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千葉県木更津市に所在していた祇園大塚山古墳から出土した青銅製の鏡である。祇園大塚山古墳は墳長110~115mの前方後円墳で、古墳時代中期の関東地方を代表する古墳の一つであるが、その墳丘はすでに完全に削平されており、現存しない。ここで紹介する四仏四獣鏡のほか、動物文が彫刻された金銅製眉庇付冑(こんどうせいまびさしつきかぶと、東京国立博物館所蔵)などが出土したことでも著名である。
本資料は、中国における南北朝時代の南朝最初の王朝である宋で製作された踏返鏡(ふみかえしきょう:同型鏡(どうけいきょう)ともいう)の一種である。直径は30.4cm、重さは2,748gで、非常に大型の鏡である。長野県御猿堂(おさるどう)古墳出土鏡など数面が知られている画文帯環状乳仏獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうぶつじゅうきょう)の同型鏡を文様の笵(はん)として利用しつつ、素文(そもん)で幅広の外周と断面形状が台形となる縁(ふち)をつけくわえるとともに、鈕(ちゅう:中央のつまみのような突起)をひとまわり大きくする改変がほどこされている。
内区(ないく:内側の文様区画のことで鈕のまわりに位置する)には四つの乳(にゅう:小さな突起)にからむように龍虎を配し、そのあいだには如来(にょらい)の坐像や菩薩(ぼさつ)の立像といった仏像表現がみられる。内区の外側には半円方形帯(はんえんほうけいたい)がめぐり、半円内には花文、方形内には銘が配されているが、鋳造の仕上がりが悪く銘文の判読は困難である。
なお、我が国に仏教が伝わったのは6世紀中頃のことであるが、本資料は5世紀後半頃に日本列島へもたらされており、古墳時代にもたらされた仏像表現として三角縁仏獣鏡(さんかくぶちぶつじゅうきょう)とともに注目される。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(宮内公文書館)
明治6年(1873)の大和田原(現船橋・習志野・八千代市域)行幸の様子を描いたもの。この行幸の際に,同地は「習志野原」と命名された。本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇に奉呈された附図の稿本。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
習志野原御猟場の全域図。大正9年(1920)写。四つの管轄区域を色分けして描いている。習志野原御猟場は明治14年(1881)に設置された後,区域を増縮しながら大正11年に廃止された。
(宮内公文書館)
大正期の宮内省下総牧場(現成田・富里市域)の写真。明治天皇行幸を記念して敷地内に植えられた御幸桜。三里塚は桜の名所として知られていた。御料牧場は,明治8年(1875)に開設した内務省の下総牧羊場・取香種畜場(とっこうしゅちくじょう)に淵源を持つ。明治18年に下総種畜場が宮内省の所管となって以降,名称を下総牧場,下総御料牧場等と変遷しながら,昭和44年(1969)に閉場した。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。