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(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
本資料は,大と小のセットで作られた刀剣の柄頭(つかがしら)である(写真左幅5.0㎝)。柄頭とは,刀剣の握る部分(柄)の端のことで,装飾が施されたり,本資料のような装飾のための部品が装着されたりすることが多い。本資料のように,柄頭が環状(かんじょう:輪のような形)になっているものを環頭柄頭(かんとうつかがしら)と呼ぶ。本資料の環頭は,かまぼこの断面のような形をしており,中央に三つ叉の装飾を配している。この三つ叉の部分を植物の葉に見立てたことから,三葉環頭(さんようかんとう)の名がある。
本資料にはわずかに金色が見られることから,大・小ともに,銅で作られたのちに金メッキを施した,金銅(こんどう)製と考えられている。本資料と類似したものは,日本の古墳時代と同時代に朝鮮半島南東部に存在していた古代国家,新羅の勢力圏内から多く出土していることから,本資料も新羅からもたらされた可能性がある。
(陵墓課)
本資料は,馬鐸(ばたく)と呼ばれる馬具の一種で,装飾や音による効果を意図してウマの体に吊したベルである。写真左端のもので現存長12.5㎝,溶かした銅を型に流し込んで作った鋳造品である。
当参考地からは,計4点の馬鐸が出土しており,その文様から2点ずつの二つの群に分類することができる。一つは左側2点の「王」と「☓」を組み合わせたような線で分割するもので,もう一つは右側2点の「三」と「☓」を組み合わせたような線で分割するものである。分割線の外側には珠文(しゅもん:粒のように見える小さな円形)を配している。各群の2点は互いに文様が酷似しているものの,細部をみると完全には一致しないようである。これらの文様は,鐸身の片面のみにみられ,反対面は無文である。
なお,当参考地では鹿角(ろっかく)製と考えられる舌(ぜつ)(馬鐸の内部に吊って,音を鳴らす部材)も1点みつかっている。
(陵墓課)
本資料は,横長の鉄板(横矧板(よこはぎいた))を主要な部材として,各パーツを鋲(びょう)で留めた,鉄製の冑(かぶと)である(高さ15.8㎝)。被った時に正面にくる部分(写真左側)が鋭角に尖っている点が特徴的で,こうした形の冑は,その部分を衝角(しょうかく:軍艦船首の喫水線の下に装着された,体当たり用の武装)に見立てて,「衝角付冑」と呼ばれている。
古墳時代になると,武器や防具は鉄で作られるものが主流となり,数が飛躍的に増えるとともに,技術や性能の面でも著しい発達を遂げていく。古墳時代に盛んとなった東アジア諸国との交流によって海外からもたらされたものや,その影響を受けて日本で製作されるようになったものがあるが,本資料のような衝角付冑は,日本で伝統的に作られてきた冑の系譜に連なるものである。全体の形はほとんど変化しないが,鉄製のパーツをつなぎ合わせる方法が,当初は革紐(かわひも)を通して結び付けていたものが,鉄製の鋲で留める方法へと変化していくことが知られている。
(陵墓課)
本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
(陵墓課)
本資料は「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれる鏡の一種で,現状での直径は9.6㎝である。全体が銹(さび)に覆われているが,レントゲン写真によって文様や銘文の詳細が判明した。
鏡裏面の中心には紐(ひも)をとおすための「鈕(ちゅう)」と呼ばれる盛り上がりが作られ,その周りには,コウモリが翼を広げたような形の文様が4方向に配置されている。4つのコウモリ形の文様の間には,「長」,「宜」,「子」,「孫」の字が配置されている。これは,「長く子孫に宜(よろ)し」と読み,「(この鏡を持てば)子孫が長く繁栄します」という意味である。
本資料は,文様の特徴でみると,中国の後漢で2世紀前半に製作されたものとなる。一方,この鏡が出土した妻鳥陵墓参考地は,他の出土品からみて6世紀代に築造されたものだと考えられ,製作されてから日本で副葬されるまでに,四百年前後の時間差がある。この間,どのような人の手を経てきたのかは分からないが,日本の古墳時代における鏡の存在意義を考えるときには,非常に興味深い事例である。
(陵墓課)
本資料は,水晶(すいしょう)で作られた切子玉(きりこだま)である(写真左上の長さ1.5㎝)。切子玉とは,中位が最も太く上下に向けて細くなっていく形で,上下の斜面が多面体に加工された玉のことである。糸を通し,切子玉のみか,あるいは管玉などの他の種類の玉を交えて連ね,装飾品として身にまとっていたものと考えられる。
水晶は透明であるため,玉にあけられた孔の形を横から観察することができる(写真で,各玉の真ん中で白く濁っている部分)。本資料では,いずれの個体の孔も,写真上側から下側に向かって細くなっている。このような孔の形は,孔の太い側に穿孔具(せんこうぐ)の鉄製の錐(きり)や針を当てて回転させ,細い側に向かって,片側から孔をあけたことを示している。
(宮内公文書館)
本図は,新宿御料地(現在の新宿御苑)の総図で,明治20年(1887)から同24年頃に作成されたと推定される。図面左が北の方角で,左下の方向に現在の新宿駅がある。建物や田畑等の位置が示されておらず,御料地内の詳しい様子は分からないが,現在の新宿御苑とは異なる区画がうかがえる点で貴重な一枚である。図面中央下の特徴的な池が,鴨猟の行われる鴨場である。鴨場は明治13年12月から翌年6月にかけて新たに整備された施設で,明治35年に廃されるまで,皇室の狩猟場としての役割を担っていた。
(宮内公文書館)
本資料は,「新宿御苑総図」と称される図面で,大正10年(1921)に調査を行い,翌11年に作成された。縮尺1200分の1。総面積は18万4731坪とされ,現在,環境省が所管する敷地(約17万6千坪)よりも,若干大きかったことが分かる。御苑内は,自然の景観美を追求したイギリス風景式庭園,花壇を中央に左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園,中心に池を設け,その周囲を巡りながら観賞する日本庭園が構成されており,現在と同様の姿がほぼ出来上がっていることがわかる。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(宮内公文書館)
昭和初期に撮影された新宿御苑内の御凉亭(ごりょうてい)(台湾閣)と目の前の池の写真(部分)。当時としては珍しいパノラマ写真である。御凉亭は,皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念して台湾在住者から贈られ,昭和2年(1927)に竣工した。裕仁親王は大正13年(1924)4月12日より5月1日まで,台湾へ行啓しており,台湾側はそれに感謝の意を表すため,募金活動を実施し,御涼亭の献上に至った。戦災を免れ,現在まで新宿御苑に伝わる貴重な建物の一つである。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)4月17日に開催された観桜会での昭和天皇と香淳皇后。ご即位後,初めての観桜会であった。春に催される観桜会は現在の園遊会と同様の行事として,秋の観菊会(かんぎくかい)とともに内外の要人を招待する皇室行事であった。それぞれ桜と菊の観賞を目的にした社交の場として催されている。明治14年(1881)に吹上御苑で始まった観桜会は,明治16年から大正5年(1916)まで浜離宮で行われていたが,浜離宮は「狭隘(きょうあい)」との理由から会場を変更し,大正6年から新宿御苑が観桜会の会場となった。
(図書寮文庫)
この無垢浄光経相輪陀羅尼は,百万塔陀羅尼といわれるものの一つで,神護景雲4年(770)に我が国で初めて印刷されたものである。年代の判明している印刷物としては,世界最古。天平宝字8年(764)に起こった恵美押勝の乱後,第48代称徳天皇(718-70,御在位764-70)の発願により,延命・除災を願う経文「無垢浄光経陀羅尼」を100万枚印刷させ,それぞれを百万基の小塔に納め,法隆寺を始めとする10か寺に10万基ずつ安置されたものである。陀羅尼は,根本・相輪・六度・自心印の4種類あり,主として麻紙(麻の繊維を原料とした和紙)に印刷されたが,その版は銅版説と木版説とがあり,どちらであるかはいまだ定説をみない。ちなみに,版木(銅版も含む)によって印刷される方法を整版という。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に著わされた大毘廬遮那成仏経巻20の注釈書を,鎌倉幕府の要職にあった安達泰盛(あだちやすもり,1231-85)が願主となり高野山で開版(版木を作成し印刷・出版すること)・刊行されたものである。ちなみに大毘廬遮那成仏経は,大日如来の功徳を説いた経典で,真言宗の基本経典の一つ。経疏とは注釈書の意である。
高野山では経典や注釈書などが開版され,地元産の厚手の和紙に印刷された。これらを高野版と称している。出版方法は,版木に文字を彫る整版法である。泰盛は,高野山に深く帰依しており,そのため開版の願主となったのであろう。本書には,泰盛開版を示す弘安2年(1279)の刊記(出版の趣旨を記した文章)がある。泰盛はのち霜月騒動(弘安8年)で一族とともに滅亡した。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉末期に禅僧虎関師錬(こかんしれん,1278-1346)によって,我が国への仏教伝来から700年間の歴史や高僧400余人の伝記などを著述した仏教書で,永和3年(1377)頃に東福寺で開版・刊行されたものである。書名の由来は,元亨2年(1322)に朝廷に献上された仏教書(釈書)であるところからの命名という。鎌倉末期以降,京都・鎌倉などの禅宗寺院(五山)では,経典や高僧の語録などが開版されたが,これらは五山版と称される。本書も整版法による出版である。捺されている蔵書印から安土・桃山時代の妙心寺の禅僧功澤宗勲の旧蔵書であったことがわかる。
(図書寮文庫)
本書は,奈良期に舎人親王等によって編纂された『日本書紀』神代巻を,慶長4年(1599),第107代後陽成天皇(1571-1617,御在位1586-1611)の命によって木製の活字によって印刷したものである。印刷された時期や天皇の命によるものであるところから,慶長勅版と称される。天皇は,朝鮮半島よりもたらされた銅活字の印刷技術を参考とし,木製活字を作らせこの事業を行ったという。『日本書紀』のほかにも『大学』『職原抄』など15種類の図書を刊行した。それらは100部程度印刷され廷臣に下賜された。本書は蔵書印から,公家の野宮家に伝来したものであったことがわかる。以降,江戸初期には,活字による印刷が盛んに行われるが,その端緒がこの勅版の刊行によるものとされる。江戸初期に活字で印刷された図書を,特に古活字版と称す。
(図書寮文庫)
本書は,西洋の『イソップ物語』の邦訳を,江戸初期の寛永頃(1624-44)に木製活字によって印刷・刊行されたものである。戦国期に来日したキリスト教の宣教師は,布教のため日本語習得に努めたが,その材料として『平家物語』などのローマ字版の作成・刊行を行った。これらはキリシタン版と称される。本書は,キリシタン版から派生したと考えられるもので,邦訳された物語本文を木製活字によって印刷されている。邦訳を誰が担ったかは不明であるが,西洋文学を,初めて我が国に伝えたものとして特筆すべきもの。蔵書印の存在から,国学者屋代弘賢(1758-1841)の所蔵を経て,阿波国の大名蜂須賀家(阿波国文庫)の蔵書となった。
なお,掲出の中巻「十三 犬ししむらの事」は,犬が肉をくわえて橋を渡った際に,水に映った自分の姿を見て,自分がくわえている肉よりも水に映った肉のほうが大きいと勘違いし,その肉を食べようとして自分がくわえていた肉を川の中に落としてしまうという欲望を戒めるあの話である(現在のイソップ童話では,「犬と肉」あるいは「欲張りな犬」と題されることが多い)。「ししむら」とは,一片の肉の塊をいう。漢字では,肉村又は臠と書く。
(図書寮文庫)
本書は,江戸後期の蘭学者杉田玄白(1733-1817)らがオランダ語訳の医学書『ターヘル・アナトミア(解剖図表)』を翻訳し,安永3年(1774)に刊行したものである。玄白らは明和8年(1771)刑死人の解剖に立ち合い,『ターヘル・アナトミア』所載の挿図が正確なことに刺激を受け,同書の翻訳を思い立ったとされる。その苦労の様子は,玄白の著『蘭学事始』に記される。また秋田蘭画の小田野直武(1749-80)の手になる挿図模写は,原書と比較しても精巧であり,本書の価値を一層高めている。本書の出版法は,整版によっている。整版は,再版や訂正がしやすいというメリットがあり,江戸中期以降はほとんど整版法によっている。本書は,江戸幕府の儒官を務めた古賀家の旧蔵書。