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本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(図書寮文庫)
手鑑(てかがみ)とは筆跡(手)の見本(鑑)帖の意。奈良時代の経典に始まり,平安時代以降の和歌や書状など様々な断簡(古筆切,こひつぎれ,切〈きれ〉とも称す)を貼った手鑑は,江戸時代に愛好された。
断簡の脇の紙片を極札(きわめふだ)といい,極札には筆者名と冒頭数文字が書かれ,古筆鑑定家の印があるのを通例とする。筆者名は伝承筆者(古来より伝えられている筆者)であり,同一筆者と鑑定されているものは同じ特徴を有することが知られている。切は天皇から身分・時代の順で貼られた。
本書の見返しは狩野探信(かのうたんしん,1785-1836)画で,折帖(おりじょう,アルバム)じたいの成立は探信の没年を下限とするが,剥離痕が示すように切はその後も貼り替えられ現在の形になった。
掲出画像は本書冒頭。いずれも伝承筆者を聖武天皇とする経切(きょうぎれ)であるが,特に中央の切は荼毘紙(だびし,釈迦の骨粉―実際は香木の粉末―をすき込んだ上質な紙)に『賢愚経』(けんぐきょう)を記した「大聖武」(おおじょうむ)と呼ばれるもの。大聖武の有無が手鑑の格を左右した。
本書はもと御物で平成元年に書陵部に移管された。
(図書寮文庫)
「公卿補任」(くぎょうぶにん)とは,年ごとの公卿(三位以上)の官員録である。掲出画像は,九条家本『中右記部類』巻5の紙背(裏)に残された天平元年(729)~神護景雲3年(769)の「公卿補任」の断簡のうち天平9年の条で,藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂(むちまろ・ふささき・うまかい・まろ)の四兄弟の官歴が記されている(麻呂は左端に名前のみ)。4人は大宝律令の制定に貢献した藤原不比等の息子で,大化の改新で活躍した鎌足の孫にあたる。妹の光明子が聖武天皇の皇后(光明皇后)になるに及んで,天皇の外戚として権勢をふるったが,折しも流行していた疫病に罹って,天平9年に4人とも相次いで死没した。
この『中右記部類』紙背の「公卿補任」は,没年にその人の官歴を列記しており,一般に知られた流布本とは形態を異にする。古態を示すものとして注目される。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
この無垢浄光経相輪陀羅尼は,百万塔陀羅尼といわれるものの一つで,神護景雲4年(770)に我が国で初めて印刷されたものである。年代の判明している印刷物としては,世界最古。天平宝字8年(764)に起こった恵美押勝の乱後,第48代称徳天皇(718-70,御在位764-70)の発願により,延命・除災を願う経文「無垢浄光経陀羅尼」を100万枚印刷させ,それぞれを百万基の小塔に納め,法隆寺を始めとする10か寺に10万基ずつ安置されたものである。陀羅尼は,根本・相輪・六度・自心印の4種類あり,主として麻紙(麻の繊維を原料とした和紙)に印刷されたが,その版は銅版説と木版説とがあり,どちらであるかはいまだ定説をみない。ちなみに,版木(銅版も含む)によって印刷される方法を整版という。
(図書寮文庫)
本書は,もと正倉院に伝来した文書類のうちで,のち国学者である谷森善臣(1817-1911)の所有となり,同家よりその蔵書とともに図書寮に献納された。天平13年(741)3月15日一切経納櫃帳ほか5点を貼り継いだ一巻。画像は,天平勝宝3年(751)の写書所解。外題(題名)を書くための狸毛の筆と雑公文用の料紙として「凡紙」を請求しているもの。