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(図書寮文庫)
明の皇帝神宗(万暦帝)が李宗城(りそうじょう)を正使として豊臣秀吉に宛てた明・万暦23年(文禄4年〈1595〉)1月21日付の勅諭(皇帝からの訓告)の原本。秀吉の出兵に対する具体的な講和条件などを述べた後,皇帝からの贈呈品リストを付す。なお,正使が逃亡したため,この勅諭がそのまま使われることはなかった。本紙は縦53.2cm,横172.8cm。掛幅全体の大きさは縦横ともに190cm程度で,畳2畳分を超える大きさである。本紙末尾の蔵書印により幕末の儒学者佐藤一斎(1772-1859)が所蔵していたことがわかる。
(図書寮文庫)
第108代後水尾天皇(御在位1611-29)の御落飾後を描いた掛幅。尾形光琳(1658-1716)画。後水尾天皇は学問や和歌などの文芸にご関心が深く,江戸幕府との難しい関係の中,宮廷文化の復興に力を注がれた。
なお,光琳の落款を見ると,法橋(ほつきよう,本来は僧に授与する位だが仏師や絵師にも授けられた)とあり,光琳が法橋に叙せられた元禄14年(1701)以降の作品だとわかる。後水尾天皇は延宝8年(1680)に崩御されているので,制作年代に疑問があるようにみえる。しかし,貴人の肖像画は,原画に拠って描かれることが多く,ここでも公家が描いた下絵をもとに,描かれたものだと思われる。
(図書寮文庫)
「皇女和宮」(かずのみや)として名高い静寛院宮親子内親王(ちかこ,1846-77)の御直筆の日記。画像は,日記冒頭の慶長4年(1868)1月9日,12日条。徳川慶喜やその周辺の様子を時々刻々記されている。親子内親王は孝明天皇の妹,明治天皇の叔母にあたる。夫である江戸幕府第14代将軍徳川家茂を亡くし,皇女であり,かつ将軍家御台所でもあった複雑な立場で,時代が激しく移り変わる明治初期を記されており興味深い。全5冊。
(図書寮文庫)
江戸時代の宮廷行事を記録するために,岩倉具視の命により中山忠能(なかやまただやす)らが編纂した儀式書並びに折帖の附図よりなる。明治20年(1887)完成。恒例・臨時あわせて169の行事を記録し,39の行事を絵画化した。図は北小路随光(きたこうじよりみつ)・樋口守保(ひぐちもりやす)らの手になる。画像は豊明節会(とよのあかりのせちえ,新嘗祭に付随する行事)の五節舞姫(ごせちのまいひめ)の様子。
(図書寮文庫)
天明8年(1789)正月30日,京都で発生した大火の影響で仮住まいを強いられていた後桜町天皇が,2年後に新造された仙洞御所に遷幸された際の行列の様子を描いた彩色の絵図。このときの遷幸に関しては文字資料として,当部所蔵の「院中評定日次案」(いんちゅうひょうじょうひなみあん,函架番号260-58)があって,公家にかかわる行列の詳細が記されているが,本資料には公家たちのほかに,その前後の町人や武家の姿も描かれている。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。
(図書寮文庫)
「蝦夷図」(えぞず)と「唐太島見分麁絵図」(からふととうけんぶんそえず)からなる江戸末期の写本。「蝦夷図」は現在の本州最北部から北海道を彩色画で描き,各地の名称や簡単な地誌等が書き込まれている。本州および北海道南部には,道や航路が示されて交流の様子がうかがえるが,「蝦夷地は広大なため縮めて省略する」との注記があるように,全体の姿は現在の地図によってイメージされる北海道とはまったく異なる姿になっている。
(図書寮文庫)
寛元元年(1243),肥前国松浦(まつら)から宋に渡ろうとした一行が琉球国へ流され,そこから改めて宋へ渡って帰国するまでの見聞記。本史料は僧侶の慶政(けいせい)が,漂流者から直接様子を聞き取ったもので,漂流の様子と琉球国にかかわる記事に特徴がある。絵画の部分は,漂流者を宋へ送り届ける琉球国の人々の様子を描いている。
(図書寮文庫)
清和源氏と徳川氏の系図各1鋪からなる江戸中期の版本。それぞれ,清和天皇と徳川家康の父広忠(ひろただ)を円の中心として,同心円状に徳川将軍家の系譜を中心に記述している。冊子状の系図は,世代が進むに従って頁を繰る必要があるが,この資料は各世代を同心円内に記載することで,一見して世代関係が把握できるようにしようとしたものと思われる。
(図書寮文庫)
杉田玄白らが安永3年(1774)に刊行した,日本最初の西洋医学の翻訳書。序文と図からなる1冊と,本文4冊によって構成されている。図と本文は各篇毎に対応していて,各篇内の図には,本文に付された数字などが割り振られ,本文の記述が人体のどの部位を指しているかがわかるように工夫されている。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。
(図書寮文庫)
明治20年(1887)頃の写真で,那覇を中心とした沖縄の風景や人物が撮影されている。沖縄を写した写真としてはかなり古く,明治12年の琉球処分からそれほどの歳月を経ていないだけに,琉球国時代の雰囲気が色濃く残るものとなっている。
(宮内公文書館)
松ヶ岡開墾場は明治5年(1872)から旧庄内藩士族3千名によって開拓された。明治14年の明治天皇東北巡幸時,同所に差遣された北白川宮能久親王(よしひさしんのう)が写真を持ち帰り天皇にお渡しした。蚕室の構造は,富岡製糸場で有名な群馬地方から導入した上州式(二階建ての上に換気用屋根がある)である。また,開墾場では多くの女性が働いていたことも写し出されている。開墾当初は農作物の収獲は見込めないことから,女性たちの養蚕による収入はまさに生命線だったのである。なお明治41年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)が同所に行啓された際,当時と同じ写真が再び献上された。今回のギャラリーではこの時の写真を使用している。
(図書寮文庫)
「琵琶湖疏水工事之図」は,明治20年(1887)に明治天皇が京都府庁に行幸された際,府知事北垣国道(きたがきくにみち)より献上された絵図である。京都府画学校教諭で洋画家の田村宗立(そうりゅう)の指導のもと,学校の優等生徒10名が分担して写景に当たったもので,全3巻,計40図からなる。第一巻・第二巻には工事現場の見取り図が,第三巻には工事竣成後の予想図が収められている。工事における困難や,疏水完成後の姿が期待を込めて美しい彩色によって描かれている。掲載した図は,第一トンネル入口付近の京都側の工事場面を描いたものである。
(図書寮文庫)
明治43年(1910)11月14日,岡山県の岡山孤児院に派遣された侍従が持ち帰った写真帖である。同院は明治37年以降,明治天皇・皇后(昭憲皇太后)から下賜金を賜わるなど,皇室からも注目される慈善活動を展開していた。写真帖には子供達の食事の様子や授業風景の他,著名な会社の寄付で建造された建物(ライオン館),ロシア人や朝鮮人孤児の写真も含まれており,広範な慈善活動の一端が垣間見える。
(宮内公文書館)
日本のスキー発祥の地は新潟県上越市とされている。これは明治44年(1911)1月に,同地でオーストリア国陸軍のレルヒ少佐が日本兵にスキー技術を指導したことに由来する。レルヒ少佐によるスキー指導を記録した写真は,この状況を視察するために派遣された侍従武官が持ち帰ったものと思われる。「雪艇(スキー)」という単語や,ストックが1本だったことなど,新技術として導入されて間もない時期ならではの情報が含まれる。ちなみに上越市のゆるキャラ「レルヒさん」も,先のソチ五輪ノルディックジャンプ男子団体銅メダルメンバー清水礼留飛(れるひ)選手の名前も,レルヒ少佐に由来している。
(図書寮文庫)
平安時代初期に成立した勅撰の儀式書。上中下の3巻よりなるが,当部所蔵書は中巻のみの1巻。表紙・本文第1紙は九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の筆により,本文第2紙以降は鎌倉時代末期の書写とみられる。
画像は冒頭の奏成選短冊式(じょうせんたんざくをそうすしき)の部分で,2月に行われる列見(れけん,位階の昇進の決まった官人を面接する儀式)に続いて,位階が昇進する官人の名簿等を奏上する儀式。ちなみに本書では4月11日となっているが,「本朝月令」(ほんちょうがつりょう)に引用された「貞観式」(じょうがんしき)の条文には同儀式は4月7日となっており,「貞観式」において式日が変更されたことが分かる。
(図書寮文庫)
10世紀前半の成立と考えられている惟宗公方(これむねのきんかた)の撰による現存最古の年中行事書。本書は建武3年(1336)の九条道教(くじょうみちのり)の一見奥書(一覧したことを記す奥書)を持つ現存最古写本であり,4月から6月までの行事を収める。
画像は5月6日の競馬(くらべうま)の箇所で,5月5日,6日の両日に騎射(うまゆみ)とともに行われる。本書の特徴は様々な典籍の引用であるが,画像に「弘仁馬寮式」「貞観馬寮式」「貞観内匠式」とあるのは,「弘仁式」(弘仁年間〈810-24〉に編纂,天長7年〈830〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮の式や,「貞観式」(「弘仁式」を訂正,増補し,貞観13年〈871〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮,内匠寮の式の条文の一部である。「弘仁式」や「貞観式」は典籍としては現存しないので,「本朝月令」に引用されたこれらの条文は,「弘仁式」や「貞観式」の内容を知るうえで貴重な史料となっている。
(図書寮文庫)
大江匡房(おおえのまさふさ,1041-1111)撰による朝儀・公事の次第を詳述した書。後西天皇宸筆とされる「行類抄」(ぎょうるいしょう)との外題があるが,内容より「江家次第」巻5とみられ,本来,東山御文庫に伝来する同書と一巻をなしていた。
画像は2月11日の列見の部分。東山御文庫本はこの巻5の冒頭を欠き,釈奠(せきてん,孔子及びその弟子をまつる儒教の儀礼)の途中から春日祭の途中までを収めているが,本書はそれに続く部分で,春日祭の途中から季御読経(きのみどきょう,季毎に天皇の安寧と国家の安泰を祈願する仏事)までを収めている。両者を合わせることにより「江家次第」巻5をほぼ網羅することとなる。
(図書寮文庫)
平安時代から清涼殿には,儀式や祭祀等が書き連ねてあった衝立障子が備え付けられていた。本書はそれを書写したものである。甘露寺親長(かんろじちかなが,1424-1500)の奥書を持つ。「百官唐名」(ひゃっかんとうめい,日本の官職名に唐の官職名をあてたもの)と合綴されている。
画像は5月の年中行事の部分で,「平家本」「中家本」といった諸家の本による注記が書き込まれていたり,色分けされた読み方が見えている。これらは本奥書によれば,諸家による読み方毎に色分けしたものであり,行事名の正確な読み方が重要視されていたことが分かる。現在の清涼殿の年中行事障子については,「《京都》御所と離宮の栞(其の三)」(PDF:http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori3.pdf)を参照。