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(選択を解除)(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
手鑑(てかがみ)とは筆跡(手)の見本(鑑)帖の意。奈良時代の経典に始まり,平安時代以降の和歌や書状など様々な断簡(古筆切,こひつぎれ,切〈きれ〉とも称す)を貼った手鑑は,江戸時代に愛好された。
断簡の脇の紙片を極札(きわめふだ)といい,極札には筆者名と冒頭数文字が書かれ,古筆鑑定家の印があるのを通例とする。筆者名は伝承筆者(古来より伝えられている筆者)であり,同一筆者と鑑定されているものは同じ特徴を有することが知られている。切は天皇から身分・時代の順で貼られた。
本書の見返しは狩野探信(かのうたんしん,1785-1836)画で,折帖(おりじょう,アルバム)じたいの成立は探信の没年を下限とするが,剥離痕が示すように切はその後も貼り替えられ現在の形になった。
掲出画像は本書冒頭。いずれも伝承筆者を聖武天皇とする経切(きょうぎれ)であるが,特に中央の切は荼毘紙(だびし,釈迦の骨粉―実際は香木の粉末―をすき込んだ上質な紙)に『賢愚経』(けんぐきょう)を記した「大聖武」(おおじょうむ)と呼ばれるもの。大聖武の有無が手鑑の格を左右した。
本書はもと御物で平成元年に書陵部に移管された。
(図書寮文庫)
「あづま路の道の果てよりも」の冒頭文が有名な菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ,1008-?)の日記。
「日記」と呼び慣わされているが,平安時代の女性の「日記」は現代でいう回想記に当たる(女性に仮託した紀貫之の土左日記も含む)。『更級日記』も夫である橘俊通(1002-58)の死を契機に我が身を振り返り,13歳で父の任地であった上総国を離れることになってからの約40年間を記した。『源氏物語』に憧れる少女の頃の文章は教科書などにもよく引用される。
『更級日記』は藤原定家(1162-1241)筆本が現存し(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵),この図書寮文庫蔵本はそれの精密な模写本である。図書寮文庫本には「寛文二臘六日一校了」と後西天皇の書き入れがあるが,後水尾天皇ご所蔵の定家筆本の写しを後西天皇が求められたとわかる。
なお定家筆本は錯簡(綴じ間違い)があり,明治時代以前の写本・版本はみなこの錯簡の影響を受けていることが知られているが,図書寮文庫本によって錯簡の時期が寛文2年(1662)以前とわかる。
(図書寮文庫)
立雛図は明治期に活躍した日本画家川端玉章(1842-1913)画。有栖川宮熾仁親王が御讃(その図画にちなむ詩や文のこと)を添えられている。玉章の印は「源玉章印」「子文」。この形の印章が用いられたのは玉章40歳代の頃と推測されることから,明治20年代前半の作と思われる。御讃は雛図に寄せた和歌で,「花の名の ももとせかけていもとせの かみこそあつき ちきりなりけれ」。有栖川宮家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,明治天皇(第122代,1852-1912)宸筆の御手習い並びに御清書である。清書の文字は「梅花」と書かれ,書道師範であった有栖川宮幟仁親王(たかひと)朱筆による加点並びに添削のあとがみられる。また「いろは」は,基礎的な仮名文字習得を目指した手習いであったと思われる。付属の書付けによれば,文久元年(1861)に幟仁親王に下賜されたもので,天皇10歳の宸筆である。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇(第123代,1879-1926)宸筆の「徳感人風動物」六字大幅である。堂々たる筆致で,「徳は人を感ぜしめ,風は物を動かしむ」と読む。風が物を吹き動かすように,君子の徳が人民の心を動かすとの意である。皇位を嗣がれて間もない天皇の,君主としての御決意を示しているように思われる。天皇は漢詩文を好まれ,川田甕江(おうこう)や三島中洲(ちゅうしゅう)に学んでおり,造詣の深さが本幅にも表れている。久邇家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,光格天皇(第119代,1771-1840)24歳の宸筆で,実父閑院宮典仁親王(すけひと)薨去百箇日に際して書写された阿弥陀名号である。上下二段,五百行にわたって千遍の名号が書かれている。奥書には「神武百二十世兼仁合掌三礼」とあり,現在の代数(第119代)と異なるが,それは北朝を歴代とする『本朝皇胤紹運録』の数え方によるため。謹厳な書きぶりは,父の菩提を弔うという特別な意識が働いていたためと推測される。閑院宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,従三位中納言紀長谷雄(きのはせお,845-912)の詩文集である。長谷雄は,菅原道真などの当時最高の学者に師事した文人貴族。本書は,巻14の断簡で,かつ巻頭が欠けてはいるが『紀家集』唯一の伝本である。延喜19年に大江朝綱(おおえのあさつな,886-958)によって書写されたもの。紙背には延喜10年代の11通余の申文(任官を願う上申文書)があり,これも貴重である。伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代後期に摂政・関白を歴任した藤原忠通(1097-1164)の自筆書状である。内容は,忠通の側にいたと思しき,ある貴人の病気に関するもので,このとき平癒のための御占や御祈が盛んに行われたことがうかがえる。宛所(宛先)が欠けているが,忠通の息女聖子(1122-82)の可能性が考えられる。土御門家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,伏見天皇(第92代,1265-1317)の宸筆御集(御製集)である。能書で知られる伏見天皇であるが,なかでも緩急自在に書かれたこの御集の断簡は「広沢切」と称され特に珍重されている。本書の紙背(裏面)は嘉元5年(徳治2年,1307)の具注暦で,その裏に夏の歌を書写して一巻としている。恐らくは天皇御自身が,御製集編纂のために書写した草稿本と推測される。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代の律(刑法)の注釈書である故唐律義疏の序文。徳川吉宗は,中国の律令を知るために学者荻生観(おぎゅうかん,荻生徂徠の弟)に故唐律疏義の本文を校訂させ,さらに当時長崎に来ていた中国人沈炳(しんへい)も校訂を依頼した。沈は校訂した本文に刑部尚書(けいぶしょうしょ,清の法務大臣)励廷義自筆の序文を副えて献上したのである。本書はその自筆本。
(図書寮文庫)
平安時代後期の関白藤原忠通(ただみち,1097-1164)の自筆日記。父忠実(ただざね,1078-1162)や弟頼長(よりなが,1120-56)との対立は,保元の乱(1156)の原因となった。晩年出家し法性寺に住んだことから,法性寺殿とも称される。文芸に優れたほか能書家としても知られ,その書風は法性寺流として鎌倉時代を通じて重んじられた。端正な書風は当日記からも窺える。画像は天治2年(1125)9月14日条で,斎王守子内親王(1111頃-56)の伊勢群行当日の記事である。
(図書寮文庫)
本書は,後光厳天皇(北朝第4代,御在位1352-71)の宸筆や関連文書をまとめたもので,5紙目(7番目の画像)以降が後光厳天皇の宸筆。画像は貞治元年(南朝は正平17年,1362),天皇25歳の時の書と考えられている。兄の崇光天皇が,その皇子栄仁親王(よしひと)の書道の手本のために名筆を所望されたことに対しての御返書と推測される。小野道風,嵯峨天皇,醍醐天皇等の書についての言及が見られ,当時名筆とされたものをうかがうことができ,書道史の面からも貴重な史料と言える。
(図書寮文庫)
本書は,後柏原天皇(第104代,御在位1500-26)宸筆の色紙幅で,金・銀の薄と月の下絵に漢詩と古歌が散らし書きにされている。漢詩は出典未詳,和歌は4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』第235番歌(よみ人知らず)。薄,月は秋の景物であり,漢詩,和歌共に風による秋の到来を実感させるものが選ばれている。
(図書寮文庫)
円山応挙(1733-95)が描いた富士山の図に,有栖川宮織仁親王(おりひと,1753-1820)が讃(画讃とも,絵の余白などに書き添えられた文章・漢詩・和歌のこと)を付された掛軸。「竜渕王」は,織仁親王が文化9年(1812)の出家後に称された号である。讃は後年に加えられたもの。「雲きりも及ばぬふじのたか根にはおもひくらぶる山の端ぞなき 竜渕王讃」。
(図書寮文庫)
本書は,元亨4年(1324)に,後伏見天皇(第93代,御在位1298-1301)が皇子量仁親王(ときひと,後の光厳天皇)の立太子を祈願してお書きになった,神仏に捧げるための文書。この当時,後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統が互いに皇位を競っており,後伏見天皇が持明院統の繁栄を願って寺社に捧げた願文類は,この他にも現存している。
(図書寮文庫)
平安時代中期から人々に愛され続けている和歌と漢詩文のアンソロジー。和歌は1首,漢詩文は対句や四六駢儷文(しろくべんれいぶん)の秀句を抜き出した形で書かれている。とくに漢詩句は朗詠されたり,文章の手本にされた。画像は,藤原為家筆と伝える鎌倉時代の写しで,冒頭は,花の題でおさめられた在原業平の歌「よの中にたえてさくらのなかりせばはるの心はのどけからまし」。
(図書寮文庫)
土佐派の絵師土佐光孚(みつざね,1780-1852)の絵に,有栖川宮第7代韶仁親王(つなひと,1785-1845)が,和歌を画讃として書き込まれた掛け幅。「よしの山花のさかりもしるきまでふもとの川に色ぞうつろふ」と詠まれている。有栖川宮の歴代親王は,和歌と入木道(じゅぼくどう,書道のこと)にご堪能だった。秋篠宮殿下や常陸宮妃殿下も有栖川御流の書道を受け継がれている。