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(図書寮文庫)
公家の日記は自身で書くのが普通であるが、より詳しい記述ができる人物が周囲にいる場合、他人に自分の日記を書かせたり、他人の日記を引用したりということもあった。
江戸時代前期の公家、九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の日記『道房公記』においても、他人の日記の引用がある。そのなかでも、掲出箇所は、寛永19年(1642)6月18日条で、押小路師定(おしのこうじもろさだ、1620-76)の自筆日記が合綴(がってつ)されており、いささか特殊である。掲出画像の右半丁は道房の筆、左半丁が師定筆である。左右で紙の色と大きさが異なり、文字はたとえば「御」字(右では2行目「御飯」、左では2行目中ほど「内侍所御辛櫃」)を見比べると別筆であることが分かりやすい。また、師定が自身を指した「予」との一人称が残っている。
内容は、明正天皇(1623-96、御在位1629-43)の新造内裏への遷幸(せんこう)に伴う神鏡渡御(しんきょうとぎょ)の儀式に関するもので、師定はこの儀式に参仕しており、道房は他の公家とともにこれを見物している。当該部分も、『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に活字化されている。
(図書寮文庫)
九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の自筆日記のうち、掲出箇所は寛永20年(1643)3月21日条で、九条家で欠けている延喜式の巻3・巻5を書写するために、日野弘資(ひのひろすけ、1617-87)から同書を借用した記事である。
延喜式は古代の法典である律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。九条家には遅くとも鎌倉初期の書写とみられる延喜式が伝えられているが(東京国立博物館所蔵)、こちらも巻3・巻5を欠いているので、この記事に見える欠巻と一致する。一方、日野家の本については、当部所蔵の勢多家旧蔵本(172・123)の山田以文(やまだもちふみ、1762-1835)の本奥書等からその存在が知られる。
九条家に伝来した延喜式のうち巻13は、尾張徳川家で書写され、それに基づき50巻揃いとなった板本(はんぽん、印刷本のこと)が刊行され一般に流布した。道房公記では、徳川義直(とくがわよしなお、1601-50)より続日本紀(しょくにほんぎ)等を借りた記事が見え、両者の間に交流があったことがうかがえるが、延喜式の貸借に関するような記事は見えない。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
中世・近世の公家は、儀礼や政務、和歌会などといった様々な行事に参仕し、あるいはその運営を行っていた。また、皇室や他の公家・武家との日常的な交流も、生活をおくる上で欠かせないものであった。そのため、こまめに日記を書き、受け取った文書(公文書や書状など)を整理し、自身の送った文書を写し保管している者も少なくなかった。
『九条道房公雑書』は、そのような授受の文書などを取りまとめた資料。九条道房(1609-47)は、日記『道房公記』(九・5119)を記しているが、本資料でしか確認できない事柄も多い。特に武家との日常的な交流については、あまり日記には記さなかったらしい。掲出した寛永19年(1642)閏9月13日付の大年寄(大老)酒井忠勝(1587-1662)の書状は、道房からの贈り物に対する忠勝の礼状で、九条家の家来である朝山吉信にあてたもの。本資料には、文書のほかに、官位申請の書類、和歌題短冊なども収められており、日記と合わせることで、江戸時代の公家の政治的・文化的な生活が詳細に復元できる。
(図書寮文庫)
江戸時代、幕府がキリスト教を禁止・弾圧するなか、信徒を発見するために用いた「踏絵」の図案の模写。キリスト像(磔刑図、2種類)、ピエタ(「哀れみ」の意、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母)、ロザリオの聖母、エッケ・ホモ(「この人を見よ」の意、鞭打たれるキリスト)の絵が描かれ、末尾に説明が書かれている。掲出箇所はロザリオの聖母の図で、幼いキリストを抱き、聖ドミニコたちにロザリオを授ける聖母像が、ロザリオをかたどった枠内に描かれる。
古賀本。寛政の三博士のひとり古賀精里(こがせいり、1750-1817)に始まる古賀家は、代々幕府の昌平坂学問所の儒学者だったが、3代目の茶渓(さけい、1816-84)は西洋事情に強い関心を寄せ、蔵書には西洋関係書も多い。同家の蔵書は明治22年(1889)に献納されたが、本書もそのひとつ。
(図書寮文庫)
豊原統秋(とよはらむねあき、1450-1524)が著した舞楽の解説書。統秋は室町戦国時代に活躍した楽人(宮廷音楽を担う下級官人)で、笙(しょう)を家業とする豊原家の出身。冒頭が欠損しており正式な書名は不明だが、79におよぶ楽曲について、まず曲名を掲げ、それぞれの由緒や口伝を一字下げで仮名交じりに記す。巻末に、永正6年(1509)閏8月、上意によってこれを択び進上するものである、という奥書および統秋の花押(かおう)がある。この時期、統秋は後柏原天皇(1464-1526)に笙の師範として仕える一方、室町殿足利義尹(1466-1523、室町幕府第10代将軍。のちに義稙と改名。)に召され、曲名や譜面についての諮問に答えており(『実隆公記』永正6年6月20日条、8月5日条)、本書も室町殿の上意により進上された可能性がある。歴代の足利将軍は笙の稽古に熱心で、初代尊氏(1305-58)も統秋の先祖豊原龍秋(1291-1363)から笙の秘曲を授けられた。なお統秋はこの後、永正8年から9年にかけて、楽道に関する大著『體源抄』(たいげんしょう、書名に「豊原」の2字が組み込まれている)を撰述している。
(図書寮文庫)
室町前期~江戸前期の短冊594枚が貼られた手鑑(てかがみ)。手鑑とは、古い筆跡を鑑賞する流行に応じ、鑑定家である「古筆見(こひつみ)」たちにより、書物の断簡や古文書・短冊などを集め、筆者を記した鑑定書「極札(きわめふだ)」を附してアルバム状に仕立てたもの。外箱の底の貼紙によれば、宝永5年(1708)に古筆見のひとりで古筆本家第6代古筆了音(こひつりょうおん、1674-1725)が作製したという。
手鑑は身分の高い人物の筆跡から並べるのが常で、本帖でも天皇・皇族にはじまり、連歌師で終わっている。掲出部分は、伏見宮・有栖川宮・八条宮の諸親王の短冊が並ぶ部分。
本帖は広島藩主浅野家に伝来した。
(図書寮文庫)
森鷗外(もりおうがい、森林太郎〈もりりんたろう〉、1862-1922)が宮内省図書頭だった時代に編纂され、神武天皇から明治天皇に至る歴代天皇の諡号(しごう)の由来、出典について考証したもので、大正10年(1921)に宮内省図書寮から100部が刊行された。図書寮文庫には、大正10年刊行の2点のほか、草稿2点(原本・副本)、校正刷1点の、計5点を所蔵する。草稿原本(272・206)は、鷗外が朱書や墨書で書き込みを行い、草稿副本(272・204)は、草稿原本の鷗外筆校正を別の人物が丁寧な形で書き直し、鷗外が朱書や墨書で更なる加筆修正を施している。掲出図版は校正刷であるが、全体を通して朱墨、墨書、朱ペン等、複数の筆記具による書き込みが見られ、その大部分が鷗外筆と認められる。書き込みの内容は、誤字脱字、出典文献、引用本文の加筆修正、体裁の修正や指示等、多岐にわたっており、刊行に至るいずれの段階においても鷗外自身が全体の構成から細部に至るまで積極的に関与していることが分かる。
(陵墓課)
本資料は、奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した、「三角縁神獣鏡」に分類される鏡である。直径22.1㎝。
三角縁神獣鏡とは、鏡の縁の断面が三角形で、主な文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙、聖獣、その他の図像に、それぞれ、数、組合せ、表現などの違いがあるほか、主文様を配する内区(ないく)の外周に文様や銘文(めいぶん)を配するかどうかなどの違いがあり、ひとくちに「三角縁神獣鏡」と呼ばれていても、その文様の構成はバリエーションに富んでいる。
本資料は、円錐形(えんすいけい)の乳(にゅう)によって6分割された内区に、神仙像と聖獣像を交互に3体ずつ配置する、「三神三獣鏡」の一種に分類されるものである。
内区の外周にも乳によって10分割された文様帯(もんようたい)があり、ここにも、画像上方から時計回りに、カエル、四つ足の獣(けもの)(青龍(せいりゅう)か)、四つ足の獣(白虎(びゃっこ)か)、2匹の魚、カエル、カメ(玄武(げんぶ)か)、ゾウ、鳥(朱雀(すざく)か)、1匹の魚、四つ足の獣と、様々な図像を見ることができる。
三角縁神獣鏡の文様の中に、本資料のゾウや、以前に本ギャラリーで紹介した仏など、当時の日本列島在住者には描くことができないと思われるものが含まれていることは、その製作地、製作者を考えていく上で見過ごせない点である。
(図書寮文庫)
尊円親王(そんえんしんのう、1298-1356)が、北朝第4代、後光厳天皇(ごこうごんてんのう、1338-74、御在位1352-71)に向けて、書道の入門書として意見をまとめたものである。その成立は、奥書より文和元年(1352)11月15日と知られるが、当時15歳の天皇は、この日に読書始(とくしょはじめ)を行われており、読書始に続けて行われる手習始(てならいはじめ)のために進覧されたものと考えられる。筆、紙、墨といった用具、手本の選び方や稽古の心構え等が20項目にわたってまとめられている。「入木」の語は、書道や習字を意味し、東晋の王羲之(おうぎし、303-361)の書いた字の墨が、木板に深く染み込んでいたという故事に基づく。末尾には、朝野魚養(あさののなかい、生没年不詳)から尊円親王までの能書23人の略歴を記す。安永9年(1780)4月18日、尾崎積興(おざきかずおき、1747~1827)の書写奥書がある。有栖川宮本。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の内部に一匹の鳳凰(ほうおう)の首を表現した環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことである。金銅製品(こんどうせいひん)の一種であり、銅の鋳造で成形された後にタガネ彫りで文様が表現され、金メッキされている。
中心飾の鳳凰に着目すると、両個体のモチーフには若干の違いがあり、左の個体は崩れた冠毛(かんもう)と角が環と一体化して目の表現は省略される。右の個体は冠毛が短く、角が環と一体化しており、目が表現される。両個体ともに、環には二匹の龍の頭部・胴部・前足・後足がみられ、表裏で二匹の龍が反転するように配置される。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種である。単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)は日本列島内で200例近い事例が知られており、本資料は6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。諸外国との外交時に佩用(はいよう)された大刀であるという説もあり、政治的価値が大きい器物であったと考えられる。
(図書寮文庫)
鎌倉時代中期の公卿、世尊寺(せそんじ)家第9代経朝(つねとも、1215-76)の説く書道の故実を、68項目にわたってまとめたものである。ここでいう「右筆」は、書道や書芸を意味する。元亨2年(1322)12月15日、世尊寺家第11代行房(ゆきふさ、生年不明-1337)によると思われる奥書には、経朝が文永12年(1275)関東下向の折、安達泰盛(あだちやすもり、1231~85)に伝えた内容の書き残しの条々を部類立てしたものとあり、成立の経緯が窺える。世尊寺家は三蹟(「三跡」とも、さんせき)の一人、藤原行成(ふじわらのゆきなり、972-1027)を祖とし、代々朝廷の書役を務めたが、鎌倉幕府の中枢にあった安達泰盛への伝授は、関東との関係をも有していたことが分かる。筆、紙、墨といった用具や願文、額の書様といった故実に加え、「自関東被進京都御教書幷事書様」(掲出図版第2項目)もあり、鎌倉幕府を意識した内容も盛り込まれている。
なお行房は、別掲『入木抄』(有栖・5180)の著者、尊円親王(そんえんしんのう、1298-1356)へも伝授を行っている。
(陵墓課)
本資料は、琴柱形石製品と呼ばれる。この名で呼ばれる石製品の形は多様であり、字面のとおり楽器である琴の弦を支える「琴柱」の形に近い形態(アルファベットの「Y」のような形)がある一方で、まったく違う形のものも存在する。弦楽器としては縄文時代から琴の原型があり、古墳時代には埴輪に表現されることもあるが、実際に発掘された資料で琴に付随したと考えられるものはないため、現在の研究からは元々「琴柱」を象(かたど)ったものは少ないと考えられている。
本資料は、奈良県奈良市に所在する巨大古墳がひしめく佐紀古墳群に含まれる瓢箪山古墳(前方後円墳:墳丘77m)の前方部から3点が出土したものである。大正2年(1913)に土砂採取で出土したため、中央と右端の1点は欠損部があるなど(中央は補修している)、納められていた細かい状況は不明である。また、形が「琴柱」とは異なっており、漢字の「工」に似ることから「工字型」や横軸を翼に見立てて「飛行機型」と呼ばれたこともある。いずれにしても琴の一部と考えることは難しい。
同じ形態のものが別の古墳から調査によって出土しているが、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などと連なる状況が知られており、実際の使用方法としては、首飾りなどの一部を構成する玉の一種のようなものであったと考えられる。石材は、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれるやや灰色がかった色味のやわらかいものが使用されている。この形態のものは数が少なく近畿地方の古墳から出土することが多いが、新潟県糸魚川市(いといがわし)笛吹田遺跡(ふえふきたいせき)では建物跡から出土しており、古墳以外からの出土事例も知られている。
(図書寮文庫)
江戸時代の幕末に描かれた、蓮華峯寺陵の図である。蓮華峯寺陵は、京都の北嵯峨に所在する陵墓。後宇多天皇及びその母后の御陵であるとともに、亀山天皇以下3方の分骨所でもある。図の右側には、御陵の中核をなす大型の石造五輪塔1基と、小型の石造五輪塔2基が描かれる。これら3基の石塔は、実際には木造の覆い堂の中に安置されている。左側に描かれている建物がそれである。
掲出図は、図書寮文庫が所蔵する「文久山陵図(草稿)」という資料の一部。資料名にみえる「文久山陵図」とは、幕末に行われた陵墓の修補事業に関連して作成された画帖である。本資料はこの「文久山陵図」作成時の草稿(下図)に相当するものと考えられている。本資料には、「文久山陵図」と画題・構図を異にする図がいくつか収載されており、掲出図もその一つである。蓮華峯寺陵を描いた図は、本資料中に3点ある。そのうち、掲出図を除く2点は「文久山陵図」収載の図と酷似する。しかし、掲出図のような覆い堂と石塔のみを描いた図は、本資料独自のものである。
(図書寮文庫)
本書は、永正9年(1512)4月26日に行われた知仁親王(ともひと、1496-1557、のちの第105代後奈良天皇〈御在位1526-57〉)御元服の記録で、紀伝道家の公卿東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが、1460-1530)の日記『和長卿記』の別記である。内容は「永正九年若宮御元服記」(『続群書類従』公事部所収)として知られているものではあるが、本書は室町後期写の善本である。知仁親王は第104代後柏原天皇(御在位1500-26)の第二皇子で、この年4月8日に親王宣下があって知仁の名を賜り、26日に小御所において元服の儀が行われた。時に親王17歳。元服は加冠とも称され、理髪(成人の髪に結う)・加冠(冠を被せる)が行われ、成人となる儀式である。これ以降、髷(まげ)を結い日常的に烏帽子(えぼし)ないし冠を身に着ける。儀式の中心である理髪の役は頭右中将正親町実胤(おおぎまちさねたね、1490-1566)、加冠の役は関白九条尚経(くじょうひさつね、1469-1530)がつとめた。本書が九条家に伝来したのはこのあたりに理由があろうか。和長は当日、童形装束の儀に参仕し、故実への関心より小御所の室礼の図などを含めて、元服の儀全般にわたって詳細な記録を残したのである。ちなみに本書には『続群書類従』本と同じく永正9年の持明院基春(じみょういんもとはる、1453-1535)の元奥書、さらに寛永20年(1643)の九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の一見奥書がある。九条家本。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土したと伝えられる水鳥形埴輪である。現在は首から頭部にかけてのみ残存しているが、本来は、嘴(くちばし)や胴部もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約32.5cmである。
水鳥形埴輪は、ガン・カモ類などの水鳥をかたどった埴輪を指し、本資料は、首が長いことから、白鳥を現しているとの意見もある。
頭部の両側面には穴があけられており、嘴の近くには竹管による表現が2箇所見られる。一見すると、目と鼻孔を現しているように見えるが、水鳥形埴輪の鼻孔は、扁平な工具を刺突して細長く表現することが多い。また、本資料の目は低い位置にあり、写実的とはいえない。
一方、両側面の穴で耳孔を、竹管を押しつけて目を現した事例も存在する。耳孔を穿つ事例としては鶏形埴輪があり、本資料の表現は酷似しているが、鶏冠の表現や痕跡はない。水鳥形埴輪でも耳孔を表現した事例は確認されているが、穴ではなく工具の刺突や竹管による表現が多い。
本資料は見方によって印象が変わる、魅力と謎の多い埴輪である。
(図書寮文庫)
本書は、三条西実隆(さんじょうにしさねたか、1455-1537)による『未来記』『雨中吟』注の自筆の草稿本である。『未来記』『雨中吟』は鎌倉時代に作成された藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162-1241)仮託の歌学書。本来は別々の書であるが、流布する過程で一具の書として扱われた。両書は和歌を詠じる際に避けるべき風体を示した書として、穏当な歌風を旨とした二条派歌人に重んじられた。室町時代に入ると、解釈についての講釈がなされるようになり、本書もそのために作成されたものと推測される。注内容は、東常縁(とうのつねより、1401-84頃)の講釈を基として宗祇(そうぎ、1421-1502)がまとめた『遠情抄(えんじょうしょう)』におおよそ拠っているが、実隆による独自の注が散見される。
なお、実隆の息子、三条西公条(さんじょうにしきんえだ、1487-1563)による講釈を書き留めた『三条西公条講未来記雨中吟聞書』が京都大学中院文庫に所蔵される。本書と比較すると実隆による注が反映されていることが分かる。本書は草稿本ではあるものの、実隆から公条へなされた講釈がどのようなものであったかを示す貴重な資料といえる。
(陵墓課)
京都府京都市右京区の宇多野福王子町から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から金環としているが、金環と書かれる場合には銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、材質には様々な可能性があり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない点に注意が必要である。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に,蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。
この耳飾りは、直径31㎜ほどの大きさで、断面の厚さは7.1㎜から7.4㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形はほぼ正円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本品はその形と大きさから古墳時代終わりごろの遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
「日本医学中興の祖」とされる曲直瀬道三(まなせどうさん、1507-94)が編纂した医学入門書。全3巻。『十五指南編』(じゅうごしなんへん)・『医工指南編』(いこうしなんへん)・『医学指南編』とも。医学・用薬・治療など15項目について、様々な医書の説を引用したうえで、道三の主義主張を述べたもの。道三没後、慶長年間(1596-1614)には活字化され、承応2年(1653)に刊行されたものの影印が『近世漢方医学書集成』第6巻(1979年、名著出版)に収録されている。同集成では、本書を道三の甥で、孫娘を妻としたという弟子曲直瀬玄朔(まなせげんさく、1549-1631)の編纂として収録するが、掲示の奥書から道三の編纂とみて間違いない。すなわち、元亀2年(1571)9月9日の奥書によれば、道三が門下生のために編纂した15巻を、高齢となったために玄朔に与えて後代の証本とした、としている。道三は「雖知苦斎」(すいちくさい)など様々な号を持つが、「雖知苦戸」とも号したらしく、道三自筆『切紙』の同年9月13日の奥書にも「雖知苦戸」とある(前掲集成解説写真10)。多紀本。
(宮内公文書館)
文久2年(1862)閏8月8日に宇都宮藩主戸田忠恕(ただゆき)から幕府に提出された「山陵修補の建白書」を契機として、各山陵の修補事業が始まった。いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる修補事業の成果物として作成されたのが、「文久山陵図」である。
図を描いたのは、狩野派の画家として知られる鶴澤探眞(つるさわたんしん)である。「文久山陵図」は、文久の修陵以前の状態を描いた「荒蕪図」(こうぶず)と修陵以後を描いた「成功図」(じょうこうず)からなる。「文久山陵図」は、2部作成され、それぞれ朝廷と幕府に提出された。朝廷に献上された分の写しが、宮内公文書館に所蔵される本資料であり、幕府に提出された分は、現在、国立公文書館に所蔵されている。
大和・河内・和泉・摂津・山城・丹波にある47陵の「成功図」、「荒蕪図」が作成されているが、本資料は、「荒蕪図」に収められる仁徳天皇陵の絵図である。修陵以前には、墳丘には雑然と木々が生い茂っていることが一目瞭然である。また、第一堤の途中が途切れており、第一濠と第二濠がつながっていることがわかる。
(宮内公文書館)
本資料は、宮内公文書館で所蔵する「文久山陵図」のうち、「成功図」(じょうこうず)に収められる仁徳天皇陵の絵図である。「荒蕪図」(こうぶず)と見比べると、その違いがよくわかる。墳丘に生い茂っていた木々は整備され、また、顕著な違いとして、拝所が設けられている。拝所は、扉付き鳥居(神明門鳥居)と木柵に囲まれている。拝所附近に描かれる燈籠(とうろう)は、現在も仁徳天皇陵において使用され、場所そのものは、移動しているものの、文久の修陵時に設置された燈籠の姿をそのままに、現在にまで伝わっている。背面には「元治元甲子年九月」の記載が残る。明治期以降、宮内省諸陵寮が仁徳天皇陵をはじめ各陵墓の事務を所掌(しょしょう)するようになると、整備された陵墓を維持・管理すべく、地域住民とも協力しながら日常的な管理が実施されるようになる。絵図ゆえに、正確性については考慮する必要はあるが、当時の陵墓を知る上では、貴重な資料であろう。