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本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
(陵墓課)
本資料は,水晶(すいしょう)で作られた切子玉(きりこだま)である(写真左上の長さ1.5㎝)。切子玉とは,中位が最も太く上下に向けて細くなっていく形で,上下の斜面が多面体に加工された玉のことである。糸を通し,切子玉のみか,あるいは管玉などの他の種類の玉を交えて連ね,装飾品として身にまとっていたものと考えられる。
水晶は透明であるため,玉にあけられた孔の形を横から観察することができる(写真で,各玉の真ん中で白く濁っている部分)。本資料では,いずれの個体の孔も,写真上側から下側に向かって細くなっている。このような孔の形は,孔の太い側に穿孔具(せんこうぐ)の鉄製の錐(きり)や針を当てて回転させ,細い側に向かって,片側から孔をあけたことを示している。
(陵墓課)
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま:写真①)に代表される玉は,現代においても装飾品として馴染みがある。古墳時代には,これに加え,祭りの道具としての性格を重視した玉も作られた。この写真の勾玉(写真②)や臼玉(うすだま)とも呼ばれる小玉(こだま:写真③)は,形は装飾品の玉と変わらないが,一般に滑石(かっせき)と呼ばれる灰色を基調とした加工しやすい軟らかい石材で,祭りの道具として作られている。これらの玉とともに祭りに用いるための道具として石で作られたものには,小型のナイフをかたどったもの(石製刀子[せきせいとうす:写真④,⑤]),矢じりをかたどったもの(石製鏃[せきせいぞく:写真⑥]),剣をかたどったもの(石製剣[せきせいけん:写真⑦])などがあり,これらを「石製模造品」と呼んでいる。
これに対して,車輪石(しゃりんせき:写真⑧,⑨)や鍬形石(くわがたいし,[石製品残欠:写真⑩]はその一部だと考えられている)などと呼ばれる腕輪の形を模した製品は「石製品」と呼ばれ,見た目にもきれいな緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)などが使われており,権威の象徴としての宝物と考えられている。
これらの出土品から,当時の権力者が持っていた宝物や,権力者の葬儀に伴う祭りの一端を垣間見ることができる。
(参考:[石製刀子:写真⑤=長さ8.6センチ],[残欠(ざんけつ)=破片のこと])
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
宮穴横穴墓群(熊本県熊本市)から明治期に出土した玉類である。
上段は勾玉で,1列目左から硬玉(翡翠(ひすい))製3点,滑石(かっせき)製1点,硬玉(翡翠)製1点,2列目は瑪瑙(めのう)製6点である。下段左側はガラス製の玉で,丸玉が7点に,左下が連珠玉1点である。下段右側は,左からガラス製棗玉1点,碧玉(へきぎょく)製管玉1点,碧玉製平玉2点,瑪瑙製丸玉1点である。
連珠玉は複数の丸玉を連ねた形状のものを,棗玉は樽のように胴が膨らんだ形状のものを,平玉は扁平(へんぺい)な形状のものを,それぞれそう呼び習わしている。
古墳時代後期の玉は,形や材質の種類が増えることが知られており,本資料の多様な玉からもそうした状況を窺うことができる。
横穴墓とは,斜面や崖面に横方向の穴を掘って埋葬施設とする墓制で,古墳時代後期以降に見られる。単独で造られることはなく,狭い範囲に多数が集中して造られることが特徴である。
(陵墓課)
帯鉤とは,ベルトのバックルに相当する部品である。馬形の帯鉤は朝鮮半島で多数見つかっており,本資料も,朝鮮半島で造られたものが持ち込まれ,副葬されたものと考えられる。
馬形帯鉤のモチーフは,中国北方の騎馬遊牧民(きばゆうぼくみん)にみられるもので,騎馬文化とともに朝鮮半島にもたらされたものと考えられている。
日本での確実な出土例はほとんどなく,本資料以外には,長野県長野市の浅川端遺跡(あさかわばたいせき)出土品があるだけである。
本資料は明治45年に榊山古墳から出土したとされるが,同時期に近接する千足古墳(せんぞくこふん)からも遺物が出土し,両方の出土品がまとめて取り扱われてしまったため,厳密にはどちらの古墳から出土したものなのかを確定することはできない。
当時の国際交流を考える上で重要な資料である。
(陵墓課)
本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
(陵墓課)
本資料は,水晶(すいしょう)で作られた切子玉(きりこだま)である(写真左上の長さ1.5㎝)。切子玉とは,中位が最も太く上下に向けて細くなっていく形で,上下の斜面が多面体に加工された玉のことである。糸を通し,切子玉のみか,あるいは管玉などの他の種類の玉を交えて連ね,装飾品として身にまとっていたものと考えられる。
水晶は透明であるため,玉にあけられた孔の形を横から観察することができる(写真で,各玉の真ん中で白く濁っている部分)。本資料では,いずれの個体の孔も,写真上側から下側に向かって細くなっている。このような孔の形は,孔の太い側に穿孔具(せんこうぐ)の鉄製の錐(きり)や針を当てて回転させ,細い側に向かって,片側から孔をあけたことを示している。