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(宮内公文書館)
大正15年(1926)12月25日、大正天皇の崩御(ほうぎょ)後、直ちに皇太子裕仁親王が践祚(せんそ)し、即日昭和と改元された。2年後の昭和3年(1928)11月、皇位を継承したことを国の内外に示すため、京都で即位礼とそれに伴う一連の行事が催された。即位礼は同年11月10日に京都御所紫宸殿(ししんでん)で行われ、国内外から2,236人が参列した。即位礼の当日は正午までに布設を終え、快晴の秋空で儀式本番の午後を迎えたという。
本写真は、昭和3年11月10日の即位礼会場となった京都御所紫宸殿の全景である。承明門(じょうめいもん)下より紫宸殿を撮影したもので、前庭にあたる南庭(だんてい)に調度品が並ぶ様子が見える。即位礼の当日は、紫宸殿庭上に大錦旛(だいきんばん)と呼ばれる旗が立てられて儀式が行われた。そのうち、「萬歳旛」は赤地雲形文錦に、神武天皇の故事に由来する5匹の鮎と酒壺が描かれ、「萬歳」の文字を表面に記した旗である。文字は閑院宮載仁(ことひと)親王の染筆とされる。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月11日、旧皇室典範は、大日本帝国憲法と共に制定された。全12章62条から成り、皇位継承、践祚(せんそ)・即位、成年・立后・立太子、敬称などについて定めている。本史料はその原本である。
旧皇室典範によると、践祚・即位については、皇嗣が天皇の崩御により践祚して祖宗(そそう)の神器を承けること、即位礼と大嘗祭を京都で行うこと、即位後に元号を定めて一代のあいだ改めないことなどが規定された。
これらのうち、一世一元の制は明治元年9月の改元の際に定められ、また即位礼と大嘗祭を京都で行うことは、京都御所周辺の保存事業である大内保存(おおうちほぞん)との関係から、明治16年4月に明治天皇の勅により定められていた。旧皇室典範は、こうした先例をあらためて法令として明文化し、践祚・即位に関する制度を整えたものであった。
旧皇室典範は、現行の皇室典範の施行の前日、昭和22年(1947)5月2日に廃止された。
(宮内公文書館)
登極(とうきょく)とは、天皇が位につくことをいう。登極令は、明治期の即位・大嘗祭が従来の慣例を踏まえつつ新たな形式で行われたことをうけ、旧皇室典範に基づき、その実施細則として明治42年(1909)2月に制定された皇室令である。史料はその原本であり、冒頭には明治天皇の御名・御璽がみえる。
登極令は全18条からなり、内容は、践祚・即位の儀式、改元、即位礼と大嘗祭、親謁(しんえつ)の儀(天皇が神社・陵墓に参拝する儀式)など大礼に関する事項全般におよぶ。さらに、本文に続いて附式があり、践祚(せんそ)ノ式および即位礼及大嘗祭ノ式についてそれぞれ儀式の細目が定められている。昭和の大礼は、細部の改正を経るものの、この登極令を基本として執り行われた。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)11月6日、昭和天皇は京都御所で行われる即位礼と一連の儀式に臨むため、宮城(きゅうじょう)を出発された。本写真は東京駅前の鹵簿(ろぼ)に用いられた儀装馬車である。
鹵簿とは天皇の行列のことをいう。昭和大礼の儀式では、大正15年(1926)制定の皇室儀制令に定められた公式鹵簿に準拠された。天皇皇后の御服装や御馬車、供奉員の服装、馬車数などが細かく決められている。京都行幸での宮城から東京駅までの鹵簿は、天皇の特別御料儀装車、皇后の御料儀装車、供奉馬車17輌から編成された。宮城を出た鹵簿は約594メートルに及び、沿道で奉迎した人たちは約6万人に達したという。
なお、背景に写る東京駅は大正3年12月20日、中央停車場として開業した。建築家辰野金吾の設計による、3階建ての鉄骨レンガ造りである。駅舎の正面中央には「帝室用御出入口」や「便殿(びんでん)」と呼ばれる待合室などが設けられるなど、皇室専用の仕様を備えていた。大正大礼の際には、開業して間もない東京駅から京都駅へ向かう御料車が発着した。
(宮内公文書館)
大嘗祭(だいじょうさい)とは、大礼を構成する儀式の一つで、天皇が即位後に初めて執り行う新嘗祭(にいなめさい)のことを指す。登極令では、大嘗祭の斎田(さいでん)を、京都以東・以南の悠紀(ゆき)の地方と、以西・以北の主基(すき)の地方から勅諚によって定めることが規定されている。
昭和大礼の斎田は、昭和3年(1928)2月5日の斎田点定の儀によって定められ、悠紀地方には滋賀県、主基地方には福岡県が選ばれた。斎田で収穫された精米・玄米は、同年10月17日までに京都の内匠寮出張所へ納入することとされた。滋賀・福岡両県では斎田となる田地の選定が進められ、滋賀県野洲郡三上村大字三上(現在の滋賀県野洲市)、福岡県早良郡脇山村大字脇山(現在の福岡県福岡市早良区)に決定された。こののち、斎田では、豊作と大礼の無事を願って、祓式、田植式、斎田斎場地鎮祭の儀などが挙行された。掲出の写真は、悠紀斎田(左)の鍬入式と、主基斎田(右)の田植式の様子を写したものである。
(宮内公文書館)
昭和天皇の大礼を祝うため行われた東京市奉祝会での奉祝門の写真。東京市奉祝会は昭和3年(1928)12月13日、昭和天皇・香淳皇后の御臨席のもと上野恩賜公園竹ノ台広場において開催された。上野恩賜公園への行幸啓にあたっては、御道筋の装飾として奉祝門が馬場先門跡に建設された。奉祝会場には京都御所紫宸殿を模した式殿が設けられ、参列者は内閣総理大臣田中義一以下54,500名に及ぶなど、盛大な式典が催された。奉祝会当日には奉祝門の電飾イルミネーションが夜間点灯するなど、東京市は終日終夜にかけて奉祝ムードに包まれた。
昭和大礼は大正12年(1923)の関東大震災から5年後のことで、いまだ復興の途上にあった。昭和天皇の御大礼は震災後に迎えた国を挙げての最大の慶事であり、東京市奉祝会のように全国各地では多くの奉祝行事や記念行事が催された。未曾有の大災害から立ち直ろうと官民を問わず模索するなか、来るべき「昭和」という新たな時代に大きな期待が寄せられた。
(陵墓課)
古墳に捧げられた小さな土器。本資料は、磐園陵墓参考地から出土した古墳時代の土師器(はじき)である。写真奥は高坏(たかつき、食物などを盛る土器)、中央列と前列は壺で、日常生活で使用された土器よりも小さい。中央列一番左のものは幅約6.2cmであり、ミニチュア品と考えられている。
これらは、造り出し(つくりだし、前方後円墳のくびれ部付近に設けられた台形状の施設)に掘られた穴に埋められていた。土圧等の影響を受けて非常に脆くなっているが、板状の工具で表面を整えた痕跡が残るものもあり、小型ながら丁寧に作られたことがわかる。壺の内部に残っていた土を科学分析した結果、食物などの供物が納められていた可能性が指摘されている。
大型前方後円墳では、食物を供えるためのミニチュア土器や笊形土器(ざるがたどき)、食物形土製品が出土することがあり、本資料も食物を供献(きょうけん)する儀礼に用いられた可能性がある。本資料は、そうした儀礼が造り出しで行われる初期の様相を示す貴重な事例であり、古墳時代前期後半の葬送儀礼を考える上で重要な資料と言えよう。
(陵墓課)
本資料は、巨大古墳が集中していることで知られる古市古墳群の中でも最初に築かれた古墳の一つである藤井寺陵墓参考地(津堂城山古墳)から出土したものである。弓矢の一部であり、「矢筈(やはず)」と呼ばれる。矢筈は弓につけられた弦(つる)に矢をかけるための部品であり、写真上側が凹字状にくぼんでいるのは弦を引っかけるための形である。長さは2.6cmほどである。
弓矢は縄文時代以来使われてきた「飛び道具」として知られ、古墳時代になると弓矢の先端に付けられる鉄や銅の鏃(やじり)が多く出土する。しかし、竹などの植物素材で作られる弓本体や矢柄(やがら)、鳥の羽を使う矢羽根(やばね)は腐朽して残っていないことが多い。矢筈の出土例も極めて少ないため、本資料は貴重な資料といえる。
この矢筈は、金属製であることに特徴がある。当参考地では、弦を弓の端にかけるための部品である「弭(ゆはず)」も出土しているが、こちらも金属製である。当参考地の弓と矢は、実用ではなく、儀礼用に作られた弓矢であった可能性がある。金属を用いて作られた弓矢はどのような姿であったのだろうか。
(陵墓課)
奈良県天理市柳本町の崇神天皇山邊道勾岡上陵飛地い号(柘榴塚(ざくろづか)古墳)から出土した耳飾り2点である。本資料の名称は、色調の特徴から「金環」としている。しかし金環といっても全てが純度の高い金でできているとは限らず、銀の芯材に鍍金(ときん)したものや、銀の含有量が多い金からできているもの等、その材質は様々である。
本資料は2点とも銅由来の緑青で覆われるが、表面には金色が残っている。本資料の表面を蛍光X線分析したところ、金とともに水銀が検出されたことから、鍍金されたものであることが判明した。本資料は円筒形で中空の銅管を「C」字形に折り曲げた後、鍍金を施した銅管鍍金(どうかんときん)製品であり、作られた当時は全体が金色の光沢を放っていたと考えられる。また、本資料は左右ともに全体の直径35mmほどの大きさで、銅管の直径は8.5-10.1mmであり、左右一対になるように作られていたようである。
本資料のような中空構造の金属製耳飾りは古墳時代の終わりごろに出現することが知られており、当時の特徴的なアクセサリーである。
(陵墓課)
本資料は、中国の唐(618-907)代につくられた鏡をもとに我が国でつくられたもので、同型鏡(どうけいきょう、鋳型(いがた)をつくる際に粘土に押し当てた原型が同じ鏡。鋳型そのものは別に存在する)、同笵鏡(どうはんきょう、同じ鋳型で鋳造された鏡)が多く知られている。
外縁には、「この鏡の所有者は永く夫婦円満となる」という意味の銘文が巡っており、下方には岩に囲まれた池、上方には雲間に見える山と太陽もしくは月、飛ぶ鳥が配置され、下方の池から中央に向けてハスの葉がのび、それに乗るカメが鈕(ちゅう、紐をとおすためのつまみ)となっている。鈕の右には樹木の前の岩の上で片脚立ちをする鳳凰(ほうおう)、左には竹林の前に座って琴を弾く人物が表現される。
本資料の名称にある「伯牙」は、中国の春秋時代(しゅんじゅうじだい)(紀元前770-紀元前403)の琴の名手と伝わる人物。自分の演奏のよき理解者であった親友が亡くなってからは琴の弦を切って二度と演奏しなかったとされ、親友を失った悲しみを表す「伯牙絶弦(はくがぜつげん)」という故事の基になった。
琴を弾く人物が表現されている鏡は「伯牙弾琴鏡」と呼ばれることが多いが、本資料のように演奏を聴く親友が表現されていないものについては、実のところ、琴を弾く人物が伯牙であるのかどうかは定かでない。
本資料は、明治22年(1889)に、愛知県西尾市の後田遺跡から、宝相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面と同時に出土したもの。直径17.5cm。
(図書寮文庫)
古代以前の陵墓は、中世になると朝廷による管理が行き届かなくなり、多くが所在不明になったといわれる。しかしながら、すべての陵墓がそうであったわけではない。紹介する文書は、そのことをうかがわせる資料のひとつである。
資料名にみえる「綸旨」とは、天皇の側近が、天皇の意思を他者に伝達するために作成する文書で、宿紙(しゅくし)と呼ばれる灰色の再生紙が用いられる。今回紹介する綸旨では、永正8年(1511)に、勘解由小路(かでのこうじ)家の当主とみられる人物に対して、後柏原天皇(1464-1526)の意思が伝えられている。勘解由小路家は、諸陵頭という陵墓管理を担当する朝廷の官職を世襲した家である。
資料の内容は、「大岡御墓領」なる所領の支配を、同家に認めるものである。大岡墓は、桓武天皇(737-806)の配偶者である吉子(生年不明、807年没)の墓である。被葬者が后位になく、また天皇の生母でもないためか、近代以降に陵墓として認定されることはなかったが、古代においては朝廷による管理の対象であった。
この資料に大岡墓の管理状況に関する直接的な言及はないが、勘解由小路家が同墓に関係する所領の確保に動いていたことは間違いない。同家による陵墓管理は、室町時代においても、ある程度の実体を伴うものであったと考えられているから、同墓についても、「御墓領」を財源として、それなりの管理が継続していた可能性もあろう。
(陵墓課)
本資料は、貴人にさしかける笠(蓋)をかたどった「蓋形埴輪」である。器材を模して作られた埴輪の中では最も多く出土しており、被葬者の権力を象徴するものであると考えられている。
本資料は大型品であり、笠部の一部のみが残存する。笠部上面中央の円形の孔は「軸受部(じくうけぶ)」で、上端には「立ち飾り」と呼ばれる装飾板が付いていたと考えられる。現存直径は65.1cmであり、製作当初はより大きく、実物の笠に近い大きさであったと推定される。笠部中位の突帯(とったい)下には放射状の線刻があり、笠の布張りの合わせ目が表現されたものとみられる。
昭和10年(1935)、室戸台風後の植樹作業中に前方部墳頂で埋葬施設(竪穴式石槨)の天井石が露出し、その周辺から多くの埴輪片が出土した。本資料もその一つであり、天皇陵の埋葬施設の直上に置かれた可能性が高い数少ない事例である。
(陵墓課)
本資料は、墳丘長200mを超える奈良県内でも有数の前方後円墳である巣山古墳からの出土とされる鍬形石の上半部の破片(上辺幅9.2cm)である。陵墓ではないが、明治年間に出土し、陵墓の考証資料として受け入れたもののひとつである。出土地に曖昧さが残るのは、受け入れ当時の文書が大正12年(1923)の関東大震災により焼失したことで詳細を確認できないためである。
鍬形石の名称は、鍬の形に類似するところから付けられたが、元々は弥生時代以来ゴホウラ貝という暖かい海域に生息する大型巻貝を輪切りにして腕輪として使っていたものが源流であることがわかっている。鍬形石は、緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)などの石材を使い、貝輪を模して製作された。写真の下側が欠けていなければおおむね楕円形の孔に復元され、腕を通す部分となる。古墳から出土する場合、実際に腕に装着しているような位置で見つかることもあれば、棺を覆う粘土に不規則に貼付けられていることもあり、腕輪をもとに作られているものの、実際に装着する機会は少なかった可能性が高いと考えられている。
また、古墳以外で当時の儀礼を行った場でも出土する事例が増えており、その重要な道具であったと推測される。
(宮内公文書館)
後柏原天皇(1464-1526)は第104代の天皇である。明応9年(1500)に践祚し、大永6年(1526)に63歳で崩御されるまでその地位にあった。令和8年(2026)は、崩御からちょうど500年の節目の年に当たる。
本図は、後柏原天皇の御陵を描いた絵図で、「文久山陵図写」と呼ばれる資料の一部である。資料名にみえる「文久山陵図」とは、江戸時代の末期に行われた陵墓の修補事業に関連して作成された画帖である。資料はその「文久山陵図」を描き写したもので、宮内公文書館に所蔵されている。
後柏原天皇は崩御の後、京都の東山にある泉涌寺(せんにゅうじ)で火葬され、遺骨は深草の地に建つ仏堂に納められた。この仏堂は再建や数度の改修を経て近代に至り、深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)という名の陵墓として管理されることになる。なお、当陵は後柏原天皇のほか、後深草(ごふかくさ)天皇(1243-1304)をはじめとする12方の天皇・皇族の陵墓でもある。
(図書寮文庫)
明治42年(1909)9月20日に石川県が発行した『石川県写真帖』は、皇室に献上されたのち宮内省侍従職で管理され、図書寮が昭和6年に受領した。明治時代の石川県内の様子がわかる貴重な資料である。
この写真は、加賀百万石で有名な前田家の居城であった金沢城を南西から眺める構図となっており、手前には犀川(さいがわ)に架かる桜橋が見える。写真中央部には金沢城本丸南側の高石垣(たかいしがき)、その右手側には兼六園の木々が見える。高石垣は前田家が金沢城の整備を始めた初期にあたる慶長年間(1596-1615)に構築された。その中でも、兼六園側の辰巳(たつみ)櫓跡の高石垣は城下町からよく見え、南側は段のない急勾配な石垣だったことから金沢城のシンボルとして知られていたが、明治40年(1907)頃に崩壊し、その後に積み直された際には安全対策で3段とされたため、現在は当時の姿を見ることはできない。
写真では金沢城の石垣の左側に、明治35年(1902)に建設され昭和14年(1939)に焼失した石川県会議事堂が見える。その左隣にある煉瓦造りの建築物は明治24年(1891)に完成した旧第四高等中学校本館で、現在も石川四高(いしかわしこう)記念文化交流館として見ることができる。
“百万石の城下町”の面影を残しつつ近代化していった金沢を見ることのできる資料である。
※画像には文字等を挿入している。
(図書寮文庫)
石川県金沢市の中心部を北東の卯辰山(うたつやま)周辺から撮影した写真である。写真手前には現在のひがし茶屋街付近と浅野川(あさのがわ)が、中央に写る金沢城には今は失われてしまっている建築物を見ることができる。
写真では屋根に石をのせた町屋が目立つが、金沢城では江戸時代から鉛瓦を使用しており、この写真でも鉛瓦が白く輝いている金沢城の長屋を左上付近に確認できる。金沢城では重要文化財の三十間長屋(さんじっけんながや)や平成13年(2001)に復元された五十間長屋(ごじっけんながや)が有名だが、写真の長屋はそれらとは異なり、現在では失われている九十間長屋(きゅうじっけんながや)と考えられる。
九十間長屋の右側に見える洋風の建物は金沢に置かれていた旧陸軍第九師団司令部庁舎である。明治31年(1898)に完成し、現在は国立工芸館の一部として使用されている。司令部庁舎が建てられていた二の丸には幕末まで豪華な御殿や五十間長屋が存在していたが、明治14年(1881)の火災によって焼失してしまった。九十間長屋は焼失を免れ、撮影時は存在していたことがこの写真から分かる。
※画像には文字等を挿入している。
(図書寮文庫)
『千金方』は、7世紀半ばに孫思邈(そんしばく、?-682)によって編纂された、30巻から成る医学全書。成立後転写が繰り返されたが、1066年に宋王朝の校正医書局(こうせいいしょきょく)が校訂・刊行、広く流布した。日本には、寛平3年(891)には成立したとされる『日本国見在書目録(にほんこくげんざいしょもくろく)』に書名が見え、宋版本以前に伝来して、平安中期の医者丹波康頼(たんばのやすより、912-95)が天元5年(982)に編集した医学書『医心方(いしんぽう)』に引用した。本書は序及び巻1の1冊のみしか現存しないが、内容は、宋版本とは大きく異なる一方、『医心方』引用箇所との類似性が高いことなどから、宋版本以前の姿を残すものとして高く評価されている。
なお本書は、奥書や蔵書印などから天正3年(1575)まで丹波氏と並ぶ医者の家をルーツに持つ半井(なからい(和気(わけ))家に伝わったあと、医者吉田宗恂(よしだそうじゅん、1558-1610)を経て、医者多紀元堅(たきもとかた、1795-1857)の手に渡って多紀氏の文庫聿修堂(いっしゅうどう)に入り、明治維新後帝室博物館に移ったのち、当部所蔵となったことがわかる。
(図書寮文庫)
延喜式は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちのひとつである式を官司別に編纂したものである。醍醐天皇(885-930)の命により、延喜9年(905)に編纂がはじめられ延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行された。
本書は50巻に上表・目録・歴運記を収めた別冊をあわせた51冊からなる。巻5以下19冊には坊城俊方(ぼうじょうとしかた、1662-?)が貞享5年(1688)正月より同5月にかけて書写した旨の奥書がある。残りの32冊は他の人の筆とみられている。ちなみに巻13は、版本もしくは版本を祖本とした本より書写されたものである。塙家の蔵書印である温故堂文庫印、塙保己一(はなわほきいち、1746-1821)が創設した和学講談所の印等が捺されている。
本書は「貞享本」(じょうきょうぼん)の名で広く知られ、文政11年(1828)に出雲松江藩から刊行された本(雲州本)等で校訂に用いられている。
(図書寮文庫)
明応5年(1496)正月7日、前関白九条政基(まさもと)とその嫡男で権大納言・左大将の尚経(ひさつね)が、自邸で殿上人の唐橋在数(からはしありかず)を殺害する、という事件が起こった。九条家の家政職員でもあった在数は、かねてより九条家領の経営をめぐって政基・尚経父子と対立しており、政基より出仕を禁じられていたにもかかわらず九条邸に押しかけ、父子と口論の末に殺害されたのであった。
前関白と現任の公卿が殿上人を殺めるという大事件に朝廷は動揺し、事件の処理は紛糾した。さらに、殺された在数と同族の公家たちが団結して厳しい処分を求めたことで、争点は尚経の解却(げきゃく、免官)の可否となり、そもそも最上位の摂関家の者を解却してよいのかどうかが議論された。
本文書は、この点に関して太政大臣一条冬良(ふゆよし)が後土御門天皇の勅問に答申したものである(画像はその前半)。事件を「言語道断の次第」とし、尚経の解却を「聖断」(天皇のご判断)に委ねるとしながら、軽率な解却はかえって朝儀の軽視を招く、と慎重な処分を求めている。結局、尚経の解却は見送られ、九条父子には出仕停止のみが言い渡された。
(図書寮文庫)
後柏原天皇(第104代、1464-1526)主催の禁裏着到和歌。着到和歌とは、定められた参加者達が指定の場所に出向いて、決まった題の歌を毎日1首ずつ詠んで、各々が書き込む、和歌の形式を指す。和歌の稽古は勿論、参加者の関係強化にも役立ったという。節日(せちにち、季節の変わり目にあたり年中行事のある日、節句)から始め、100日間で100題100首を詠じるのが一般的であった。
この時は永正2年(1505)3月3日から始めており、本資料は3月「十九日」、「雨後苗代」の題で詠じた1日分に相当する。冷泉永宣(れいぜいながのぶ、1首め)三条西実隆(さんじょうにしさねたか、2首め)等の廷臣が参内し、各々歌を詠み記した。3首め、無記名の「山もとのなはしろ…」歌は後柏原天皇の御製である。先着順のため、御製が後ろのほうに書かれることも多い。出詠者それぞれ御家流(おいえりゅう)の整った字ではあるが、「雨」「田」などの小さな変化も、原本ならではの楽しみである。
後柏原天皇は、応仁・文明の乱で荒廃した京都において、朝儀の復興に力を注がれた。詩歌や学問に造詣が深く、書を能(よ)くすることでも知られている。令和8年(2026)は後柏原天皇の五百年祭にあたる。