飾りは、直径20㎜ほどの大きさで、断面の厚さは5.0~7.3㎜である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、断面が正円に近い左の耳飾りは古墳時代終わり頃、断面が楕円形の右の耳飾りは飛鳥時代の遺物と考えられる。
(陵墓課)
本資料は、円い見た目から「車輪石」と呼ばれ、縞状の模様が美しい酸性凝灰岩(さんせいぎょうかいがん)とされるガラス質の割合が高い石材で製作されている。長外径は12.2cmである。古墳時代前期(おおよそ4世紀代)の古墳から出土することが多く、弥生時代に九州を中心に使われた貝製の腕輪をモチーフとしている。当時の王権所在地である近畿地方を中心に分布するが、西は熊本県、東は福島県まで広がっており、王権と地方の結びつきの強さを示す象徴的な器物と考えられている。
佐渡島(さどがしま)北側の長い海岸線の南西端にあたる、新潟県佐渡市相川鹿伏から出土したとされ、明治19年(1886)に当時の宮内省が買い上げた本資料であるが、現在、相川鹿伏の地に古墳は確認されておらず、少し離れて分布する古墳は古墳時代後期のものであり、車輪石が出土する時期とは異なる。車輪石は古墳以外の場所で儀礼をおこなう場合に使用されることもあるため、遠く大陸につながる日本海に臨む地で何らかの儀礼がおこなわれた可能性も考えられるが、詳しいことはわかっていない。日本海側における車輪石の分布域東端にあたるため、当時の王権の勢力範囲を考える上で重要な資料であり、本資料のより詳細な位置づけを明らかにするには、佐渡島でのこれからの資料の蓄積が期待される。
(陵墓課)
丁寧に磨き上げられた美しい土器。本資料は、崇神天皇陵外堤南西側から出土した古墳時代前期の土師器(はじき)である。高さ10.7cm、口径8.3cmと小型で、丸い底部と外側に大きく開く口縁部が特徴的である。こうした形の土器は「小型丸底壺(こがたまるぞこつぼ)」と呼称され、小型器台(こがたきだい)の上に載せて使用された。
底部は粘土を削り取ることで丸く整形し、外面は幅1㎜程度の細かい単位で横方向に磨くことで、平滑に仕上げられている。器壁(きへき)は薄く丁寧に仕上げられ、胎土は非常に精良で、焼成も良い。
小型丸底壺は、小型器台・有段口縁鉢(ゆうだんこうえんはち)と合わせて「小型精製土器(こがたせいせいどき)」と呼ばれており、丁寧に作り込まれていることから、儀礼に使用されたものと考えられる。こうした土器は、近畿を中心として九州から東北まで波及し、その分布は前方後円墳の全国的な広がりと重なることが指摘されている。これは広域的に共通した儀礼の成立を示唆するものであり、まさに古墳時代前期を象徴する遺物といえるだろう。
(陵墓課)
この埴輪が模している鳥の種類は何だろうか。大阪府に所在する継体天皇三嶋藍野陵外堤北側から出土した本資料は、外堤に立てるための円筒部と鳥の体部から構成されており、残存高は約54.1cmである。
本資料では、鳥が円筒部から伸びる管状の止まり木にとまっている。その脚先を見ると、平たい粘土板に3本のヘラ描き線を入れて、水かきを表現していることから、この鳥は水鳥とわかる。より詳細に鳥の種類を見分けるには、鶏冠(とさか)の有無や嘴(くちばし)の形状といった情報を必要とするが、本資料は頭部を欠損している。しかしながら、頸(くび)の背面を見るとリボン状に結ばれた紐が確認できる。頸に紐を巻いた水鳥を表現していることから、本資料が模している鳥は鵜飼いの鵜だとわかる。人物埴輪が登場して以降、人と関係のある動物として、鵜を模した埴輪が作られるようになるが、本資料もそのひとつとして重要な埴輪といえる。
なお、全国の鵜形埴輪には頸に紐を巻くとともに、魚を咥(くわ)えているものもある。本資料で失われてしまっている頭部はどのような表現がされていたのか、想像してみてはいかがだろうか。
(陵墓課)
玉は、古代を彩る至宝とも呼ばれる古墳時代の代表的なアクセサリーである。髪、耳、首、胸、手首、足首などに着装され、人々を魅了してきた。
本資料は、愛媛県妻鳥陵墓参考地の横穴式石室から出土した径1.3cmの銀平玉である。外形は円形で、表裏に平坦な面をもつ。中空であり、表裏の薄い銀板2枚が側面中央付近で接着される。上下の側面には孔が開けられ、糸を通せるようになっている。当参考地からは琥珀棗玉(こはくなつめだま)、碧玉管玉(へきぎょくくだたま)、水晶切子玉(すいしょうきりこだま)、ガラス製丸玉も出土しており、本資料とこれらを組み合わせて被葬者に着装されていたと考えられる。
希少素材をふんだんに用いて多様な形態が作り出された玉の様式は、古墳時代後期にみられる特徴である。また本資料のような貴金属製玉は、朝鮮半島南部から伝わった渡来系玉類と呼ばれる。本資料は最新技術を用いて日本列島で製作されたものと考えられ、国際色豊かな古墳時代後期を特徴づける器物であるといえる。
(陵墓課)
愛知県豊田市の根川古墳(根川1号墳)から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から「金環」としているが、金環には、銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、様々な材質のものがあり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に、蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。その輝きは純金製品とほとんど変わらないものであっただろう。
この耳飾りは、直径22㎜ほどの大きさで、断面の厚さは4.7から6.5㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形も楕円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本資料も飛鳥時代の遺物と考えられる。
(陵墓課)
本資料は、奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した、「三角縁神獣鏡」に分類される鏡である。直径22.1㎝。
三角縁神獣鏡とは、鏡の縁の断面が三角形で、主な文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙、聖獣、その他の図像に、それぞれ、数、組合せ、表現などの違いがあるほか、主文様を配する内区(ないく)の外周に文様や銘文(めいぶん)を配するかどうかなどの違いがあり、ひとくちに「三角縁神獣鏡」と呼ばれていても、その文様の構成はバリエーションに富んでいる。
本資料は、円錐形(えんすいけい)の乳(にゅう)によって6分割された内区に、神仙像と聖獣像を交互に3体ずつ配置する、「三神三獣鏡」の一種に分類されるものである。
内区の外周にも乳によって10分割された文様帯(もんようたい)があり、ここにも、画像上方から時計回りに、カエル、四つ足の獣(けもの)(青龍(せいりゅう)か)、四つ足の獣(白虎(びゃっこ)か)、2匹の魚、カエル、カメ(玄武(げんぶ)か)、ゾウ、鳥(朱雀(すざく)か)、1匹の魚、四つ足の獣と、様々な図像を見ることができる。
三角縁神獣鏡の文様の中に、本資料のゾウや、以前に本ギャラリーで紹介した仏など、当時の日本列島在住者には描くことができないと思われるものが含まれていることは、その製作地、製作者を考えていく上で見過ごせない点である。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の内部に一匹の鳳凰(ほうおう)の首を表現した環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことである。金銅製品(こんどうせいひん)の一種であり、銅の鋳造で成形された後にタガネ彫りで文様が表現され、金メッキされている。
中心飾の鳳凰に着目すると、両個体のモチーフには若干の違いがあり、左の個体は崩れた冠毛(かんもう)と角が環と一体化して目の表現は省略される。右の個体は冠毛が短く、角が環と一体化しており、目が表現される。両個体ともに、環には二匹の龍の頭部・胴部・前足・後足がみられ、表裏で二匹の龍が反転するように配置される。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種である。単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)は日本列島内で200例近い事例が知られており、本資料は6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。諸外国との外交時に佩用(はいよう)された大刀であるという説もあり、政治的価値が大きい器物であったと考えられる。
(陵墓課)
本資料は、琴柱形石製品と呼ばれる。この名で呼ばれる石製品の形は多様であり、字面のとおり楽器である琴の弦を支える「琴柱」の形に近い形態(アルファベットの「Y」のような形)がある一方で、まったく違う形のものも存在する。弦楽器としては縄文時代から琴の原型があり、古墳時代には埴輪に表現されることもあるが、実際に発掘された資料で琴に付随したと考えられるものはないため、現在の研究からは元々「琴柱」を象(かたど)ったものは少ないと考えられている。
本資料は、奈良県奈良市に所在する巨大古墳がひしめく佐紀古墳群に含まれる瓢箪山古墳(前方後円墳:墳丘77m)の前方部から3点が出土したものである。大正2年(1913)に土砂採取で出土したため、中央と右端の1点は欠損部があるなど(中央は補修している)、納められていた細かい状況は不明である。また、形が「琴柱」とは異なっており、漢字の「工」に似ることから「工字型」や横軸を翼に見立てて「飛行機型」と呼ばれたこともある。いずれにしても琴の一部と考えることは難しい。
同じ形態のものが別の古墳から調査によって出土しているが、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などと連なる状況が知られており、実際の使用方法としては、首飾りなどの一部を構成する玉の一種のようなものであったと考えられる。石材は、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれるやや灰色がかった色味のやわらかいものが使用されている。この形態のものは数が少なく近畿地方の古墳から出土することが多いが、新潟県糸魚川市(いといがわし)笛吹田遺跡(ふえふきたいせき)では建物跡から出土しており、古墳以外からの出土事例も知られている。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土したと伝えられる水鳥形埴輪である。現在は首から頭部にかけてのみ残存しているが、本来は、嘴(くちばし)や胴部もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約32.5cmである。
水鳥形埴輪は、ガン・カモ類などの水鳥をかたどった埴輪を指し、本資料は、首が長いことから、白鳥を現しているとの意見もある。
頭部の両側面には穴があけられており、嘴の近くには竹管による表現が2箇所見られる。一見すると、目と鼻孔を現しているように見えるが、水鳥形埴輪の鼻孔は、扁平な工具を刺突して細長く表現することが多い。また、本資料の目は低い位置にあり、写実的とはいえない。
一方、両側面の穴で耳孔を、竹管を押しつけて目を現した事例も存在する。耳孔を穿つ事例としては鶏形埴輪があり、本資料の表現は酷似しているが、鶏冠の表現や痕跡はない。水鳥形埴輪でも耳孔を表現した事例は確認されているが、穴ではなく工具の刺突や竹管による表現が多い。
本資料は見方によって印象が変わる、魅力と謎の多い埴輪である。
(陵墓課)
京都府京都市右京区の宇多野福王子町から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から金環としているが、金環と書かれる場合には銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、材質には様々な可能性があり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない点に注意が必要である。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に,蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。
この耳飾りは、直径31㎜ほどの大きさで、断面の厚さは7.1㎜から7.4㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形はほぼ正円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本品はその形と大きさから古墳時代終わりごろの遺物と考えられる。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地は奈良市に所在する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、墳長は約270mである。当参考地では、令和2年に整備工事に先立つ事前調査が行われ、墳丘第1段平坦面における円筒埴輪列などが確認された(令和4年3月刊行『書陵部紀要』第73号〔陵墓篇〕に掲載)。また、この調査の際には、墳丘の裾部分において多くの埴輪片が採集された(令和6年3月刊行『書陵部紀要』第75号〔陵墓篇〕に掲載)。
本資料は、上記の調査が実施される以前に採集されたもので(詳細は不明)、鰭付円筒埴輪の口縁部~胴部にかけての破片である。鰭付円筒埴輪とは円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部(鰭)を取りつけたもので、古墳時代前期によくみられる円筒埴輪の一種である。本資料でみられる間隔の狭い口縁部や、三角形の透孔(すかしこう)も同様に古墳時代前期の埴輪にみられる特徴といえる。
しかし、当参考地の埴輪にみられるその他の製作技法(焼成方法や外面の調整方法)は古墳時代中期中頃の特徴を示すものであり、上記の外形的な特徴が盛行した年代とは齟齬をきたす。この点については、古墳時代前期における埴輪の外形的な特徴が復古的に採用されたと考えられている。
なお、本資料は外面に赤色顔料が塗布されており、欠損部分と比較すると本資料の完成時はかなり赤い色であったことが推測される。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)は直径約30mの円墳で、宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の飛地として昭和20年の終戦直前まで宮内省によって管理されていたが、進駐軍のキャンプ地に取り込まれたため、結果的に削平されて墳丘は現存していない。
築造されたと推定される位置から判断して宇和奈辺陵墓参考地の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる。大和6号墳は鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄の延べ板が昭和20年に削平された際に大量に出土したことで著名であり、しばしば教科書にも紹介されることがある。
本資料は、この大和6号墳から出土したと推測される鰭付円筒埴輪と呼ばれる円筒埴輪の一種の破片で、胴部から底部にかけて残存している。主墳(しゅふん)である宇和奈辺陵墓参考地とは古墳の形や規模が大きく異なるものの、使用されている円筒埴輪の形状や大きさが宇和奈辺陵墓参考地と同じ様相であり、大和6号墳の規模からすると大型なものが使用されている点が特徴的といえる。これは同時期における同規模の円墳では想定しがたい円筒埴輪の様相であり、主墳(しゅふん)と陪冢(ばいちょう)という関係を踏まえて埴輪の生産と供給を考える必要性をうかがわせる。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)と同様に宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる直径約10mの円墳である。大和3号墳は大和6号墳(円墳:直径約30m)と同様に宇和奈辺陵墓参考地の陪冢とされるが、その墳丘の規模はかなり小さい。
大和3号墳の埴輪には、宇和奈辺陵墓参考地や大和6号墳と同様のものも含まれる一方で、本資料のような小型品も含まれる点が特徴といえる。本資料は奈良市周辺においてこうした小型品の出現期となるものであり、小型品が成立する過程を考えるうえで重要な資料といえる。
なお、朝顔形埴輪とは器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり、その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。朝顔形埴輪の壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となっている。朝顔形埴輪は円筒埴輪とともに古墳の墳丘平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成していた。本資料では壺部分の大半が失われている。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の中央に二匹の龍が向かい合って玉をくわえた表現が特徴的な環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことで、本資料は銅に金メッキされた金銅製品であり、彫金で細部の文様がほどこされている。龍の眼や玉は立体的に造形され、環には二匹の龍の胴体が表現されている。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。掲出した画像の縦方向の長さは8.4cmである。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種であり、6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。双龍環頭大刀は蘇我氏(そがし)によって生産され、各地に戦略的に配付されていたという説もあり、政治性の高い器物といえる。
(陵墓課)
鍬形石とは、過去に当ギャラリーで紹介したことがあるが、本来は貝の腕輪をかたどって碧玉(へきぎょく)と呼ばれるきれいな緑色の石材で作られた権威を象徴する器物の一種であり、大きな古墳を築くことのできる、比較的地位の高い人物の所有品という側面をもっている。しかし、本資料は大半の部位を欠いているため、「残欠」という名称が付随しており、見た目の全体像もわかりにくい。掲出した画像で縦方向の現存長が7.9cm である。
考古学で扱う資料は、一般に「出土品」などと呼ばれるように、地中に埋没していたことで、壊れていたり、表面が磨り減ったりした状態で発見されることが多い。一方で、見た目も立派で全体像がわかる資料の方が、博物館の展示などでは重宝されるが、それだけでは資料の価値は決まらない。破片資料は、時には意図的に壊したりしたと考えられる状況で発見されることもあれば、壊れていることによって、外からでは見えない作り方や断面の情報が得られることがあり、無傷の資料では得られない情報を提供してくれることも多い。
能登半島で発見された本資料の場合は、近畿地方を中心に出土する鍬形石の分布域の東縁にあたり、古墳時代の王権の影響力が何らかの形で反映されたものと考えられ、それを示す重要な資料として位置づけられる。発見されてから既に100年以上が経過しているが、未だこの分布域より東での新資料の発見はない。いずれ、さらに東の地域で発見される時が来るかもしれないが、本資料が重要であることに変わりはない。
(陵墓課)
本資料は、福岡県京都郡苅田町に所在する御所山古墳から出土した碧玉製の管玉を首飾り状に連ねたものである。管玉とは、石材を円筒形に加工した玉類の一種で、縦方向に穿たれた孔に紐を通すことで装身具として使用された。
本資料は、計10点の管玉から構成されており、個別の長さは1.2~1.8cmである。管玉一つ一つに目を向けると、太さや色調は個体ごとに少しずつ異なり、一部には朱が付着しているようすを確認できる。勾玉のような特徴的な形はしていないが、写真のように連なることで、碧玉の美しい青緑色が強調され、目を奪われる。
本資料が出土した御所山古墳は、古墳時代中期の豊前(ぶぜん)地域を代表する墳長約120mの前方後円墳である。明治20年(1887)に実施された学術調査の記録によると、管玉などの装飾品は被葬者の頭部周辺に集まっていたとされ、本資料は装身具として被葬者が身につけていたと考えられる。
(陵墓課)
愛媛県松山市に所在する波賀部神社古墳から出土した金環である。金環とは古墳時代の耳飾りのことであり、本資料は垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)ともいわれるタイプの耳飾りの一部である。垂飾付耳飾は主環に垂飾(垂れ飾り)が付属したものであるが、本資料は垂飾が失われており、主環に連結された小さな銀製の遊環が残るのみである。主環の平面形はやや楕円で幅約20㎜、断面形は正円で直径3.5㎜である。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料の主環は、純金特有の黄色みが薄く、破断面も銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金をほどこした銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品であった可能性がある。このことは、蛍光X線分析で銅と銀が強く、金と水銀がわずかに検出されたことからも裏付けられる。