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(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(図書寮文庫)
この文書は,後鳥羽上皇(1180-1239,在位1183-98)が「二条中将」と呼ばれた飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に与えた院宣である。承元3年(1209)のものと推定される。近江国伊庭荘(いばのしょう,現在の滋賀県東近江市一帯)に課されたなんらかの税負担について,伊勢神宮内宮の式年遷宮と重なって立て込んでいるけれども,ぬかりないように納めよと命じる内容のもの。奉者は後鳥羽上皇の近臣の民部卿藤原長房(ながふさ,1170-1243)か。伊庭荘の一部は九条家領だったと思しいが,これに飛鳥井雅経がなぜかかわったのかは明らかでない。
九条家本『賭弓部類記』巻2の紙背に残された1通で,『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
九条家本『日王苑寺十二箇条起請』の紙背(裏)に残された,鎌倉幕府の重臣大江広元(おおえのひろもと,1148-1225)の書状。もとは京都の官人であった広元は,源平合戦のころに鎌倉に下って源頼朝に仕え,幕府の樹立に貢献した人物で,頼朝没後も北条政子・義時姉弟をたすけて幕政を支えた。
掲出の画像は,2枚続きの広元書状の第2紙で,壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡して間もない元暦2年(1185)4月のものと推測される。京都の官人から受けた訴訟に対して,一部を除いて鎌倉幕府の管轄外であるので後白河院のもとに訴え出よ,としている。その上で「天下の訴訟も世間の政務も,みな後白河法皇の御沙汰である」と述べていることは,平氏滅亡直後の後白河院と鎌倉幕府との関係を物語るものとして興味深い。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
本品は「鍬形石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。鍬形石の原形は,ゴホウラという奄美大島以南の海で採集される巻貝から作られた腕輪であると言われている。弥生時代の九州地方では,実際に身につけてその人の身分を示す装身具であったと考えられている。この貝製の腕輪が古墳時代には,材質が石へと変化し,実際に身につけるというよりは,所有することに意義を持つ宝物として副葬されるようになった。
本個体は,奈良県の巣山古墳から出土したと伝えられており,最大の特徴は中央部にある突起が左側にある点である。左側に突起がある例としては,奈良県島の山(しまのやま)古墳から出土した可能性がある一例に限られている。
鍬形石という名前は,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が命名したとされている。よって,古墳時代に何と呼ばれていたかは明らかでなく,その用途や作られた場所,さらには流通などについても謎の多い出土品である。
(図書寮文庫)
武蔵国の多摩川下流域南岸,現在の神奈川県川崎市中原区から高津区にかけての一帯に,かつて稲毛荘(いなげのしょう)と呼ばれる荘園が存在した。藤原摂関家の荘園で,12世紀後半には東西に本荘と新荘に分かれ,いずれも九条家に伝領されたが,鎌倉時代中ごろまでには周辺の武士の勢力が及んで九条家の支配は実態を失ったと考えられる。
九条家本『中右記部類』巻2の紙背(裏)に残された本文書は,承安元年(1171)にその稲毛本荘の田数を調査・報告(検注という)したものである。冒頭の1紙しか残存していないが,263町8段180歩の全田地のうち1町2段の荒田があるものの,平治元年(1159)の検注以降に開発した新田として55町余を検出していることなどがわかる。また,荘内に稲毛郷・井田郷・小田中郷などの郷が存在したこともうかがえる。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部から,昭和47年に出土した円筒埴輪である。本例は,その上半部分が欠損しており,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。底部での直径は約30㎝,現状での高さは約37㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳に見られる埴輪の中で最も多く作られた種類と言える。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡が見られる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪の中で,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(図書寮文庫)
「公卿補任」(くぎょうぶにん)とは,年ごとの公卿(三位以上)の官員録である。掲出画像は,九条家本『中右記部類』巻5の紙背(裏)に残された天平元年(729)~神護景雲3年(769)の「公卿補任」の断簡のうち天平9年の条で,藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂(むちまろ・ふささき・うまかい・まろ)の四兄弟の官歴が記されている(麻呂は左端に名前のみ)。4人は大宝律令の制定に貢献した藤原不比等の息子で,大化の改新で活躍した鎌足の孫にあたる。妹の光明子が聖武天皇の皇后(光明皇后)になるに及んで,天皇の外戚として権勢をふるったが,折しも流行していた疫病に罹って,天平9年に4人とも相次いで死没した。
この『中右記部類』紙背の「公卿補任」は,没年にその人の官歴を列記しており,一般に知られた流布本とは形態を異にする。古態を示すものとして注目される。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
玉は,古来,装飾品として世界中の人々に好まれてきた。日本においても例外ではなく,「美しい石」と聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは,翡翠(ひすい)であろう。翡翠の透明感のある緑色は,時代を問わず人々を魅了している。写真の勾玉は,その翡翠(=硬玉)で作られたものである。
勾玉は縄文時代から作られ始め,弥生時代,古墳時代の多種多様な玉の中でも確固たる位置を占め続けた。本例は,写真では大きく見えるが,実際の長さはわずか8㎜足らずと非常に小さいものである。しかし,形を「C」字状に整え,孔をあけ,表面を磨くなど,小さいながらも丁寧に作られており,これが大きな特徴と言える。このような勾玉は,日本列島の中では,弥生時代の北部九州で盛んに作られており,一部は古墳時代にも継続して作られている。本例の出土地は山口県の西部に位置しており,地理的に隣接していることから,弥生時代か古墳時代のいずれかに九州から持ち込まれたものである可能性が考えられる。
なお,書陵部では「前田古墳」出土品として保管しているが,正確な出土場所はわからなくなっており,実はその場所が古墳であったかどうかも不明である。
(宮内公文書館)
本資料は,青山練兵場(現在の明治神宮外苑)内に生えていたヒトツバタゴ(俗称ナンヂャモンヂャ)の写真で,明治41年(1908)4月,東京帝国大学農科大学教授であった白井光太郎氏より明治天皇へ奉呈されたものである。江戸時代以来,同地に生えていたヒトツバタゴは,長くその名称がわからず,「ナンヂャモンヂャ」と呼ばれていた。
ヒトツバタゴの自生する一帯は,明治19年(1886)に青山練兵場とされるが,同木は保存され,さらに大正13年(1924)に天然記念物にも指定されている。しかし,昭和8年(1933)に老木ということもあり枯れてしまう。現在,聖徳記念絵画館の前に残されている木は,白井氏が接ぎ木した2代目であるという。また,写真の背景には,近衛兵や軍馬,建物なども写り込み,当時の青山練兵場の様子をよく伝えている。
明治天皇には,全国からこうした写真や報告書など多くの文書が奉呈されており,それらは「明治天皇御手許書類」として,宮内公文書館に所蔵されている。当館では,これら資料のデジタル化を進め,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムにて,順次公開している。併せて御参照いただきたい。
(宮内公文書館)
本資料は,明治6年(1873)7月に旧紀州藩主の徳川茂承(とくがわもちつぐ)へ二万円が下賜された際の記録である。本資料を含む「恩賜録」には,明治以降,皇室からの賜金・賜物の記録が収められている。
明治6年(1873)5月5日,それまで明治天皇と皇后(昭憲皇太后)のお住まいや宮内省が置かれていた皇城(旧江戸城西の丸)は全焼し,新たに赤坂離宮が仮皇居として定められた。赤坂離宮は,もとは紀州藩徳川家の屋敷であった。それを明治5年(1872)3月に徳川家が宮内省へ献上し,東京へ行啓した英照皇太后のお住まいとされていた。しかし,仮皇居に定められたことによって明治天皇,皇后(昭憲皇太后),英照皇太后のお三方が住まうことになり,「手狭」となっていた。そうしたところ,明治6年(1873)7月新たに赤坂離宮に地続きの地所(後の青山御所に当たる地所)が徳川家から献上された。そして仮皇居へは明治天皇と皇后(昭憲皇太后)が,青山御所へは英照皇太后がそれぞれお住まいになることとなった。
本資料は明治6年(1873)7月の献上に対する下賜金を示したものである。さらに,その賜金は炎上後,各地からの献金によって賄われたことがうかがえる。なお,この「恩賜録」をはじめ,宮内公文書館の所蔵資料は順次目次情報を公開している。併せて御参照いただきたい。
(図書寮文庫)
悠紀主基屏風は,大嘗会に際して卜定(ぼくじょう,占いによって決定される意)された悠紀・主基両国郡の名所風俗を絵に描き,悠紀・主基それぞれ六曲一双(6面で一隻の屏風2隻を一組としたもの)として制作されるもので,大嘗会毎に新調されるのを例とした。また,両国郡に因んだ和歌が詠進され,色紙形(しきしがた)とよばれる料紙に万葉仮名で書かれて屏風に貼られた。完成した屏風は,大嘗会後の節会で披露された。
大嘗会は応仁の乱(1467-77)以降行われなくなり,江戸時代前期の第113代東山天皇御即位の時(貞享4年,1687)に再興されたが,大嘗会の和歌詠進は,第115代桜町天皇の元文3年(1738)の大嘗会にようやく復活した。
掲出の図書は,その時の詠進者2名―悠紀国(滋賀県):烏丸光栄(からすまる みつひで),主基国(京都府):日野資時(ひのすけとき)―がそれぞれ18首ずつの和歌を自筆で記した懐紙原本である。詠進者の烏丸光栄・日野資時は共に日野一流で,当時著名な歌人として知られた公家であった。
文中にみえる六帖とは,1年12ヶ月を2ヶ月分で1回,月次和歌(つきなみわか)3首として詠進するため,その回数を6回(12ヶ月÷2ヶ月)と考えることによるもの。和歌は,悠紀・主基各18首(3首×6回)となる。もと外記局に伝来。
明治時代以降は歌数に変化があったが(明治各2首,大正以降各4首),令和度においても悠紀主基屏風は,名所が描かれた屏風一隻ごと(合計4隻)にそれぞれ和歌2首(合計8首)の色紙形が貼られ,大嘗宮の儀のあとに催された大饗の儀で披露された。
(図書寮文庫)
第113代東山天皇の御即位に伴う貞享度の大嘗会(貞享4年,1687)に際し調進された装束や調度品ほかを描いた小形の折本(おりほん,経典のように折りたたんだ形態の図書)。理由は不明であるが料紙に直接描いた絵と,別紙に描いて貼られた絵とがある。右の絵は,渡御の際に天皇の頭上を覆う御菅蓋(おかんがい)と呼ばれるものを描いたもので,令和度の大嘗会でも同様のものが用いられている。左の絵は,冠にさす挿頭(かざし,挿花頭とも書く)の一種で心葉(こころば)という。これらは金属で作られたが,絵はそのことがよくわかるように描いている。ほかにも大嘗宮内の調度品や神饌(しんせん,お供えの酒食)等の絵がある。
掲出の図書は,朝廷にあって出納(すいのう,儀式の調度品や文書類の出納を行う職)を務めていた平田家に伝来したもので,応仁の乱後中絶していた大嘗会がようやく再興されたところから,今後の参考資料とするため念入りに描いたものと推測される。
(陵墓課)
本資料は,明治45年に現在の岡山市北区新庄下の榊山古墳(さかきやまこふん)から出土したと伝わる金銅製の金具であり,馬具の一種と考えられている。直径が約5センチで半球形を呈し,溶かした銅を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造(ちゅうぞう)」で成形されている。側面には左を向いた2頭の龍の透かしがみられ,彫金(ちょうきん)技術によって龍の眼、口、脚などが立体的に表現されている。当時の日本列島における金工技術の水準を超えたものであり,海外からもたらされた可能性が高い。形態,文様,製作技術に共通点が認められる金具が,中国東北部の遼寧省(りょうねいしょう)に位置する「前燕(ぜんえん)」(337-370年,五胡十六国時代の国の一つ)の墳墓で出土していることから,本品も当地域で製作されたものであろう。
日本列島内で本品のような金具は他に出土しておらず,周辺では韓国南東部に位置する4世紀代の墳墓からの出土が確認されている。本品は中国東北部から朝鮮半島南部を介して日本列島に伝わったと考えられ,当時の東北アジアにおける交流の実態を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
本例は,奈良県大和高田市に所在する磐園(いわぞの)陵墓参考地から出土した鰭付(ひれつき)円筒埴輪である。
鰭付円筒埴輪とは,円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部を取りつけているもので,板状部分をヒレに見立てて,そう呼び習わしている。おもに古墳時代の前期から中期にかけて見られる。
古墳の墳丘上や周囲に埴輪を立て並べる際には,矢の入れ物である靫(ゆぎ)や盾(たて)といった武器・武具の形をした埴輪も並べられることがある。武器や武具は敵を追い払うためのものであることから,埴輪列は,古墳内への侵入を拒み,古墳や被葬者の静安を護ろうとするものであったと考えられる。本例のような鰭付円筒埴輪は,埴輪列に並べる際には,ヒレ同士が接するか,ヒレ同士を重ねるように立て並べることが知られている。埴輪同士の隙間を埋めるという意図が見て取れ,鰭付円筒埴輪も,古墳を護ろうとする意識を表現するものであったと思われる。
本例の復元高は110.0㎝,両側のヒレからヒレまでの最大幅は51.5㎝。本例は,鰭付円筒埴輪の全形をうかがいしることができる貴重な資料である。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,昭和大礼における即位礼・大嘗祭後に催された饗宴(きょうえん)(大饗〈だいきょう〉)の際の献立である。大礼とは,践祚(せんそ)(皇位を継承すること)の後,即位を内外へ広く知らせるために行われる一連の儀式である。昭和天皇の即位礼は,昭和3年(1928)11月10日に京都御所にて挙行された。11月14日・15日の大嘗祭(だいじょうさい)を終えると,16日・17日の2日間にわたって大饗が催された。京都御所の東側に仮設された饗宴場にて,天皇・皇后の御臨席のもと,皇族,内閣総理大臣以下閣僚,官僚,各国大公使などを招いて行われた。1日目の「大饗第一日の儀」は944名が,2日目の「大饗第二日の儀」は203名が,同日の「大饗夜宴の儀」は2,779名がそれぞれ参列した。
写真は,17日の「大饗第二日の儀」の献立である。朱塗りの門を彩色で描いた表紙(写真右側)を開くと,写真左側には西洋料理のコース(和文・仏文)が見える。献立には鼈清羹(スッポンのコンソメスープ),鱒蒸煮(マスの料理),鶉煮冷(ウズラの冷製),牛肉焙焼(牛フィレ肉),凍酒(シャンパンのシャーベット),蔬菜(セロリのサラダ),七面鳥炙焼(七面鳥のロティ),温菓(デザート)というメニューが並んでいる。
(図書寮文庫)
平安中期の歌人として名高い和泉式部(生没年未詳)の日記。帥宮敦道親王(そちのみやあつみち,冷泉天皇皇子,981-1007)との恋愛のはじまりを,二人の贈答歌を中心に物語風に綴った作品。日記は長保5年(1003)4月,為尊親王(ためたか,冷泉天皇皇子,977-1002)と死別した和泉式部のもとに、その弟の帥宮から文が届けられる場面から始まり,和泉式部が帥宮邸に引き取られた翌年の正月,帥宮の正妻が宮邸を退去した場面で終わる。
身分差のある二人が和歌を詠み合うことで,交流を深めていくさまが読み取れる(掲げた画像中,2字下がりの部分が和歌)。
この図書寮文庫本は三条西家旧蔵本で,室町時代を代表する公卿三条西実隆(1455-1537)の書写と伝えられ,多くの活字本の底本として用いられている。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代末期から戦国時代初期に上野国の新田岩松氏に仕えた長楽寺(現在の群馬県太田市に所在)の僧,松陰軒(1438-?)の回想録。新田岩松氏の動向や関東の状勢を伝える貴重な史料だが,松陰軒の自筆本は現存せず,新井白石(1657-1725)が書写した本書も第1・3を欠いて全文は伝わらない。
画像は,文明8年(1476)に関東管領上杉顕定の重臣長尾景春(1443-1514)が主家に対して起こした「長尾景春の乱」に関する箇所(第5)。このころ,上杉氏は利根川を挟んで古河公方足利氏と争っていた(享徳の乱,1454-82)が,景春は主人顕定らと対立して,鉢形城(現在の埼玉県寄居町に所在)に立て籠もった。翌9年,景春は上杉方の本陣武蔵五十子(いかっこ/いかつこ,現在の同本庄市)を壊滅させたものの,各地の景春派は上杉方の太田道灌らに鎮圧され,古河公方と結んで抵抗を続けた景春もまもなく没落した。その後も再起を繰り返し,晩年には越後の長尾為景(上杉謙信の実父)や伊豆の伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)と結んで顕定と戦い続けた景春は,関東の戦国時代の幕開けを象徴する人物のひとりに数えられる。