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(選択を解除)(陵墓課)
この埴輪は,大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した,馬形埴輪の頭部である。元々は胴体も作られていたと考えられるが,現在は頭部のみが残存している。
眼,口,耳,たてがみのほか,ウマを操るために馬体に装着された部品(馬具)が表現されている。
たてがみは,上端を平たく切りそろえた状態を示しているものと思われる。
馬具は,頭部にめぐらされたベルトと,それらをつなぐ円環状の部品が表現されている。円環状の部品は,金属製のものの実例があり,実物をかなり忠実に再現していると考えられる。
このように本品は写実性が非常に高いにもかかわらず,乗馬に必要な轡(くつわ)や手綱(たづな)は表現されていない。乗馬用とは異なる目的に用いられたウマであったようだ。
本品は,我が国における初期のウマの利用方法を知ることができるだけではなく,馬形埴輪としても最古級の事例であり,埴輪祭祀の変遷を考える上で,非常に重要な資料である。現存高23.7㎝。
(図書寮文庫)
フランスのオルトラン(Théodore Ortolan,1808-74)が著した"Règles internationales et diplomatie de la mer"(海の国際法と外交)のオランダ語訳。榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)旧蔵本。
榎本武揚(通称釜次郎)は文久2年(1862)オランダに留学し慶応2年(1866)に帰国,幕府海軍副総裁となる。大政奉還後,新政府への軍艦引渡を拒み五稜郭(現在の北海道函館市)に籠もって抵抗したが(箱館戦争),明治2年(1869)5月降伏。入獄,特赦の後,明治政府に仕え,海軍卿・文部大臣・外務大臣などを歴任した。
本書は,冒頭に師フレデリックスから榎本に宛てた序文(印刷)があり,以降の本文はペンで浄書されている。欄外に榎本のオランダ語・日本語の注記がある。
榎本は降伏の際,本書が混乱で失われるのを惜しみ,官軍参謀の黒田清隆(1840-1900)に託した。掲出した"Geschenk aan de Admiraal van de Keizerlijk Japansche marine van Enomotto Kamadiro"「提督への贈り物」と筆で書かれた一文はこの時のものとされる。
明治13年海軍卿となった榎本は海軍省図書のうちに本書を見出し,許可を得て手元に戻した。その後,武揚の孫である榎本武英から大正15年(1926)に宮内省へ献納された。武英は,本文は「ふれでりつくす氏ノ手筆ニ係ル」とし,祖父の書き込みを「蝿頭ノ細字」(ようとうのさいじ)と評している(宮内公文書館蔵『図書録』大正15年第62号〈識別番号990292〉)。
(陵墓課)
本資料は,大と小のセットで作られた刀剣の柄頭(つかがしら)である(写真左幅5.0㎝)。柄頭とは,刀剣の握る部分(柄)の端のことで,装飾が施されたり,本資料のような装飾のための部品が装着されたりすることが多い。本資料のように,柄頭が環状(かんじょう:輪のような形)になっているものを環頭柄頭(かんとうつかがしら)と呼ぶ。本資料の環頭は,かまぼこの断面のような形をしており,中央に三つ叉の装飾を配している。この三つ叉の部分を植物の葉に見立てたことから,三葉環頭(さんようかんとう)の名がある。
本資料にはわずかに金色が見られることから,大・小ともに,銅で作られたのちに金メッキを施した,金銅(こんどう)製と考えられている。本資料と類似したものは,日本の古墳時代と同時代に朝鮮半島南東部に存在していた古代国家,新羅の勢力圏内から多く出土していることから,本資料も新羅からもたらされた可能性がある。
(陵墓課)
本資料は,馬鐸(ばたく)と呼ばれる馬具の一種で,装飾や音による効果を意図してウマの体に吊したベルである。写真左端のもので現存長12.5㎝,溶かした銅を型に流し込んで作った鋳造品である。
当参考地からは,計4点の馬鐸が出土しており,その文様から2点ずつの二つの群に分類することができる。一つは左側2点の「王」と「☓」を組み合わせたような線で分割するもので,もう一つは右側2点の「三」と「☓」を組み合わせたような線で分割するものである。分割線の外側には珠文(しゅもん:粒のように見える小さな円形)を配している。各群の2点は互いに文様が酷似しているものの,細部をみると完全には一致しないようである。これらの文様は,鐸身の片面のみにみられ,反対面は無文である。
なお,当参考地では鹿角(ろっかく)製と考えられる舌(ぜつ)(馬鐸の内部に吊って,音を鳴らす部材)も1点みつかっている。
(陵墓課)
本資料は,横長の鉄板(横矧板(よこはぎいた))を主要な部材として,各パーツを鋲(びょう)で留めた,鉄製の冑(かぶと)である(高さ15.8㎝)。被った時に正面にくる部分(写真左側)が鋭角に尖っている点が特徴的で,こうした形の冑は,その部分を衝角(しょうかく:軍艦船首の喫水線の下に装着された,体当たり用の武装)に見立てて,「衝角付冑」と呼ばれている。
古墳時代になると,武器や防具は鉄で作られるものが主流となり,数が飛躍的に増えるとともに,技術や性能の面でも著しい発達を遂げていく。古墳時代に盛んとなった東アジア諸国との交流によって海外からもたらされたものや,その影響を受けて日本で製作されるようになったものがあるが,本資料のような衝角付冑は,日本で伝統的に作られてきた冑の系譜に連なるものである。全体の形はほとんど変化しないが,鉄製のパーツをつなぎ合わせる方法が,当初は革紐(かわひも)を通して結び付けていたものが,鉄製の鋲で留める方法へと変化していくことが知られている。
(陵墓課)
本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
(陵墓課)
本資料は「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれる鏡の一種で,現状での直径は9.6㎝である。全体が銹(さび)に覆われているが,レントゲン写真によって文様や銘文の詳細が判明した。
鏡裏面の中心には紐(ひも)をとおすための「鈕(ちゅう)」と呼ばれる盛り上がりが作られ,その周りには,コウモリが翼を広げたような形の文様が4方向に配置されている。4つのコウモリ形の文様の間には,「長」,「宜」,「子」,「孫」の字が配置されている。これは,「長く子孫に宜(よろ)し」と読み,「(この鏡を持てば)子孫が長く繁栄します」という意味である。
本資料は,文様の特徴でみると,中国の後漢で2世紀前半に製作されたものとなる。一方,この鏡が出土した妻鳥陵墓参考地は,他の出土品からみて6世紀代に築造されたものだと考えられ,製作されてから日本で副葬されるまでに,四百年前後の時間差がある。この間,どのような人の手を経てきたのかは分からないが,日本の古墳時代における鏡の存在意義を考えるときには,非常に興味深い事例である。
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
本資料は,持ち手に環が作り出されたと考えられ,そこから「素環頭剣」と呼ばれている。現存長は80.7センチで,刃部の断面形状は菱形であり,明瞭ではないが鎬(しのぎ)をもつようである。全体にわたって朱(しゅ)などが点々と付着していることから,石棺内に副葬されていたものと推測される。
その重厚長大な造りがほかに例をみない鉄製の剣(両側に長い刃部をもつ手持ちの武器)であり,剣本体は中国などからの輸入品であった可能性がある。
副葬時には鞘(さや)や把(つか)などの木製装具(そうぐ)が装着されていたようであるが現状ではその痕跡をわずかに確認できる程度しか残存していない。これらの装具については,その構造的特徴から判断して日本列島製と推測される。
なお,藤井寺陵墓参考地からは,同様の素環頭剣が少なくとももう1点出土している。
(陵墓課)
帯鉤とは,ベルトのバックルに相当する部品である。馬形の帯鉤は朝鮮半島で多数見つかっており,本資料も,朝鮮半島で造られたものが持ち込まれ,副葬されたものと考えられる。
馬形帯鉤のモチーフは,中国北方の騎馬遊牧民(きばゆうぼくみん)にみられるもので,騎馬文化とともに朝鮮半島にもたらされたものと考えられている。
日本での確実な出土例はほとんどなく,本資料以外には,長野県長野市の浅川端遺跡(あさかわばたいせき)出土品があるだけである。
本資料は明治45年に榊山古墳から出土したとされるが,同時期に近接する千足古墳(せんぞくこふん)からも遺物が出土し,両方の出土品がまとめて取り扱われてしまったため,厳密にはどちらの古墳から出土したものなのかを確定することはできない。
当時の国際交流を考える上で重要な資料である。
(図書寮文庫)
本書は,中国清王朝第4代皇帝聖祖(康熙帝)が,康熙28年(1689)琉球国中山王尚貞の朝貢(臣下としての礼をとること)に対する答礼の書の写。前半が漢文(右端より始まる),後半が満洲文字(左端より始まる)で書かれ,下賜品の目録なども載る。本書は細部まで丁寧に模写されており,江戸中期に琉球国から幕府に提出されたものという。正徳6年(1716)6月10日に吉宗が本書を閲覧した記録が残る。
(図書寮文庫)
明の皇帝神宗(万暦帝)が李宗城(りそうじょう)を正使として豊臣秀吉に宛てた明・万暦23年(文禄4年〈1595〉)1月21日付の勅諭(皇帝からの訓告)の原本。秀吉の出兵に対する具体的な講和条件などを述べた後,皇帝からの贈呈品リストを付す。なお,正使が逃亡したため,この勅諭がそのまま使われることはなかった。本紙は縦53.2cm,横172.8cm。掛幅全体の大きさは縦横ともに190cm程度で,畳2畳分を超える大きさである。本紙末尾の蔵書印により幕末の儒学者佐藤一斎(1772-1859)が所蔵していたことがわかる。
(図書寮文庫)
寛元元年(1243),肥前国松浦(まつら)から宋に渡ろうとした一行が琉球国へ流され,そこから改めて宋へ渡って帰国するまでの見聞記。本史料は僧侶の慶政(けいせい)が,漂流者から直接様子を聞き取ったもので,漂流の様子と琉球国にかかわる記事に特徴がある。絵画の部分は,漂流者を宋へ送り届ける琉球国の人々の様子を描いている。
(図書寮文庫)
これは,奇兵隊などで著名な長州藩士・高杉晋作(1839-67)の慶応2年(1866)2月20日付木戸宛の書簡。本文中に「英人,薩士と会和の事」という文言があり,いわゆる「薩英戦争」(1863)後の両当事者の歩み寄りについて書かれたものである。なお,この前後にも同様の文言の見える書簡が並ぶところから,長州藩内でも英国と薩摩藩との動静に並々ならぬ関心があったことが窺える。