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(選択を解除)(宮内公文書館)
この写真は、明治38年(1905)11月に栃木中学校(前第二中学校、現栃木県立栃木高等学校)に建てられた聖駕駐蹕碑(せいがちゅうひつひ)である。「元帥公爵山縣有朋(げんすいこうしゃくやまがたありとも)」の題字になるこの碑は、明治32年の栃木県行幸に際して、第二中学校が行在所(あんざいしょ)となったことを記念して建立された。
当初、この行幸では第二中学校に隣接する新築の栃木尋常小学校が行在所にあてられる予定だった。行幸に先立ち、侍従の廣幡忠朝(ひろはたただとも)などが下見を行ったところ、新築であるがゆえに、尋常小学校の壁が乾燥しきっていないことが判明した。廣幡らの報告を受け、宮内省内で再検討が行われた結果、行在所は尋常小学校から第二中学校へと変更された。他方で、尋常小学校の関係者を中心に、行在所が変更されたことに対する失望も広がった。そこで栃木町町民総代から宮内大臣宛に、同校を物産陳列所とし、天覧を願いたいとの請願書が提出された。この請願は聞き入れられ、明治天皇は、物産陳列所として設営された尋常小学校において、県内の名産品などを天覧になった。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。受講者が書き留め、後に加筆されたのが本書にあたる。
九条家旧蔵本で、本書の2冊目~4冊目は関白九条稙通(くじょうたねみち、1507-94)の筆。
稙通は『源氏物語』をこよなく愛し、その注釈書である『孟津抄』(もうしんしょう)を著したが、戦乱の世の中で京都を離れ、摂津、播磨、大和などを往還し、武力との繋がりを持ってもいた。下向先で土地の権力者に『源氏物語』や『古今和歌集』の講釈を行っていたこともわかっている。この『古今集注』もそのような用途であったかと考えられる。
天正6年(1578)5月16日に書き始めたことが附属の紙罫(しけい、罫線が引いてある紙製の下敷き)の書き付けからもわかる。稙通はこのとき、72歳。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。本書は、その講釈を受けた人物が書き留めた中書本的存在で、『古今集注』(九・5322)と同系ではあるが、一方が他方を見て書写したというわけではないらしい。『古今集注』と比べると走り書きの様子が看て取れる。
九条家旧蔵本で、『古今和歌集』の春上から墨滅歌(すみけちうた)まで記す。ただし、6冊目(巻10物名歌、巻20大歌所御歌)については『古聞』の注本文に一致する。講釈が5冊目で終わり、『古聞』の書写で代えたものか。
奥書に「伝受之事 永正十年五月七日よりして六月廿六日終畢、守継」とある(永正10年は1513年)。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に対校本文として用いた。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の摂関家の当主藤原(九条)忠家(1229-75)による手習いの跡である。摂関家の一つ九条家に生まれた忠家は,嘉禎元年(1235)に父教実の急逝に遭うも,摂政関白や関東申次などの要職を歴任して権勢をふるった九条道家(1193-1252)の孫として貴族社会に認められ,仁治2年(1241)13歳で正二位に昇る。さらに寛元2年(1244)内大臣を経て,同4年18歳で右大臣と,早いスピードで昇進した。手習いは,『白氏文集』巻2・巻16の一部や和歌題,書状の定型句などを書き散らす中に,「右大臣(花押)」を繰り返し記しているのが目立つことから,その頃のものである可能性がある。料紙は,主要な政務や儀式の次第を書いた巻子の紙背(裏面)を用いている。歴史上の人物による,こうした手習いの痕跡が残ることは非常に稀である。複雑な花押の書き様には,練習を要したことが判明する。若年ながらも摂関家の子弟に相応しくふるまい,朝政を担うべく努める忠家の気負いが感じられる,貴重な資料である。
(図書寮文庫)
『帝鑑図説』は,中国明代の宰相張居正(ちょうきょせい,1525-82)が,幼くして皇帝に即位した万暦帝(ばんれきてい,在位1572-1620)の帝王学の教科書として,古代から宋代までの君主の事蹟を絵入りでまとめた本。前半で名君の善政,後半で暴君の悪政を扱う。掲出部分は漢の高祖が3人の名臣,張良・蕭何・韓信を上手に用いたことで天下を統一できたことを記している。
皇帝の教育係でもあった張居正は,万暦帝を理想の帝王にすべく厳しく育てたが,かえって堕落し,奢侈と政治への無関心から,明を滅ぼす端緒を開いたことは皮肉である。
さて本書は,特大(50.2cm×41.3cm)の折帖で,図などの特徴から,万暦帝への奉呈本に非常に近く,張居正周辺で作られた模本をもとに万暦年間(1573-1620)刊行された可能性が指摘されている。
明治時代に旧幕府から宮内省が引き継いだもので,寛文11年(1671)紅葉山文庫に収められた『御覧帝鑑図(ぎょらんていかんず)』が本書に相当する。本書よりひと回り大きい,今は失われた徳川家康旧蔵の『帝鑑図説』の箱に収められている。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
室町時代の文安元年(1444)に成立した古辞書。下学とは,手近で初歩的な学問という意味であり,その内容はとくに初学者・幼年者を対象としている。作者は不明だが,禅宗の僧侶と推定される。
3110語に及ぶ鎌倉・室町時代の言葉が,天地門・神祇門・時節門・飲食門・数量門などの18門に意義分類される。その一つに気形門(気形とは生き物のこと)があり,虫に関する言葉が掲載されている。それぞれの言葉の右側と左側には読み方がカタカナで配され,また半数以上の語に,詳細な注釈が漢文で添えられており,初心者の学習に適した,百科事典的な内容となっている。
本書は,室町時代の写本で,その後,塙保己一(1746-1821)が設立した和学講談所に所蔵されていた。
(図書寮文庫)
本書は,明治天皇(第122代,1852-1912)宸筆の御手習い並びに御清書である。清書の文字は「梅花」と書かれ,書道師範であった有栖川宮幟仁親王(たかひと)朱筆による加点並びに添削のあとがみられる。また「いろは」は,基礎的な仮名文字習得を目指した手習いであったと思われる。付属の書付けによれば,文久元年(1861)に幟仁親王に下賜されたもので,天皇10歳の宸筆である。有栖川宮旧蔵。