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昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
本資料は,昭和大礼における即位礼・大嘗祭後に催された饗宴(きょうえん)(大饗〈だいきょう〉)の際の献立である。大礼とは,践祚(せんそ)(皇位を継承すること)の後,即位を内外へ広く知らせるために行われる一連の儀式である。昭和天皇の即位礼は,昭和3年(1928)11月10日に京都御所にて挙行された。11月14日・15日の大嘗祭(だいじょうさい)を終えると,16日・17日の2日間にわたって大饗が催された。京都御所の東側に仮設された饗宴場にて,天皇・皇后の御臨席のもと,皇族,内閣総理大臣以下閣僚,官僚,各国大公使などを招いて行われた。1日目の「大饗第一日の儀」は944名が,2日目の「大饗第二日の儀」は203名が,同日の「大饗夜宴の儀」は2,779名がそれぞれ参列した。
写真は,17日の「大饗第二日の儀」の献立である。朱塗りの門を彩色で描いた表紙(写真右側)を開くと,写真左側には西洋料理のコース(和文・仏文)が見える。献立には鼈清羹(スッポンのコンソメスープ),鱒蒸煮(マスの料理),鶉煮冷(ウズラの冷製),牛肉焙焼(牛フィレ肉),凍酒(シャンパンのシャーベット),蔬菜(セロリのサラダ),七面鳥炙焼(七面鳥のロティ),温菓(デザート)というメニューが並んでいる。
(宮内公文書館)
本資料は,足立正声(あだち まさな)の伝記である。宮内庁書陵部陵墓課の前身である諸陵寮(しょりょうりょう)や書陵部図書課の前身である図書寮の長にあたる諸陵頭・図書頭などを歴任した。昭和3年(1928),臨時宮内省御用掛の外崎覚によって謄写されたもので,巻末には外崎の自筆で,「足立諸陵頭ハ在職中薨去相成候のみならす本寮(諸陵寮)とハ深き因縁ありし方なれハ其略伝を謄写」したとあり,資料が作成された背景がうかがえる。
足立正声は,鳥取藩出身で,明治元年(1868),明治政府に出仕し,内務少書記官などを務めた。明治11年(1878)2月,陵墓事務が内務省から宮内省へ移ると,足立は宮内少書記官に任じられた(資料写真中の赤線部分)。その後,足立は陵墓事務をつかさどる諸陵寮の復興を建言するなど,陵墓事務の整備に努め,明治19年(1886)の宮内省官制により,改めて諸陵寮が設けられると,諸陵助(しょりょうのすけ)に任じられている。様々な職務を兼任しながら,明治26年(1893)には諸陵頭に任じられた。その後,諸陵頭の任免は繰り返され,明治40年(1907)4月,諸陵頭に在職中のまま死去している。没後には,在官中陵墓に関して貢献する所が多かったことから褒賞を受け,金一万円が下賜されている。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
昭和初期に撮影された新宿御苑内の御凉亭(ごりょうてい)(台湾閣)と目の前の池の写真(部分)。当時としては珍しいパノラマ写真である。御凉亭は,皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念して台湾在住者から贈られ,昭和2年(1927)に竣工した。裕仁親王は大正13年(1924)4月12日より5月1日まで,台湾へ行啓しており,台湾側はそれに感謝の意を表すため,募金活動を実施し,御涼亭の献上に至った。戦災を免れ,現在まで新宿御苑に伝わる貴重な建物の一つである。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)4月17日に開催された観桜会での昭和天皇と香淳皇后。ご即位後,初めての観桜会であった。春に催される観桜会は現在の園遊会と同様の行事として,秋の観菊会(かんぎくかい)とともに内外の要人を招待する皇室行事であった。それぞれ桜と菊の観賞を目的にした社交の場として催されている。明治14年(1881)に吹上御苑で始まった観桜会は,明治16年から大正5年(1916)まで浜離宮で行われていたが,浜離宮は「狭隘(きょうあい)」との理由から会場を変更し,大正6年から新宿御苑が観桜会の会場となった。