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(図書寮文庫)
本書は,後花園天皇(第102代,御在位1428-64)の宸筆をまとめたもので,画像は永享7年(1435)9月15日,父の貞成親王(さだふさ)に宛てられた御消息(手紙)。天皇17歳の時の書で,貞成親王書写の『金葉和歌集』等が天皇のもとへ献上されたことへの御礼と,和歌が「散らし書き」という書式で書かれている。紙の中途から書き始め,書き進めるにつれて余白に書いていくために次第に字も小さくなるため,大きな文字のグループから読んでいくことになる。
(図書寮文庫)
本書は,後土御門天皇(第103代,御在位1464-1500)の宸筆をまとめたもので,画像は文明13年(1481)9月13日,伏見宮邦高親王(くにたか)に宛てられたもの。天皇40歳の時の書で,親王が琵琶の秘曲「大常博士楊真操」(だいじょうはくしようしんそう)を伝授されたことにお祝いの言葉を述べられ,太刀を賜る旨が書かれている。「散らし書き」の書式で書かれており,本紙右側を3分の1ほど空けて書き始め,行の頭を段々下げて2グループ書き,さらに右端の下半分に続いている。
(図書寮文庫)
本書は,後柏原天皇(第104代,御在位1500-26)宸筆の色紙幅で,金・銀の薄と月の下絵に漢詩と古歌が散らし書きにされている。漢詩は出典未詳,和歌は4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』第235番歌(よみ人知らず)。薄,月は秋の景物であり,漢詩,和歌共に風による秋の到来を実感させるものが選ばれている。
(図書寮文庫)
本書は,後奈良天皇(第105代,御在位1526-57)宸筆の和歌懐紙で,永正9年(1512)七夕和歌御会の際に詠進された,天皇がまだ親王であった17歳の時の書と考えられている。歌は区切れとは関係なく3行と3文字に分けて書かれており,この書き方は現在の歌会始の懐紙でも受け継がれている。
(図書寮文庫)
正和5年(1316)6月作成。和泉国日根荘(ひねのしょう,日根野荘とも,現在の大阪府泉佐野市)は,摂関家である九条家の荘園であった。その荘園開発を一任された久米田寺(くめだでら)が基礎資料として作成した絵図。裏書によって年次が判明する。縦86.2cm,横58.4cm。その景観は現在に残され,日根荘遺蹟の一部は平成10年(1998)荘園遺跡として国史跡に指定された。関西国際空港はこの図の下方,西の方向に位置する。
なお,これを収めた九条家文書とは,九条家に伝来した文書群で,代々の譲状や所領など,家の経済や存続に関連する資料などを集めたもの。『図書寮叢刊』(全7冊,昭和46-52年)にて刊行。全326点。
(図書寮文庫)
明の皇帝神宗(万暦帝)が李宗城(りそうじょう)を正使として豊臣秀吉に宛てた明・万暦23年(文禄4年〈1595〉)1月21日付の勅諭(皇帝からの訓告)の原本。秀吉の出兵に対する具体的な講和条件などを述べた後,皇帝からの贈呈品リストを付す。なお,正使が逃亡したため,この勅諭がそのまま使われることはなかった。本紙は縦53.2cm,横172.8cm。掛幅全体の大きさは縦横ともに190cm程度で,畳2畳分を超える大きさである。本紙末尾の蔵書印により幕末の儒学者佐藤一斎(1772-1859)が所蔵していたことがわかる。
(図書寮文庫)
第108代後水尾天皇(御在位1611-29)の御落飾後を描いた掛幅。尾形光琳(1658-1716)画。後水尾天皇は学問や和歌などの文芸にご関心が深く,江戸幕府との難しい関係の中,宮廷文化の復興に力を注がれた。
なお,光琳の落款を見ると,法橋(ほつきよう,本来は僧に授与する位だが仏師や絵師にも授けられた)とあり,光琳が法橋に叙せられた元禄14年(1701)以降の作品だとわかる。後水尾天皇は延宝8年(1680)に崩御されているので,制作年代に疑問があるようにみえる。しかし,貴人の肖像画は,原画に拠って描かれることが多く,ここでも公家が描いた下絵をもとに,描かれたものだと思われる。
(図書寮文庫)
「皇女和宮」(かずのみや)として名高い静寛院宮親子内親王(ちかこ,1846-77)の御直筆の日記。画像は,日記冒頭の慶長4年(1868)1月9日,12日条。徳川慶喜やその周辺の様子を時々刻々記されている。親子内親王は孝明天皇の妹,明治天皇の叔母にあたる。夫である江戸幕府第14代将軍徳川家茂を亡くし,皇女であり,かつ将軍家御台所でもあった複雑な立場で,時代が激しく移り変わる明治初期を記されており興味深い。全5冊。
(図書寮文庫)
江戸時代の宮廷行事を記録するために,岩倉具視の命により中山忠能(なかやまただやす)らが編纂した儀式書並びに折帖の附図よりなる。明治20年(1887)完成。恒例・臨時あわせて169の行事を記録し,39の行事を絵画化した。図は北小路随光(きたこうじよりみつ)・樋口守保(ひぐちもりやす)らの手になる。画像は豊明節会(とよのあかりのせちえ,新嘗祭に付随する行事)の五節舞姫(ごせちのまいひめ)の様子。
(図書寮文庫)
天明8年(1789)正月30日,京都で発生した大火の影響で仮住まいを強いられていた後桜町天皇が,2年後に新造された仙洞御所に遷幸された際の行列の様子を描いた彩色の絵図。このときの遷幸に関しては文字資料として,当部所蔵の「院中評定日次案」(いんちゅうひょうじょうひなみあん,函架番号260-58)があって,公家にかかわる行列の詳細が記されているが,本資料には公家たちのほかに,その前後の町人や武家の姿も描かれている。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。
(図書寮文庫)
「蝦夷図」(えぞず)と「唐太島見分麁絵図」(からふととうけんぶんそえず)からなる江戸末期の写本。「蝦夷図」は現在の本州最北部から北海道を彩色画で描き,各地の名称や簡単な地誌等が書き込まれている。本州および北海道南部には,道や航路が示されて交流の様子がうかがえるが,「蝦夷地は広大なため縮めて省略する」との注記があるように,全体の姿は現在の地図によってイメージされる北海道とはまったく異なる姿になっている。
(図書寮文庫)
寛元元年(1243),肥前国松浦(まつら)から宋に渡ろうとした一行が琉球国へ流され,そこから改めて宋へ渡って帰国するまでの見聞記。本史料は僧侶の慶政(けいせい)が,漂流者から直接様子を聞き取ったもので,漂流の様子と琉球国にかかわる記事に特徴がある。絵画の部分は,漂流者を宋へ送り届ける琉球国の人々の様子を描いている。
(図書寮文庫)
清和源氏と徳川氏の系図各1鋪からなる江戸中期の版本。それぞれ,清和天皇と徳川家康の父広忠(ひろただ)を円の中心として,同心円状に徳川将軍家の系譜を中心に記述している。冊子状の系図は,世代が進むに従って頁を繰る必要があるが,この資料は各世代を同心円内に記載することで,一見して世代関係が把握できるようにしようとしたものと思われる。
(図書寮文庫)
杉田玄白らが安永3年(1774)に刊行した,日本最初の西洋医学の翻訳書。序文と図からなる1冊と,本文4冊によって構成されている。図と本文は各篇毎に対応していて,各篇内の図には,本文に付された数字などが割り振られ,本文の記述が人体のどの部位を指しているかがわかるように工夫されている。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。
(図書寮文庫)
明治20年(1887)頃の写真で,那覇を中心とした沖縄の風景や人物が撮影されている。沖縄を写した写真としてはかなり古く,明治12年の琉球処分からそれほどの歳月を経ていないだけに,琉球国時代の雰囲気が色濃く残るものとなっている。
(宮内公文書館)
松ヶ岡開墾場は明治5年(1872)から旧庄内藩士族3千名によって開拓された。明治14年の明治天皇東北巡幸時,同所に差遣された北白川宮能久親王(よしひさしんのう)が写真を持ち帰り天皇にお渡しした。蚕室の構造は,富岡製糸場で有名な群馬地方から導入した上州式(二階建ての上に換気用屋根がある)である。また,開墾場では多くの女性が働いていたことも写し出されている。開墾当初は農作物の収獲は見込めないことから,女性たちの養蚕による収入はまさに生命線だったのである。なお明治41年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)が同所に行啓された際,当時と同じ写真が再び献上された。今回のギャラリーではこの時の写真を使用している。
(図書寮文庫)
「琵琶湖疏水工事之図」は,明治20年(1887)に明治天皇が京都府庁に行幸された際,府知事北垣国道(きたがきくにみち)より献上された絵図である。京都府画学校教諭で洋画家の田村宗立(そうりゅう)の指導のもと,学校の優等生徒10名が分担して写景に当たったもので,全3巻,計40図からなる。第一巻・第二巻には工事現場の見取り図が,第三巻には工事竣成後の予想図が収められている。工事における困難や,疏水完成後の姿が期待を込めて美しい彩色によって描かれている。掲載した図は,第一トンネル入口付近の京都側の工事場面を描いたものである。